9〖b〗、旦那様のためならば(後編)
カーテン越しに差し込む朝日で、ナルは目を覚ました。
すでに見慣れた天井をぼうっと眺めたあと、起きようとして、隣で眠るシンジュに気づく。
微かに開いた口から、静かな寝息が聞こえる。
(……疲れてるんだ)
ここ最近、刑部省の多忙さは尋常ではないという。
刑部省とは、警察と法廷が一つになったような管轄である。
罪人の検挙、逮捕を行うのは勿論、罪人へ処分を下すのもまた、刑部省の役目だ。
特例の場合は裁判が開かれ、法廷で判決を言い渡すこともある。
当然ながら、裁判長を担うのは長官であるシンジュだ。その場で辞書をひくわけにもいかないため、知識と判断力を備えて当然の、責任重大な大役である。
刑部省は、もっとも不正が横行する部署の一つだが、シンジュが長官になってからは、法に則った裁きが身分関係なく下されている。
その話は有名で、父のシルヴェナド伯爵が苛立たしく話していたこともあった。
――決して懐柔できない、法廷の冷酷断罪人
シンジュは、そう呼ばれているという。
だからこそ、ナルは我が一族に対する罪の裁きを、安心して刑部省に預けることができたのだ。
(お忙しいと思ってたけど、ここまでなんて)
昨夜、シンジュの様子は明らかにおかしかった。
男性は疲れているときほど、営みたくなるというが、昨夜のシンジュはそんな疲労具合を通り越して、倒れる寸前のように見えた。
それでも昨夜、シンジュはナルを妻として扱おうと――つまるところの、夜の営みをしようとした。
結局、二人の間には軽い口づけがあっただけで、それ以上のものはなかったのだが。
(……律儀な人)
疲れているのなら、眠ればいいのに。
夫を癒すことが妻の務めならば、妻を愛することが夫の務めといっても過言ではない。
けれど、最初から愛のない結婚だとわかっているのだから、無理に営もうとしなくてもいいのに。
(旦那様は、真面目な方だから……夫としての責任を、果たそうとしてるんだ。……もしかして、私が催促してるように見えたとか? そういえば部屋に入ってすぐ、誘っているのか、とかなんとか、言われたような気も……)
心身に負担を強いられているシンジュの、力になれないことが悔しい。
今の多忙さを乗り切ってもまだ、次から次へと事件は起こるだろう。今度こそ残党狩りを行う可能性だってある。
せめてもと、身体に優しい料理を作ってみたが、あれだけでは足りない。
もっと、身体も癒して差し上げたい。
ナルは、昨夜抱きしめられたことを思い出して、思案するように顎に手をおく。
妻として求められたら、答えるのが道理だ。
けれど、素人であるナル如きの身体や手管で、玄人だろうシンジュを癒せるとは思えなかった。
(なら、プロに頼めばいいんじゃない? でも、勝手に決めることじゃないだろうし……ううーん)
腕を組んで唸っていると。
「……朝から、何を考えている」
シンジュが、気だるげに聞いてきた。
目が覚めたばかりのようで、ぼうっとナルを見ていた。
ナルは、先ほど考えていた妙案について、シンジュに相談することにした。
「あの、旦那様」
「なんだ」
「とても、とても、お疲れのご様子なので……その、わ、私が、癒して差し上げようと思うのです」
前のめりになって、力強く言い放つと。
ぼうっとしていたシンジュが、徐々に目を見張っていく。
「妻の責務を果たす、と?」
「はい!」
シンジュは、何を思ったのか、つと目を細めて、ナルを見つめた。
顔から、首筋、胸、腹のほうまで。
「ほう、それで?」
(あ、よかった。前向きに考えてくれたみたい)
シンジュの言葉から、微かな興味を読み取ったナルは、言葉を続けた。
「やはり殿方を癒すためには、閨での営みが不可欠です」
シンジュがさらに目を細めた。
シンジュにしては珍しく、優しい視線だった。
上司に褒められたように、嬉しくなる。
これは、なんとしても成功させなければならない案件だ。
俄然と、やる気があがる。
「つまり、お前は私と――」
「そこで、現在旦那様が懇意にされている女性を、教えて頂けませんか?」
勢いあまって、シンジュの言葉を遮るかたちになってしまった。
慌てて、
「申し訳ございません、なんでしょうか」
と問うころには、シンジュはじと目になっていた。
「……いや、いい。続きを言え」
「はい! 旦那様を癒すために、高級娼婦を呼ぼうと思うのです。あの手この手の素晴らしい手管で、旦那様を癒してくれること間違いありません! ですが、もし旦那様が懇意にされている女性や、お得意先の高級娼婦、または娼館がございましたら、そちらを優先したいと思います」
「……」
「旦那様は、一人をご寵愛されるタイプですか? それとも、様々な趣向の花を楽しみたいタイプでしょうか。私、旦那様の妻として、全身全霊で手配いたします」
沈黙が下りた。
(……あれ?)
