2-6、言の葉≪前編≫
馬車のなかは、無言だった。
ナルは、何を考えているのか、ただ俯いている。
シンジュは、ナルに伝えたいことが沢山あったが、どれも喉にはりついて出てこなかった。
そうこうしているうちに、屋敷が見えてくる。
「だ、旦那様」
ナルが、震える声で言った。
「……なんだ」
「あ、あのっ、お風呂の件なんですがっ」
「風呂? ……ああ」
フェイロンが当然のように、ナルと風呂に入ったなどというから、つい言い返してしまったが。
よく考えなくても、ナルはそんな軽率な娘ではないし。
フェイロンも、倫理を重んじる性格をしている。
おおかた、風呂嫌いのフェイロンを、ナルが強引に浸からせた、くらいの話だろう。
「その件ならば、もう――」
「屋敷についたら、すぐにお風呂でよろしかったですか?」
「そうだな」
(違う‼)
ナルといると調子が狂うのは、ひと月ぶりでも変わらないらしい。
もういい、と言おうとしたはずが、頷いてしまうとは。
屋敷の玄関前に馬車が停まると。
「旦那様、失礼致します」
御者がドアを開く前に、ジザリが声をかけてきた。
余程切迫していることは、声からも読み取れる。
「どうした」
「お、奥様が……」
うっ、とジザリが声を途切れさせた。
シンジュは、ジト目をナルへ向ける。
「…………お前、何かしたのか」
「今日、屋敷を抜け出してきたんです。一応、夕食前には戻りますって、師匠の家に行く前に手紙を送ったんですが」
「なるほど、事件に巻き込まれて帰宅が遅くなった、と。詳しい話は、あとで聞こう」
シンジュは、馬車を降りて驚いた。
ジザリ以外の使用人たちも、大勢詰めかけていたのだ。
不安そうに詰め寄る使用人たちの表情に、偽りはない。
心から、ナルを心配しているらしい。
奥方が行方不明ともなれば、彼らが処罰されてもおかしくない。保身に走る使用人が居てもいいだろうに。
(……少し前まで、人形のようだった使用人たちが、こうも変わるとは)
ナルの人柄によるものが大きいだろうが、想定以上だ。
シンジュは使用人たちに、ナルも一緒に帰宅した旨を知らせて、『事情があった、心配させてすまなかった』と詫びた。
これまで、シンジュが使用人に詫びたことなどなかった為か、使用人たちは、幽霊でも見るかのような顔でシンジュを見つめてくる。
ナルもまた、馬車から降りたあと、使用人たちに謝罪をした。
そんなやりとりも、すぐに終えて。
屋敷のなかへ入ろうとしたとき、そっとナルがジザリを呼んだ。
「なんでしょう、奥様」
「お風呂、準備して貰ってもいい?」
ナルが、小声でジザリに言うのを聞いてしまう。
ジザリは、軽く目を見張って、ちらっとシンジュを見てから、ナルをみた。
「それは、お二人で入浴されるということで、よろしかったでしょうか」
声をひそめて、そう言ったジザリは、かなり驚いた様子だった。
(夫婦なのだから、構わないだろう)
世間一般の常識では、男女どころか同性でもともに入浴しない。
肌を見せるのは、閨でのみ。
そういった、暗黙の了解がある。
だが、それがなんだというのか。
ジザリの驚きぶりに、ナルがくすっと笑った。
「まさか。私は寝室に行ってるから。旦那様をご案内してさしあげてね」
そう言うと、ナルはシンジュに「失礼致します」と言って、去って行った。
ジザリはナルに会釈をして、シンジュに向き直った。
「旦那様、すでに入浴の準備はできておりますので、すぐにでも……で……こちらで……」
ジザリが何かを話している。
シンジュは、促されるまま風呂場へ行き、身体を洗い、湯舟に浸かった。
「…………ふっ」
一人きりの風呂で。
シンジュは、軽く笑う。
大丈夫。
一緒に、とは一言もいっていないのだし。
そういうニュアンスや雰囲気だったとしても、はっきりと約束をしたわけではないから。
だから。
別に、寂しくなどない。
風呂を済ませたナルは、先に寝室へ戻った。
もうすぐ、シンジュがやってくるだろう。
今日は帰宅が遅くなってしまったので、夕食は簡単なものを、部屋に用意してもらった。
すでに、寝室にあるソファ机に、並べてある。
ナルは、それら夕食のすぐ隣を、行ったり来たり、せわしなく歩いた。
(どうする、どうするの、私)
話したいことが、沢山ある。
