2-5、「彼女は、私の妻だ」
「先ほど口論のような、争いが聞こえまして。……三十分ほど前でしょうか。予定の時間を過ぎても下りてこられないので、見に来たら」
青い顔でそういうのは、先ほどの給仕の女だった。
五十歳前後のその女は、官憲第二部隊長に「この娘だったな?」と聞かれて、首を傾げた。
「男女のお客様で、半日ほど前にお部屋に入られています。ですが、その方かと聞かれると、はっきりとは――」
ナルは、床に座らされた状態で、それらの話を聞いていた。
殺人事件だと聞いて駆けつけてきたのは、官憲第二部隊――官憲とはいわゆる警察のこと――だ。
ナルは今、縄こそつけられていないものの、左右を屈強な男で固められて、立ち上がれないように抑え込まれていた。
部屋にいるのは、官憲第二部隊長と目撃者である給仕の女、宿の店主、それから――。
(なんで旦那様がいるの?)
先程から。
シンジュが、これ以上ないほどに不機嫌な顔で、ナルを睨んでいる。
「――決まりだな。そこの娘を、殺人罪で連れていけ」
(えっ⁉)
隊長の言葉に、左右の男が動いたとき。
「待て」
と、シンジュが初めて口をひらいた。
然程大きな声ではないのに、左右の男が身体を震わせて、もとの位置へ戻る。
隊長もまた、背筋を伸ばして「なんでありましょうかっ!」とやたら高い声で言った。
「まさか、一人の証言だけで逮捕するわけではあるまい。状況は、動機は、証拠は」
「状況でしたら、どう見てもこの娘が犯人かと。動機は痴情のもつれですな」
「ないないないっ、違うからっ!」
咄嗟に叫ぶ。
「さっきも言ったけど! 後ろから捕まえられて、気がついたらここにいたの。完全に濡れ衣だから!」
「犯人は皆、そう言うんだ」
「コールマン隊長、私が聞いているのは、現場の状況だ。男は誰で、どういった方法で、いつ頃殺されたのか。派手に連れてきた部下どもが、誰一人として現場を調べている様子がないが」
「は、部下は近隣の聞き込み及び、男の身元確認へ向かっております」
「優先順位は、被害者の状況確認だ。死後の肉体は時間と共に変化する、重要な手がかりを見落としかねん」
「で、ですが、犯人はわかっておりますので」
「命を懸けられるか」
「……は?」
「この娘が犯人であると、命を懸けて断言できるか」
隊長は、顔を青くして口ごもる。
「お前がこの娘を犯人と言えば、この娘は殺人罪で処刑になる可能性もある。お前の言葉は、娘の命を握っているも等しい。……この娘だと断言できるのならば、己の命をかけろ。違った場合、私がお前の首を切り落としてやろう」
「――っ」
ぞくりとした。
しん、と静寂が降りて、シンジュがため息をつく。
「コールマン隊長。貴殿の仕事は、慎重な判断が重要となる。命の重みを、つねに己に置き換えて考えるがいい」
「は、はい」
隊長はすぐに、部下を数人呼び戻して、男の死体を調べるように命じた。
(……旦那様)
ナルは、シンジュの横顔を見る。
どこまでも公平な人だ。
この状況下でも、確実性がない限り、ナルを犯人とは即決しない。勿論、ナルがシンジュの妻であることも大いに関わっているだろうけれど、もしここにいるのが、ナルでなくても、シンジュは同じことをしただろう。
ナルは、そっと床へ視線を落とした。
悔しかった。
どこの誰かもわからない者にはめられた、軽率な自分が。
ふいに、宿屋の下のほうが騒がしいことに気づいた。
言い争う声が近づいてくる。
隊長も、シンジュも、部屋にいた皆がドアを振り返った。
そのとき。
「ナル――っ!」
そう言って、勢いよく部屋に入ってきたのは、師匠だ。
隊長が、「誰だ貴様は!」と叫んだが、師匠を見るなり動きを止めた。大体、初めて師匠を見る者は同じ反応をする。
師匠は、この世の美の集大成のような顔をしているのだ。
もはや、歩くテロである。
「……女神」
ぼそり、と隊長が呟いた。
師匠はそんな隊長の隣を通りぬけて、ナルのほうへ来ると、ナルの腕を掴んで立たせた。
両隣にいる屈強な官憲は、「いい香りが」「女神の香りが」とそれぞれ呟いていた。トリートメント代わりに髪に塗り込んだ香油の匂いは、女神の匂いらしい。
どうしてここに、と言おうとしたとき。
「フェイ、なぜ貴様がここにいる」
シンジュが、厳しい口調で言った。
はっ、としたように目を見張ったのは、師匠だ。
(もしかして……師匠の、本名?)
