2-8、素直なひと
――【この広い世界で、愛するあなたと出逢えたのは、奇跡】
「素敵ですね~」
ファーミアが、うっとりと呟いた。
その隣で、メルルが、頷く。
使用人の控室で、二人の話を聞いていたナルもまた、頷く。
頷くけれど。
(なにその、当たり前なことを再確認しようみたいな本は)
ファーミアが胸に抱えるのは、今、流行っているという「持ち歩きもできる! 胸を焦がす恋愛の言葉100」という本だ。
先ほどから、ワンフレーズずつ読んでは、二人で頷いているらしい。
どうやら、シンジュの結婚を経て、使用人たちの間に恋愛ブームが起こったという。ナルとしては、皆が幸せになってくれるのならば嬉しい。
だが、こういうときは大抵、うまい具合にバラけるなんてことはなく。
数人が、同じ人を好きになったりするものである。
(変なもめごとが起きなきゃいいけど)
「奥様、やはり昨日の香油で、旦那様は益々奥様に夢中でしたか?」
「ファーミア!」
メルルはいつものようにファーミアを窘める。
だが、気になるのか、ちらちらとナルを窺っていた。
(あ、聞いてなかった。香油が、なに?)
好奇心旺盛なファーミアは、うふうふと女子力をあふれさせた笑みで、顔を近づけてくる。
「恋愛に、香りは必要不可欠だそうですよっ! 奥様もそれをご承知で、昨日は香油を買って帰られたのですよね。効果てきめんでしたか?」
「あ。……それで、マッサージにあの香油を……」
「はい!」
師匠から貰った香油を、マッサージオイルとして使用したのはファーミアだった。メルルも一緒になって、ナルをより美しくするために短時間で仕上げてくれたのだ。
さすが侯爵家の使用人と褒めるべき、手際のよさだった。
おかげで、肌はもちもち、つやつやになったけれど。
申し訳ないが、昨夜も何もなかったのだ。
ファーミアは、うっとりと空中を見つめている。
「素敵ですっ! 恋。ああ、恋。愛しき、きみよ」
(なんだろう、今度は。演劇? 戯曲?)
ナルは、どうか使用人たちの間でトラブルが起きませんように、と願いながら、二人と別れた。
午前中の日課と、昼食を終えたナルは、その足で中庭に向かった。
薔薇園へ行くと、せっせと薔薇の世話をする男がいる。
青年と呼ぶには、やや歳が過ぎているだろうか。
衣類を土で汚れさせた彼は、ナルに気づくと、糸目をさらに細めて顔をしかめた。
だが、立ち去ろうとはしない。
ナルの存在などないかのように、仕事を続けている。
ナルは、薔薇の手入れをしているアレクサンダーへ歩み寄ると、うわっ、と声をあげた。
「なにそれ、重そうっ」
そこには、肥料が入った麻袋が二つ置いてある。
一つの大きさが、大型のキャリーケースほどあり、そこにぎっしり土が詰まっているのだから、重いなんてものではないだろう。
「ちょっと、まさか一人で抱えてるの? いい歳なんだから、腰痛めるって」
「うるさいな。追肥を知らないのか、これだからお嬢様は」
それ今関係ない、と思ったが、真剣に薔薇の手入れをしているアレクサンダーを見ていると、咎める言葉も失せてしまう。
ナルはすぐ近くにしゃがんで、花のない薔薇の枝を見つめた。
「追肥くらい知ってるから。春の薔薇は自然に咲くけど、秋の薔薇は夏場の手入れにかかってるんだっけ」
アレクサンダーは、軽く眉をひそめてナルをみた。
「……そうだ。だから、今のうちに手入れをしておくんだ。今日はくもりがちとはいえ、日焼けするぞ。屋内に入ったほうがいいんじゃないの?」
「見てるからいい」
「失せろって言ってるんだ。言っておくけど、どれだけ来ても、僕は変わらないからな」
「昨日まで、会ってもくれなかったのに。今日はこうして、逃げたりせずに会ってくれるじゃない。それも進歩だと思うけど。あ、手伝おうか?」
「いらない、むしろ触るな!」
これは、アレクサンダーいわく、『あの方』がシンジュに贈った薔薇だという。シンジュいわく、また『あの方』本人いわく、それほど重要な花ではないようだが。
一袋分の追肥を撒き終えたアレクサンダーは、木陰に入った。予め置いておいただろう、水を水筒から飲んでいる。
ナルも、アレクサンダーの隣に座った。
ハンカチで汗を拭いていると、アレクサンダーが当たり前のように水筒を差し出してきた。
(あ、これ。……異性と認識されていない部活の先輩がとる態度だ!)
