3、旦那様は理想の上司
モーレスロウ王国は、中世ヨーロッパの貴族社会によく似ている。見た目の華やかさや身分階級などが、まさにそうだ。
だが、貴族とはいえすべてが許されるわけではない。殺人は罪であり、罪は公平に裁かれる。かつては奴隷制度もあったそうだが、人権問題で現在は廃止。
国政に関しては、ヨーロッパだけでなく中国や日本とも、似ている部分があった。
国の制度について見直していたナルは、旦那様――シンジュ・レイヴェンナーの帰宅を聞いて、すぐに玄関に向かった。
玄関ドアのすぐ近くに馬車を橫づけし、威風堂々と降りてきたのは、漆黒の詰襟服を着た男だ。
挙式の日と同じ、切れ長で怜悧な瞳をナルに寄越した。
ナルは一歩進み出て、けれども玄関のドアをくぐらない程度の室内で、背筋を伸ばしてシンジュが屋敷に入るのを待つ。
ナルの様子を観察するように、シンジュは二秒ほどその場で足を止めた。
シンジュは、貴族にしては機敏な動きで屋敷のなかへ入ってきた。
「おかえりなさいませ、旦那様」
「ああ」
ナルの言葉に、シンジュは素っ気なく返事をする。
(返事がきた……無視されると思ってたのに)
形だけとはいえ、夫婦としてナルを扱うということだろうか。
まだシンジュの真意を確認していないけれど、死刑囚のナルがなぜここにいるのか、何を求められているのか、その部分を明確にする必要がある。
シンジュは、そのまま食堂へ向かう。
ナルも予め、シンジュは帰宅するとすぐに食事をとることを聞いていたので、すぐに立ち回ることができた。
仕事に疲れて帰宅した夫を癒す妻、という図を意識しながら、シンジュとともに夕食をとる。
残念なことに、夕食の品数はわりと多く、すべてを食べることは出来なかった。
日本での暮らしが根底にあるナルにとって、貴族の贅沢には慣れない。明日まで持つだろう品目を残して、カシアに「明日に食べるから」とこっそり伝えた。
食事を終えると、シンジュは屋敷の執務室に引っ込むという。
そのときこそ、話をするには絶好の機会だ。
そう思っていたナルだったが、思い通りにことは進まないもので。
シンジュが部屋に引っ込んですぐに、カシアに腕を掴まれて驚いた。振り返ると、カシアのほかに三人の使用人――メイドというのだろうか、全員が無表情だ――が、立っていた。
(ひっ、こわっ)
四人のメイドは、ナルを風呂に入れて全身をマッサージし、女性としての諸々に磨きをかけた。
彼女らにとって、今夜は新婚のあるじの初夜にあたると、このときはじめて気づいたのだが、あまりにも今更すぎて驚いた。
夫人の手入れは、常日頃から行うべきだ。
夜伽の直前に、付け焼刃でエステのようなことをされても、無駄に思える。
ひと通り、初夜の準備を終えると、ナルは寝室へ連れて行かれた。
普段からナルが使っているあの部屋だ。
ベッドが異様に大きかったのは、どうやら夫婦で使うベッドだかららしい。
「奥様。これで、失礼致します」
カシアが退出を述べて、部屋を出て行った。
ひとり残されたナルは、ベッドの上に座ったまま唖然とした。
(もしかして、話せないようにされてる?)
ナルがシンジュと対話を望んでいることは、皆が知っているはずだ。誰かがそれを邪魔しようとしているのだろうか。
あの冷ややかな男が、形だけの妻であるナルと寝室を共にするとは考えにくい。
つまり、今夜ナルはここで幾ら待とうと、シンジュが来る可能性は極めて低いということだ。
(だから、執務室へ引っ込んでるときに、話そうと思ったのにっ!)
