第二幕 第一章【5】 休日の夫婦②
夕食のあと、風呂へ向かう途中でナルは首を傾げた。
先ほど、シンジュはナルの頭を撫でて、「お前は頭が良すぎる」と言った。
(なんのことかな……うーん。シンジュ様ってもしかして、私を過大評価してる、とか)
信用してくれているみたいで、ただただ嬉しいと思ったけれど。
もしかしたら、「思ったより使えねぇなコイツ」と思われたら最後、あっさり見向きもされなくなったりするのでは。
そんなことを考えて、首を横に振った。
シンジュはそんな人ではない。多分。
(咄嗟に思い浮かんだこととはいえ、療養の件は前向きに考えてくださるみたいだし。それまでに毒の犯人が分かればいいんだけど)
ジーンから夢蜘蛛の件について聞いた日。
一通り話し終えたジーンはソファで仮眠をとったあと、寝室内と各部屋を探ってくれた。
そのとき、屋敷の怪奇現象が起こったとされる箇所数件に、トリックのようなものを仕込んであった形跡を見つけている(動く鏡については、鏡の背後にある足部分に、ゼンマイ原理の細工が取り付けてあった形跡があった、などだ)。
毒に関しては、つい昨日、ジーンから「うんこを踏んづけた靴」より、微量の夢蜘蛛を採取したと報告があった。
奇跡的に残っていた唯一のうんこ関連の品が、こんなところで役に立つとは。
(毒が仕込まれているのは確実なのよねぇ。狙いはベティだろうから、早めに厨房も捜査したいんだけど。ジーンさんがいないと、私だけじゃ毒なんて見分けつかないし……)
悶々と考えながら歩いていたナルは、ふと、廊下の向こうから師匠が歩いてくるのが見えて、顔をあげた。
「師匠、おかえりなさい」
「ただいま」
師匠は今日も、手続きうんぬんで王城へ行っていた。
貴族の、それも侯爵の爵位継承については、まだ膨大な手続きが必要なのだという。師匠の母方の出生も関係あるようだ。
師匠はにっこり微笑むと、ナルの前で足を止めた。
「ベティエールの件、シンジュに言ったか?」
ナルは、笑顔が強張るのを感じた。
息をつめたのを悟られまいと平常心に務める。
夢蜘蛛の件か。
何者かに狙われている件か。
逡巡したのは一瞬で、すぐに、ナルは答えた。
「連休でしたら、すでにシンジュ様はご存じでした。ベティは毎年、この時期に休みをとるそうですよ」
師匠は、ふと口元を歪めた。
柔らかい笑みは消え、探るような瞳が、ナルの瞳を見つめてくる。
「さすが、私の弟子だな。だがあいにく、今日は疲れていてな。面倒なやり取りは省きたい」
「と、いいますと」
「毒の件、シンジュには言わないほうがいい」
そういう師匠の表情からは、その言葉の意味するところが読み取れない。
まるで、疲れたから寝る、くらいさらっとこぼれた言葉だった。
ナルは、今度はため息をついた。
こんなところで、押し問答していても仕方がない。
「どうしてですか?」
「おそらく今回の件に、風花国が関わっている」
師匠は言葉を続けた。
「今のシンジュの立場からして、知らないほうがいい」
「師匠の仰りたいことは、わかります。ですが、旦那様は私情で動く方ではありません」
刑部省長官、という地位は、高官のなかでも特別だ。
現在も捜査が続いているだろう、先日のベルガン元公爵の件。おそらくあれも、探れば嫌でも他国へ繋がるだろう。
シンジュの立場であれば、風花国について、部下を使って調べさせることが可能だ。
有能な諜報員という手駒と、ベルガン元公爵を調べる名目がある。
一言。
ベルガン元公爵と繋がりのある他国の者の身辺を、調査せよ。
そう言えば、いいだけのこと。
だが、それは決して、してはならないことだ。
諜報員はいわばスパイだ。
治外法権である他国に潜入させるには、危険すぎる。
見つかれば、外交問題になるのは当然のこと、下手をしたら戦の種となる。
師匠が危惧しているのは、そこだ。
シンジュは手柄欲しさに、危険な橋を渡る男ではない。でも、妻が毒に侵されていて、その毒が他国から持ち込まれたと知ったら、禁忌と知りながらも他国へ諜報員を向かわせるのではないか。
そう、考えているのだろう。
「もし私が、最愛の妻の手が動かせんほど毒に侵されていると知った日には、法律だろうが関係なく相手を探し出し、相応の報いを受けさせるが」
「……シンジュ様はそんなことなさいませんよ」
「ナル」
師匠の真摯な視線が、ナルを射抜く。
師匠は口をひらいたが、言いかけた言葉を飲み込むと、苦笑した。
「決めるのはお前だ。私は確かに、忠告したぞ」
風呂を終えて寝室に戻ってきたナルは、寝室にシンジュがいないことにほっとした。
ほっとしたことに、自嘲する。
屋敷の持ち主は、シンジュだ。
ベティエールの雇用主も、シンジュ。
此度の件、知らせるのが当然だろう。
けれど、師匠に言われてから、ナルは迷っていた。
眠る前に、左手を包帯で巻いている本当の理由も含めて、現状を報告しようと考えていたが、果たしてそれでいいものか。
解決策がない今、シンジュに報告しても、心労を負わせるだけではないのか。
何より、師匠がわざわざナルへ忠告しにくるなど、初めてのことだった。