間接キスだ。
と、ほんわりするほど若くないナルは、有難く喉を潤した。
「うまっ、なにこれ」
「ベティエール様特製の、補水液だ」
(薬局でよく売ってたやつか。作れるんだ……さすが、料理長)
水筒を返すと、アレクサンダーは水筒を腰に下げた。
「どうして僕を追い出さなかったんだよ」
「へ?」
アレクサンダーは、ジト目でナルを見ていた。
「というか、随分と態度が違うね。ほかの使用人たちといるとき、きみ、もっとお淑やかというか、まだ女性らしさの欠片はあったと思うけど。『うまっ』とか『へ?』とか、そういう言葉遣いはどうかと思う」
「いいじゃない、ほかに誰もいないんだし」
「そういう気の弛みが、とんでもない事件に繋がるんだよ」
「え~」
「なんだよ、その気の抜けた返事は。シンジュの妻だって自覚あるの?」
「めっちゃある」
「軽っ!」
アレクサンダーは、ぐぬぬと口を歪めると。
先程と同じ言葉を、繰り返した。
「どうして僕を追い出さないんだ」
「追い出してほしいみたいに聞こえるけど」
「答えろよ!」
昨夜、ナルが行方不明という騒ぎが屋敷で起きた。
だが、門番をしていた警備員たちは、さすがプロというべきか、ナルの変装を見破っていたらしい(それも含めての、計画的変装だったのだが)。
当然すぐさま、警備長のアレクサンダーへ報告が行き。
アレクサンダーは、ナルを追いかけていた警備員と交代で、ナルの護衛を担当した。
なのに、アレクサンダーは先に屋敷へ戻っているし、屋敷ではナルの行方不明が起きている。
昨夜の時点で、門番をしていた警備員からその他の警備員へと、アレクサンダーの不審な噂が広がりつつあった。
ナルが、シンジュに風呂の時間を聞いたのは、そのためだ。
シンジュが風呂へ行っている間に、アレクサンダーへ疑心の目を向けているだろう警備員たちへ、フォローへ走ったのだ。
ナルが自分で頼んだことなのだ、と。
「私が、旦那様の奥様だから」
「答えになってない」
「なってるって。あなただって、『あの方』が大切にしてるものは、大切にしたいでしょ」
ぐ、とアレクサンダーが言葉につまる。
アレクサンダーは、シンジュと大差ない歳だろうに、こうして話していると随分と子どもっぽい。
(あ、でも、ナンパ男を装ってたときは、それなりに大人っぽかったなぁ)
どっちが、素のアレクサンダーなんだろう。
と一瞬だけ思ったが、確実にこっちだろう。
「旦那様の隣は、『あの方』の場所なの?」
「そう。二人で、この国を支えるんだって、いつも話をされていたんだ」
「それって、相方とかいう、意味で?」
「そうだよ」
「だったら、私がいてもよくない? 妻の座はあいてるわけだし……待って、一応確認させて。『あの方』って、男性?」
「当たり前じゃないか」
何を言ってるんだ、といった目で見られてしまった。
「女性らしいっていうから。……女性かと思って」
「『あの方』は、女性よりも女性らしい美しさを纏う方なんだ」
(くっ、師匠じゃなかったら、なにそれ、って笑えるのに、言葉が納得できるぶん、笑えないっ)
そもそも、師匠に勝る美しさを持つ人間など、存在するのだろうか。
存在したら、それこそ歩く最終兵器だ。
「私は、『あの方』じゃないし。旦那様の妻として、隣にいるから。屋敷を出て行かない。私がいたら、遠慮して戻ってこれないような人なの?」
「わからない。……でも、戻ってきたときに、あまりにも時間が流れていたら、帰りにくいと思う」
予想外に真剣な返事が来た。
当たり前だろう、とか、そういった返事がくると思っていたのに。
地面を睨みつけるアレクサンダーの横顔は、少しだけ、寂しくみえた。
「なんで僕を追い出さないんだ。昨日のこと、シンジュに言えばいい。そしたら、いくら古参でも、僕は解雇される」
「あれは私がいけないの。強引に呼び出したのは仕方がないとしても」
「いやそこが一番駄目だと思うよ」