いや、今からでも間に合うかもしれない。
すぐに執務室へ行こう、場所は確認済みだ。
ベッドから降りてドアノブに手を伸ばしたとき、勢いよくドアが開いた。
ゴンッ‼
額を強か打ち付けて、ナルは身体を仰け反らせる。
「……何をしている」
「ひ、ひたいを……ぶつけました」
(避ける余裕なかった……っていうか、来るんだ。来るなら来るって、言ってくれれば、待っていたのに)
シンジュは、ゴキブリでも見るような目でナルを一瞥し、
「鼻ではなく、か」
と言って、嘲笑した。
言われて初めて、確かに鼻ではなくて額をぶつけた違和感に気づく。
顔のパーツでは、鼻が一番高いはず……なのに……たぶん。とはいえ、ぶつけてしまったものは仕方がない。
手当するほどでもないため、シンジュを追いかける形で、ベッドに戻った。
「ナルファレア・シルヴェナド」
「はい」
ベッドに戻るとすぐに、シンジュが話を始めた。
好都合だ、こちらから切り出さなくてもよいのだから。
「お前は、なぜここにいると思う?」
「わかりかねます。刑部省長官様の真意を、私如きが推し量るなどおこがましいでしょう」
「……発言を許そう」
ふいに。
シンジュの声音が、変わった。
揶揄するような響きから、微かに真剣さを帯びたものに。
ナルは真っ直ぐにシンジュの目を見た。
髪と同じ灰色の瞳は、とても冷やかだ。
刑部省長官――シンジュ・レイヴェンナー。
齢三十九という若さで、刑部省長官の地位にいる彼は、冷徹無比を絵に描いたような人物だ。だが、判決には公平で、貴族らからの信頼も厚い。
それらは、かつて父の屋敷で暮らしたころ、ナルが仕入れた刑部省長官の情報だ。
挙式のときは、まさかこの人物が刑部省長官本人だとは知らず、嫌味で冷たい男だと思ったけれど。かのレイヴェンナー侯爵家の人間で刑部省長官ならば、こういった態度にも納得ができる。
シンジュの視線に真っ向から向かい合って、ナルははっきりと言う。
「私がここにいる理由は……残党狩りの餌、と思っています」
「なぜ」
「シルヴェナド家は、幅広く悪事に手を出してまいりました。そのシルヴェナド家の娘が生きていると知れば、恨みを抱く者や希望を見出すものが、集まってくる。そういった者たちを捕らえ、遥か深淵に身を置く者たちを、引きずり出そうとされているのでは……と、考えております」
シンジュは、すっと目を細めた。
目じりの皴が深くなり、ナルを観察するような視線が強くなる。
「お前は、潜入させていた部下に、実父が失脚する証拠を与えた」
「はい」
「なぜ」
ナルは、眉をひそめる。
どうして、理由をきかれるのだろう。
「そうすることが必要だと判断したからです」
「お前の判断とは、なんだ」
「父の悪事を見過ごせば、私自身の沽券にかかわるんです。父のような悪党を野放しにすることは、私のプライドが許しませんでした」
「結果、お前は斬首刑を言い渡された。捜査に協力すれば、刑罰が軽くなると思ったのか」
「旦那様。私は、正しいことをしたと思っております。世の中、正しいことをする者ほど、馬鹿をみるように出来ているのですよ」
これは、ディートにも言ったことだ。
正義を貫くことは、それだけ協調性にかけるということでもある。皆に合わせて、うまく生きていくことほど、穏やかな人生はないだろう。
ナルも、大半はそうして生きている。
前世の記憶を持っていることも隠しているし、貴族令嬢らしく振る舞ってきたことが、その証だ。
だが、ナルのなかにも、譲れない部分がある。
「私は、大馬鹿ものです。ですから、斬首刑を言い渡されるのも当然のことでしょう」
「そんなお前を不憫に思った潜入捜査官が、私に直訴することまで読んでいた、とも考えられるな」
「怜悧かつ冷徹無比の刑部省長官が、大切な部下の頼みとはいえ、法を曲げるとは考えられません。今、あなたの妻という立場になり、改めて法律を調べ直しましたが、やはり、あなたの妻となったからといって、私の死刑が消えることはありませんでした」
