2-2、お嬢様のことは、私が幸せにします
「その後どうです? お嬢様は」
状況報告を受けたシンジュは、執務机を挟んだ向こう側に立つ青年をみた。
泣きボクロのある優しい風貌をした青年は、ナルが「ディート」と呼ぶ、シルヴェナド家に潜入させていた諜報員だ。
本名は、ロイク。
潜入捜査を仕事の基本としており、常に死と隣り合わせの壮絶な日々を送っている。ゆえに、彼の身元はもちろん、素顔さえほとんどの者は知らない。
同じ刑部省の人間でさえ、変装を施したロイクを見破ることは不可能だった。
報告にくるロイクはいつも同じ姿でくるため、ロイクの素顔をこの「茶髪で泣きボクロの青年」だと思っている者もいるようだ。
シンジュは、ロイクが持ち帰った極秘情報を頭に叩き込むと、報告書を燃やした。
「特に何もないと思うが」
「……本当に、かたちだけの夫婦なんですね。いいえ、構わないのです。私の我儘を聞いてくださっただけで、十分ですので」
ロイクはそう言うと、深く頭をさげた。
「あと三か月、どうかよろしくお願い致します」
ロイクに、つと、視線を向ける。
ナルはシンジュと結婚し、王族規範適応内となった。だが、もし六か月以内に離縁した場合は、その範囲ではない。
シンジュの身に何か起り、死亡または王族から追放等となった場合、すでに適応済みとなった規範は準ずることができる。
だが、離縁という、王族と縁を切る行為をすれば、ナルは王族規範適用外へと戻ってしまうのだ。
逆にとらえると、半年間さえ結婚していれば、それ以後は離婚してもナルの刑罰は執行猶予で済む。
「三か月経ったら、どうするつもりだ」
「お嬢様のことは、私が責任を持って幸せに致します」
補佐用の執務机で、一人先に休憩をとっていたジーンが、ぶはっと紅茶を噴き出した。
ロイクは顔をあげると、ずいっと進み出て、シンジュの机に両手をつく。
「ですので、あと三か月、どうか」
「……お前の有能さを見込んで、私はお前の希望を叶えた。たとえ私の評判が下落しようとも、お前を失う重大さに比べたら些細なことだと考えたからだ」
「はい」
「よもや、三か月が過ぎたら、諜報員を辞めるなどとは言うまい」
「勿論です」
「ならば聞こう。諜報員であるお前が、どうやってナルファレア嬢を幸せにする?」
ロイクは、唇を噛んだ。
「私は、いつ死ぬともわからない身です。ですが、私が彼女を想う気持ちは決して偽りではありません」
「そんなことを聞いているのではない」
「確かに! 長い間、家を留守にするでしょう。寂しい想いさせてしまうでしょう。それでも私を待っていてほしいのです。必ず、彼女のもとへ戻る私を」
「……詭弁だな」
シンジュは、鼻で笑う。
「それはお前が一方的に望んでいるに過ぎないことだ」
「お嬢様にもお話して、納得して頂きます。三か月後に、長官と離縁したあとは、私の妻になって頂けるように!」
シンジュは、静かな双眸で信頼する部下を見る。
視界の端で、ジーンが口元を押さえて笑いを堪えているのが腹立たしい。
「やめておけ。お前がナルファレア嬢を幸せにできるとは思えない」
「長官! では、離縁後、お嬢様をどのようになさるおつもりですか? まさか身一つで放り出すのでは」
「そんなことはしない」
「何かお考えがあるのですか? どこかの養女にされるとか」
「…………ありえない」
「もし、三か月後、離縁したあとのことをお考えではないのでしたら、私からもお嬢様にお話を――」
「必要ない」