「まぁ、聞いてよ。そこはいいとして、さすがに私も、踏み込みすぎたなって、反省したの。ほら、人それぞれ大事なことってあるし、触れてほしくない場所ってあるじゃない?」
「どっちが悪いかなんて関係ない。貴族は、そういうものだからね。嫌なことがあると、すぐに排除するんだ。きみも……シンジュに頼んで、僕を辞めさせると思った」
アレクサンダーは呟くと、がしがしと頭をかいた。
(あ、今日は姿を消さずに、会ってくれたのって)
アレクサンダーも、ナルに話があったのだ。
そう理解したとき、なんだか、気がぬけた。
少しだけ、緊張していたらしい。
「あの方はもう、戻ってこない。本当はわかってるんだ」
そうため息をつくアレクサンダーに、ナルは、首を傾げた。
「アレクサンダーは、『あの方』に会いたいの? それとも、帰ってきてほしいの?」
「微妙なニュアンスで、痛いところをついてくるね」
「……ごめん、嫌なら言わなくていい」
「別に。誠心誠意仕えてきた主が、急にいなくなっただけの話だよ。でもさ、あまりにもいきなり過ぎたから、なんか納得できなくてね。シンジュには、公式書類を残したのに、僕には何もなかったっていうのも、すごく、嫌だった。追いかけることも、許されなかったんだなって思っちゃうし……一言、言葉が欲しかったなぁ」
アレクサンダーの言葉が、ナルの脳裏で反芻される。
昨日と違って素直なアレクサンダーの言葉が、彼の隠された本心を表しているようで、胸が痛む。
「……いきなり、突き放されたの」
ぽつり、とナルが呟くと。
アレクサンダーが、振り返った。
「え?」
「ずっと、尽くしてきたのに。毎日、朝早くから遅くまで。不満もあったし、苦しくて泣いた日もあった。でも、私がやらなきゃって、使命感もあったし、毎日、こき使われても、頑張った。たまに褒められることがあると、舞い上がっちゃうくらい嬉しかったし、充実感もあったから、頑張れた……でも、私はいきなり、捨てられたの」
会社に。
ガン、と地面を蹴る。
アレクサンダーが、びくっと身体を震わせた。
(思い出したら、腹が立ってきた!)
そうだ、結局ナルを訴えたのは会社なのだ。
無実の罪を着せたのもそうだ。
誰もナルの言葉を信じずに、あの顔だけがいい(仕事もほんの少しできたけど)上司の言葉を信じて。
「きみ……辛かったんだね」
「信じたくなかったのよ。あそこ、ブラックってわけじゃなかったし。グレーくらい? だったから。そういう微妙に真っ当な部分もあったから、捨てられた感がすごかったの。毎日泣いて、泣いて泣いて、泣きまくった。でも、もとの場所には戻れないし、失ったものが多すぎて……」
「そ、それで、どうしたの?」
「死んだ」
「え?」
遠い目をしていたナルは、はっと我に返った。
「あ、え、えっと。結局、諦めたの。全部新しくして、生きていこうと思って……今に至るっていうか」
「もしかしてその話って、きみの実家の――」
(あ、シルヴェナド家は関係ない)
「それは違――」
「ごめん、嫌なことを思い出させた」
俯いたアレクサンダーは、もう一度、ごめん、と呟く。
(……アレクサンダーって、真っ直ぐ過ぎない?)
純粋というか、なんというか。
こんなに真っ直ぐな性分で、警備長が務まるのだろうかと心配になる。
「きみはすごいな。僕は、進めないでいるのに」
はっ、とアレクサンダーを振り返る。
(進みたいって、思ってるんだ……思えるように、なってるんだ)
ぐっと拳を握り締める。
ナルにとって、今からすることがいいのか駄目なのか、わからない。もしかしたら、余計なことかもしれない。
でも、何もしなければ、何も生まれないし、始まらない。
「アレクサンダー……長い。アレクって呼ぶ。すぐに準備して」
「なに、急に。なんの準備?」
「出かけるから。護衛として、ついてきてほしいの」
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