「当然だ」
「以上から、旦那様が私を妻へおいたのは、別に思惑があるのでは、と思ったのです」
「それが先ほどの、残党狩りか」
「はい」
シンジュは、考える素振りをみせた。
目を伏せて、じっと一点を見据えるシンジュは、やはりというべきか、男前だ。
男は働き盛りがもっとも魅力的だと考えるナルは、こういった渋みのある男性の色っぽさに、関心を抱いていた。
職場でも、ぺーぺーの新人社員より、渋みと頼りがいのある上司がもてていた。必然と不倫も多くなるが、そういった誘いに乗らない硬派な男は、もっと人気があったように思う。
(……そんなことを考えてる場合じゃないんだけど)
何しろ、父がもってくる縁談は、どれもこれも将来有望という若者ばかりだったのだ。この世の女性は喜ぶかもしれないが、若い男が可愛く見えてしまうのは……随分と、歳をとったということだろうか。
(待って、私まだそんな歳じゃないよね。二十八でそこに十七足して……あ、考えるのやめとこ)
ナルは思考を打ち切った。
同時に、シンジュが顔をあげる。
「お前は、死刑囚だ」
「はい」
「一度下った判決は、そうやすやすと覆すことができん」
「私は、それだけの罪状を背負っていますから、覆す必要はないと思います」
「お前がもっとも知りたがっている、今のお前の立場だが。王族規範に則って、下したものだ」
王族規範とは、王族が罪を犯した際の捌きに適応される法律のことだ。
王族に、死罪はない。
死罪に相当するのは、流罪や離宮での幽閉となっている。
だが、それはあくまで王族にのみ適用する法律でしかない。
訝るナルに、シンジュは続けた。
「私には、王族の血が流れている。今の国王陛下は、腹違いの兄になる」
「……は?」
「王弟である私の妻は、王族規範適用内だ」
「待ってください、旦那様が王弟……?」
「内々のことだ、一部のものしか知らん。だが、少なくともお前が死罪になることは、なくなった」
「も、もし、旦那様のお話が事実だとして」
「事実だ」
「じ、事実で、私の罪が減刑されたとしても、罪人であることに変わりはありません。ここでのんびりと、残党ホイホイをしている場合ではないのでは」
「情状酌量の余地も追加されている。お前は、シルヴェナド伯爵の拘束に、手を貸した。王族規範外で、それらの情状酌量を与えたところで、死罪に変わりはない。だが、王族規範に則って情状酌量の余地を与えた場合、執行猶予がつく」
「執行猶予? 王族って、そんなに罪が軽くなるんですか⁉」
「王族規範を、知らんのか」
「……お恥ずかしながら、内容までは」
「無知な娘だ」
吐き捨てるように言われて、思わず俯いてしまう。
ついさっき、自分は残党ホイホイだと力説し、自分の罪が軽くなるはずはないと言い切ってしまった。
だが実際は、あったのだ。
罪人が、処刑を免れる方法が。
ある意味で、法律の落とし穴ともいえるそれに気づかなかったのは、ナルが無知であるため、その一言につきる。
ナルは、そっとベッドに両手をついて、頭をさげた。
「申し訳ございません」
「精進を怠るな、この屋敷の図書室にも王族規範に関する本があるはずだ」
「はい」
「……話を戻すが、お前は今、執行猶予中の身だ。それも、私の妻であるがゆえの減刑があってのこと。お前の命は、私の手のうちにあることを忘れるな」
「はい」
「話したら喉が渇いた、茶をいれろ」
「はい」
ナルは素早く動いて、ベッド脇の小卓に置いてある保温ポットで紅茶を淹れた。茶といっても、この世界でポピュラーなのは紅茶の類だ。
紅茶は多種多様あって、粉末を水に溶かすだけのものもある。
ほどよく陶器のカップを温めて紅茶をいれると、シンジュが半身を起こして足を投げ出しているベッドの傍に小卓を移動し、紅茶を置いた。
「……お前は、何者だ」
「はい?」