ナルの予想は、正しかったらしい。
師匠は、驚いた様子で振り返ると、初めてシンジュの存在に気づいたかのように、目を瞬いた。
「シンジュじゃないか、久しいな」
「……何をしている」
「無能な官憲から、彼女を救いにきたのさ」
シンジュの視線が、一瞬だけナルに向いたが、すぐに、師匠へと戻る。
二人は、知り合いのようだ。
だが、とてもではないが、にこやかに抱擁をしあう雰囲気ではない。
「今、どういう状況か、わかっているのか」
「無実の女性に罪をかぶせようとしている状況だろう。ナルは私が連れて行く、きみたちは真犯人を探すといい」
「勝手なことを」
師匠が、手を首のあたりまであげて、微かに腰を落とした。
「一歩でも近づいたら、半日は意識を飛ばすことになるぞ。これは正当防衛だ」
「……ふざけるな。そもそもなぜ貴様が、その娘を連れて行く」
「ふざけてなどいない。ナルは私の妻だ、連れて帰るのが当然だろう」
「は?」
「えっ」
ぎょっとする、シンジュ。
そして、ナル。
師匠は、そっと息を吐いて。
こほん、と露骨な空咳をしてから、叫んだ。
「彼女は、私の妻だ‼」
(なんでもう一度言った⁉ しかもドヤ顔で!)
師匠はナルの肩を抱き寄せて、大丈夫だ、というように背中を撫でた。
師匠は、ナルを助けるために嘘をついてくれたのだろう。関係者しか立ち入れない場所だから、夫婦と偽りを述べて。
優しい師匠だ。
優しい、けれど。
「……ほう。妻、か」
絶対零度の声が、部屋に静寂をもたらした。
女神の出現で浮足立っていた官憲たちが、きゅっと口を結ぶのがみえる。
気温が数度さがったような錯覚を覚えた。
(いっ、いやああああああっ)
ナルは、心のなかで絶叫した。
「疑っているのか? きみらしいな」
心の絶叫が止まないうちに。
さらりとした師匠の長い髪が、ナルの顔にかかった。
師匠の顔が近づいてきて、頬に唇が触れる。
(――っ‼)
シンジュの呻くような声を聞きながら、ナルは、そっと耳打ちされた言葉に、身体を大きく震わせた。
――私の弟子は、こんな体たらくなのか
師匠は、そう言った。
抱き寄せられた手に、力がこもる。
「無実の罪を押しつけられて、違うと吠えて終わりか。きみの武器は、どこにある」
「――知識です。まだ、使っていません」
ふ、と師匠が笑った。
(……私、なんで何もしてないんだろう)
容疑をかけられて、訴えて、否定されて、落ち込んで。
これでは、前世と同じだ。
(無駄死になんて、してたまるか!)
