10、庭デート、ちょっと距離が近づく
朝と昼兼用の食事を終えると、シンジュは本を取りに執務室へ行った。
ナルも今日読む本は決めてあるので、寝室に取りに戻るだけだ。
(そうだ、持っていくバスケット!)
準備をしておいてほしい、とカシアに伝えてあるため、用意はできているだろう。厨房は食堂からほど近い場所にあるので、ついでに寄っていくことにする。
(このあと寝室に本を取りに戻って、それから旦那様と合流して……寝室で待ってたらくるかな。すれ違いになっても――)
考えごとをしていたナルは、ノックを忘れて厨房のドアを開いてしまった。
視界に映った巨体の男に、ナルはその場で動きを止める。
巨体の男は、料理用の作業机の向こう側にいるため、机を挟んで、対面するカタチになっていた。
随分と背が高い。二メートルはあるだろうか。筋肉質な体躯をしており、白い七分袖のシャツから伸びる腕はムキムキだ。
左目を横切るように、額から耳の下へかけて大きな傷がある。髪と隻眼の瞳はどちらも緑がかった黒色で、髪はジザリのように頭に撫でつけていた。
年齢は、風貌や目じりの皴から察するに、四十代前半から半ばほど、といったところか。
ぴたっと動きを止めたままのナルを、厳めしい顔で睨みつけてくる。
ナルは、そっとドアをしめた。
もう一度、ドアをひらく。
やはりそこには、先ほどの厳めしい巨体の男がいた。
再びドアを閉める。
「……えっと」
「奥様、どうかされましたか」
「ジザリ!」
歩いてくるジザリの姿を見止めて、ナルはほっとした。
「今、厨房に『歴代の猛者戦士』みたいな人がいたんだけど」
「ああ、料理長ですね」
「あの人が⁉」
(イメージより遥かにゴリマッチョ!)
いや、それよりも。
これまで不在を貫いてきた料理長と、彼が望まない形で顔を合わせてしまったことが、申し訳ない。
昨夜のシンジュの言葉からも、料理長や警備長は、ナルのことを好いていないどころか、嫌っている可能性が考えられる。
「頼んでいたバスケットを、取りに来たんだけど」
「そうでしたか。今お持ちしようと思っておりました。すぐに取ってまいります」
厨房へ消えたジザリは、すぐにバスケットを持って戻ってくる。
にっこりと笑って「どうぞ」と手渡すジザリに「ありがとう」と微笑み返す。
ナルはその足で寝室に向かった。
このバスケットを用意してくれたのは、料理長だろうか。
確か厨房で働く使用人は、三人。
料理長以外の二人は、従順な使用人といった様子だった。厨房に配属となっているが、特別料理に情熱があるわけではなく、適性があったため配属になったらしい。
当たり前だが、料理長は、料理をするために雇われている。
シンジュは週末の休日しか帰宅しないうえ、休日さえ王城に泊まり込むこともあるという。
ナルはナルで、はじめて腕を振るってもらった朝食について、「多すぎる」と文句を言ってしまった。
(このままでも問題ないけど……でも、屋敷の管理をジザリと分担するためにも、不可侵領域は作りたくないしなぁ)
そんなことを考えながら寝室へ戻ると、すでにシンジュがソファで待っていた。
「わ、お待たせしてしまって、すみません」
「構わない。行くぞ」
小脇に分厚い本を抱えたシンジュは、先にドアへ向かう。
ナルとすれ違うときに、ひょいとバスケットを持って行った。
(え?)
