第二幕 第一章【4】 休日の夫婦①
シンジュは、日が暮れた執務室で一人、急ぎの案件として挙がってきた書類に目を通していた。
違法薬物の密輸に関する報告書だ。
今年に入り、格段に数が増したことには、理由があるのだろうか。
ふと、近づいてくる足音が聞こえて、シンジュは手を止めた。
軽いノックに返事を返すと、副長官ジェンマが入ってきた。どかどかと、かつての麗しさなど微塵もない雑な動きで、シンジュのすぐ前までやってくる。
ジェンマの、秀麗な眉は吊り上がっていた。
王城の花と呼ばれていたジェンマは、フェイロンと同格の美しさをもつ男だ。
当時より歳を取ったが、その美しさは然程衰えていないだろう。
もっとも、現在は執務室にこもりきりのせいか、それとも、本人の体たらくさのせいか。髪や髭は伸び放題で、不摂生な生活を送っているのだが。
フェイロンといい、ジェンマといい。
時期は少しずれているとはいえ、同じ時代にこんな美貌の持ち主が二人も存在していいものか。
(まぁ、ナルのほうが可愛いが)
ふ、と笑うと、ジェンマは益々眉をつり上げた。
「お前、ベルガン元公爵の捜索を打ち切ったそうだな」
今度はシンジュが、眉をひそめた。
「いいえ。ベルガン元公爵の余罪に関しては、調査を継続しております。彼の身辺から根のように伸びる繋がりを絶つ必要がございますので」
「そりゃ、国内の話だろうが。ベルガン元公爵が、国外の者と関わったであろう記録を元に、国外調査を求めた諜報員を蹴ったそうじゃねぇか」
「当然でしょう。国の法律は、国内を治めるためのものです。国を一歩出れば、権力は勿論身分も地位も通用しない。そのような場所へ部下を向かわせることなど、できません」
ジェンマ自身がこうしてやってきたということは、シンジュが国外調査を却下した諜報員が、ジェンマへ泣きついたのだろう。
胸中でため息をついた。
「軽はずみな行動はとれません。国際問題に発展しかねないのです」
「だからなんだ」
「……ジェンマ殿」
ドン‼
ジェンマは、数枚の書類を机に叩きつけた。
やはり、あの諜報員が持ってきた国外調査が必要な書類だ。ご丁寧に、粗があると思われた部分はジェンマ本人が、確固たる理由を書き加えている。
「製造された武器の数が合わねぇ。売った武器の半分以上が、国外へ輸出されている」
「……それが何か」
「誰がなんのために買ったのか、今調べとかねぇと、痛い目見るんじゃねぇか」
存在が確認されないままの武器は、数千にも及ぶ。
武器の密売、そこから導き出される答えはいくつかある。
隣国の侵略。
革命のための備蓄。
他国間での争い。
「武器だけじゃねぇ。ベルガン元公爵が繋がっている可能性のある、他国の重鎮に関しても、調査は不要って……これも、本気か」
「他国の者を捜査する権利は、我々にはありません。陛下へ報告し、外交を通して調査要請をして頂くほかにやりようがありませんので」
「じゃあ、何か? ドクマが様子見だって言ったら、このまま放っておくのか」
「刑部省の役割は、国内事件の対処です」
バァン‼ と、激しい音がした。
ジェンマが、両手で机を叩いたのだ。
「んなこたわかってるよ‼ 同時に調査くらいできんだろうが‼」
尚も言い募るジェンマを見据え、シンジュは冷やかに答える。
「多くの武器が不明で、どの国が戦争を仕掛けてくるかわからない状況なのです。密偵が捕えられたとなれば、攻め入られる絶好の口実を与えることにもなりかねない」
