3-4、温泉街
シンジュの膝に頭をのせて、無防備に眠るナルの髪を、指で梳く。
ナルは、頭のいい娘だ。
他者と話しているとき、相手の仕草から本音を察したり、あらゆる情報を繋ぎ合わせて真実を導いたりと、見えない部分で頭を働かせている。
シンジュ自身がそうだから、わかってしまう。
ナルもまた、そうせざるを得ない境遇で育ったのだ。
ナルが現在、誰に何を命じているのか、誰とどんな取引をしたのか、シンジュは知らない。
話さなくていい、と伝えてある。
理由は、いたって単純で、信用しているからだ。
信用、という言葉は、無責任な言葉だと思っていたけれど。
ナルと過ごしてシンジュは初めて、信用という言葉の意味を、理解した気がした。
思わず、苦笑が漏れる。
柔らかい髪に指を絡めながら、愛しい妻を見つめた。
ナルの実家は、特殊だ。
シルヴェナド家の生き残りというだけで恨まれ、かつて味方であった者からは憎悪され、いつ命を狙われるとも限らない。
ナルの安全のために、王都の警備の見直しは勿論、シルヴェナド家関連の者たちの身辺調査、死罪に値しなかった関係者の居場所の把握など、数多のことを行ってきたが、どれだけ手を尽くしても不安要素はなくならない。
屋敷での過ごし方も、極力快適であるように、少しずつ変更していった。
どうやらナルにとっては、一人で自由に過ごす時間も大切らしい。人の目があると休めないという気持ちは、痛いほど理解できた。
(……守りたい)
さらり、と指に髪を絡ませる。
いつの間にか、ナルとの過ごし方が楽しみになっていた。
両想いだとわかったときは、胸中で狂喜乱舞したほどだ。
今では好かれている自覚もあるし、このまま好かれていたい。
「旦那様」
アレクサンダーの鋭い声に、返事をする。
「つけられています」
「相手を調べろ。……この辺りは、盗賊が出るそうだ」
シンジュの言葉の意味を察したアレクサンダーは、低く「はっ」と頷くと、馬車から離れて行った。
シンジュは、そっとナルの髪を梳く。
シンジュの膝で眠るナルは小柄で、抱きしめると折れてしまいそうだ。
(私の、可愛い妻……私の、ナル)
目的地へは、予定通り到着した。
途中、街で一泊し、早朝に出発することで、午前中のうちにベルガン領へ入る。
馬車を座り心地のよいものに改造しておいてよかったと、シンジュは心から思う。
シンジュでさえ揺れる馬車でじっとするのは疲れるのだから、ナルはもっとくたびれているだろう。温泉街をゆったりと進む馬車のなかで、シンジュはそう思った……が。
「懐かしいっ、硫黄の匂いだ!」
(……歳の違いか?)
思いのほか、ナルは元気らしい。
ナルはフェイロンのもとで護身術を学んでいたというから、身体はそれなりに鍛えているのだろう。
(私も、身体を動かさねばな)
このままでは、ナルの体力についていけなくなるかもしれない。
ただでさえ年齢に差があるのだから、ナルを満足させてやれなくなっては、夫として悲しくなる。
「シンジュ様? どうされたんですか?」
ナルがのぞき込んできたので。
「いつか、閨事でお前を満足させてやれない日がくることを思い、心苦しくしていた」
正直に答えると、ナルは頬を朱色に染めた。
「な、なんで今そんな話になるんですか」
「新婚旅行の初日だ。妄想に浸って何が悪い」
「悪くはないですが……なんで未来のことに心痛めるんですか。そのときは、私が満足させて差し上げますから大丈夫です!」
ナルが、シンジュの腕に手を絡ませてくる。
無邪気さを絵にかいたようなナルを見るのは、初めてかもしれない。
満面の笑みで、「温泉っ、温泉っ」とよくわからない歌をうたっていた。
「滞在は三泊だ、全力で楽しむぞ」
「はい!」
「だがその前に、領を治めているレガー・ベルガン殿に挨拶に向かわねば」
「はい!」
元気のよい返事に苦笑すると、ナルは満面な笑みを返してくる。
(くっ、可愛いやつめ)
ナルは始終嬉しそうで、レガーの屋敷について取次の待機をしている間も、鼻歌を歌っていた。
「随分と浮かれているな」
「旦那様のことが好きだなぁって、再認識したんです」
「ほう? 具体的にどこが好きか、知りたいものだ」
「全部ですよ」
「具体的に、だ」
「まず、財産管理がよく出来てるところと、収入と支出が……」
「こほん、あるじがお目にかかるそうです。こちらへ」
レガーの従者らしき男が言う。
ナルは、はっと顔をあげると、うきうきとシンジュの手を引いて立たせてくれた。
(……いや待て。私のどこを好きか、もう少し聞きたいんだが……私自身の要素が、どこにもなかったぞ)
宿屋についたら、問い詰めようと決めた。
従者に案内されるまま客間へ行くと、屋敷の主が椅子から立ち上がった。
