11、恐怖、誰かの――。
漆黒の詰襟服を着たシンジュは、馬車に乗り込む前に。
「ジザリ」
と、執事を呼んだ。
はい、とすぐさま返事を返すジザリを肩越しに振り返り、
「執事として、よく働いているようだな。期待している」
そう言うと、シンジュは馬車に乗り込んだ。
馬車は門をくぐって、すぐに見えなくなる。
ジザリは、こぼれんばかりに目を見張って、深く頭をさげた。シンジュの姿が見えなくなっても、しばらく頭をさげたまま動かない。
(よっしゃああ!)
そんなジザリの隣で、貴族婦人の仮面をかぶりながら、心のなかでガッツポーズをするナル。
ジザリはこの二日間、これまでになかった働きをみせた。
食事に関してもそうだ。
ナルの食事に関する希望をシンジュに伝え、どのようにするか判断を仰いだらしい。
シンジュは、自分も食べるほうではないからと朝昼の食事を減らすように伝えた。夕食だけは、これまで通りということになっている。
この場合、ジザリの「相談」という判断は正しい。
ナルが知っているのは、この件くらいだが、シンジュは諸々を鑑みて、結論を出したのだろう。
カシアとともに部屋に戻ったナルは、ソファに座って、背もたれに深く身を沈めた。
「奥様、お疲れでしょう」
「え? まぁね。でもどうして?」
「この二日間、旦那様は奥様をずっと離されませんでしたので。夜も、朝も、昼も。寝室だけでなく、お庭でまで。……いいえ、旦那様のご趣味に立ち入ろうとは思いません。私は、お疲れの奥様を癒すのが役目ですから」
「……うん?」
間違いではないけれど、大きく間違っているような気もする。
なにぶん、人妻になったのは初めてなので、どこが間違っているのかわからないけれど。
ふと、カシアが身を屈めて、ナルの傍に膝をついた。
「どこか痛むところはございませんか?」
「平気、ありがとう」
「……あの、やはり少しだけ、聞かせてくださいませ。勿論、答えにくければ、結構ですので」
「なに、改まって」
「お庭では、その……普通に、されておられます、か?」
「普通って?」
「ですから、こう……寝転んだり」
「寝転んだりはしないわよ、汚れるじゃない。大体座ってるけれど」
「す、座ってされるのですね」
「そりゃ、ね」
ずい、とカシアが近づいてきた。
いつにも増して、無表情が怖い。
「道具などは、使われますか」
「本以外にってこと?」
「! やはり、抱えて行かれたあの本も、使われるのですね!」
「勿論。そのために庭へ行くんだから」
「……なるほど」
カシアの眉間に、微かに皴ができた。
「奥様、本以外に、とおっしゃられましたが、他に、これは絶対不可欠というものはございますか?」
「絶対不可欠って……あ、はさむものはいるかな」
「はさむもの⁉」
ひも状のしおりがついている本もあるが、しおりは別売りがセオリーだ。もし読書の際に手持ちがないと、ページ数を覚えておかなければならない。
「これは、内緒だけど……旦那様、冒険がお好きみたいだから、私も次は、思い切って冒険――」
「奥様⁉」
「わっ、びっくりした。どうしたのカシア」
「……も、申し訳ございません。その、つい。奥様の身が、心配で」
目を伏せるカシアは、捨てられた子猫のようだ。
なぜかとても、不安にさせているらしい。
「ありがとう、カシア」
「奥様、カシアは奥様の味方です。何かございましたら、なんでもお話くださいませ」
「そうさせてもらうわ」
こんなに優しくて、気が利く使用人が、傍にいてくれる。
その心強さを、改めてナルは実感した。
***
先週から、日課にしていることがある。
それは、使用人たちの様子を見て回ることだ。
見張るのではなく、どんなことをしているのか、どんな人柄なのか、軽い挨拶がてら様子を見に行くのだ。
日課といっても、一日に全員を回るわけではなく、五日間かけてすべての使用人の仕事姿を確認できればいい。
ざっとメイドたちの仕事ぶりを見たあと、何気なく窓から外を見た。
(あ)
あれは、ゴリマッチョの料理長だ。
食用の花々を通り過ぎて、温室ハウスのほうへ歩いていく。