本当は馬車のなかで、すぐにでも伝えたかったのに、言葉が喉にはりついて出てこなかったのだ。
ナルは、大きく深呼吸した。
(落ち着けば、大丈夫)
どうしても確認したいことが一つある。
ほかにもあるが、今すぐ伝えなければならないことではない。
もう一度深呼吸をした。
ベッドへ座って、読み終えても枕元に置いてある、シンジュから貰った本を抱きしめた。
不思議と、気持ちが凪いでいく。
(……私、自分のことばっかり考えてる)
話し合いは、したい。
けれど、シンジュが疲れてすぐに眠りたいのなら、そちらを優先しよう。
そう考えると、少しばかり、心に余裕ができた。
しばらくして、シンジュがやってきた。
胸元がややひらいたシャツを着ているためか、湯上りのためか、とても色っぽくみえる。
シンジュは、寝室のドアをしめると。
ベッドで正座をしているナルを見て、ふと、口の端を歪めた。
「どこかで見覚えのある光景だ」
「はい? そうですか?」
「ああ。お前に、王族規範について説明したときも、そんな姿勢だったな」
そう言われると、確かにそうだ。
やはりナルは、日本人の魂を継いでいるのだろう、話をするときは正座だ。
果たして、正座をやわらかいベッドの上でする意味があるのかは、置いておく。
シンジュは、ちらっと夕食を見てから、ベッドへきた。
気を利かせてか、ベッドの上に胡坐をかいて、ナルと向かい合う。
「あの、旦那様」
「なんだ」
「今日は、大変なご迷惑をおかけいたしまして、誠に申し訳ございません」
「どれのことだ?」
ぐ、とナルは空気を飲み込んだ。
迷惑をかけた場面は、今日一日だけでも数えきれない。
「……冗談だ」
「だ、旦那様」
「お前の好きな、ミステリー小説の主人公になれたのだろう。貴重な体験ができたと思え」
「そんな簡単に思えません。現実の殺人など、起こらないに越したことはありませんから。それに私、あのまま犯人にされてしまうかと思いました」
「ありえん。あんな素人丸出しの工作で、プロの目を騙せるはずがないだろう。お前も言ったように、遺体には違和感しかなかった」
え、とナルは目を瞬く。
「旦那様は、最初からご存じだったのですか? あの給仕の人が怪しいと」
「ああ。……とはいえ、あの場を仕切るのは第二部隊長だ。私が何もかも指示をするのは憚られる。ゆえに、あのような対応しか出来なかった。許せ」
四畳ほどの宿屋の一室で、堂々と部下を叱責し、さらに助言をするシンジュを思い出す。
シンジュの一言は、あの場では特別だった。
空気が引き締まるのは勿論、皆がシンジュの言葉を真剣に聞いていたのだ。
「とても……格好良かったです」
シンジュが、眉をひそめる。
ナルは、もう一度言おうとしたが、なんだか恥ずかしくて、声が小さくなってしまった。
「旦那様、とても、素敵でした。……お仕事をしている旦那様は、いつにも増して、格好いいですね」
「……。……そうか」
照れているのか、シンジュは口元を押さえて俯いた。
ナルは、シンジュをとても格好いいと思うと同時に、改めて、凄い人なのだと思い知った。
ナルの旦那様として関わる際には見せない、大人の『仕事ができる男』だった。
シンジュは、刑部省長官というポストにいる。
しかも、養子とはいえ侯爵家の人間だ。
ナルが伯爵令嬢であったころから見ても、雲の上の人に変わりはない。
「ナルファレア」
「は、はい」
視線をあげると。
シンジュが、柔和に微笑んでいた。
眉間の皴も、まったくない。
「無事でよかった」
「あ、あのっ、私、今日は屋敷を抜け出して――」
「前に言ったはずだ、好きにしろと」
シンジュは、ばっさりと言い切った。
え、と呟いたナルに、「誤解をするな」と言ってから、シンジュが問う。
「抜け出したのは、遊ぶためか。逃げるためか。……それとも、私の妻として、何かを成そうとしたのか?」
「……妻として、です」
「知っている」
くっ、とシンジュは笑った。
「だから、その件はいい。お前にはお前の考えがあって、動いたのだろう。いちいち詮索はせん」
「……旦那様、ありがとうございます」
深く頭をさげる。
やはり、シンジュだ。
ひと月会わずにいても、シンジュは、変わらない。
「気になるのは、フェイのことだ。知り合いなのか」
