2-7、言の葉≪後編≫
「――言ってませんでしたっけ」
そう言った妻は、申し訳なさそうに、身を小さくした。
叱られるとでも、思っているのだろうか。
(叱るわけないだろうが)
こんなにも誰かを、愛おしいと思ったことはない。
シンジュは、ベッドのうえで正座するナルを抱きしめた。腕のなかに居るナルは、夜着のためとても薄着で、服越しに熱が伝わってくる。
そしてきっと、先ほどから熱を持ち続けているシンジュの体温も、伝わっているだろう。
ナルが息をつめるのを感じた。
少しだけ、身体を強張らせたが、おずおずとシンジュの背中に手を回してくる。
(……ナルファレア)
愛しくてたまらない女性の首筋に、頬を摺り寄せた。
優しくしたいのに、壊したいほど激しく扱いたい、そんな矛盾を胸に秘めて、耳元で、「ナルファレア」と囁いた。
「は、はい」
「両想いと言ったな」
「は、い」
「……ならばもう、我慢することはないと、思うのだが」
「だ、旦那様は、我慢など、必要ないと、思います」
「妻としての役目を果たすためか」
「…………わ、私も」
消え入りそうなナルの声を、聞き逃すまいと耳を近づけた。
「その、旦那様との、そういう関係を、望んでいるから、です」
「――っ」
唇を合わせた。
ナルの髪に指を差し込むように、頭に手を置く。
大人の男の余裕を見せて、惚れ直させてやりたいと思うが、現実はそうもいかない。
まだお互いの間に、誤解していることが沢山ありそうだが、気持ちが通じ合っていることは間違いない。
それだけで充分だと思えるほどに、ナルが欲しかった。
そっとベッドに組み敷いて、口づけを交わす。
恋人同士の口づけをして、胸元へ唇をそわせた。
(……いい匂いだ)
今日という日を印象づけるのにふさわしい、甘く清楚な香りが鼻孔をくすぐる。
いつか、今日を振り返ったとき。
甘い雰囲気とともに、この香りも思い出すだろう。
「いい香りだな。……お前が、香水をつけるなど珍しい」
ナル自身の匂いは、もっと甘くて刺激的だ。
そちらのほうが、好みといえば、好みなのだが。
「師匠の香油です」
ぴた、とシンジュは動きを止めた。
今、聞き間違えたような気がする。
今日という記念日を振り返ったとき、思い出す香りは――。
「これ、師匠愛用の香油です。自家製なんですよ」
ナルが、丁寧に説明をくれる。
確かに事件の部屋でも、微かにこの香りがした。
フェイロンからナルをさらうように呼んだとき、胸に飛び込んできたナルからも、この香りがした。
今のナルがまとう香りが、それら、どの時よりも濃い。
「今日、師匠の家に行ったとき、少しわけて貰ってきたので、先程使ってみたんです。あの、今日の私は、師匠の匂いにまるごと包まれていますが……大丈夫ですか?」
心配そうにシンジュを見上げるナル。
その背後に、幻が見えた気がした。
――『シンジュ、お前に私を超えていけるか?』
そう言って、不敵に微笑むフェイロンがいる。
目をつぶっても、ナルの背後に、香りとともにフェイロンがいた。
シンジュは、ぎりっと歯を食いしばった。
(なぜ。……なぜ、今日なんだ)
その香油、つけるの明日でもよくないか? と、思ったが言えない。それでは八つ当たりになってしまう。
シンジュは強引に、匂いなど気にしないという方向へ、考えることにした。
息を止めたり、違うことを考えたり。
うまくいったと思った瞬間。
――『シンジュ、お前に私を超えていけるか?』
(出てくるな!)
香りが、無意識から意識下に戻ってくる。
「……旦那様、夕食に致しましょう」
ナルが気遣うように、そっと、シンジュの手を握る。
「私、お腹が減りました」
「……そうだな、夕食にしよう」
その日も、ゆったりとした時間を過ごした。
決して嫌なわけではない。
むしろ、ナルと過ごす時間は、幸福で、甘くて、このうえなく満ちている。
だが、男としてナルを愛したいと思うのも、確かなのだ。
夕食を食べたあと、ふたりで話した時間は幸せに満ちていた。
改めて図書館へ行く約束をしたとき、ナルは嬉しそうに微笑んだ。
ナルは、おそらくまだ、自分の身の上をとても気にしている。
そういったところも愛しいのだが。
今後、いつか。
対等な立場で、我儘を言ってくれる日がくるだろう。
早くそうなればいい、と思う。
生涯をともに歩む、大切な妻なのだから。
その日。
眠りにつく、そのときまで。
――『お前に私を超えていけるか?』
(うるさい、いい加減にしろっ!)
否が応でも、フェイロンの幻影が、ナルの背後に居続けた。
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明らかに、前後編の配分を間違った短さになりました。。
(直前で書き直したら、短くなった。。)
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