「ですが、離縁後に」
「うるさい! 離縁離縁、何度も繰り返すな! そんなことするわけがないだろう!」
こうして部下を怒鳴りつけるのは、何年振りだろうか。
シンジュの怒りを真正面から浴びたロイクは、その場で固まっている。
「ふっ、あっ、あはははははっ、もう無理――っ」
「黙れ、ジーン」
「だって、そんな遠回しに言っても、伝わらないですって」
きょとん、としてロイクはジーンを振り返り、それから、シンジュをみた。
「あの?」
「……言葉のままだが」
「は? あの、失礼ですが、言葉のままというのは」
「……離縁はしない」
ロイクは、ぎょっと目を見張る。
「それは、彼女を利用するということでしょうか」
「……ロイク」
「いけません。お嬢様は、充分辛い思いをされました。これ以上、あのか弱い心身に負担をかけるなど。……それならばいっそ、三か月後、離縁してください」
怒鳴られて尚、めげないロイクは、決意を固めたというように拳を握り締めた。
「私が、お嬢様を幸せにしてみせます。幸せな家庭を築きます」
「……不可だ」
「なぜです。お嬢様を利用など――」
「利用はしない」
ロイクは、え、と呟いたあと。
ほっとしたように、笑みを浮かべた。
「そうですか、よかった。そうですね、長官がそのようなことをなさるはずがございません。失礼を。ではやはり、三か月後に離縁されるということでよろしいですか?」
「何度も言わせるな。離縁はしない」
「なぜですか?」
「……」
「お嬢様を利用しないのでしたら、なぜ離縁されないのです?」
「……」
「どんな理由が、あるというのですか⁉」
「……」
(その問いに、なんと答えろというんだ)
「ロイク殿」
「む、ジーン。なにか?」
「長官が、お困りですよ」
シンジュは、執務机に項垂れていた。
机に肘をつき、両手で額を押さえている。
「長官は、照れ屋さんですから。あまり虐めないであげてください」
「私は、虐めてなどいない。お嬢様のことが……照れ屋さん? 長官が? 万年鉄面皮の長官が、ですか?」
「長官は、最近、新婚ほやほやで、それはもう、幸せオーラ全開なんです。あはははははははっ」
「――ジーン! 何が、おかしい」
耐えかねて、また怒鳴ってしまう。
数年に一度ほどしか怒鳴らないシンジュが、こうも繰り返して怒鳴ってしまうとは。
そして。
ジーンもまた、ロイク同様、シンジュに怒鳴られたくらいでは怯えたりめげたりする性格ではない。
「だってあなたが、幸せオーラ全開なんですよ⁉ これが笑わないでいられます⁉ 突然、窓の外を見て、ふっと笑ったり。手元の書類を見て、何かを思い出したように呟いて微笑んだり。……ふふっ、あははっ、どんだけ奥様好きなんですかっていう話ですよ!」
「黙れ。何がおかしい。私とて人間だ、笑うことくらいある」
「そこじゃなくて、好きってくだりですよ。はっきりロイクに言わないと。今、新婚らぶらぶ愛し合ってて、離縁など考えていない、って」
ロイクは、あんぐりと口をひらいてジーンを見ていた。
その視線が、ゆっくりとシンジュへ向く。
普段なら、真っ向から受ける視線だが。
さっ、と横へそらした。
「長官⁉」
ガタッ、と執務机が揺れるほど、ロイクが距離をつめてくる。
シンジュは、再び視線をそらした。
「……すまない」
「えええっ、本当なんですか⁉ 利用するとかじゃなくて、お嬢様のことを、その、あ、あ、愛して、いるんですか⁉」
(その質問を、やめろ!)
