第二幕 第一章【1】 儀式から三日後の日常
儀式 → 七不思議。
「それでは、失礼します」
そう言って頭を下げた使用人に、ベティエールは「ああ」と短く頷いた。
料理長として厨房を任されるようになって、六年。
現在厨房で働くのは、料理長のベティエールと、使用人ピッタの二人だ。
先月までもう一人いたが、三か月ほど前に退職した。
最近、ベティエールはピッタを、時折早退させている。
賃金は月給制なので、早退させても変わらない。
ジザリは渋い顔をするが、早退させるのはナルのためでもあるので、見過ごしてくれているようだ。
今日も昼過ぎにピッタを早退させると、ベティエールは「休憩」の準備を始める。
机に、小瓶を五本置く。
小瓶にはそれぞれ、味の異なる紅茶の茶葉が入っており、わかりやすいように、紅茶の名を手書きで書いた紙を小瓶の下に置いた。
次に、白い皿にレース状の敷き紙を置き、クッキーを乗せる。
バタークッキーと、ココアクッキーの二種類だ。
ややのち、厨房に奥方がやってきた。
屋敷の主に等しい立場にも関わらず、礼儀正しく三度ドアをノックして返事を待つ辺り、好感が持てる。
ナルの左手に巻かれた包帯が痛々しいが、本人は怪我に関して気にしていないようだ。
ベティエールも、ナルがどういった経緯で怪我をしたのか知らないが、痛みはほとんどないというから、さほど大事ではないのだろう。
ナルは、いつも座っている椅子に座ると、果物かごの手前に置いた小瓶に気づいたようだ。
ナルの表情に、ぱっと笑みが広がる。
「これ、可愛い!」
「そうか。……紅茶を、小分けに、するのに、便利、だろう」
「これ全部違う種類なのね。すごい」
「他にも、あるが……無く、なったら、違う、種類を、補充しよう。今日の、紅茶は、そこから、選んで、くれ」
「いいの⁉」
ナルは嬉しそうに、「これもいい」「こっちもいい」と言って紅茶を選び始める。
(よかった)
ナルの笑顔に、ほっと胸を撫で下ろした。
フェイロンが奇妙な儀式を行った際、排せつ物を素手で掴んだことで、落ち込んでいるかと思ったが。
どうやら。
ナルの首にぶら下がっている指輪が、ショックを補い余って、喜びを与えたようだ。あれから三日が過ぎて、前向きないつものナルがここにいる。
ベティエールはクッキーをナルに出し、ナルが選んだハーブティーを煎れる。
途中で、二度ほどカップを落としかけて、ナルを慌てさせたが、無事に煎れ終えた。
ベティエールは自分の分の紅茶も煎れると、向かい側に座る。
「おいしい。このハーブティ、ふんわり甘いのね。香りもいいし」
「それは、よかった。王都、でも、人気が、ある、茶葉らしい」
ナルはお礼の言葉と、クッキーのおいしさについて褒めたあと。
ふと、心配そうな表情をみせた。
「身体、痛むの?」
「ん?」
「さっき、カップとかポット、落としかけたりしてたし。前は、そんなことなかったよね」
「ああ。……最近、あまり、調子、が、よくない。歳の、せいだろうな」
軽く、自分の手を見る。
冬場ゆえに、身体を冷やしたのかもしれない。
「お医者様には見て貰ってる?」
「おかげ様で、定期的にな」
「そっか。……どんな感じの痛みなの?」
「痛みはない。感覚が鈍かったり、思っているように身体が動かないというだけだ」
「ほかに、症状はない?」
ナルのその言葉は、意外だった。
ここまで追及されるとは思っていなかったため、一瞬、押し黙る。
結局、正直に話すことにした。
「……平衡感覚が掴みにくいときがある。視界も……ほんの少しずつ、ぼやけていっているようだ」
「そう。ありがとう、聞かせてくれて。無理はしないでね。あんまりしんどかったら言ってくれれば、配慮するから」
ベティエールは、口元を緩めた。
そういった優しさは、上流貴族たちにはないものだ。
「感謝する」
そう言ったとき。
トントントン、と指先で小さくドアをノックする音がした。
この叩き方は――。
「師匠かな」
「だろうな。……どうぞ」
ドバーン、とドアを開いて入ってきたフェイロンは、二人に「お邪魔するよ」と挨拶をして、当たり前のようにナルの隣に座った。
この家の当主であり、ベティエールの最初の雇い主でもあるため、ベティエールが紅茶の用意をする。
気づいたフェイロンが、恐縮そうに身を縮こまらせた。
堂々と入ってきておいて、今更すぎる。
「師匠も、まったりタイムですか?」
「ああ。散歩がてら、屋敷の内部を見て回っていた。とくに変わった部分はないようだ」
「元々、師匠がこの屋敷の家主だったんですよね」
「シンジュの前はな。ここはレイヴェンナー家が代々所有している屋敷だから、世代が変わるごとに家主は変わる」
紅茶をだすと、フェイロンが振り返った。
あまりにも勢いがよかったので、眉を顰める。
「たいちょ……ではなく、ベティエール殿。この前話していた『七不思議の朝食』というのは、どのあたりに置いてあるんだ?」
(……いらん話題を)
あの日のことなど、ナルは思い出したくないだろう。
そう思ったが。
(……ん?)
