2-3、レイヴェンナー家の直系
露店で、果実水を二つ買ったナルは、公園にある小川のそば、青々と茂った大樹の陰に座った。
「はい、どうぞ」
差し出した果実水を、アレクサンダーは受け取らない。
予想はしていたので、すぐに手を引っ込めた。
地面に置いて、自分の分の果実水を飲む。冷たくて甘いのは勿論だが、お店の人がストローをくれたので飲みやすい。
「座ったら?」
「どうやって、ベティエール様を丸め込んだか知らないけれど。僕は、きみを認めないからな」
「話は、座ってからにしてよ。ほら、子どもたちが怯えてる」
小川では、二歳から十歳ほどの子どもが、水遊びをしていた。
怖い顔をしているアレクサンダーを怯えた様子で眺める子どもがいる。ナルは、大丈夫だというように手を振ってみせた。
軽い舌打ちが聞こえたが、三人分ほど離れた場所へアレクサンダーが座ったので、よしとする。
木陰は涼しく、このまま眠ってしまいたいほど穏やかだ。
人々のはしゃぐ声も、風に揺れる木々の音も、何もかもが子守歌のようである。
「正直、不安だったんだよね。でも、よかった」
ナルはそう言って、にっこりとアレクサンダーに微笑む。
「あなたも、私に言いたいことがあるみたいだし。こうして、言葉で意見を交わす機会は、しっかり設けたほうがいいと思うの」
「何が、よかった、なんだよ。こんな子供騙しで僕をおびき出して、恥ずかしくはないのか?」
「ほかに思いつかなかったんだもの。私を嫌ってるらしいあなたなら、私が一人で屋敷を出たって知って、すぐに『自分が追いかける!』って部下に言っておきながら、さりげなく私のあらを探すためについてくるだろうなって」
(まぁ、さすがに堂々とナンパ男を装ってくるとは思わなかったけど)
アレクサンダーは、ぎりっ、と歯を食いしばった。
「きみを嫌ってるんじゃない、憎んでるんだ」
ジザリの書類によれば、アレクサンダーは「真面目すぎるきらいがある」という。
職務に対しては誠実で、シンジュからの命令もすべてこなす。だが、真面目過ぎるほかにもう一つ、「忠誠心が不足している模様」と書かれていた。
書類を見たときは、よくわからないから会ったときに確かめようと、思ったけれど。
「私の、どこが憎いのよ」
「あの屋敷で、のうのうと暮らしているところだ」
「旦那様の許可は頂けてるけれど」
「邪魔なんだよ。シンジュもシンジュだ、こんなちんちくりんを妻にして、何が恋愛結婚だ。貴族なんだから、自分の妻は政略で選ぶべきだろう。何もかも国王のためだって言ってたくせに、所詮は自分がよければいいんじゃないか」
(旦那様を、呼び捨て、か)
ちゅー、と果実水をストローで吸いながら、思うことがある。
以前、結婚事情(本当は恋愛結婚ではない件)について、屋敷の者にも話さないのかとシンジュに聞いたことがあった。
あのときのシンジュは、まるで、屋敷の者を疑っているような返答だったけれど。
(あれって、アレクサンダーのことだったのかな)
少なくとも、シンジュはジザリを認めているし、ベティエールに対しては丁寧な言葉で話すほどに、尊敬している。
アレクサンダーに対して、シンジュはどんな感情を抱えているのだろう。
そもそもどういう関係なのか。
嫌っていれば、雇わなければいいだけの話なのに、アレクサンダーは使用人のなかでも古参である。
「何か言ってくれる? 僕だけ怒鳴って、馬鹿みたいじゃないか」
「んー、よくわからなくて。アレクサンダーは、どうしてあの屋敷で働くことになったの?」
「僕に、辞めろって言いたいの⁉」
「そうじゃなくて、言葉のままだから。私は、旦那様と結婚してあの屋敷で暮らし始めたでしょ。アレクサンダーは? いつからいるの?」
「二十年前にはいたよ。僕は、代々レイヴェンナー家に仕える使用人の家系に生まれたからね」
(あー)
なんとなく、わかってきたような気がする。
だが、早とちりして問題をすり替えてはいけないので、結論は、まだ出さない。
「じゃあ、あの屋敷にいるのは、その関係なんだ」
「そうだよ。……きみが出て行かないみたいだから、これは、仕方なく話すけど。きみ、裏庭の薔薇園は見た?」
「ええ、すっごい綺麗な薔薇よね」
ぱっ、と。
アレクサンダーは、出会った時と同じ糸目をさらに細めて、微笑んだ。
「綺麗だろう⁉ あの薔薇は、あの方が……。……薔薇の話は、シンジュから聞いてる?」
「何も」
アレクサンダーは、神妙な表情で、そう、と呟いた。
その言動が、ナルには意外だった。
ナルが知らなかったことに対して、そんなことも教えて貰ってないのか、と嘲笑うかと思ったのに。
「あの薔薇は、最初は一株だったんだ。あの方が、シンジュに贈ったんだよ」
「あの方?」
「きみと違って、美しく淑やかな、とても女性らしい方だ。シンジュは、ずっとあの方にべったりだったんだよ。僕は、あの方の下僕として、誇らしかった。養子にきた王族でさえ、あの方に惹かれるんだって……」
(あの方、っていうのは、レイヴェンナー家の令嬢、ってところか)
「シンジュの隣で笑うのは、あの方じゃなきゃダメなんだよ。そこは、きみの居場所じゃない」
「ふぅん」
「それだけ⁉」
ナルの返事に衝撃を受けた様子のアレクサンダーへ、ナルは首をかしげた。
「ほかに言うことないし。そもそも、それってあんたの個人的な意見でしょう?」