先ほどまで、前向きだったシンジュの瞳が、じと目どころが、ガラス玉のように無になっている。
「旦那様?」
「……お前は」
「はい?」
「なぜそこだけ、貴族らしいんだ」
「へ?」
ナルは、首を傾げる。
貴族の結婚とはすなわち、政略結婚だ。
夫婦それぞれ、ほかに恋人がいるなど当たり前の社会である。
ゆえに、ナルの態度は間違っていないだろう。
夫が疲れているのだから、癒したいという気持ちを表している分、健気ではないかとナル自身は思うのだが。
「一応、私も貴族ですし……はっ、私が旦那様のご寵愛されている方を知ったら、嫉妬のあまり、虐めると思ってるんですね!」
「そう思えたら楽だろうが、あいにく、これっぽっちも思わん。お前は本気で、私に娼婦を宛がうつもりだろう」
「高級娼婦です。旦那様のお疲れも一晩で吹き飛びますよ」
シンジュは、額を押さえてため息をついた。
物凄く深いため息だ。
「お前が、私のことを考えてくれているのは、よくわかった」
「では」
「だが断る」
シンジュの腕が伸びてきて、ナルの手首を掴んだ。
あっという間に、シンジュの上に倒れ込む。
「私には妻がいて、しかも、新婚だ」
「はい」
「一応、恋愛結婚ということになっている。双方の家に利益がないからな」
「あ……じゃあ、新婚の今、娼婦を呼んだら不審に思われますね」
ナルは、自分の浅はかな考えが恥ずかしくなった。
だから、シンジュは途中から、無の表情になっていたのだ。愚かすぎて、聞くに耐えなかったのだろう。
「すみません。浅はかでした。……変に期待させてしまいましたね」
「……今日は晴れているな」
「え? はい、とても」
「ならば、先週と同じ場所へ行こう」
「木漏れ日のところですね! あそこ、心地よくて好きです。……でも、お疲れの旦那様を、引っ張り出していいんでしょうか。私だけが楽しいなんて、なんだか申し訳ないです」
ふと。
シンジュが目を見張った。
掴まれた手首をさらに強く引っ張られて、大きな腕に腰をさらわれる。
気がつけば、シンジュに覆いかぶさったまま、抱きしめられる姿勢になっていた。
近くにシンジュの顔があって、ナルは身体を硬直させる。
(心臓に悪い、この美丈夫……睫毛長いし)
「楽しい、と言ったか?」
「え?」
「先週、楽しかったのか?」
「はい、凄く楽しかったです!」
「ただ、各々で読書をしただけだ。途中、お前が持参した茶と菓子で、休憩をしたが」
「全部楽しかったですよ」
先週のゆったりとした時間を思い出して、ナルはふふっと笑う。
満ち足りた時間だった。
この世界に転生して、自分がどれだけ罪深い存在かを知って。
ひたすら、破滅へ向かって進んできたナルにとって、あれほどの至福は、そうそう得られるものではない。
「……お前は、私を癒してくれるのだろう?」
「はい、勿論です」
「ならば、今週も読書に付き合え。起床までは、抱き枕になっていろ」
そう言うなり、昨夜のように強く抱きしめられた。
大きく力強い腕に、男らしい鍛えられた身体。
それに、シンジュの男性的な香り。
こんなふうにされると、ナルでもシンジュを癒せるのではないかと勘違いしてしまいそうになる。
「旦那様」
「……今度はなんだ」
「やはり、私ばかりが嬉しい思いをしていると思うんですが」
シンジュの返事はない。
けれど。
シンジュが微かに笑った気配がして、いっそう強く抱きしめられた。
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