ナルの様子をさりげなく窺うけれど。
ナルは、怒っても悲しんでも、思い出して嘆いているふうでもない。
ただ眉をひそめて、痛みをこらえるような、奇妙な表情をしている。
ベティエールは、当主の問いに答えるために、『時折置いてある謎の配膳』について話した。
小麦粉などをこねる台に、本当に稀にだが、食べかけの朝食が放置してあるのだ。
「食器類は、ここのものを使っているのか?」
「ああ。……そうだ、ただ、食材は、持ち込んで、いる」
「ふむ。美食家だな」
フェイロンは紅茶カップに口をつける。
その仕草の優美さに、ベティエールの記憶が一瞬、過去と重なる。
ベティエールがまだ近衛騎士になりたての頃、美しすぎる師の元で剣術を学んだ日々があった。
ベティエールは近衛騎士には不向きだとドグマに言われ、今の地位を維持するために、優れた師を持つ必要があったのだ。
その甲斐あってか、ドグマが国王になると同時に近衛隊長の座につくことが出来たのは、今は懐かしい想い出だ。
「ベティ、どうしたの?」
「あ、ああ。少し、ぼうっと、していた」
「先日の陰陽日が響いているのかもしれんな」
「あ、師匠。私、陰陽日について調べました。風花国の風習らしいですね。なんでも、風花国の王宮では鎮魂の儀をするほど、重要な日だとか」
「ああ、その通りだ。よくわかったな、風花国の鎖国は徹底的だというのに」
フェイロンが意味ありげにナルを見る。
ナルは、軽く肩を竦めて誤魔化した。
(仲がよいな)
微笑ましく見守りながら、ベティエールは初めてこの屋敷に来たときのことを思い出す。
ベティエールがこの屋敷で働くことになったのは、シンジュが「ベティエールを使用人として雇う」と言って聞かなかったからだ。今ならば、それがドグマの命令だったとわかるが、当時は何も考えたくなくて、ただ、成り行きに身を任せた。
あの頃はまだ屋敷の家主はフェイロンだった。
フェイロンの承諾を得て使用人になったのだが、当時のフェイロンは、骨が浮くほどにやつれていた。
それから暫くしてフェイロンは失踪し。
新しい雇い主であるシンジュのもと、ベティエールは住み込みで働いている。
フェイロンは紅茶を飲み干すと、クッキーを一つ摘まんで口に入れ、そのまま「失礼した」と言って厨房を出て行った。
「行儀の悪い人っ、もう!」
「まったく、だ」
ふたりでゴチり、視線を合わせて笑った。
穏やかな日々。
暖かな日常。
十二年前の悲劇以降、ベティエールの身体は満足に動かない。
鍛えてきた肉体は衰え、筋肉も体力も以前とは比べ物にならない薄っぺらなものになってしまった。……こんな身体でも、ナルからはムッキムキだと言われるのだが。
今は、ただの枯れたオジサンだ。
栄えある地位にいた頃は、多くの女性に囲まれてきたが、それも地位あってのこと。
所詮は、ベティエール自身を見ていたわけではなかったのだろう。仮に見ていたとしても、十二年前の一件で、ベティエールの名声は地に落ちた。
「ふふっ、おいしー。幸せー」
だが、ただの枯れたオジサンになって、いいこともある。
こうして奥方に、癒しの空間を提供できることだ。
ベティエールは若いナルから見れば恋愛対象外だろうし、そもそもナルは、栄えある地位にいた頃のベティエールを知らない。
異性と意識されず、彼女の心労を癒せる。
使用人として、これほど誇らしいことはない。
ふと、ナルがじぃっとベティエールを見ていることに気づいた。
「どうした?」
「うーん。歳の差とか関係ないのになぁって、思って。……あの子たち見る目ないのよ」
「?」
もぐもぐもぐもぐ。
ナルはクッキーを食べる。
「喧嘩でも、したのか」
「カシアたちと? ううん、全然。皆今、恋愛真っ最中で幸せみたい」
「そうか。だが、幸せならば、ナルも、負けて、は、いまい」
ちら、とナルの首元で輝く指輪をみる。
視線に気づいたナルが、頬を朱色に染めた。
(可愛いな……姪も、生きていたら、ナルと、同じくらいか)
二度だけ会ったことのある姪と。
最後までベティエールの身を案じていた兄夫婦を想い出して、目を伏せた。
「……そろそろ、例年、通り、休暇を、とろうと、思っている」
「そうなの? ベティっていつ休んでるのかわからないから心配だったの。まとめて休みを取るんだ」
「ああ。弟夫婦の、ところへ、顔を、見せに、な」
「そっかぁ。ゆっくりしてきてね」
朗らかに微笑むナルに、ベティエールも、微かに笑みを向けた。