「……奥様?」
カシアが、窓を凝視しているナルに気づいて、声をかけた。
「少し、庭へ行ってくるわ。屋敷からは出ないから、安心して!」
「あっ……お気をつけて!」
ナルは、ふわりとドレスの裾を翻して、足早に庭へ向かった。
最初の頃こそ、常に付きっ切りだったカシアも、最近では、ナルが一人になりたいときは、一人にしてくれるようになった。
少しずつ、ナルを受け入れてくれている。
屋敷のなかに、ナルの居場所ができていく。
庭園に下りると、料理長を追いかけた。
料理長とは、ずっと、会話は勿論、姿さえ見ることが叶わずにいた。
避けられているようだ、と気づいたのは、会いに行くこと四回目も「不在」だったときだ。
関われないのでは、先へ進めない。
どれだけ嫌われていようと、その思いを正面からぶつけあうことで、変化する部分もあるだろう。
屋敷から見えない場所までくると、ドレスの裾を小脇に抱えて、大股で走った。
すでに見失っているため、周りをよく観察する。
ふいに、温室ハウスの横、木々が密集している隙間に、奥へと続く、細道があることに気づいた。
簡単に見つけられないよう、木々の枝で隠してある。
(ここかな? 私の目は誤魔化せないぞ、っと)
細道へ身を滑らせると、ナルは「わぁ」と感嘆の声をあげて、左右をみた。
細道の左右にも木々があり、外からの視線を遮っているのだ。
(秘密基地みたい)
ナルは、その一本道を進んだ。
途中で道が湾曲していたが、突き当りまで、然程時間はかからなかったように思う。
突き当りは木片を組み合わせた柵で封鎖されていたが、真ん中が開閉式になっていた。
ナルが柵の前で足を止めた、その瞬間。
ビュオッと風が吹いて、真っ赤な花びらが空へと舞い上がる。
そこは、薔薇園だった。
食堂二つ分ほどの広さを埋め尽くす大輪の薔薇は、圧巻だ。
(こんなところに、薔薇園?)
ふと。
薔薇園の端っこから、ぬっと突き出た、筋肉質な腕が見えた。
ナルは、本来の目的を思い出して、料理長のほうへ歩み寄る。
当初の目的を、忘れてはいけない。
薔薇で隠された茂みを覗き込むと、すぐそこに料理長がしゃがんでいた。
背中を向けていて、ナルには気づいていないようだ。
「ちょっといいかしら?」
声をかけると、料理長は見るからにびくりと身体を震わせた。
料理長の名前は、ベティエール。
ベティエールが、振り返った。
焦らすようにゆっくりと、巨体をナルのほうへ向ける。
立ち上がらないのは、反発心からだろうか。
「見かけたから、ついてきちゃった。話もあるし」
ベティエールは、何も言わない。
ただじっと、ナルを睨みつけている。
「先日は、ノックもなしに厨房のドアを開いてしまって、ごめんなさい。でも、あなたと会えたことは、とても嬉しいと思っているの」
ベティエールの反応を窺う。
だが、やはりというか、ベティエールはナルを睨んだままだった。
「唐突だけれど、私のことをどう思ってるか知りたいのよ。……大切な旦那様がいきなり娶った妻を、認められない気持ちを察するわ。私はこんな立場だし、憎まれても仕方がない。都合のいいことを言うけれど、私自身を見てもらう機会を――」
――くぅん
「……そう、くぅん、なの。……へ?」
ベティエールの後ろから、犬が顔をのぞかせている。一抱えほどの犬で、決して小さくはない。ベティエールはこちらを向いたまま、犬の頭をぐいぐいと、自分の後ろに押しやっていた。
「犬がいるの?」
「……いえ」
はじめて、ベティエールが口をひらいた。
低く、少し掠れた声は、男として深みがある、いわゆるイケボだ。
「今、犬の鳴き声がしたわ」
「く、くぅん」
「あなたの声で誤魔化そうっていうのは、無理があるわよ?」
ベティエール産の「くぅん」は、野太過ぎる。
何より、彼の背後から、犬の顔が見えているのだ。
「……どうしたの、その犬。屋敷内に、生き物を引き入れることは禁じられてるはずよ」
人間は勿論のこと、犬や猫も禁止だ。
衛生面からの配慮だった。
ベティエールは、ナルを睨みつけたまま、
「……怪我、治るまで」
と、呟いた。