公爵家分家のレガーは、地位でいうとシンジュより上だ。シンジュは侯爵家本家の養子だが、侯爵家と公爵家の差は大きい。
「ようこそ、我が領地へ。新婚旅行とお聞きしました。ぜひ楽しんでいってください」
皴の多い顔を崩して、朗らかに微笑むレガーは、今年五十になるという。娘が一人おり、早くに妻を亡くしている。
温泉街の観光地という、統治の難しい地域にも関わらず、風紀の乱れも最小限に抑え、目立ったトラブルもなく、観光地としての知名度をあげる手腕は、統治者としてかなりのものだろう。
「ありがとうございます。妻ともども、楽しみにして参りました」
シンジュの言葉に、レガーは嬉しそうに微笑んだ。
レガーは、ベルガン公爵の従弟に当たる。
ベルガン公爵とどういった関わりがあるのか、そこまで調べるのは不可能だが、少なくとも現在、レガーが悪事に加担している証拠はない。
「レイヴェンナー家のご当主殿とは、以前にお話したことがございましてな。それはもう、秀でた方で驚きましたよ。ご子息を自慢されていたことを覚えています。あなたのことですな」
「いえ。私の義兄ですよ」
「ほう」
レガーが、驚いた表情をした。
演技には見えない。
「私は、シンジュ・レイヴェンナーと申します。レイヴェンナー家には養子で入りまして、現在は王城の刑部省に勤めております」
「おおおっ、刑部省の方ですか。そりゃ凄い。わしらからしたら、王都で暮らすだけでも憧れですよ。だが、こんな辺鄙なところにもいい部分はありましてなぁ」
(……長くなりそうだな)
そう思ったとき。
客間のドアが開いて、ナルと同年代ほどの女性が入ってきた。
シンジュたちを見ると、はっ、としたように足を止める。
「これ、ベロニア」
「申し訳ございません、お客様がいらしてたのね」
「突然すみませんな、娘のベロニアです」
シンジュは、その娘に対して、よい印象を抱かなかった。
色素の薄い赤髪はくるくると巻いて、完璧に整えている。纏うドレスは煌びやかで、手の込んだオーダーメイドだ。
ひと目でオーダーメイドだとわかるドレスを、普段着にするなど高級嗜好もよいところだ。
何より、きりっと吊り上がった気の強そうな瞳で、値踏みをするようにシンジュを睨んでいるのが、気に入らない。
「お父様、どなたなの? 紹介してくださらないかしら」
「こちら、レイヴェンナー家の方だ。新婚旅行で、我が領土へいらしてくださったんだ。そちらのご夫君は、刑部省に勤めておられるそうだぞ」
ベロニアは、露骨に眉をひそめた。
「そうですの。新婚旅行……随分と、歳の差があるみたいですけれど」
「こらこら。ひと様の事情に首を突っ込んじゃいかんよ。この子も、もうすぐ嫁ぐんですよ。明日、具体的に式の打ち合わせをすることになっとるんです。なぁ、ベロニア」
「お父様、わたくし個人のことを話したりなさらないで。……わたくし、お部屋に戻りますわ。失礼」
ベロニアは、ドレスの裾を翻して部屋を出て行った。
「いやぁ、はは、すみませんな。早くに母親を亡くしたせいか、気が強くて」
「しっかりした娘さんですね。もうすぐご結婚されるとは、おめでたい」
「ええ、本当に。幼いころからの婚約者でしてな。ベロニアはああみえて、とても一途なのですよ」
その後、いくつか話をしてから暇をする。
泊まっていくように勧められたが、新婚旅行なので、というと、レガーは「そうでした、すみませんなぁ」と愛想よく笑った。
第一印象は、人の好い人物、といったところか。
領地を治めるレガー・ベルガンに挨拶をすませると、予約をとってあるという宿屋へ向かった。
治安は安定しており、国内外からの観光客も多く、活気がある。
露店で飛び交う客寄せの賑わいは勿論、様々な効能を売りにした温泉宿、温泉だけを提供している寄合所もある。
どの温泉にも、個室と大浴場の有無が書いてあって、非常に良心的だ。
ベルガン地方は、隣の柳花国と隣接する広大な土地だ。
そのなかで、もっとも賑わっているのがここ、ベルガン公爵の従弟であるレガーが治める温泉街だった。
先ほど挨拶を交わしたレガーは、非常に温厚そうな壮年の男性に見えた。
とはいえ、人は何がきっかけで人格が変わるかわからない。
少なくとも、ナルはそう思っている。
実際ベルガン公爵も、穏やかな性分の人格者で通っていた。
ベルガン公爵は、多額の寄付で孤児院に併設する学校をつくり、身寄りのない子どもや貧しい子どもたちに対し、無償で勉強の場を提供している。
そのほかにも、ベルガン公爵は多くの慈善事業に取り組み、命を救われた者は数えきれない。
人格者として名高いベルガン公爵の味方は、多い。
(だめだめ、余計なこと考えちゃ。今は楽しむって決めたんだから!)
