15、未来への約束 ≪第一章完結≫
バロックスは、大きく伸びをした。
執務室にこもっての仕事は、肩が凝る。
窓の外は、とっくに夜の帳が降りていた。
王子というのも、面倒なものだ。
次から次に仕事が出てくるというのに、生涯で成せる大々的な事業は、数えるほどなのだから。
ふぅ、とため息をついて、夜空を見上げた。
ふいに、叔父であるシンジュの屋敷に、忍び込んだ夜のことを思い出す。
『もし、きみのいう乗っ取りが成功したとしよう』
あの夜、バロックスはナルに言った。
『我らは貴重な外交手段を失わず、悪人を罰することができる。これは、かなりの功績だよ』
『そうでしょうね』
『でもね。一つ、解せないことがある』
『……と、いいますと』
『きみに、なんの得もないってことさ。まるで、きみの手のひらの上で踊らされているような気分だよ』
バロックスの揶揄する言葉に、ナルはくすりと笑った。
『今回のことは投資なんです』
『なにへの、投資だい?』
『私への。私は、価値のある人間だとあなたにアピールしたかったんです』
バロックスは、椅子に深く凭れて、窓を見つめた。
晴れわたった夜空では、星が瞬いている。
ふと、バロックスは笑う。
「……充分すぎるほど、印象に残ったよ」
誰にともなく呟いた言葉は、そっと、執務室の静寂に消えて行った。
***
(なんだか、二日連続で帰宅されるのって、変な感じ)
ナルは、屋敷のあるじであるシンジュを迎えに、玄関に立っている。
いつものように、レイヴェンナー家の紋章が入った馬車から、シンジュが降りてくるのを眺めた。
昨日は、不意打ちの帰宅で、出迎えができなかったが、今日はこうして出迎えることができる。ナルは、貴族婦人としての笑顔を浮かべて顔を伏せると、そっと身を屈めた。
「おかえりなさいませ」
隣を通り過ぎるシンジュへ挨拶をした――つもりだったが、一向に、すれ違う気配がない。
さげた視線をあげると、ナルの目の前に立つ、シンジュがいる。
「……え」
(なんで?)
じいい、とすさまじい目力で睨まれて、ナルは少しだけ、後ろに下がった。
下がった分だけ、間をつめられる。
「あ、あの。旦那様」
「……た」
「た?」
「…………た、った今、帰った」
「はい、おかえりなさいませ」
「……」
「……旦那様?」
すさまじく様子がおかしい。
もしかしたら、仕事でごたつきがあり、本日も疲労困憊なのだろうか。
シンジュは常日頃から冷徹な見目のため、喜怒哀楽は勿論、疲れているかもわかりにくい。
(でも、今日はまだ、そんなにお疲れではないような気も、する)
シンジュは、ナルから視線を逸らすと、横を通り過ぎて食堂へ向かった。
なんだったのだろう、と思いながら、ナルもあとを追う。
二人で夕食をとると、ナルは風呂へ向かった。
シンジュが完全に見えなくなったころ。
ついてくるカシアに、聞く。
「ねぇ、今日の旦那様、少しおかしくない?」
「わかりかねます」
「そう……仕事で何かあったのかしら」
すぐに、風呂場にメルルやファーミアもきて、あれもこれも、といいながら、ナルの身体を丁寧にほぐし、美しくしてくれた。
本日も付け焼刃のエステだ。
夜、何があるわけではないので、ここまで念入りに手入れをしてくれなくてもいいのに。
(夫婦の営みがないとは、さすがに言えないからねぇ)
丹念に取り組んでくれる彼女たちには、本当に申し訳ないけれど。
こればかりは、仕方がないのだ。
手入れを終えて、本日もぴかぴかに磨いた身体で寝室に向かった。
寝室にはすでにシンジュがおり、ベッドで読書をしてくつろいでいた。
その様子に、ほっと息をつく。
帰宅時の挙動不審は、やはり、疲労からきたものだったのだろう。
ナルがベッドにのぼると、シンジュは気を使ってか、読書を止めて、本を小卓に置いた。
「いいんですか? 読書、途中じゃ」
「先に、報告せねばならんことを済ませておく」
報告、という言葉に、ナルは背筋を伸ばした。
「昨日、お前宛てに送られたあのぬいぐるみだが、毒が仕込んであった」
「……毒」
「ああ」
毒殺、という単語が浮かんだ。
服毒死は、とてつもなく苦しく、完全に死に至る前に自害する者がほとんどだと聞いたことがある。
(誰かが、私を殺そうと――)
「もしお前があのぬいぐるみを触っていたら、しばらくの間、トイレにこもることになっただろう」
「……トイレに」
「そうだ」