「急げ」
「あ、はいっ」
枕元に置いておいた本を持って、待たせているシンジュの元へ急ぐと、バスケットに手を伸ばした。
すかっ。
と、手は空を掴む。
シンジュが歩き出したためだ。
「あの、それ持てるんで持ちます」
「構わない」
「旦那様に持たせるわけにはいきませんから」
きっぱりと言い切ると、シンジュがこれ以上ないというほどに眉をひそめて。
潔く、ナルにバスケットを押しつけた。
心なしかいつもより歩調の速いシンジュのあとを、ナルは足早についていく。
「今日はいい天気ですね」
「……」
「絶好の読書日和です」
「……」
「楽しみですね」
「……」
沈黙が痛い。
何か機嫌を損ねるようなことをしただろうか。
先週と同じ、きらきらと陽光を煌めかせる新緑の木陰につくと。
シンジュは、前回と同じ場所に座った。
ナルもまた、シンジュに近づきすぎないよう、二人分ほど離れた場所へ座ろうとした、そのとき。
「お前は使用人ではない。私の妻だ」
シンジュの言葉に、ナルは驚いて振り返った。
シンジュは本を見ているので、視線は交わらない。けれど、言葉の裏に隠れている「気を使いすぎるな」という心遣いを読み取ることは容易かった。
(……本当に、真面目で優しい旦那様だ)
ナルは、座りたい場所に座った。
シンジュとの距離は、人ひとり分ほどだろうか。
先週よりもシンジュと近い。
シンジュの様子を窺うけれど、何も言われないので、ここにいてもいいのだろう。
読書はまさに、至福の時間だ。
読書に没頭すると、その間は嫌なことを忘れられる。
物語や、初めて得た知識への喜びに、陶酔することもあった。
前回は読みふけってしまったので、今日は、十ページごとに「今」を意識するようにする。最初の十ページを読んだころ、何気なくシンジュを振り返った。
(あ)
シンジュは腕を組んで、眠っていた。
休日の、ラフなシャツ姿なこともあって、かなり無防備に見える。
大木に背を凭れているシンジュの身体が、ふと、斜めになって、首がナルのいるほうに傾げた。
(わわっ、倒れるっ)
慌てて距離をつめると、ぽすっとナルの肩にシンジュが凭れてきた。
(よかった、間に合った)
角度的にシンジュの顔は見えないが、静かな寝息が聞こえるので眠っているのだろう。
ふわふわとシンジュの匂いがして、彼の銀髪が頬をくすぐった。
ナルは、二十ページ、三十ページと読みすすめて、その都度シンジュの様子を確認する。
まだ静かな寝息が聞こえてくるので、そっとしておこう。
さらに十ページ分を読もうとしたとき。
シンジュが膝に乗せたままだった、読みかけの分厚い本がドサッと地面に落ちた。
緑に金糸の刺繍が施されたその本は、ナルが初めてみる本で。
当然ながら、読んだこともない。
表紙には、「氷の大陸ユーリシア」と書いてある。
「……ん」
「お目覚めですか」
シンジュが身体を起こした。
首や肩を動かして、ゴキゴキと関節をならしている。
「肩を揉みましょうか」
「今夜、頼む」
シンジュが、大きなあくびをした。
油断しきったシンジュの様子が、なんだかこそばゆい。
「お茶をいれますね」
「ああ」
ナルは休憩の準備をしながら聞いた。
「その本、なんの本なんですか?」
「確実性のない空想話だ」
「物語ですか! 初めて聞く大陸の名前なので、気になっちゃいました」
「旅の記録を、本人が物語として書き直したものだと聞いている。作者本人はかつて、ユーリシア大陸を探し求めて大陸中を旅していた。その際の記録だ」
「……ユーリシア大陸を、探し求めて?」
「そうだ。作者は存在すると信じているようだな」
ナルは、シンジュに紅茶を渡した。
確実性のない空想話、とシンジュが表現したのは、「存在するかもしれない大陸」だからか。
「大陸、って……大きいですよね、イメージですけど」
果たして、大陸そのものが見つからない、などということがあるのか。
「大陸という言葉をそのままの意味で捉えるのなら、そうだろう」
「どういうことですか?」
「大陸ユーリシアは、あくまでも、存在を確認されていない場所だ。この世界のどこかに存在していると言われるが、根拠はどこにもない」
(なるほど。ラピュータとか、アトランティスとか、キサラギ駅とか、そういうやつか)
「噂では、氷の大陸ユーリシアは魔法であふれていて、ドラゴンやエルフ、ドワーフが暮らしているという」
「おもしろそうですね。その物語のなかでは、ユーリシア大陸は見つかったんですか?」
「それを聞くのか?」
シンジュは、菓子――今日は色とりどりの砂糖菓子とクッキー(ナルのリクエスト)――をつまむ。
「あ。すみません、旦那様もまだ途中でしたね」
