2-13、格好いい旦那様
ナルは、勢いよく開かれたドアを振り返った。
血相を変えたシンジュが、こちらを見ている。
「無事か⁉」
「はい。……バロックス殿下の遣いの方がお見えでした。旦那様に変装してこられたので、驚きましたけど」
素直にそう言うと、シンジュは瞠目したあと、深いため息をついた。
安堵したらしく、ドアを閉めると、軽く頭を押さえて深呼吸をしている。
「旦那様、ご心配をお掛けいたしました」
傍へ駆け寄ると、シンジュに抱きすくめられた。
大きな手、力強い腕。
(……本物の旦那様だ)
本能だろうか。
理屈などなしに、シンジュで間違いないとわかる。
なぜ先程は、騙されてしまったのだろう。
触れた手から伝わってくる気持ちが、こんなにも違うのに。
「また、命を狙われたのかと……無事でよかった」
強く、本当に強く、抱きしめられる。
(痛い……けど、嬉しい。あ、骨がきしむ)
「旦那様、私は無事ですから」
そっと身体を離したシンジュは、そのままナルを抱き上げた。
「あっ」
「疲れただろう、ベッドで休め」
憧れのお姫様抱っこ――ではなく、まさかの丸太担ぎでベッドまで運ばれる。
丸太担ぎとはいえ、ナルを軽々と抱き上げるほどの力に、ぽっと惚れ直してしまう。
ベッドに下ろされて、掛け布団までかけてくれたシンジュに、ナルは微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、旦那様を差し置いて私ひとり、横になるわけにはいきませんから」
「……ならば、私も横になろう」
言うなり、シンジュも隣に寝そべった。
シンジュは仕事着だ。
まだ、王城で仕事が残っているのだろう。
共に横になるのは、ナルの身体を慮ってのこと。
そうわかっているからこそ、ナルは、胸の奥がきゅっと締め付けられるような切なさを覚えた。
(優しい方だなぁ……今更だけど、私には、勿体ない人だ)
寝そべったまま向かい合うと、目が合ってどちらからともなく微笑んだ。
「ナルファレア。突然、護衛をつけたことに驚いているだろう」
「……ええ、とても」
「ずっと追っている者がいる。その者らを、【ユーリシアの御使い】と呼んでいるんだが……その正体がわかった」
静かに語るシンジュに、ナルは微かに目を見張る。
「柳花国で、月光花師団と呼ばれる組織が、それだ」
シンジュが、何気ない仕草で、ナルの髪に指を通した。
優しい手つきで、頭を撫でる。
「ユーリシアの御使いが、月光花師団?」
「……そうたどり着いた。いや、そう、たどり着くよう仕向けられたらしい」
「あの、話が見えません。昨夜の殺人事件とか、死体が消えた件ですか?」
答えると、シンジュは驚いた様子で動きを止めたが。
すぐに、「バロックス殿下か」と呟いた。
「昨夜、お前が犯人にされかけたことは、偶然ではない」
シンジュは言いにくそうに、話し始める。
「私の妻ゆえに、利用されたのだろう」
「え?」
「妻が巻き込まれれば、嫌でも私の知るところになる」
刑部省長官ともなれば、毎日王都は勿論国中から報告書が届く。
基本的に現場に出向くことのない長官は、王都で起きた事件を書類で知るだけになる。
だが、もし妻が殺人を犯したとなったら?