真面目な顔で、シンジュが頷いた。
「それは……苦しさに耐えかねて、という」
「あの毒を吸収すると、三日三晩、下痢が続く。出すものを出したら、苦しさはほぼないらしいが、確実に……やつれる」
「……命の危険などは?」
「まったくない」
シンジュはまた、真面目な表情で頷いた。
ナルは、返事に困った。
とてつもなく、困った。
「犯人もわかっている」
「えっ!」
「贈り物の配達経路を確認したところ、工作ひとつされていなかった。近日中に、謝罪にこさせよう」
「はぁ……わかりました」
シンジュは、ため息をついた。
憂いに満ちたシンジュは、苦悩する美丈夫といった色気を醸している。
ふむ、とナルは頷く。
具体的に相手の名前を言わないということは、名前を言えない相手、ということだ。
つまり。
(旦那様の恋人が、送り主……ってこと、だよね。どうしよう、それなら納得できる)
生涯、妻を娶らない。
そう言っていた恋人が、正妻を持ったとなれば。
恋人は気が気でなくなり、正妻へ嫌がらせをする。
だが、殺人はやりすぎだ。せいぜい、お腹ピーピーで寝込めばいい。
と、そう思ったのだろう。
シンジュの隠そうとしている真意に気づいてしまい、思わず両手で顔を覆った。
俯いたナルは、ぷるぷると震えて、にやける顔を必死にこらえる。
(なにそれ、恋人めっちゃ健気!)
シンジュはナルに、ここに居ていいと言ってくれた。
妻として望むとまで、言ってくれたのだ。
そんな素敵な人なのだから、恋人が嫉妬してしまうのもわかる。
むしろ、シンジュがそれほどまでに愛されていることが、誇らしい。
ふいに、強い力で手首を掴まれた。
驚いて顔をあげると、シンジュが覗き込んでいる。
眉をひそめて、不安げに瞳を揺らしていた。
「……すまない。私のせいだ」
「そんな、旦那様が謝罪される必要など、これっぽっちもありませんから!」
「いや、これまで、面倒だからと対応を先延ばしにしていた私の落ち度だ。あいつには一度、はっきりと言ってやらねばならん」
(え、なにを)
もしかして、別れ話を切り出すつもりなのだろうか。
貴族では、妻以外に愛人を持つのはおかしなことではないのに。
「そ、それは、毒を送りつけてきたから、でしょうか。でしたら、私は気にしません。許して差し上げてください」
「毒を送りつけることは、罪だ」
シンジュは、罪には厳しい。
ナルもそうだ。
だが、その罪を犯さざるを得ない状況に追い込んだのは、シンジュではないのか。
「私は、ここを出て行きません」
「……当たり前だ、何を言っている」
「旦那様が、ここにいていいと言ってくださったから、安心して過ごせるのです。ですから――」
ぐっ、と胸の前で、拳を握った。
「その方もこの屋敷で一緒に暮らせば、不安も消え去って、ゆったりと過ごすことが出来るのではないでしょうか!」
ナルは、名案だと力強く言い放った。
かなり、長い間ーー沈黙が、おりた。
シンジュが、ぽつりとつぶやく。
「お前は、何を恐ろしいことを言ってるんだ」
「ですが、そうすれば」
「却下だ」
本物の裁判長による「却下」は、追言できない迫力があった。
もしかしたら、恋人の存在をナルに悟られまいと焦っているのかもしれない。
(恋人の。一人や二人で、怒ったりしないのに)
どうやらナルは、色恋の点では、シンジュにとってまだまだ「お子様」だと思われているようだ。
シンジュは、そっとナルを窺う。
贈り物の一件について話し終えたところだが、ナルは、主犯である相手――リーロンにまで、慈悲をかけた。
一緒に暮らしてはどうか、という謎の提案もあったが、考えただけでぞっとする。
(……この話は、終わりだ)
今日は「正式に妻に望んだ」、はじめての夜だ。
昨日は、突然の帰宅だったこともあり「初夜」には換算しないことにしている。
よって、今日は正真正銘の初夜だ。
貴族間で夫婦といえば、子づくりがもっとも重要なことである。
世襲制であるがゆえ、血を絶やしてはならないという理由からだ。
だが、シンジュはレイヴェンナー家の養子である。しかも、権限は王弟大公のままだという、特殊な立場だ。
よって、世継ぎは必ずしも必要ない。
それどころか。
敬愛する兄を補佐すると決めたとき、自分は生涯、子を作らないと誓った。
血族による王族争いを避けるためだ。
「……お前は」
そっと、ナルをみる。
(なんと、言えばいい?)