「二十年以上前に出版されたものだ、何度も読み返しているから結末は知っている。正直あっけない最後だったが――」
「じゃあ、教えてください!」
「……読んでみようとは思わないのか」
「今はこのシリーズを読んでるので、先になりますし。結末を知ってても楽しめる派なので、ぜひ」
シンジュは、そういうものか、と呟いて、話し始める。
「物語の最後は【ユーリシア大陸、そんなものはなかった】で終わっている」
「え、あっさりですね」
「ああ。しかも最後だけ……造語だろう文字で締めくくり、格好をつけているところがどうも、気に食わん。造語で書いて、そこにルビを振って読者に読ませる。一見、格好いいかもしれないが、物語の質をさげているように思う」
(……旦那様の熱意がすごい)
屋敷の図書室を見たときから、読書家だとは思っていたけれど。
こうして本の話をする日がくるとは思わなかった。これは、素直に嬉しい。
「旦那様は、冒険譚がお好きなんですか?」
「最近は、仕事関係の本や知識を詰め込むために読むことが多いが、昔は、そうだな。冒険譚ばかり読んでいたように思う」
「私も以前、冒険ものに物凄くはまっていました。ページをめくるごとに、まるでその世界にいるように感じて、ドキドキしながら読んだ覚えがあります」
「ほう。どの物語が好きだ?」
「シンドバッドの冒険とかですかね」
シンジュのきょとんとした顔を見て、紅茶を飲もうとした手が止まる。
(しまったあああああっ)
つい、普通に答えてしまった。
シンドバッドの冒険は、前世で読んだ物語だ。
「知らんな」
(ですよね)
「私も、小さいころに読んだものなので、どこの出版とか、タイトルが本当に正しいのかとか、わからないんですけど」
「どんな内容だ?」
ナルが、あらすじを話すと、シンジュが「詳細に」と促してきた。
幸い、好きな物語は何度か読むタイプなので、覚えている限り、詳しく語る。シンジュが「それで」と促してくれることが嬉しかった。
話し終えたころには、紅茶も菓子もなくなり、屋敷へ戻る時間になっていた。
シンジュが話しやすいように相槌をくれるので、調子に乗ってしまった感が否めない。
「面白い話だ。この世にはまだ、私の知らない物語があるらしい」
「旦那様は、今でも冒険譚がお好きですか?」
「ああ。いずれ隠居したら、嫌と言うほど読めると高をくくっている。お前は、どんな話を好む?」
「どんな内容でも楽しめるんですけど、ミステリーを好んで読みます」
「ほう、謎解きものか。……本が好きなら、今度、王立図書館へ行ってみるか」
シンジュの言葉に、ナルは驚きとともに、満面の笑みを浮かべた。
王立図書館は、王城敷地内の一郭にある巨大書庫だ。重要な文献も多数あり、閲覧禁止区域にはさらに貴重な文献が収納されているという。
よって、入室するには特別な許可証がいるが、侯爵家以上の者は簡単に許可証を作れると聞いている。
「嬉しいです。落ち着いたころに、いつか連れていってください」
「ああ、そうしよう」
シンジュが目を細めた。
優しい笑顔を向けられて、ナルも笑み返す。
そろそろ時間だ、と片づけをして、二人で屋敷に戻ろうとしたとき。
シンジュが、バスケットをひょいと持ち上げた。
「あっ、旦那様」
「構わない」
「……あ、ありがとう、ございます」
言葉に甘えて、持ってもらうことにした。
シンジュの視線は冷やかだし、口が悪いときも多いけれど。
実は優しい人なのだと、ナルはもう知っている。
ふと。
シンジュの小脇から、本がすべって落ちた。
シンジュの大切な愛読書だ、と慌てて拾ったナルは、ぱらりとめくれて止まったページに、何気なく視線をやる。
それは、最後のページだった。
――ユーリシア大陸は、存在する
日本語に、この世界の文字で、ルビがふってある。
(日本語……?)
「どうした、ナルファレア」
「え、あ……えええっ!」
ぎょっとして、シンジュを見ると。
あえてなのか、視線を明後日に向けたシンジュが待ってくれている。
「い、今、名前……お前とか、じゃなくて、名前を……」
「呼ぶことぐらいある」
「は、はい!」
ナルは、シンジュの愛読書を、パタンと閉じた。
久しぶりにみた日本語に驚いたが、今のナルには――関係ない。
この世界で生まれ、育ち、シンジュの妻としてここにいるのだから。
ナルにとって、伝説の大陸などどうでもいい。
大切なことは、一つだけ。
この世界に。
『日本語で書かれた本がある』ことだけは、頭の隅に記憶しておく必要が、あるだろう。
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