第二幕 第一章【10】 想い②
ナルからの差し入れを受け取り、ナルを馬車まで見送ったあと。
早速シンジュは、フェイロンへベティエールの件を相談に向かった――いや、向かおうとした。
探すまでもなく、フェイロンはすぐ近くにいた。
どうやら暫くの間、あとをつけていたらしい。いつから見ていたのだろうか、憮然とするシンジュに、フェイロンは露骨なため息をついた。
「かの刑部省長官殿が、愛妻の見送りか。並んで歩くお前たちを見たやつらが、幽鬼でも見たような顔をしていたぞ」
「大袈裟な言い草だな」
「冗談ではなく事実だ。お前が女と並んで歩くことさえ貴重なんだ。お前、途中で何度か笑っただろう? 幽鬼どころか、鬼人に食われる寸前のような顔をした者もいたぞ」
「……待て、私が笑うと、なぜ鬼人に食われる寸前の顔になる」
心底理解できないフェイロンの言い分が、事実だろうが、ただの冗談だろうが、今はどちらでもいい。
いや、よくよく考えなくても、シンジュが笑っただけで他者の表情が変貌するなどあり得ないから、きっとシンジュを揶揄っているだけなのだろう。
シンジュはフェイロンを伴って、客間を借り、中へ入った。
本来、貴族は供をつけてくるので、控えの侍従室にはいつでも飲み物を提供できる用意がしてあるが、フェイロンは身分が身分なだけに、安易に食べ物に手をつけない。
シンジュはそれを知っていたので、飲み物に気を回すことなくソファに向かった。
落ち着いて向かい合うと、フェイロンが表情を改めた。
貴族でありながらも、回りくどいことを好まないフェイロンは、今日も直球で話を進めるのだろう。
「お前は、馬鹿なのか」
直球どころではなかった。
まさか、罵倒されるとは。
予想外の言葉に、眉を顰める。
「そのような言われ方をする理由がわからんが」
「なぜ、ナルを止めなかった」
フェイロンは、すでにナルと共に計画に加わっているという話だったが、違うのだろうか。もしかしたら、シンジュとナルの感覚に相違があるのかもしれない。
そう考えたが、次にフェイロンからこぼれた言葉から、計画に加担している点については間違いがないと知る。
「私はナルを全力で支援する。シンジュが止めなければ、周りは誰も止めんぞ」
「……本人がやりたいと言っていることを、止めたくはない」
「鎖国を保っている風花国へ行くということは、こちらへ戻ってくることは不可能に近い。挙句に、政情を探らせたり、重鎮に関わるとなれば、死ぬかもしれん。わかってるのか」
ふとシンジュは口元を歪める。
そんなこと、シンジュも、そしてナルも、よくわかっている。わかっているからこそ、そうならないように全力で協力するのだ。
シンジュの表情を見たフェイロンは、盛大なため息をついた。
「愛する嫁を、危険な場所へ行かせるお前の気がしれん。私は、お前が怒気を露わに怒り狂うと思い、それをなだめるために待機していたんだぞ」
「ナルがやりたいと言っていることに、なぜ私が怒る」
ため息交じりに返事をすれば、フェイロンはこれ以上ないほどに顔をしかめた。
せっかくの美貌を皴皴にしているのに、こんな顔でも貴族らから『憂いを帯びた美貌』と称されるのだから、世の中の美的センスとやらの基準がわからない。
「……前に、忠告したはずだ。シンジュ、夫婦だからといって気をぬくな。ナルはまだ若いうえに、ナルを取り巻く男は大勢いる。ナルが心変わりする可能性も、無きにしもあらずだ。実際、ナルの傍には、露骨に好意を示している男がいる」
「ジーンか?」
シンジュがそう言えば、フェイロンが驚いた顔をした。
「……気づいていたのか。気づいていて、旅に同行させる気なのか? 本人が無自覚だからと甘く見ているな⁉」
「そういうわけではない」
「今回もナルは、一人で計画を実行する予定だった。それを諫め、皆へ協力を仰ぐよう促したのはジーンだ」
「ほう」
シンジュは、面白そうに目を眇めた。
予想より遥かに、ジーンはナルへ影響力を及ぼす存在のようだ。
今後ナルは、シンジュが守り切れない場所へ行くのだから、ナルの傍に、ナルを優先して守ってくれる者が必要だ。ふたりの騎士もついていかせるが、少数精鋭というには、人数が少なすぎる。
その点でいえば、少数精鋭に加えても問題ない実力のあるジーンは、貴重だ。
ナルへ発言力があるのならば、騎士ふたりよりも、ナルをうまく導けるだろう。
満足げに笑うシンジュに、フェイロンは冷やかな視線を送ってくる。
「……お前、余裕だな」
「は?」
「いいか、世の中には絶対なんてことはありえない」
「なんの話だ」
「ナルがお前を捨てて、他の男に惚れるかもしれない、という話だ」
なるほど、それがいいたかったのか。と、シンジュは頷く。
だがすぐに、首を傾げた。
「当然のことだろう。それがどうした」
「お前、ナルに惚れているんじゃないのか」
「そうだ。私から離婚するなどあり得ないし、可愛い妻を見せびらかしたいほどに、あ、あい……あ、あいして、い、い……」
「そんなところで照れるな、いらいらするだろう!」
フェイロンが、ぐっと身体を乗り出してきた。
「愛しているなら、なぜ行かせる?」
「待て、話が堂々巡りになる。私は、ナルが望むことをしてやりたい。もしナルがジーンに惚れたとしよう。私はナルが幸せになれるよう、全力を注ぎたい。二人が暮らせる場所や資金の提供も惜しまん」
「……シンジュ」