もしかしたら、ナルが思っているより遥かに危険で重要な案件なのかもしれない。
(……報告は、もう少し見送るかな)
そう結論づけたとき、シンジュが戻ってきた。
風呂上がりのシンジュは、今日も色っぽい。
シンジュは寝室の消灯を整えると、ベッドへ入った。
「明日と明後日で、ナルの療養についての話を詰めよう」
「はい。ありがとうございます」
「貴族らの目が逸れるまで、ゆっくりしてこい」
「早く帰ってこい、って言ってくださらないんですね」
思わず、ぽつりと呟いてから、慌てて口を押さえた。
恐る恐る視線をあげると、シンジュは嬉しそうに微笑んで、ナルの頭を撫でる。
(う。なんか恥ずかしいけど嬉しい)
「同行者が必要だな。護衛、使用人は勿論だが、王都の様子を知る刑部省の人間を一人つけよう。定期的に、王都の状況を知らせる相手がほしい」
「屋敷の使用人じゃ駄目なんですか?」
「報告したい内容には、刑部省の情報も含まれる。一応機密扱いだからな」
なるほど、とナルは頷いた。
「有能な者をつけよう。襲ってくるとすれば、相手はプロの暗殺者だ。堂々と、暗殺を受けて立つ必要はない。先手を打って逃げるほうが得策だろう。……私が王都にいるからには、可能な限り、そういった暗殺計画の類は潰しておくが」
にやり、とシンジュは刑部省長官の顔で笑う。
ナルは、ひっと胸中で悲鳴をあげた。
シンジュは、手元の本を引き寄せた。
ぱらぱらと栞を挟んだ箇所をひらきながら、言う。
「明日、例の王立図書館へ行くか」
「えっ、いいんですか⁉」
「ああ。少々護衛を多めにするが。図書館内の警備は、この屋敷よりも強固だ。出かけ先には丁度いい。午前中に出かけて、午後から療養に関する予定を立てよう」
「はい!」
嬉しさを隠しきれず、大きな返事をしてしまう。
シンジュは、本に落としかけた視線を、ナルへ向ける。
「今週も、週末しか帰宅できずに、私は随分と寂しい思いをした」
(え?)
シンジュは、唐突にそんなことを言った。
内容もだが、脈絡がない会話をするのは珍しい。
首を傾げたナルに、シンジュは苦笑する。
「今週は、平日にも帰宅しようと仕事を調節していたんだがな。そう思うようには、いかんらしい」
「……そうだったんですね」
「他人事のような返事だな。お前に会えず、寂しかったと言っているんだ」
「えっ……え!」
「……なぜ驚く」
シンジュは、ナルをじっと見つめると。
せっかく開いた本を閉じて枕元に置き、そっと、ナルに身を寄せてきた。
ナルをベッドに押し倒すと、ナルの肩に額を乗せるように抱きしめる。
「ふぁ⁉」
「……寂しい思いを抱えて帰ってきたというのに、その手では閨事もできん」
「え、えっと……でしたら」
「なんだ?」
ナルは、うーん、と考えた末に。
ぎゅう、とシンジュを抱きしめた。
「こうして、抱きしめています。それに、手もそんなに酷いわけじゃないので、大丈夫ですよ!」
しどろもどろにそう返事をすると。
僅かな間ののち。
「くっ」
と、笑い声が、聞こえた。
ナルの肩に額を押し付けたまま、シンジュがぷるぷると震えて笑っている。
「な、な、なんですかっ」
「いや。……安心した。以前のように、娼婦を呼ぶなどと言い出したら立ち直れないところだった」
「う。もう言いませんよ!」
確かに以前は、そんなことを言っていた。
尊敬しているシンジュのために、妻として必要なことだと思っての発言だったが、あの時と今は違う。
今でもシンジュは尊敬している。
さらにいうと、人として、男性として、恋人のように愛している。
だからこそ、他の誰かを――というのは、可能な限り避けたいのだ。
「ならば尚更、今日は甘やかせ」
ぐりぐり、と額を肩にこすりつけられて、ナルはやや訝りながらも、シンジュの背中を撫でた。
「何かあったんですか」
「いや」
「……さては疲れてますね」
「ああ。……お前がどうしてもというのなら、左手をかばいながら致すのも、不本意ではないが」
ちら、とシンジュはナルを見てくる。
だがすぐに、視線を逸らされた。
(んん?)
なんだろう。
今日はやけに甘えてくるような。
普段、こういった甘え方は見せない夫なので、ナルとしては嬉しいのだが。
「なんてな。今日はゆったりと――」
「……どうしても、したいです」
「…………は?」
顔をあげたシンジュを、そっと覗き込んだ。
見開いた目と視線が合う。
ナルは、にっこりと微笑んだ。
「もっとくっつきたいです。どうしてもです。……駄目ですか?」
「誘っているのか」
「そうですよっ、そこまで言わせないで下さいよ!」
またシンジュは、くっと笑う。
だがすぐに、ナルの頬へ唇を当てると、そのまま唇を合わせた。
下唇をはむような優しい口づけが、徐々に深くなる。
「ナル」
「はい」
「よくできた妻だ」
シンジュはそう言うと、姿勢を変えて、ナルの上に覆いかぶさった。
甘い言葉と手のぬくもりが、徐々に全身へ広がっていく。
ここは、温かい。
大切な、ナルの居場所だ。
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