ナルは師匠から離れると、ぐっと顎を引いて、男の死体を見た。
近づくナルを官憲の一人が止めようとしたが、それを、シンジュが手で制する。
「……半日前に部屋に入って、少し前に口論。そんなに長い間部屋にいたのに、ベッドのシーツに皴がない。部屋には椅子もないのに、半日も立ってたんでしょうか」
死体を調べていた官憲が、頷く。
どうやら同じことを考えていたらしい。
「それに、完全に死後硬直していますね。ということは、亡くなってから半日は経過しているはず。つまり、この方は半日前には亡くなっていた」
ナルは、ドアの傍にいた給仕の女を振り返った。
「以上のことから、あなたの証言には矛盾があります。死体は口論なんてできませんから」
(なんだか、安っぽい三流ミステリーみたい)
自分で言っておきながら、笑ってしまう。
部屋にいる者たちに視線を向けられた給仕は、「違う部屋だったのかも」「見間違いだった可能性も」、などと口走っていたが、結局は、罪を認めて項垂れた。
官憲が給仕の女を捕らえるのを見て、ナルは、ほっと息をつく。
「さて、私たちも帰ろう」
「え? あの、ちょっ」
師匠はナルの肩を抱いたまま、部屋を出て行こうとする。
ナルは肩越しに、シンジュを振り返った。
シンジュと視線が合う。
シンジュはナルに手を伸ばしかけたが、すぐに引っ込めた。
「だっ」
旦那様、と呼ぼうとして、口をつぐむ。
ここで、呼ぶのはまずい。
(わかっている、けれど)
このままでは、取り返しのつかないことになってしまう、そんな予感がする。
師匠に連れられるままに宿屋を出て、少し歩いたころ。
「あの~」
と、声を掛けられた。
聞き覚えのある声に振り返ると、髪をくるっと耳の近くでカールさせた、糸目の青年がいた。糸目と言っても、アレクサンダーほどではない。
この青年は、あえて目を細めて微笑むことで、己を隠しているようだ。
(たしか、以前どこかで会ったような)
「何か用か」
師匠がそっけなく答えた。
「そちらの方の、知り合いの知り合いでして。あなたは、どなたです?」
「私は、彼女の夫だが。それが何か?」
「はぁ。……なるほど、大体わかりました」
(あっ!)
記憶を探っていたナルは、導き出せた自分を褒めた。
「思い出した。ジーンさん、ですね!」
ナルの言葉に、ジーンはにっこりと微笑んだ。
「覚えていて頂けたなんて、光栄です。さて、まぁ、事情はお察ししました。彼女を助けてくださったんですね。夫婦などと嘘をついてまで」
「なぜ嘘だと思うのかな?」
師匠の挑戦的な視線に、ジーンは笑みを深めた。
「私、彼女の夫の知り合いですから」
「……は?」
師匠が、私を振り返った。
「ナル、きみは――」
「いやぁ、助かりました。ではそのまま、奥方の保護をお願いします。あとで必ず、夫に迎えに行かせますから。あ、住所教えてもらっていいですか?」
ぐいぐいと押してくるジーンに、師匠は半ば強引に住所を聞きだされた。
さすが、シンジュの補佐をやるだけあって、手際がいい。
「では、この件は必ず伝えておきますので。よろしくお願いしま……と。必要なかった、みたいですねぇ」
ジーンが、ふふっと笑って背後を振り返る。
宿屋から飛び出してきたシンジュは、真剣な面持ちで辺りを見回した。
こちらに気づくと、これ以上ないほどに表情を歪めて、足早に歩み寄ってくる。
ナルは、生唾を飲み込んだ。
師匠を追いかけてきたのだろうか。
(もし、師匠とトラブルになりそうだったら、あいだに入ろう)
身体を張る覚悟を決めたとき。
「ナルファレア、帰るぞ」
シンジュが、言った。
自分の名前を呼ぶとは思っていなかったため、ナルは一瞬、ぽかんとしてしまう。
けれど、まるで何かに怯えるように、おそるおそる差し出されたシンジュの手を見た瞬間。
ナルは、シンジュの腕に飛び込んでいた。
「馬鹿者、危険な真似はするなと言ったはずだ」
「……ご、ごめんなさいぃ」
シンジュが、ナルの背中を撫でる。
師匠の手より少し大きなシンジュの手はとても熱くて、ナルの全身も熱くなる。
熱が身体の中を駆け巡り、涙としてこぼれてしまいそうだ。
強く抱きしめられるまま、当然のようにシンジュの背中に手を回した。
二度と。
こんなふうに、触れたり、話したり、出来なくなると思った。
ここに、帰れなくなるかと思った。
(……あ。私が感じた居場所って、屋敷じゃなくて、もしかして)
「二人は、そういう関係なのか」