「問題は、ナルが厄介な相手に惚れた場合だ。横暴な相手に惚れ、ボロボロにされる姿を見たくはない。そういった場合、どのようにして相手を更生させるか考えねばならない」
「…………せめてそこは、ナルに諦めるよう説得しろ」
「本人の希望を優先したい」
フェイロンは、頭をがしがしと掻く。
美しい絹のような髪が一瞬乱れるが、手を退けた瞬間、サランッと艶やかに戻る。つやつや過ぎて気持ち悪い。
「お前は前から、色恋に疎い男だったな。……いいか、シンジュ。普通は、愛している相手をほかの男にとられたくないものなんだ」
「そうだな」
頷く。
そのくらい、シンジュにもわかる。
ナルには、自分の妻であってほしい。出来るなら、ほかの男ではなく自分を愛し続けてほしい。そう思うのは当然だ。
「ならば、行くなと引き留めればいい。そうすれば、ナルは従うだろう」
「駄目だ」
「なぜ」
「それでは、ナルはやりたいことが出来ない」
「多少は仕方がないだろう。ナルにも我慢は必要だ」
そっと、シンジュは目を伏せる。
ナルはこれまで十分我慢してきたのではないだろうか、という考えが過ったが、過去のことを、未来の話に持ち出すのは気が引ける。
「お前は愛の何たるかがわかっていないような気がする。好きな女とは一緒に居たいし、自分だけを愛してほしいだろうが」
フェイロンの言葉は痛いほどわかる。
シンジュも、出来るならばナルに傍にいて欲しいと願うのだから。
だが、それはあくまでシンジュの願いであって、シンジュのなかの優先度は『ナルの意志』がもっとも大きい。
ぽつぽつと、シンジュは意見を述べた。
「……私は、ナルにやりたいことをして生きてほしいと思っている」
「お前の気持ちはどうなる」
「自分の望みを相手に求めることは、愛ではなく欲望だと判断している。私の母のように」
一瞬、フェイロンの動きが止まった。
息を呑む音も聞こえたが、気づかないふりをした。
固まるフェイロンを後目に、シンジュは考える。
自分はこれまで恋人というものを作ったことがない。理由は単純で、愛する相手がいなかったからだ。結婚する気もなかったので、恋愛方面に疎い自覚はある。
ナルと出会って、惹かれ、これが愛というものか、となんとなく理解したつもりだった。
ナルに笑っていてほしい。
好きなことをしてほしい。
幸せが常に、ナルを取り巻くことを願ってしまう。
それが、シンジュにとっての愛だ。
そこにシンジュがいれば尚のこと嬉しいが、その嬉しいはシンジュ自身の感想であって、ナル本人が感じる幸せと比べれば優先度はかなり低い。
「私の感情は、恋愛ベテランのお前からするとずれているかもしれないが、少なくとも私は、ナルが他の男に気持ちが移ったとて、愛している気持ちは揺るがない。どこにいようと、誰といようと、幸せに笑っていてくれることを望む」
ふいに、フェイロンが盛大なため息をついた。
頭を抱えて、唸り始める。
「……お前が純粋すぎて、腹が立つ」
「どういう意味だ」
「お前なんか、もっと欲望に塗れた愛し方をしてナルにドン引かれ、絶望すればいい!」
フェイロンはそう言うと、ソファから立ち上がった。
「心配した私のほうが、馬鹿みたいだ。……私は相手に見返りを求める。だがそれを、お前は欲望だという」
「待て、否定しているわけではない」
「……お前の言葉のほうが正しいのかもしれんと、少しでも考えてしまった自分が腹立たしい」
フェイロンはそう呟くと、踵を返した。
背中に向かって、呼び止める。
「いい歳をした男が、愛について語る寒い場を設けたわけではない。お前から、ベティエールの件を聞くためだ。全部話せ」
「私は今、とてつもない屈辱を受けたのだ。しばらく立ち直れそうにないな」
「……お前は色恋には慣れているだろう?」
フェイロンが一人の世界に入ってしまった。
難しい顔で黙り込んでいるときは、何を言っても上の空なのだ。無理やり現実に引き戻せば面倒だから、しばらく放っておこう。
シンジュの妻として動いてくれていたナルが、やっと、やりたいことを見つけたようだ。
シンジュは先ほど見送ったナルの姿を思い出して、誇らしくなる。
やりたいことの出来ない人生など、つまらない。
シンジュは己の野望を捨てないし、ナルもまたそういう者だと思っている。
フェイロンはシンジュに、ナルへ「行くな」と言えばいいと言ったが、言ったところでナルは姿を消すだろう。
それは、望むところではない。
(だが、風花国か……厄介だな)
柳花国ならば、国交もあって互いの国民が行き来するのもそれほど大変ではないし、好意的に受け入れて貰える可能性もある。
しかし、風花国は昔ながらの文化が今なお生きている国であり、身分差が激しい。
公平なモーレスロウ王国と違って、権力者が奴隷を虐げても罪にならない、完全なる貴族社会なのだ。
(せめて、少しでも安全に侵入できるよう、計らえるだけ尽力しよう)
ナルの姿を、思い浮かべる。
不本意で妻にしたときや、利用価値があるのではと探っていた頃を思い出し、ふと、笑った。
この短期間に自分は随分と変わったようだ。
改めてそんなことを考えている間に、気持ちを整えたらしいフェイロンが、椅子へ戻ってきた。
シンジュは表情を引き締めて、ベティエールに関する件について話を聞いた。
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