ぐ、と黙り込むと、ジーンの笑いをこらえる気配が伝わってくる。
このまま沈黙を貫きたい。
だが、真剣なロイクに対して、あまりにも不誠実だ。
はっきりと、言わなければならない。
「………………。………………それなりに」
沈黙の末の呟きに、
「それ、めちゃくちゃ好きなやつじゃないですか!」
とロイクが叫び。
「あはははははっ」
と、ジーンが声を上げて笑った。
はぁ、とロイクがため息をついた。
視線をあげると、ロイクは安堵したような笑みを浮かべている。
少なくとも、怒ってはいないようだ。
「それならそうと、言ってくださればいいのに。私、お嬢様を愛する気持ちは、決して誰にも負けません。だからこそ、お嬢様がもっとも幸せになる道を、全力でサポート致します」
ロイクはそういうと、懐から手帳とペンを取り出した。
「どうぞ」
「……なんだ、それは」
「ここ最近、仕事が多忙だと伺っています。何日置きに帰宅されて、何日ごとに手紙を送っておられますか? 具体的に教えて頂けると助かります」
「ひと月は帰っていないし、手紙も送っていない」
シンジュは、はっきりとそう言った。
嘘ではないし、この面倒なやりとりを早く終わらせたかったのだ。
しん、と。
執務室に沈黙がおりた。
ロイクだけではなく、ジーンまでもが、冷やか且つ憐れみをたたえた目で、シンジュを見ている。
「なんだ」
「冗談ですよね。いつもの照れ隠しでしょ?」
ジーンが、嘘だと言ってほしそうな、懇願する視線を寄越してくる。
シンジュは、バッサリと事実で切って捨てた。
「冗談などではない。さっさと仕事に戻れ」
「待ってくださいよ。手紙も送ってないって、正気ですか⁉ じゃあ、奥方はあなたがどこでどうしているかとか、どんなふうに過ごしているかとか、一切知らないわけですよね」
「なぜ知らせる必要がある。仕事で帰宅できんことは、執事に伝えてある」
「奥方は、執事を通してあなたの状況を知るんですか⁉ いえそれもですけど、近況報告はしたほうがいいですよ!」
ジーンのあまりの剣幕に、シンジュは、仕事を再開するために持ったペンを、机に置いた。
いい加減そうに見えて、実際にいい加減なやつだが、ジーンは仕事をそつなくこなす「できる男」だ。そのジーンが、顔色を変えてまで訴えているのだから、余程のことなのだろう。
「近状報告の、必要性が感じられないが」
「あのですね、女性には――」
「駄目駄目です、長官」
絶対零度の声で、ロイクが言った。
手帳とペンを持つ手が、ぷるぷると震えている。
ジーンが、ロイクから一歩離れた。
「お嬢様は、貴族です。あなたがどこで何してようが、あまり口に出さないでしょう。妻として、当然のことです。夫婦ですから」
「ならば――」
「長官。先ほど私に、おっしゃられましたね。お嬢様を幸せにはできないと。その通りです。お嬢様を長い間、家に一人きりにさせるなど、想像しただけで胸が苦しくなります」
ロイクは、ばん、と両手で、シンジュの執務机をたたいた。
ペンやハンコ、その他諸々の文具類がはねる。
「それを今、長官自身がされてるんですよ」
「屋敷には、使用人がいる。一人ではないだろう」
「お嬢様が心を許せる者など、そうそうおりません。仮にいたとして、その相手との間に、信頼以上のものが芽生える可能性だって十分にあるんです。そのとき、長官はその二人の関係を認められますか⁉」
「……待て、どういう意味だ」
「お嬢様は貴族です。夫婦以外に恋人をもつことは、当然と思っておられます」
そう言われると、確かにそうかもしれない。
ナルは、シンジュの異性関係に無頓着だが、それは貴族として「当たり前のこと」だからだ。つまり、ナル自身、恋人をつくる可能性がある、ということでもある。
家を留守にして、一か月。
ブブルウ商会の一件のあと、ナルとはそれなりに良い関係を築けていた。
仕事がいち段落して帰宅したら、あの続きのまま関われるものだと思いこんでいたが、間違いなく、お互いに離れている間も、時間は流れているのだ。
(確かに、あまりにも無関心では、よくないかもしれん)