「私の、師匠です。……私、よく実家を抜け出して会いに行ってました」
屋敷を抜け出す、という発想は、その頃から馴染みのあるものだ。
実家では、簡単に誤魔化せた。部屋にこもるから、という一言でよかった。注意しなければならないのは、父や母の呼び出しくらいだったから。
「師匠、というのは?」
「私に、知識の必要性や、生きるために必要な知識の優先順位、護身程度の武術を教えてくださったので」
シンジュは、ほう、と感慨深くに呟いた。
「なるほど。フェイが師なのならば、お前の知識の深さも頷ける。……行動力は、自前のようだが」
「師匠は、凄い方なんですか?」
「かつては、神の子とまで言われたやつだ。文武両道、見た目も美しい、家柄もよい。私が、レイヴェンナー家に養子にきたときには才覚を現していた」
「……完ぺきな人だったんですね」
なぜ、あんなにもっさりするほど、あらゆることに無頓着になったのか。
今の師匠の暮らししか知らないナルには、驚きである。
「フェイは、レイヴェンナー家の次期当主として育てられたが、侯爵家を継がずに近衛騎士団へ入った。本人は、軍の中核へ行きたかったようだが、さすがにレイヴェンナー家当主に猛反対されてな。フェイは軍部から、私は内政から、国を支えようと……そんな話をした頃もあった」
シンジュの目が、一瞬、過去を見る。
かすかに浮かべる笑みから、楽しかっただろうことが感じられた。
「――だが、それも昔の話だ。フェイは十年前、突然、姿を消した。この屋敷をすべて私に譲るという、公式書類を残してな」
「十年前に、突然」
繰り返したナルに、シンジュは頷く。
「それからは、どれだけ探そうと行方知れずで、いつの間にか探すのも止めていた。今日会ったのは、十年ぶりだ」
「えっ、そ、そ、そうだったんですか⁉ だったら、師匠にもこの屋敷にきてもらったほうがよかったんじゃ」
「理由もなく、出て行ったわけではないだろう。フェイは、大人だ。……自分の道は自分で決めるだろう」
シンジュのその一言に、ナルは唇を噛む。
確かに自分の道は自分で決める、そういうものだろう。
けれど、師匠の行動によって困る人がいる。
ナルは、今日屋敷を抜け出したけれど。
まさか、こんなにも使用人たちに、心配をかけるとは思っていなかった。ナル一人の行動が、誰かを苦しめるなんて、想像ができなかったのだ。
考えればわかったことなのに、実家の悪習慣が、身についてしまっている。
師匠は、どうなのだろう。
聡い師匠ゆえに、自分の行動によって迷惑を被る人間がいることは承知しているはずだ。
それらを承知のうえで、たった一人、あの家にこもる理由とは。
(……違う、理由なんて、どうでもいい)
ナルは、師匠を尊敬している。
だが今のナルはシンジュの妻であり、師匠への尊敬の念とは別のところで、師匠に腹をたてていた。
アレクサンダーは、どうなるのか。
この屋敷で、ひたすら主人を待つ、彼は。
「ナルファレア」
「は、はいっ」
顔をあげる。
背筋を伸ばすナルを見て、シンジュは苦笑した。
「長い間、帰宅できず、すまなかった。多忙だった以前より、仕事そのものの量は減ってきているが、調べさせている組織があってな。詳しくは言えんが、部下からの報告内容によっては、すぐに対応したい事柄なのだ。よって、城に泊まり込んでいる」
「それほど重要な案件に関わっておられるなか、帰ってきてくださったのですね。……お身体は、しんどくありませんか?」
「問題ない。それに、口うるさい補佐がいるからな」
ふっ、と笑ったシンジュは、すぐに真顔になった。
空気がかわり、ナルも自然と顔をあげる。
「……手紙も送らず、すまなかった。……いや、違うな。そういった、気遣いというものを、私はよくわかっていないらしい」
歯切れの悪い言葉だった。
ぴりっとした空気に変わったので、とんでもないことを言われると覚悟していたナルは、思わず笑ってしまう。
「それは、私もです。実は今日、旦那様にお手紙を書かせていただこうと思っていました。ご迷惑でなければ、その、これからは、手紙を送ってもよろしいですか?」
「勿論だ。……私も、なるべく、手紙を書こう。忙しいときは、すまない、余裕がないだろう。だが、貰った手紙には必ず目を通す」
本当に、本当に、優しい旦那様だ。
