第二幕 第一章【2】 夢蜘蛛①
時は前日まで遡る。
フェイロンの七不思議儀式より、二日後のことだ。
休み明けの平日、シンジュが仕事へ行ったあと。
ナルは、一通り午前中の仕事を済ませて、昼食を食べると、寝室へ戻った。
ここ暫く、さぼっていたつけだろう。
ジザリが丁寧に説明してくれるし、ナルがサボっていた間も管理をしてくれていたから、仕事に追われるなどということはない。
それでも、久しぶりに現実へ馴染むと、酷く疲れた。
ナル自身、ここまでベルガン公爵の件で落ち込んでしまうなんて、思っていなかった。
だが、これ以上俯いてはいられない。
左手の指に光るリングを見て、シンジュと過ごした休日を想い出した。
ふっ、と微笑んだあと、真面目な表情になったナルは、左手に右手を添えて、指輪に触れる。
(……気のせい、じゃないよね)
指輪を外して、また、つける。
それを、何度か繰り返した。
最初に違和感を覚えたのは、昨日の朝食のときだ。
鈍い痺れが、左手にあった。幸い朝食は簡単なものなので、シンジュには悟られずに済んだだろう。
だが、昼食のとき。
いつものようにナイフとフォークを持つと、ナイフを持ったまま、思うように手を動かすことができなかったのだ。
そのとき、左手の違和感は、ただの違和感ではないことを確信した。
(なんとか、誤魔化せたと思うけど)
昨日から感じている手の違和感について、ナルは誰にも話していない。シンジュに心配させたくないという思いから黙っていたが、一向に回復する兆しがないことに焦り始めていた。
ベッドに転がったナルは、ため息をつく。
さりげなくもう一度左手を見た。
指輪をつけている感覚がないから、そこにあるのか不安になってしまう。
(左手が痺れてるってことは、脳梗塞とか? でも言葉はしゃべれてるし、今のところ呂律も回ってる)
もしそういった病に襲われたのだとしたら、この世界ではどうしようもない。
医療に関しては、日本のほうが格段に進歩しているのだから。
「あれ、この時間から寝てるんですか?」
「~~っ」
飛び起きると、窓を跨いで入ってくるジーンがいた。
「堂々と窓から……」
「ははは、もはや定番ですよねぇ」
「初めて見たから、そこから入ってくるの」
ジーンは丁寧に窓を閉めると、ソファへ座った。
「っていうか、ここ二階よね⁉」
「今更ですよ」
「ぐっ、そ、そうだけどもっ……あれ、今何時? もう仕事終わったの?」
ジーンがナルへ報告にくるのは、大抵が仕事終わりだ。
シンジュは平日、城へ泊りなので、見つかる心配もなく、寝室に忍び込んでこれるという。
そこだけ聞くと完全なる逢引きだ。
そもそも、もしこれが男女の愛の駆け引きだとしたら。
屋根を伝って窓から侵入してくる男の愛など、重すぎはしないだろうか。
「……なんか、腹立つこと考えてます?」
「屋根を伝って窓から侵入してくる男が愛人だとしたら、その奥方って相手の奇怪さとか狂気性とか見えていないのかなって思って」
「仕事終わったの? の問い、どっか行きましたね」
呆れたように言われた。
小卓に伏せた時計を見ると、まだ昼過ぎだ。
さすがに夕方までぼうっとしていたわけではないらしい。
「今日は、随分と早いのね」
「……早退しましてね」
「えっ、どっか悪いの⁉」
ベッドから降りてソファへ行ったナルは、息を呑んだ。
(目の下、凄い隈っ!)
寝不足だろうか。
それにどことなく、全身がだるそうだ。
「だ、大丈夫?」
「何がですか」
「何がって。……とりあえず、横になりなさいよ。クッション持ってくるから」
ベッドから背もたれ用のクッションを持ってきて、ジーンに渡す。
ジーンは遠慮もなく、クッションを枕に横になった。
「……二日前、大丈夫でしたか」
「二日前?」
「ええ。大雨の日です。あの日は、陰陽日でしたから」
「陰陽日……師匠もそんなこと言ってたけど、なに、それ」
「あちらの世界とこちらの世界が、近づく日です。風花国では特別な日とされていて、王宮では大々的に鎮魂の儀式が開かれるんですよ」
「風花国の文化なの……そう言えば前に、師匠のお母様が風花国と関わりがあるって、言ってたっけ」
「ええ。あそこの血筋は特別ですからね。……今年は、あなたの近くにフェイロンがいました。それに加えて、あの雷雨です。変な出来事が起きても不思議はないかと」
実際に私も影響を受けたみたいですし、とジーンはため息をついた。
なぜフェイロンがいると影響を受けるのか、そもそもどういったふうに影響を受けるのか。
よくわからないが、とりあえず「大丈夫」と答えた。
「あ。でも師匠が儀式みたいなのをして、そのときに」
「はぁ⁉」
「わっ、いきなり起きたら眩暈とか――」
身体を起こしたジーンを見て、ナルは動きを止めた。
いつもの飄々とした雰囲気はなく、心から苛立ちを含んだ視線をナルへ向けた。
「あの坊ちゃん、また何かしたんですか」
「また?」
「十二年前の件ですよ」