「手紙か。……送ってみよう」
「ぜひそうしてください。それから、今日は帰宅してください」
「ロイク。私は意味無く泊まり込んでいるわけではない」
「諜報員からの報告や情報収集で上がってきた内容は、私が代理で確認しましょう。急ぎで長官の判断を仰ぐ必要があれば、すぐにお知らせします。たしか、副長官も泊まり込んでおられましたね。ほかの仕事はあの方にやってもらいましょう」
たしかに、ロイクが王都へ戻っている今ならば、時間の融通がきく。
副長官に関しては、むしろ、いちいちシンジュへ判断を仰ぐ手間がはぶけるので、喜ぶかもしれない。
「長官、家庭を持った身として、帰宅できるときは帰宅してください。それとも私が信用できないと?」
「いや。では、そのようにしよう。助かる」
ロイクとジーンが、そろってほっとした顔をした。
彼らにそこまで心配をかけることを、どうやらシンジュは、知らずにしていたらしい。
改めてそう思うと、屋敷にいるだろうナルのことが、心配になってくる。
「あ、そうだ。北街と西街の中間あたりにあるケーキ屋が美味しいそうですよ。フィオナ様情報ですから、確かかと。奥方に買って帰ってもいいんじゃないですかね?」
「ジーン、さすがだ。長官、そうしましょう。となると、早めに仕事を切り上げる必要がある」
ロイクが頭のなかで何やら計算を始めた。
シンジュはどうやらケーキを買って帰ることになるらしいが、何と言って渡せばいいものか。
その後は、それぞれ仕事にかかり、シンジュは自分しか判断が下せない書類の確認、報告を受けて指示をし、淡々と時間が過ぎて行った。
そして帰宅する頃になる。
シンジュは、ジーンの案内で例のケーキ屋へ向かう。
今日は、馬車のなかに秘書のブッシュはいない。
基本ブッシュは王都にいるが、月の四分の一は、レイヴェンナー家が代々治めているレイヴェンナー地方へ戻っているのだ。
「どのケーキを買うか迷いますねぇ。私は、チョコレートケーキがいいんですけど。ですが、閉店ぎりぎりになるので、残っているか心配ですね」
うきうきと嬉しそうなジーンから、視線を逸らして。
窓の外をみた。
仕事を終えて帰宅するころになって、いっそう、ロイクの言っていたことが不安になってくる。
新婚の妻に、まだ不慣れな部分があるだろう屋敷での生活を、一人でさせているのだ。
もしかしたら、本当に屋敷の誰かとの関係を、深めているかもしれない。
ジザリは、ナルにとても懐いているようだ。
ベティエールは、シンジュも尊敬する元近衛騎士団長で、頼りがいがある。
アレクサンダーとはもう打ち解けただろうか。面倒見のいいアレクサンダーは、ナルを気に入るだろう。
そういえば以前。
やたらと見目の整ったメイドが、ナルつきのメイドに、「私も胸が大きかったら、ファーミアみたいに奥様に揉んでいただけたのに」と話しているのを、たまたま聞いたことがある。
(……ファーミアという者はすでに、揉まれている?)
シンジュは、愕然とした。
盲点だった。
まさか、ナルが女性も対象範囲だとは。
「そろそろつきますよ。……あれ、なんだか外が騒がしいですね」
ジーンの一言で、シンジュは我に返る。
何気なく外へ意識を向けたとき。
「人殺しがあったぞ!」
という声が、耳に飛び込んできた。
窓から外を見ると、現場に向かう途中だろう官憲の集団がみえた。
先頭を足早に進むのは、官憲第二部隊隊長だ。
シンジュは馬車から降りた。
「あっ、ちょっと。任せればいいじゃないですか……」
ジーンの、やれやれといった声音を背中できく。
(集団で現場へ向かうとは)
もしかしたら、余程のことが起きているのかもしれない。
いずれ、自分のところまで上がってくる事件の可能性もある。
現場を見ておこう。
シンジュは、官憲第二部隊と合流した。
このときのシンジュは。
この後知る、悲惨な現実について。
到底、知る由もなかった――。
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