その事件の詳細を調べ、深く介入することになる。
昼間ナルを狙った輩は、シルヴェナド家の娘としてナルを口止めしようとしたのではなく。
シンジュの妻としての立場を利用するために、襲ってきたのだ。
「敵が、再びお前を利用する可能性があった。敵のしっぽを掴む機会でもあるため、お前の警護に精鋭を配置したのだが、遅かったようだ」
すとん、とシンジュの言葉に納得できる。
これでこそシンジュだと、ナルは頬を緩めた。
つまり、ルルフェウスの戦いに存在した第三者がいて(これを刑部省は【ユーリシアの御使い】と呼んでいる)。
その第三者が誰か、を調べると、月光花師団へたどり着く。
だがシンジュは、そう思うように誰かに仕向けられたと思っている。
「すでに、敵が刺客を放っているとは。怖い思いをさせたな」
強く抱きしめられて、背中を撫でられる。
大きな男性の手の硬さとぬくもりに、胸の奥がぎゅっと甘くしびれた。シンジュに伝わってしまったのか、または、彼も同じ気持ちになったのか。
不自然なぎこちなさで、手を退けた。
「……何か、欲しいものはないか。怖い思いをさせた詫びに、贈り物をしよう」
「私は望んで旦那様の妻になったのです。巻き込まれるくらい、平気です」
「だが、私の気がすまん」
「……でしたら、一つ、お願いがございます」
「なんだ?」
微笑むシンジュを、抱き寄せられたままの姿勢で、見上げる。
出会った頃より、シンジュはよく微笑むようになった。
気を許して貰えているのだ。
そのことが、とても嬉しい。
「私を、愛称で呼んで貰えませんか」
無性に恥ずかしい気持ちを押し隠しながら、そう、強請る。
シンジュは、目を見張った。
「愛称?」
「ナル、と。……呼んでほしいです」
それほど、呼び名にこだわりはない。
けれど、なぜだろう。
無性に、愛称で呼んでほしいと思ってしまうのは。
おずおずとシンジュを伺うと。
にやりと、悪い笑いを浮かべたシンジュがいた。
「いいだろう。……ならば、お前も私を名前で呼べ」
「えっ⁉ あ、あの、旦那様っ」
「なんだ。呼べるだろう? ナル」
顔が近づいてきて、頬に唇が触れる。
シンジュは、このあと、刑部省に戻らなければならない。
もしかしたら、ナルの様子を見るために、無理やり時間を作ってきてくれたのかもしれないのだ。
だから、そんな場合ではない。
わかっているのに、優しく触れられると、離れたくなくなってしまう。
頬に触れる唇が、離れたかと思うと、また触れる。
今度は、ナルの唇に、より近い場所に。
「……どうした、ナル」
「だ、旦那様」
「ナル」
やんわりと促されて。
「シンジュ、さま」
頬を赤くしながら、シンジュを呼ぶ。
名前を呼んだだけなのに、なぜこんなに照れてしまうのか。
(使用人たちの前では、シンジュ様、って呼ぶこともあるのに)
シンジュが、嬉しそうに笑った。
細めたシンジュの瞳に、照れたナルの姿が映っている。
シンジュの顔が近づいてきて、唇が合わさった。
啄むだけのキスが、徐々に深くなる。
シンジュの手が、ナルのドレスのなかへ侵入してきたとき。
シンジュの手が、震えていることに気づいた。
(やっぱり、疲れてるのかな。それとも具合が悪い……とか)
震えるシンジュの手に、ナルは、自分の手を重ねた。
シンジュは微かに目を見張ったあと、視線を逸らす。
その表情が、すねた子供のようで、ナルは胸中で首をかしげる。
「……すまない、緊張している」
「緊張、ですか」
それは、ナルにとって予想外の言葉だった。
「いい大人なのに、格好悪いな」
ナルは空いている手で、苦笑を浮かべるシンジュの頬に触れた。
胸の奥が熱い。
溢れてくる熱は甘くて、でも少しだけ痛くて、苦しくて。
ふいに、泣きそうになった。
「こんなに大切にして下さるシンジュ様の、どこが格好悪いんですか。嬉しくて、おかしくなりそうです」
「お前はいつも、私を喜ばせることを言う」
お互いを見つめて、笑い合う。
どちらからともなく、唇を合わせた。
***
バロックスへの報告を終えたジーンは、帰宅する予定を取りやめて、刑部省へ戻った。