「それをはっきりさせるために、調べるんだろうが‼」
「諸外国の調査権限は、我らにありません。外交に関しては、殿下の管轄です」
「ちっ、話にならんわ‼」
ジェンマは、がしがしと頭を掻いて、深くため息をついた。
一度大きく息を吸って、また、深く吐く。
「……お前はいつも正しいよ。ベティエールのやつもそうだった。正論、正論、正論。ドクマの嫌いなタイプだ」
その言葉に、シンジュはぐっと息を飲み込む。
ドクマ――シンジュが全てをかけて守り抜こうとしている兄王は、型破りな性格をしている。今でこそ威厳ある国王の振る舞いもできるが、王子だった頃は、破天荒な日々を過ごして、周りの者を困らせていたという。
「だからこそ、お前を重宝してるんだろうな。俺ぁ駄目だ、すぐ頭に血がのぼっちまう」
「いいえ。あなたの言葉こそ、本当は――」
「理想論、だろ?」
はぁ、とジェンマはまた、深いため息をつく。
「ベティエールのやつにも言われたわ。現実を見ろってな。わりぃ、部屋戻るわ。明日から公休だ、今日は早く帰って嫁さん安心させてやれよ」
「あなたも、たまには屋敷へ戻られては?」
「ばっか、俺の家は副長官室だ」
「違います。それは、確実に」
「あ、今度、嫁さんに会わせろよ? お前がべた惚れになるくらいだ、よっぽどの別嬪さんなんだろうなぁ」
くく、と笑って踵を返したジェンマが。
ふと、足を止める。
「んだこれ? 貝合わせ? ここ、ジーンのやつの机じゃなかったか」
ジェンマの視線は、ジーンの執務机に向いている。
つい最近、ジーンが持ち込んだ小物をしげしげと見つめていた。
「ジーンの私物ですよ。知り合いに貰ったとかで、勿体ないから飾っていると言ってました」
「ははぁ、さては女だな!」
先ほどまでの剣幕はどこへ行ったのか、ジェンマは「きらーん」と瞳を光らせた。
「そこまでは、存じません」
「ばっか、貝合わせって言ったら、離れず一緒に居たいっていう意味があんだろ? それを机の見えるとこに飾るってことは、好きな相手からの贈り物に決まってるだろうが。あの遊びまくりのエセ笑顔ヤローに、本命か~」
はははっ、と笑いながら、ジェンマが退室したあと。
書類を手早く片して、返事が必要な分は部下に届けるよう命じた。
帰る準備を進めながら、何気なく、ジーンの机にある貝合わせの小物をみる。
(……あのウサギの人形の時といい、私はそっち方面に疎いな)
今の流行り、特に若い娘が好むものについてよく知らない。ナルも、言動は大人びているが、まだ十代の少女だ。
どういったものを好むのだろう。
以前、本を贈ったときは喜んでいたが、もっとほかの物も贈ってみたい。
変な感情だ。
誰かに自分の選んだ品を贈るというのは、代金は勿論、何がいいか考えて、選ぶまでの時間全てを、その者に捧げるのだ。
結婚前のシンジュならば、それらの工程すべてを、時間の無駄だと馬鹿にしていただろう。
馬車に乗って、帰宅する途中。
改めて思う。
ナルに出会ってから、多くの感情を知った。
腹が立つことも、苛立つこともある。
だがどれも、決して無駄ではなく。
大切な積み重ねなのだ、と。
屋敷の玄関前で馬車を降りたシンジュは、出迎えに出てきた使用人のなかにナルを見つけた。
人だかりのなか、奥方として立っているとはいえ、すぐに見つけられる自分は、よほどナルを求めているのだろう。
久しぶりに見たナルの姿に、頬を緩めた。
――けれど。
(ん?)