ナルが眉をひそめたとき、犬がベティエールの背後から出てきた。
ひょこひょこ足を引きずっている。
「旦那様の許可は頂いているの?」
「……いや」
「私から報告します」
そう言った瞬間、ベティエールに腕を掴まれた。手首の骨が軋むほどの力に、痛みよりも怒りが増した。
ナルもまた、ベティエールを睨みつけた。
「このまま手当もしないつもり⁉ 手当をするなら、旦那様の許可が必要よ。事後承諾になるけれど、旦那様には私が報告します。いいわね?」
「……追い出さない?」
「怪我が治ったら、追い出すわ」
ベティエールの手が離れた。
ナルは素早く犬へ近づくと、驚いて移動した犬に、手を伸ばす。
「大丈夫」
――くぅん
一定の距離から、犬はじっとナルを見つめていた。
(随分と痩せてる。毛も抜けてるし、肌も荒れて……)
引きずっている足を、目視する。
腫れはなく、左右とも足の太さは変わらないようだ。癌ではない、と思いたいが、なにぶん、ナルは獣医ではないので、その辺りはわからない。
前世、自宅で飼っていた犬を思い出しながら、似た症状があったことを記憶から引っ張り出した。
「この子、足に怪我があるの? 肉球に擦り傷があるとか」
「……なかった」
「口臭は?」
ベティエールは、犬を抱き上げると顔を近づけた。
「……変な匂いがする」
「そう。たぶんだけど、原因は、栄養失調だと思う」
ベティエールは、ぽかんとした顔をした。
「ちなみに、いつから犬はここにいるの?」
「……四日前」
「餌はあげてる?」
ベティエールが、背後から犬用の器(持ち込んでたのか!)を、ナルに見せた。そこには、パンが山盛り乗っている。
「……食べない」
「ゆっくりだけど歩けるみたいだから、体力は完全に落ちていないはず。多分、食べれないのよ。……肉をあげて」
「肉?」
「そう、牛肉とか鶏肉を。ちゃんと火を通して、食べやすいペースト状にしてあげるといいわ」
「……犬は、パンと野菜しか食べないのでは」
「そんなわけないでしょう。草食動物じゃあるまいし、栄養が偏っちゃうじゃない。タンパク質は大事、動物性の!」
ベティエールは、首を傾げた。
だがのっそりと起き上がると「作ってくる」と言って、姿を消した。
ベティエールがいたところには、水飲み用の器も置いてある。少しでも元気づけるためか、猫のぬいぐるみまであった。
「あんた、運がいい。あの料理長は、見た目に反して優しい性格みたいだから」
犬は、くぅんと鳴きながら、えっちらおっちら、ナルのほうへ近づいてきた。
匂いを嗅いで、ぺろりと手を舐めてくる。
「癌じゃないと、いいね。……もっと、医療について学んでおけばよかった」
日本とこの世界では、技術の進歩が格段に違う。
こういうとき、自分の無力さを噛みしめる。
しばらくして、ベティエールがもどってきた。
器に、泥のようなペースト状のものが乗っている。犬の前に差しだすと、くんくんと匂いを嗅いだあと、ぺろっと舐めた。
舐めとったペーストを噛むようにして飲み込むと、もう一度、皿から舐める。
もどかしいほどにゆっくりだったが、ベティエールが「……食べた」と驚いているところを見ると、今日までまったく食べていなかったのだろう。
このまま、この犬が完治する保証はない。
それでも、どこかに捨てておけ、とは到底言えない。
「……旦那様の立場が、危うい」
ふいに、ベティエールが言った。
振り返ると、隻眼が真っ直ぐにナルを見ていた。
「こいつの件は、感謝する。……だが、お前は屋敷を、出て行くべきだ」
「旦那様の立場が、危うい、から?」
ベティエールの言葉は、眩暈がするほどに衝撃だった。
それをなるべく表に出さないよう、震える手を握り締めて、問う。
「お前個人が、嫌い、なのではない。旦那様のために、お前は、存在してはいけない」
「私が、シルヴェナド家の娘だから」
「そうだ」
ナルは、死刑囚だった。
シンジュは、法廷を司る裁判長。
そんなシンジュがナルを妻にすることに、異議がないことのほうがおかしい。
反発も当然あるだろう。
シンジュの評判を貶めることにもなる。