唐突な質問に、思わず素の声が出てしまう。
シンジュは紅茶をひと口飲むと、もうひと口飲んで、ナルを見た。
「十七の娘には思えん言動だ」
「それは、あの……どういう意味でしょう」
「女らしさの欠片もないということだ。表向きは私の妻だ、それなりに女らしくあることに努めろ」
「はい」
返事をすると、シンジュはなぜかため息をついた。
ナルは茶器を別の小卓に移動して、ベッドに戻った。すぐ隣には、シンジュがいる。いつの間にか膝に本を乗せて、読書を始めていた。
ランプに照らされる横顔を見つめていると、うとうとしてきたので、布団のなかに潜り込んだ。
「……旦那様は」
ぽつりと心の声が漏れる。
シンジュが軽く視線を寄越してきたことに気づかず、ナルは続けた。
「格好いいですね」
理想の上司そのものだ。
どれだけ叱られても、この人についていけばいいと思わせるカリスマ性がある。
ナルの前世の上司は、それなりに出来た人だったけれど、ギャンブル好きという一面があることも知っていた。だが、趣味など人それぞれだし、自分の身の丈に合った遊び方をしているのだろうと思っていた。
上司が横領していると知ったとき、真っ先に浮かんだ言葉が、「裏切り」だった。
信用していた。
入社したときから、出来る人として有名だったその上司の下で働けることが、誇らしかった。
勝手に憧れて、勝手に信じて、勝手に傷ついて。
本当に、ナルは愚かだ。
「……寝たか」
寝息をたてる十七の少女を見やり、シンジュは先ほどの質疑応答を思い出す。
そう、あれは夫婦の会話などという甘いものではなく、まさに質疑応答だった。よどみなく答えるナルの知識は、おそらく、相当なものだろう。
王族規範も知らないのかと侮辱したが、丸暗記している者は、そういった仕事についている者くらいだ。
貴族令嬢はもちろん、ある程度の地位にいる貴族とて、この国の法律さえ満足に覚えていないのが普通である。
(おかしな娘だ)
侮辱したとき、この娘は確かに恥じた顔をした。
そしてすぐに謝罪し、己の無知を詫びたのだ。
シンジュの知る貴族令嬢とは、似ても似つかない態度である。しかもこの娘は、あの悪名高いシルヴェナド家の、当主の一人娘だ。
幼い頃から、ちやほやとされて育った貴族令嬢とは、思えない。
少なくとも、潜入捜査官が身の破滅を覚悟して直訴してきた理由は、わかる気がした。
この娘は、清廉潔白だ。
シルヴェナド家で育ったことが罪になることさえ、理解している。
シルヴェナド家の血縁者には、「自分は何もやっていない」と言い張る者も多い。事実、当主らが行ってきた罪状とは無関係なのだろう。
だが、そんなことは関係がない。
シルヴェナド家の財産は、長きに渡る悪事で築かれたものだ。
衣食住を与えられて育った時点で、多くの血を流して蓄えただろう、財産という蜜を吸ったことになる。
それが、この国の法だ。
法を順守することが、シンジュが国王より与えられた地位で行うべきもっとも重要な事柄だった。
(だが……そうか。残党ホイホイか、考えもしなかった)
十七の娘を囮にするなど、こちらとしてもリスクが高い。
囮には囮の立ち回り方というものがあり、それをしくじると余計な被害をかぶることになる。しかし、この娘ならば、もしかすると。
(面白い)
シンジュは、にやりと口の端をつりあげる。
ただ面倒なものを拾ってしまったと思ったが、もしかしたら、とんでもない化け物かもしれない。
少なくとも、シンジュの立場を下落させただけの価値があるといいが。
シンジュは、手元の本に視線を戻した。
何気なく紅茶をひと口飲んで、紅茶も淹れられない貴族令嬢がいる事実を思い出す。ナルは、わざわざカップを温めてから紅茶をいれるという、手間までかけていた。
(つくづく、変わった娘だ)
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