ナルの左手に、包帯が巻いてある。
それもぐるぐると、指先から手首のほうまで。
「どうした、その手は!」
思わず声を荒らげてしまったが、構わない。
ナルの元へ足早に向かうと、ナルは苦笑を浮かべた。
「ちょっと、打ち身をしてしまって。固定したほうが早く治るそうなので、固定してるんです」
「痛むのか⁉」
「痛みはありませんよ」
「なぜすぐ知らせなかった!」
シンジュの怒りは、執事のジザリへ向く。
ジザリは深々と頭をさげて、謝罪した。
これ以上ここで問答をしても仕方がない、シンジュはナルの手を引いて寝室へ向かう。
「あの、夕食は――」
「部屋へ運べ」
ナルの問いを、使用人へ返す。
かしこまりました、という使用人の声が遠くなり、寝室に着いた頃、ふと、不安になった。
ナルは、痛みはないと言った。
報告しなかったのも、大した怪我ではないからだろう。
自分の態度は、大袈裟すぎたのではないだろうか。
「……すまない。驚いたもので、つい」
「あ、いえ。すみません、驚かせるつもりはなかったんです。ジザリに報告しなくてもいいと言ったのも、私なんですよ」
「だろうな。お前の判断には、いつも舌を巻いている。……だがやはり、小さな怪我でも教えてくれ」
「わかりました。次からは、必ずそうします」
両手をナルの背中に回して、なるべくそっと、抱きしめた。
「シンジュ様、おかえりなさいませ」
「ああ。……た、ただ」
「?」
「た、ただ、い、ま」
なぜか、するっと出てこないその一言を、片言ながら言うと、ナルは、ぱっと微笑んだ。
「はい! おかえりなさいませ!」
(嬉しそうだ……次からも、言おう)
シンジュはナルをソファへ促して、隣に座る。
ナルは左手を痛めているため、あえて左側に座った。
「あの、指輪ですが、紐に通して首から下げてるんです。ほら、ここに」
「……そうか。ナル、その手、なんだが」
「はい」
「もしや、襲われた……わけでは、ないな?」
「え?」
ナルが、目を瞬く。
どうやら予想外のことを言ったらしい。
「暴漢に、ということですか。いえ。この手は、私の不注意が招いたことなので」
「そうか」
シンジュは、つぶらな瞳が見上げてくる姿に、ごくりと喉がなった。
隣に座ったせいか、ナルの甘い匂いも漂ってくる。
(……押し倒したい)
ぎりっ、と歯を食いしばった。
(駄目だ、ナルは手を怪我している……しかも、固定している状態で、そういう行為に及ぶのは、悪化させる可能性がある)
腰に回そうとした手を、拳を握り締めることで、触れずに堪えた。
触れてしまったが最後、止められそうにない。
この歳で、と自分でも思うが、何もかも初めてなのだ。
結婚も。
このふわふわとした温かな空間も。
仕事より大切なものが存在すると知ったのも。
帰る場所があることが、こんなにも穏やかな心地にしてくれることも。
誰かを愛しいと感じたのも、ナルが最初で……そしておそらく、最後なのだ。
シンジュは、露骨に咳ばらいをすると、伝えなければならないことを先に伝えることにした。
「……私の披露目をしたあと、少々、貴族らに不穏な動きがみられる」
ナルが目を見張ったので、シンジュは軽く手で制した。
「問題ない。先手を打っている。だが、念のため一人で出歩くなどの危険な行動は慎んでほしい。外出の際は、護衛を複数つけておけ」
「わかりました。……あ、あの」
「どうした?」
ナルは、何かを言いかけて、止めたようだ。
暫く待ったが、結局「なんでもありません」という返事が返ってきた。
「何かあるのなら、言うといい。なんでもいい」
「では、あの、今思いついたことなので、聞き流してくださいね」
「ああ」
もじもじと口をひらくナルの可愛さに、軽く笑う。
「もし、不穏な動きというのが私だけを狙っているのでしたら、少し……お暇を戴けませんか?」
「…………ん?」
「屋敷から、離れようと思うんです」
ぴし、とシンジュは石化する。
これはいわゆる、「実家に帰らせて頂きます」というやつではないか。