だから、ベティエールの言葉はよくわかる。
この屋敷にきたばかりのナルも、まさにそう思っていたからだ。
「私が屋敷を出て行かずに、このまま残ったら。最悪、どうなると思う?」
「旦那様は、すべてを失う」
「すべてって……命?」
ベティエールは思案するように眉をひそめた。
「わからない。だが、地位や名誉は、失う可能性が高い」
「そう」
ナルは、静かに息を吐いた。
そして。
にっこりと、笑った。
「旦那様は、そのことをご存じないのかしら?」
ベティエールは、眉をひそめる。
「……旦那様は、とても、優秀な方だ。わからないはずがない」
「そうね、同意見。それらを承知で私を抱え込んだのなら、それは旦那様の意志によるものよ。旦那様が認めている以上、私はここを出て行かない」
「……あの方は、お優しい」
「優しいから、私から距離をとれって? あいにく、私は旦那様が感情だけで動く方には思えない。法的根拠の元に私を妻にしてくださったのだから、その行動力を裏切ることはできないの」
ナルは、目の前の霧が晴れたような錯覚を覚えた。
今の今まで、自分が霧に包まれていたことさえ気づいていなかった。
「ありがとう、ベティエール。私が向かうべき道が見えた気がする」
「……道?」
「旦那様が進む道に、私もついていく。明るい未来だろうが……破滅への道だろうが」
ナルは、ぐっと顔をあげて立ち上がった。
そうだ。
ナルを妻にするということは、身の破滅さえ覚悟する必要がある。
シンジュはそれを承知で、ナルを妻にしたのだ。
「……。……奥方」
「なに? 私は今、決意をしてるの」
「…………踏んでる、うんこ」
え。
足元へ、視線を向ける。
踏んでいた。
まごうことなき、立派なうんこを。
しかも、然程時間が経っていない。
生まれてから、三、四時間ほどだろうか。
「……待って。その犬、何も食べてないのよね。こんな立派なうんこする? しないわよね⁉」
ちら、とベティエールをみる。
ベティエールは、その意味に気づいたらしく、ぶんぶんと首を横にふった。
「じゃあ、これ、誰のうんこ?」
「わからない。さっききたら、あった」
「……くどいようだけど、あなたじゃないのよね?」
「違う」
「……」
「……」
す、と足をあげて、ベティエールに見せた。
さっ、とベティエールが一歩さがる。
すす、と近づくと、その分だけベティエールが離れた。
「ねぇ、ベティエール。とって?」
「……触りたくない」
「犬の世話をするんだから、うんこくらい触れなくてどうするの」
「それは、犬のうんこじゃない」
「お、思ってても言わなかったのにっ! やだ怖いっ、誰の⁉ 誰のうんこ⁉」
踏みつけているときは、全然匂わなかったのに。
足を退けた瞬間、あまりの臭さに息を止めてしまう。
仕方なく靴の裏を、地面の草にこすりつけた。
大体とれてくると、靴をぬいで、さらにこすりつける。
「どこか、洗えるところ知ってる?」
「その靴、捨てればいい」
「旦那様が与えてくださったものを、無碍にはできないじゃない。勿体ないし」
躊躇いながら靴を履こうとしたとき。
ベティエールが、ナルをひょいと抱きかかえた。
(ひっ)
ムッキムキの筋肉は、見た目だけではないらしい。
ナルを抱えても、ベティエールの体幹や歩調は、全く揺らがない。
ベティエールは、ナルを井戸がある裏口まで運んでくれた。
裏口といっても、厨房から庭へ出るための勝手口だ。
屋敷の「外」へ出るには、正門以外に出入り口はない。
「あ、ありがとう」
「……厨房、近い。離れろ。桶もってくる」
「わかった、衛生面は大事だものね」
その後。
ナルの靴を、ベティエールと水で流したり、洗ったり、香水を振りかけたりしてみたが、なかなか匂いがとれてくれない。
結局、時間が経てば匂いも消えるだろうということで。
こっそり靴を木々の間に隠した。
匂いは、時間が解決してくれると、信じて。
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下品な内容で、申し訳ありません。。