もうすぐこの職場ともおさらばだと思うと、それなりに楽しく過ごせたなぁくらいの気持ちで、刑部省内を見て回る。
はず、だった。
ロイクが、ぺこぺこと頭を下げる姿を見つけるまで。
(わ、関わりたくないなー)
好奇心で、ちらっとロイクが誰といるのか確認する。
「ふざけんじゃねぇ、なんで俺が行かにゃならねぇんだ!」
「そこをなんとか。私では、長官代理に限度がございまして」
「なら本人を呼べばいいだろうがっ。どうせ仕事馬鹿なんだ、呼べば戻ってくんだろうがよっ」
(あー……刑部省副長官が、ロイク殿に引っ張り出されてる……)
独身現役五十八歳。
刑部省副長官ジェンマ・ローザ。
フェイロン・レイヴェンナーが現れる前まで、王城の華と言われた男だ。
文武両道、博識で人や世論をよく見ている、優れまくった人物である。
シンジュを刑部省長官にするようにと推薦したのは、ジェンマという話だ。
もっとも、ジェンマの後押しで刑部省長官になったシンジュは。
前の刑部省長官が不正疑惑で捕まったあとだったため、刑部省そのものを立て直すのに、寝る間も惜しんで働き続けねばならなかったとか。
「まぁまぁ、お願いします。ちょっと長官執務室で、ささっと仕事をしてもらえたらそれでいいので」
「持ってくればいいだろうがよ、俺の部屋に!」
「それが書類じゃなくてですね。今、色々と部隊を動かしてまして、報告にくる部下がちらほらと」
「俺が、直接答えろってか⁉ それこそ、シンジュの仕事だろうがっ、あいつ何処行ったんだ⁉」
「いやぁ、あはは、うんこかなぁ」
「どんだけデケェ糞してんだ!」
(あれ? 私が奥方の屋敷から離れて、もう数時間経ってますよねぇ。ナニしてるんですか、この忙しいときに)
まさかあのまま燃え盛ったんじゃないだろうな、という考えがちらついたが、軽く首を横にふる。
ナルは今日、命を狙われたばかりなのだ。
生活環境も大きく変わって、心細い妻を労わるだろう。
(……いやでも、あの長官ですからねぇ)
シンジュは、仕事一筋で生きてきた男だ。
酒や女に溺れることもなく、地位をひけらかすこともなく、ただ真面目な人生を歩んできたという。
そんなシンジュだからこそ……もしかしたら、もしかするかもしれない。
(……まぁ、やっと閨事が出来たのなら、よかったです。あの二人には、ヤキモキさせられますし)
ジーンは、目の前で軽い争いを繰り広げる上官たちを見て、ふっと笑う。
シンジュの判断が必要な場合であれば、ロイクは血眼になってシンジュを探すだろう。
それをせずに、執務室を自室に改造して王城に泊まり込んでいるジェンマを引っ張りだしたということは、ぶっちゃけ、シンジュを探すほど重要な報告はないということだ。
(まぁ、それがわかってるから、副長官殿も、面倒なんでしょうねぇ)
なんにせよ、ジーンには関係ないことだ。
少し刑部省を見ておこう、などという、らしくない感傷に浸ろうとしたのがいけなかった。
さっさと帰ろうと踵を返したとき。
「ジーン殿! ちょうどいいところに。長官はいつお帰りになるのかな?」
ロイクが話しかけてきた。
(げっ)
おずおずと振り返ると、厳めしい顔をしたジェンマが、こちらを睨んでいる。
ひっ、と息を呑んだ。
ふたりの視線にさらされて、ジーンは生唾を飲み込む。
「……お」
「お? なんだ?」
「お腹が痛いみたいで、トイレにこもってます。……まだ戻るまで時間がかかるかと」
あはは、と渇いた笑いを浮かべてみせる。
けれど。
くわっ、と目を見開いたジェンマは「結局、糞かよ!!」と喚き、ロイクとジーン、ふたりでひたすら頭を下げて、ジェンマを長官代理として、長官執務室へ押し込んだ。
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2-15で二章を完結予定ですが、予定は未定ということで。。
次の更新も、明日となります。18時前後の予定です。
あと少し、お付き合い宜しくお願い致しますm(__)m