妻に望んだのは、シンジュだ。
だが、子どもは必要ない。
「旦那様?」
ナルが、きょとんとした表情で聞いてきた。
大きな瞳に、あどけなさがある。
(――私は、こいつが、真面目で真っ直ぐな者だと、知っている)
だから先に、子どもは不要であると、伝えておかなければ。
じんわりと、嫌な汗がにじむ。
子づくりをしないということは、夫婦としての営みも必要ないということだ。
一度は、営もうと思ったこともあったが、あれはカタチだけの妻だったからだ。
勢いで性欲を発散してしまえる程度の、一時的な感情でしかなかった。
今のナルは、望んで妻にした女、だ。
シンジュにとって、生涯ともに過ごす特別な存在、になっている。
だから、あのように気軽には扱えない。
扱っていい相手ではない。
じんわりと滲む汗が、気持ち悪い。
自分が何を言わねばならないのか、わからなくなってくる。
(小娘ひとりに、何をしているんだ)
大きく深呼吸をした。
(ただ一言、夫婦の営みは不要だ。子はいらぬ。……そう、言えばいい)
静かに息を吐きだしたあと、一度、生唾を飲み込んだ。
「ナルファレア」
「なんでしょう、旦那様」
「私の子を、産んでくれるか?」
ナルは驚いた顔をした。
それ以上に、シンジュが驚いた。
口からでたのは、伝えなければならない言葉ではない。
ナルが驚いたのは一瞬だけで、すぐに当然だというように微笑んだ。
「はい、勿論です」
シンジュは、口を開いて、閉じた。
何を言いたいのか、何を聞きたいのか、頭のなかが混乱する。
混乱しているのに、先程まで胸の奥を占めていた、どろりとした不快な感情は消えていた。
「でも、私でいいんでしょうか。旦那様の恋人さんが産んだほうが、外聞がいいかもしれませんよ」
「……恋人?」
「はい。本命の恋人さんを、囲われているのではないんですか?」
(何を言ってるんだ)
何かを考えているナルを眺めていると、先程の贈り物の一件について、いらぬ誤解を与えていたらしいことに気づいた。
シンジュは、呆れてため息をつく。
あれほどまでに切迫していた心が、穏やかになっている。
ナルといると、いつだってそうだ。
ナルの傍は、とても居心地が良い。
「いっておくが、恋人などいない。得意先の娼館もなければ、娼婦もいない」
「……え」
ナルは、これ以上ないほどに驚いた様子を見せた。
なぜ驚かれねばならないのか。
シンジュは、苦笑した。
子を産んでくれるか、という問いに、ナルは迷いなく「勿論」と答えた。
子はいらない。
そう思っていたにも関わらず、ナルのその一言に、救われたような気持ちになる。
随分と、愚かになったものだ。
ナルといると、調子が狂ってしまう。
「あの、でも、貴族は他所に、恋人をもつものですよ?」
おずおず、とナルが言う。
シンジュはため息を落として、答えた。
「皆というわけではないだろう。それに、昨日言ったはずだ。私が、お前を妻に望むと」
「はい、えへへ、凄く嬉しかったです。でもあの、ひとつ疑問があるんですが」
「……なんだ」
「何がどう、違うんですか?」
(ん?)
「妻であり続けることを望む、って言ってくださいましたよね。私、これまでも旦那様の妻でい続けるつもりだったのですが、旦那様は違っていたという解釈でよろしいですか?」
「……。…………待て。それでは私が、近しい未来に離婚を考えていたように聞こえるが」
「そういう解釈は、間違いですか」
「当たり前だ」
「えっと、すみません。じゃあ、これまでと、何が変わるんでしょうか?」
シンジュは、長考した。
なんと難しい質問をしてくるのだろう。
「……これまではお前を、残党狩りに利用したりもできるだろうと思っていたのだが」
「喜んで引き受けます」
「待て、まだ途中だ。だが、今後は、妻として屋敷の管理を中心に動いてもらいたい」
「はぁ、なるほど。つまり……これまで通りでいい、ということですね」
「そうだ……ん?」
(そうなのか?)