「な、なにか、不便なことでも。嫌なことでもあったのか⁉」
「え? ち、違いますよ⁉ ただ、狙われているのなら、少し王都と離れたほうがシンジュ様や屋敷の人たちを巻き込まずに済むかと思って」
「そんな心配は不要だ――……」
言ってから、ふと気づく。
(本当に、ただの思い付きだろうか)
もしかしたら、言葉にしにくいことを遠回しに伝えようとしているのではないか。
どうやらシンジュは気が利かないらしいので、妻の心境を推し量るのも、難しい。
ナルの左手に目をやった。
包帯がしっかりと巻いてある。
(そういえば、例の夜会のあと、精神的に参っていたな……そこに、此度の貴族らの暗殺計画諸々がやってくるのは、辛いのではないか)
ナルはまだ、十七歳の娘だ。
いくら叡智に長けた娘だからといって、こう立て続けに神経をすり減らしてばかりでは、身が持たないのでは。
シンジュは、ふと顎に手を置いた。
「つまり、療養ということだな」
「! あ、はい、そういう意味です」
「ならば、そうだな。表向きはレイヴェンナー家領土へ行くことにしておき、どこか他に療養できる場所を探してみるか」
ぱっ、とナルが微笑むのを、シンジュは複雑な胸中で見つめる。
今回は、新婚旅行のときのように、何かと理由をつけて同行するのは難しそうだ。元々、長休が取れる職種ではない。
(ナルと離れることになるのは寂しいが、なるほど確かに、王都外へ避難するという発想は合理的かつ安全だろう)
シンジュは、貴族らの動向を探りつつ、『不愉快だ』という感覚だけで安易に暗殺者を仕向けてくる貴族らの目を逸らそう。
そんな中身のない貴族らが、話題が頻繁に移り変わる貴族社会で王都から去った者へこだわり続けるはずがない。
ナルが王都からいなくなって尚、ナルを狙おうとする奴がいれば。
そいつは、どこにいても必ず、暗殺をしかけてくるだろう。
「……ナルはすでに王族。暗殺者を雇うとなると、その金額は破格なんてものではないからな」
シンジュは呟いて、そっと、ナルの頭を撫でた。
「お前の判断は、なかなかのものだ」
そこへ、ドアが叩く音がした。
慌てて手を引っ込めて、食事を運んできたジザリを招いた。
シンジュはもう一度、ナルの左手を見る。
痛々しい姿だが、生きていくうえで多少の怪我はつきものだ。本当は名医という名医に診てもらいたいが、あまり過保護にすると、ナルに鬱陶しいと思われるかもしれない。
(せめて、ナルのために何か……そうだ)
ナルは左手が使えない。
つまり、ナイフとフォークを持つのが難しいということだ。
(夫である私が、食事の世話をするのは当然。切り分けて、それから……あーん、だ)
ふ、とシンジュは微笑んで、ナルを見ると。
はた、と目が合った。
ナルもシンジュを見ていたようで、目が合った瞬間、なぜか視線を逸らされる。
「……ナル?」
「は、はいっ」
「ん? どうした。顔が赤いぞ」
「え、あ、えっと。……ち、近くに、シンジュ様がいるなぁと。なんだか、照れてしまって」
確かに、食事するにしては近いだろう。
ソファで、身体の片側をぴっちりとくっつけるほどに接近しているのだから。
「嫌か?」
「嫌なわけないですよ」
そんな話をしている間に、食事を並べたジザリが退室する。
シンジュはふと笑って、料理を見た。
その瞬間、愕然とする。
そこには、大きめの器が一つ、あるだけだった。
緑や黄色、赤など美しい色合いが、器の表面を彩っている。
「わぁ、今日も美味しそう! 三色丼……五色丼? かな」
「これは、なんだ」
「どんぶりです。モーレスロウ風に、下に敷き詰めてあるのは千切ったパンなんですよ。これだと、スプーンだけで食べれますから」
「…………さすが、ベティエール殿だ」
ふっ、とシンジュは笑う。
世話を焼かずにすむのなら、手間取らないし、それに越したことはない。
そうだ。
うん。
別に、あーんがしたかったとか、そういうわけではない。
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