和洋折衷の光景に、懐かしいものを感じる。
和風だと感じる部分は、おそらく柳花国の文化だろう。
シンジュが決めたという宿屋は、和風の旅館だった。
純和風かと思いきや、案内された部屋は意外にも洋間だった。
入り口付近に使用人が待機する部屋があり、三人の護衛はその部屋へ。うち一人が、見張りとして交代でドアの前に立つらしい。
「わぁ、すごいですね!」
広々としたワンルームを眺めて、ナルは喜色の声をあげた。
広々といっても屋敷の寝室のほうがはるかに広いのだが、観光地でこれだけ広い部屋を使えるのはかなりの贅沢だ。
ベッドはダブルで、触れるとふかふかする。
大きな窓の向こうには小さな庭があり、庭の向こうは高い垣根で仕切ってあるため、人の目はない。
(内風呂はあるかな~)
外へ続くドアの近く、風通しのよい室内に広い内風呂があった。ぎゅうぎゅうに詰め込めば、大人が十人は入れるだろう。
(温泉の匂いだ! あ、アメニティグッズもある!)
さすが温泉街。
そのなかでも、高級そうな宿屋。
「疲れただろう?」
シンジュが、ナルの背後から内風呂を覗きながら、言った。
「少し。でも、全然平気です!」
馬車の座り心地が良かったこともあって、腰の痛みはない。馬車から降りたときは凝り固まってると思っていたが、温泉街の賑やかさに浮かれているうちに、痛みなど消えていた。
「そうか。それはよかった」
「はい……い?」
背後から抱きすくめられた、と思った瞬間、抱き上げられる。
丸太のように肩に担がれて、ベッドに下ろされた。覆いかぶさってくるシンジュに驚いて、胸を押す。
「あ、あの」
「まる一日、お前とくっついていたんだ。どれだけ耐えたと思っている」
「耐え……あの、隣にはアレクたちが」
「いないものと思え。新婚旅行なのだから、向こうも気を利かせるだろう」
それはそうかもしれない。
ナルは、むぅと唸った。
「せめて、着いたばかりですし汗を流してからでもいいですか?」
ふ、と。
シンジュが笑った。
エロいことを考えている、悪い男の顔だ。
「そうか。お前がそこまで言うのなら、風呂へ行こう」
「えっ」
「存分に、汗とやらを洗い流してやる。私としては、今のままでもいいんだがな」
「一緒に入るんですか⁉」
「そうだ。今度こそ逃がさんぞ」
(今度こそ?)
ナルに思い当たる節はないが、どうやら過去に風呂の誘いから逃げたことがあるらしい。
その日は夕方まで、部屋で、激しくゆったりと過ごした。
豪華な夕食に舌鼓をうったあと、二人で温泉街を、手を繋いで歩く。目に止まった屋台で買い食い(毒味役として護衛が一口食べてからだが)して、ふわふわと夢のような楽しさを経験した。
「ナル」
「はい!」
「昼間の続きだが、私のどこが好きだと?」
思わず、きょとんとしてしまう。
そういえば、レガーの屋敷で取次を待つ間、そんな話をしたことを思い出す。
「そうですね、他にもいっぱいありすぎて」
「言え、全部だ」
「うーん。恥ずかしいので、さらっと聞き流してくださいね? シンジュ様、いつも私のことを気にかけて下さってますよね、凄く嬉しいです。たまに見せてくださる笑顔も、真面目に話をされているときに寄る眉間の皴も、えろっちく笑うニヒルな笑顔も、全部好きです。それに、抱きしめてくださるときの腕とか、胸の広さとか、シンジュ様ご自身の匂いもとてもとても好きです。あと――」
「わかった」
シンジュを見上げようとすると、ナルの視界をシンジュの手が覆う。
「わ、見えないですよ」
「見えないようにしてるんだ、馬鹿め」
「照れてます?」
「わかってるなら、聞くな」
繋いだ手に、ぎゅっと力を込めた。
同じだけ握り返してくれる力強さが嬉しくて、そっと、微笑んだ。
閲覧、ブクマ、感想、評価、誤字脱字報告、その他諸々ありがとうございます。
早いもので、第三章も四話目となります。
さくさく進めたいので、このまま完結まで突っ走ろうと思っています。
次の更新も、明日の18時前後(17~19時の間)になります。
どうぞ、宜しくお願い致しますm(__)m