「シンジュだって、あの方が戻ってくれば、きっとまた――」
「あんた、レイヴェンナー家に仕える家系って言ってたよね。つまり、あんたの元あるじって、レイヴェンナー家の血縁者?」
「ただの血縁者じゃない。直系だよ」
(なるほどね)
ナルは、頷く。
「あの屋敷は、あの方のものなんだ。そこに、シンジュが住まわせてもらっていたに過ぎない。今でこそ、シンジュの所有物になってるけど……本当は……」
レイヴェンナー家直系の令嬢と。
レイヴェンナー家に養子に入った王族。
その二人が、親しくする理由など一つしかない。
いわゆる、政略結婚のための交流だ。
本人たちにその意識はなくても、周りには思惑があったのだろう。
(そして、その令嬢にアレクサンダーが仕えていて、令嬢本人は今、あの屋敷にいない、と)
いたってシンプルな「令嬢」と「養子にきた王族」の関係に、アレクサンダーが混ざれば、考えるのも面倒な三角関係が出来上がってしまう気がした。
(でも、つまり。旦那様が『あの方』じゃなくて、私と恋愛結婚したのが、許せないってことか)
「その話を聞く限り、アレクサンダーの言い分もわからなくはないんだよね。ちなみに、今は『あの方』ってどこにいるの?」
ぐ、とアレクサンダーは言葉につまった。
「もしかして、亡くなったの? それは、お気の毒に」
「生きているっ! きみがいるから、帰ってこれないんだろう!」
「いつ頃、いなくなったの?」
「十年前だ」
(びっくりするほど、私、無関係)
「とにかく、あの屋敷はきみがいていい場所じゃない。きみの居場所なんて、どこにもないんだ!」
アレクサンダーの言葉が、脳裏にきつく焼きついた。
(そうかもしれない)
居場所を見つけ始めた気でいたけれど、最近、あの屋敷が少しばかり息苦しい。
これまで通り、使用人たちとも話をするし、恙無く日々を過ごしている。
なのに、すべて舞台の上で繰り広げている演劇のようで、現実感がないのだ。
唯一。
ベティエールといるときは、現実を生きている気分になれた。
おそらく、着飾らなくていいからだ。
彼には、人を温かく包む優しさがあって、そんな人柄にナルは甘えていた。
(手紙って、そういうことか)
ベティエールが、ナルに手紙をかくことを促したのを思い出した。
ナルの、この気分の落ち込みや、日々の暮らしに現実感のなさを覚える理由を、ベティエールは気づいていたのだ。
簡単なことだった。
「わかった」
「ふん、わかればいいんだよ」
「私、寂しかったんだ」
「……おい、なんの話をしてるんだ。僕は、屋敷から出て行けと言ってるんだ」
「いや」
きっぱり言うと、アレクサンダーが睨みつけてくる。
「やっと、最近の、こう、もやっと感の理由が、わかったんだもの。今後どうすればいいのか、前向きに検討していかないと。あー、少しだけすっきりした。なるほどね、寂しいなんて感情、忘れてた」
「きみ、もっと謙虚になれよ。あの屋敷は、『あの方』のものだったんだ。きみがいていい場所じゃないんだ」
「昔の話でしょう? 今は――」
「昔じゃない! あの方は、戻ってくる。絶対にだ!」
拳を震わせて、勢いよく立ち上がったアレクサンダーは。
ナルをこれ以上ないほどに睨みつけて、踵を返した。
(え?)
そのまま。
アレクサンダーの後姿は遠くなり、見えなくなった。
(えええええっ)
ジザリの報告では、仕事には真面目ってあったはずだ。
なのに。
警備長が、護衛対象のナルを一人放置して帰ってしまうなんて。
これはさすがに、想定外だ。
どんなに憎んでいても、感情と仕事は別のところにある。それがナルのなかの常識だったが、アレクサンダーにとってはそうではないのだろうか。
それとも、職務怠慢でクビになっても構わないほどに、ナルといたくなかったのか。
ナルはそっと、後悔のため息をつく。
(……踏み込み過ぎたかな)
アレクサンダーにとって、『あの方』や『屋敷』は、特別なもののようだ。
もっと、彼の気持ちを慮って関わればよかった。
(そういえば、どうして『あの方』がいなくなったのか、聞いてないな。……主人に置いていかれた、使用人って。どんな気分なんだろう)
もしかしたら、ナルが想像できないほどに。
アレクサンダーの抱える闇は、深いのかもしれない。
ふいに、裏庭で人目を忍ぶように咲き誇る薔薇園を思い出した。
薔薇園の薔薇は、『あの方』――レイヴェンナー家の令嬢が、シンジュに贈った一株の薔薇から始まっているという。
無性に、帰りたくないと思った。
でもそれは、一瞬だけ。
ナルは果実水を飲み干すと、ゴミ箱に捨てて、大きく伸びをした。
どれだけ寂しくて、不満があっても。
あの屋敷はもう、ナルの帰る場所になっているのだ。
アレクサンダーの件は、急ぎ過ぎたのかもしれない。
少し時間を置いて、改めて話をしよう。
二度目でも無理なら、三度、四度と話し合えばいい。
過去にどんなことがあったにせよ。
あの屋敷で暮らすアレクサンダーたちにとって大切なことなら、ナルもそれらを大切にしたい。
「さて、と。師匠に顔をみせたら、早く帰ろ」
あえて、声に出してみた。
帰る、というのは、よい言葉だ。
ナルはふと微笑んで、師匠が暮らす西街に向かって歩き出した。
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