不本意で、前世の記憶を持って転生してしまったけれど、過去を通してみても、これほど嬉しい出会いはなかったかもしれない。
「私は、ちんちくりんで、旦那様の好みの女性からは遠いと思いますが。いつか、旦那様から、女性として愛してもらえるよう、精進致します」
深く、頭をさげる。
今後ともよろしくお願いします、という意味も含まれた言葉だ。
だが。
シンジュからの返事はない。
(……変なこと、言った、かな)
焦り始めたころ。
「……は?」
シンジュにしては珍しい、間抜けな声が聞こえた。
顔をあげたナルは、ナルを凝視してくるシンジュを見て、首を傾げる。
「旦那様、なにか?」
「……ナルファレア」
「はい」
「私は、お前を……その、妻に望むと、以前、伝えた……はず、だが」
「え? あ、はい。覚えています。妻に……つまり、私は妻として屋敷を守り、旦那様は仕事をされる。そういう関係を、望まれたのですよね」
以前、ナルを、妻に望むとシンジュは言った。
あれは、妻という、役職のようなものに、正式に認められたと認識していたのだが。
「ナルファレア」
「はい」
「……私は」
軽く喉を整えるように、咳ばらいをしたシンジュは。
ナルを見て、はっきりと言った。
「好んだ者でなければ、自ら妻には望まない」
好んだ者でなければ。
好んだ、者。
(好んだ者⁉)
はっ、とナルは息をつめた。
「それは、あ、あ、愛している、と、受け取っても?」
「そう言っている」
「……」
「……」
「……旦那様」
「む?」
「わからないです」
「なん、だと」
「妻に望む、という文脈では、言葉のままに受け取ってしまいます!」
「雰囲気で察しろ、わかるだろう」
「わかりません! てっきり、正式な妻役に任命されたものと思ってました!」
「なんだ正式な妻役というのは。……だが、確かに、言葉が足りていなかったかもしれん」
こほん、と露骨に咳をしてごまかすシンジュを前にして。
ナルは、ふいに、力が抜けた。
シンジュは、本来ならナルなど見向きもしないだろう、手の届かない場所にいる人だ。
愛されることなど、天変地異が起こってもないだろうと思っていた。
地位も名誉もある男は、ナルのような小娘を、好んで妻にしたりしないのがセオリーだ。
しかも、ナルにはシルヴェナド家という重すぎる枷までついているのだから。
「ナルファレア」
「は、はい」
「……あ。あ。……あ」
(あ?)
ナルは、首をかしげて。
何気なく、呟いた。
「あいして」
「…………いる」
続きを言うシンジュに、ふふ、と微笑んだ。
言葉にしようと、気遣ってくれたのだろう。
照れているのだろうか、少しだけ、シンジュの耳が赤い。
実感がじわじわとくる。
「嬉しいです。両想いだったなんて。旦那様、何もしてこられないので、てっきり、私ばかり好きなのだと思っていました」
「……」
「……えへへ、なんだか、照れます」
「待て」
「はい?」
「……今、なんと言った?」
「え? ですから、旦那様が、何もしてこられないので……ち、違いますよ。旦那様を悪く言っているわけではありません!」
「そこではない。そこではなく……両想い? お前が私に向けている気持ちは、異性に向ける、それではない、のではなかったのか?」
「まさか。旦那様のことは、男性として、ものすごく愛しています!」
ぐっ、と拳を握って言い張ったナルの前で。
シンジュは、静止した。
「旦那様?」
「お前、そんなこと、僅かも……片鱗さえ、見せなかった、だろう」
「結構、態度に表していると思ってましたが……言葉では、言ってませんでしたっけ」
誠心誠意、妻としての役割をまっとうしてきたが。
確かに、愛している、という類の言葉は、言った覚えがない。
なるほど。
こうして、人はすれ違っていくのだ。
やはり、話し合いというのはとても大切だと、ナルは改めて思った。
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今回、長くなってしまいましたので、前編にさせて頂きました。
続きは明日、同じく18時前後(今のところ、18時前が多めですが)予定です。
宜しくお願い致しますm(__)m
※昨日、ミスをして二日分の投稿をしています。申し訳ございません><