よくわからなくなってきた。
ナルと二人、こうして言葉にして話すと、確かにこのままでいいという結論に達する。
だが、何かが納得いかない。
何か変化したものがあるはずなのに、それさえわからないなど、やはり疲れているのだろうか。
「……でも、そっか。旦那様には恋人さんがいないのか」
ナルが、独り言のように呟いた。
なぜか少し、残念そうなのが腑に落ちない。
「私、旦那様の子どもを産んでみせますよ。……でも、私はシルヴェナド家の血を引く人間です。生まれてくる子は、肩身の狭い思いをするかもしれません」
「そんなもの、気にする必要はない。隠居したら、どこか田舎へ引っ越せばいいだけの話だ」
子はいらない。
そう伝えるつもりだったのに、今、シンジュは真逆のことを言っている。
自分の感情が理解できなかった。
今日の自分は、どうもおかしい。
帰宅してすぐ、いつもは「おかえりなさいませ」というナルに「ああ」と返事をするだけなのに、今日は「ただいま」と言いたくなったり。
子はいらない、そう伝えねばならないのに、そのことがとても――残酷に思えてしまったり。
(そうか……私は)
ナルを特別だと認識していたが、どう特別であるのかまで、考えていなかった。
それを今、シンジュは自覚する。
この、感情の名前を。
「田舎で暮らすなんて、素敵ですね」
ナルが、言った。
まるで、今その幸せがあるかのように、心から嬉しそうに微笑むナルが、とても、とても、可愛らしい。
微笑むナルの肩に、手を置いた。
軽く引き寄せて、身を屈める。
触れ合う唇は柔らかくて、とても甘い。
ナルの目元がほんのりと赤くなっているのは、照れているからだろうか。
ごく自然に、ナルの首筋へ舌を這わせたとき。
もう一つ、ナルに報告せねばならないことを思い出した。
「……頼まれていた件も、確認しておいたぞ」
「あ、ど、どうでしたか?」
かぷ、と首筋を甘噛みする。
ナルの身体が小さく震えるのが、心地よい。
つつ、と唇を鎖骨へ這わせる。
「なかった」
「……え?」
「お前が知りたいと言っていた『ブブルウ商会から脱走した動物』など、いなかった」
それは、昨夜ナルから「知りたい」と言われた事柄だった。
秘密漏洩にならない範囲なので、問題ないと判断し、調べてきたのだ。
「品目も個体も、すべて確認したゆえ、間違いはない」
ドレスの裾に手をかけた、とき。
ふと、ナルが静止していることに気づいた。
ぼう、っと空中を眺めている。
「……どうした?」
「……あはは……いやいや、そんなはずは……だって、ほら、あれが、あそこに」
「ナルファレア?」
具合が悪いのだろうか。
このままもつれ込みたいところだが、無理強いは本意ではない。
少し、いや、かなり、残念ではあるが。
シンジュは、ナルをベッドに横たえると、布団をかけた。
「ゆっくりと休め」
ナルは、頷くと目を閉じた。
瞼にそっと、キスを落とす。
ナルに好かれている自覚はある。
だがそれは、シンジュが抱いている好意とは、違う種類のものだ。
そこに気づかないほど、シンジュは鈍くはない。
ナルの寝息が聞こえてきて、シンジュは苦笑した。
部屋中のランプを消して、ベッドに戻る。
横になって、ナルを眺めながら、ふと、口の端をつりあげた。
時折、年齢にそぐわない言動をみせるこの少女が、一体何者なのか。
いずれ、わかるときがくるだろうか。
「ん、んん……旦那、さまぁ」
「なんだ? ……寝言か」
寝言で呼ばれるのは、悪くない。
そう、微笑んだとき。
「庭で……うんこしちゃ、駄目です……」
「起きろ」
むにゃむにゃ、と寝言をいうナルは、夢のなかだ。
わかっている。
自分も疲れているように、ナルもまた、疲れているのだ。
だが。
「おい、起きろ。貴様、奇妙な夢をみるな」
「んん……そこは、トイレじゃ、ありませ――」
「どんな夢だ!」
こうして。
夜は、更けていく。
ここまでお付き合いくださって、ありがとうございます。
貴重なお時間、閲覧に使ってくださったこと、心より感謝いたします。
(少しでも読みやすいよう、誤字脱字、その他文章の修正は、随時おこなってまいります!)
ブクマや評価、感想諸々、ありがとうございます。
まだまだ途中ですが、ここで一章完結という区切りをつけたいと思います。
次の更新は、明日の18時前後(17時~19時まで)です。
宜しければ引き続き、お付き合い頂けると幸いです。