思考を打ち切ったナルは、シンジュから離れると師匠を振り返った。
師匠は、身を危険にさらしてまで助けにきてくれたのだ。
事情を話そうとしたが、師匠が見つめる先はナルではなく、シンジュだった。
シンジュもまた、師匠を見ている。
「だったら、なんだ。貴様こそ、妻とどんな関係だ」
「すまないが、言えんな。直接、ナルに聞くといい」
師匠は、ふっと笑うと、ナルへ視線を移した。
「驚いたぞ、ナル。まさか、こいつと結婚していたとは。堅物だろう? つらくなったら、いつでも私のところへきて構わない」
「フェイ!」
「あのう、お二人は……お友達、ですか?」
恐る恐る聞くと、師匠が微笑んだ。
悪戯を思いついた子どものような笑みだ。
師匠は、いつもの師匠らしくない気取った態度で、ナルの手を取った。
まるで、騎士が姫に愛を囁くような甘い笑顔を向けられて、ナルは目をぱちくりとさせる。
「改めまして、我が名をフェイロン・レイヴェンナーと申します。以後お見知りおきを」
「フェイロン……レイヴェンナー? レイヴェンナーって」
「ははっ、シンジュは私の義弟なんだ」
「ぎてい……義弟⁉」
それは、つまり。
「そういえば、シンジュ。昔私があげた薔薇、ちゃんと育ててくれてるか?」
「貴様が出て行ったあと、植木鉢ごと裏庭で割ったら、根付いたらしい。何を誤解したのか、アレクサンダーがせっせと世話をしている」
「へぇ、あの薔薇生きてるのか。枯れてると思ったのに」
「貴様が、見ず知らずの男から告白されたときに貰ったという鉢植えだろう」
「そう。告白のセオリーは花束だろうに、植木鉢で薔薇とは面白い男だった。……もっとも、相手は私が女と勘違いして告白してきたんだが。ふっ、懐かしいな。花に罪はないから貰っておいたんだ」
「相手をふって、花だけ貰って帰ったはいいが、邪魔になったのだったか」
「そうだ、よく覚えているな」
「押し付けられた私も、邪魔だったからな」
ナルは、軽い眩暈を覚えた。
アレクサンダーの言葉が、脳裏をよぎる。
――きみと違って、美しく淑やかで
(確かに、師匠は美しいし淑やかだけど)
――とても女性らしいかただ
(確かに間違いではないけれどもっ)
――シンジュは、ずっとあの方にべったりだったんだ
(兄弟なんだから、一緒に過ごすことも多くなるんじゃないの⁉)
ふふふ、とナルは笑う。
自分の推測が、こうも外れてしまうとは。
まさか、アレクサンダーのいう「あの方」が――。
「令嬢じゃなかったなんて」
「どうした」
ナルの言葉を、丁寧に拾ったシンジュがナルへ聞いた。
「ちょっとした、勘違いです。……あ、師匠は、もしかして……実は女性、とか」
そっと師匠の胸に両手をあてるが、女性ならあるはずのものがない。
やはり男性だ。
「ん? どうした、ナル。さっきも一緒に風呂に入っただろう。今更何を確認するんだ?」
「そうですね。すみません」
「――ナルファレア」
低いシンジュの声音に、身体が震えた。
背後から、ナルの両肩にシンジュの手が触れる。
「は、はい」
「帰ったら、風呂へ入るぞ」
「えっ、今日、お帰りになるんですか?」
「ああ」
シンジュに腕を引かれて、歩き出す。
師匠とジーンを置いたままでいいのだろうか。
振り返ると、二人ともにこやかに手を振っていた。
にこやか過ぎて、怖いほどだ。
*
「ああ、そうだ」
フェイロンは、思い出したように言った。
ジーンは、自分に話しかけているのかな? と訝りながらも、視線を向ける。
腹の立つほど整った顔が、何かを思案するよう顰められている。
「ナルを一人で帰らせたのはいいが、途中で心配になってね。追いかけたんだ」
「はぁ、それが何か」
「そしたら、ナルのあとを尾行していた男を見つけてね」
「……は?」
尾行、という物騒な言葉に、思わず勢いよく振り返った。
「まぁ、ナルがきたころに家の周りをうろちょろしていて、ナルが帰ったらいなくなったから、ナルを尾行していることに間違いはないけれど。中心街で、挙動不審になっている彼を見つけてね。ナルのことを聞いたら、その彼が、ナルが『男に連れて行かれた』と慌てていたんだ」
「それで、フェイロン様は、奥方のもとへ」
「ああ。……気をつけたほうが、いいかもしれないな」
フェイロンは言い終えるなり「それじゃ、私は帰る」と踵を返した。
間違えて明日の分を、投稿してしてしまいまして。汗
本日はこちらもふくめて二回分、公開させて頂きます。
申し訳ありません><