「ルルフェウスの戦いのこと? でも、十二年も前のことだし」
「過去にできる事件ではないんです」
きっぱりと言い切ったジーンは、深いため息をついて、再びソファに転がった。
「すみません、私もその件に関しては無関係ではないので、つい」
「それって――」
「それよりも、坊ちゃんが行ったっていう儀式を教えて貰えませんか?」
完全に言葉を遮られたけれど、ジーンとて、聞かれて嫌なこともあるだろう。
ナルは言われるままに、儀式について話した。
七不思議の下りで、訝るような顔をしたジーンだが。
ナルが白昼夢を見たといったとき、ふと、真顔になって。
そのあとに、暖炉の火と蝋燭が消えたと伝えると、また訝る表情になった。
「……ジーンさんの表情がころころ変わって面白い」
「あなた、茶化してる場合じゃないですよそれ」
「それって、どれ?」
「……相当取り込まれてますね、あなたも。いいですか、もしあなたがひと様の邸宅にお邪魔したとき、鏡が動いたら、どう思います?」
「えっと……鏡の後ろに子どもがいるのかな? とかかな」
「じゃあ、夜中に聞こえるはずのない水音がしたら?」
「誰かの悪戯でしょ。怖がらせるためじゃない?」
「……食べかけの朝食が放置されてたら?」
「もはや、ほかに誰か住んでるんじゃないの? って思うかなぁ」
ジーンは、益々深くため息をついた。
むっとしたナルは、そんなジーンに詰め寄る。
「なに⁉ はっきり言ってよ」
「今まさに、私も似たようなことを思いました。なのにあなたはどうして、我が家で起きたことなのに、全部幽霊のせいにしてるんです? そもそも七不思議ってなんですか、屋敷ごとにあるなら、王都だけで何百個あると思ってるんです」
「え。……あ」
そう言われると、確かに……いや、かなり、おかしいかもしれない。
師匠が七不思議を話してほしいといって、使用人があげた話のほとんどは、人為的に細工可能なものばかりなのだ。
「……でも、それが――」
「『それがなに、それをしてどんな意味があるの』と思わせたら、勝ちです。少なくとも私が盗賊だった頃、盗みの対象であった家に仕掛けたトリックに対して、家の人間がそう思ったら、こちらのものでしたから」
実体験からくるジーンの感想に、ナルはすっと気を引き締めた。
これまで、おかしいなぁ、で済ませてきた物事が、もし、作為的なものだとしたら、その裏に何が潜んでいるのか。
「誰かが、屋敷に様々な仕掛けをして、幽霊がいるとか、怪奇現象が起こる屋敷だってことを、演出してるってことよね」
「おそらくは。そのことに、フェイロンも気づいたんでしょう」
「師匠が?」
「あの坊ちゃんは、無駄に頭がいいですからねぇ。七不思議とかいうよくわからない話をネタに、使用人それぞれから、屋敷で起こった違和感のある話を引き出したんですよ」
ナルは考える。
師匠が屋敷へきて、ちょうどひと月ほど。
その間に、師匠はこの屋敷に外部の人間が侵入している痕跡、または仕掛けやトリックの痕跡を見つけて、それを調べている。
ジーンは、そう言いたいのだろう。
もしそうだとしたら、狙いは何か。
考え始めたナルは、はっ、と例の件を想い出した。
「もしかして、うんこも……」
「はい?」
「うんこがあったの。あれも、誰かの仕業?」
一度考えてしまえば、思い当たる節がある。
とくに二度目の、素手で掴んでしまったときだ。あの直後、長い停電のような状態になった。誰かが侵入して、そっと排せつ物を置く時間は余裕であったはずだ。
ジーンが、あまりにもジト目で見据えてきたので、ナルは、ぽつぽつと排せつ物について話した。
一度目は、屋敷にきて暫くしたころ。
二度目は、つい一昨日。
呆れた表情のジーンだったが、話が進むにつれて、その表情が強張っていく。
「そのことを、誰かに話しましたか」
「一昨日の夜、シンジュ様に話したよ」
「長官は、なんと?」
ナルは言葉に詰まった。
今だからこそ、シンジュの返事がおかしかったことがわかる。でも、あのときは、別段おかしくおもわなかったし、むしろ、ナルは感動さえした。
「奥方、話してください」
「……この屋敷の、いわくを調べておこう、と」
「はは、長官も流されてるじゃないですか。違うでしょう、調べるべきは――」
「今ならわかる! 誰かが仕掛けてるってことだよね」
ジーンは、浅くため息をついてから、話を続けた。
「その話を聞いて、ある仮説がたちました。もしかしたら、あなたや私が思っているよりも、大きな組織が関わっているかもしれませんよ」
「こ、怖いこと言わないでよ」
「排せつ物って、人工的に作れるのはご存じですか。というか、作れるんです、以前に作ったことがありますし」
「え……体内じゃなくて、手作業でってこと? っていうか、作ったの⁉」
「期待させて申し訳ないんですが、手作業でつくっても、ブツは変わりませんからね。材料も、過程も、外でしているだけで」
どうやって作るのかは割愛しますけど、と言って、ジーンは話を続けた。