謎の見習生
3月の決算が終了し、営業担当達につかの間の休息が訪れていた。
しかし、今日と言う日は人生が変わると言ってもよい日、4月1日。辞令交付の日である。
広いオフィスは静寂と緊張に包まれている。時折、誰かが咳払いをしたりする声が聞こえるが、話しをする者は誰一人いない。その目は支社長と総務部長にまんべんなく注がれている。
辞令交付は朝礼前に実施され、転勤者は朝礼で挨拶をするのが慣例である。さすがの三課も全員が早めに出社し、自己に関わる一大イベントを固唾を飲んで待っている。
(へっ、こいつらも一応心配なんだ、俺は去年転勤して来たばかりだから、全く関係ない・・昇進も3課の業績じゃ絶対にないし・・)
ザワッ、と空気が動いた。
総務部長が支社長のデスクに向かい、なにかを告げた、支社長はおもむろに立ち上がると上着を身に着け始めた。
全ての社員がその動きを目で追っている。やがて二人は応接室のドアに消えて行った。
「係長、始まりますよ・・あーどうしょう・・オレ転勤すかね・・」
山木がひどい貧乏ゆすりを繰り返しながら尋ねている、
「あのな、転勤て言うのは受け取り手がないと成立しないんだ、お前を必要とする支社なんてまず無いだろうな、心配するな、あっと待てよ・・そう言えば昨年できたビューティ関連事業部があったな、人が足りないらしいから、山木お前可能性あるかもな、」
「えー、係長確か健康食品とか女性の補正下着を訪問販売する部署ですよね、人気が無くて誰も希望者が無いんですよね・・」
「うん、今のところ再雇用された社員ばかりで、若い人材を欲しがっているらしいからね、あーお前可能性高いぞ、」
「ひぇー嫌ですよオレ、絶対にいやすよ・・」
ドアの開く音とともに、総務部長が出て来た、
「1課の上野係長、応接室にお願いします、」
上野係長は素早く立ち上がると、ぎこちない足取りで応接室に向かう、顔が蒼白である、誰もが一斉に彼に視線を浴びせかけている。
15分程で交付式は終わり、朝礼の中で転勤者達が順番に挨拶をしている。転勤辞令を受け取った者、昇進辞令を受け取った者、一枚の紙切れがそれぞれの人生に与える影響は大きかった。
美咲はふと1年前を思い出していた。受け取った辞令にはM支社への転勤と、何より係長Bへの降格の知らせが記載されていた。頭が真っ白になったのを今も覚えている、廻りの全ての人達があざ笑っているようで、心は湿った灰のようになっていた。
朝礼後、
「美咲係長、応接室にお願いします、支社長がお待ちです、」
総務部長が笑顔で声をかけてきた、
3課のメンバーが一斉に美咲に目を注いだ、
「あっ、はい・・」
(なんだ・・辞令は終わったよな・・・)
「美咲係長、支社長から辞令を交付していただきます、」
(辞令・・)
「朝礼前に渡したかったんだが、先程 本社から届いたものだから、今から交付します、」
(いきなりパンチを食らったかの様に美咲の心が動揺に包まれた、)
「営業第三課 美咲係長B、本日付をもって営業三課 係長Aを命ず、」
「あ・・はい・・・」
ガチガチの体で受け取ると、穴の開くほど辞令を見つめる、そこには恐れた転勤の文字も降格の文字もなかった。
「おめでとうは言わないよ、本来なら君は昨年課長に昇進し、今回は部長に昇進できたかもしれない、あの事件さえ無ければね・・」
「いえ・・支社長ありがとうございます・・・」
「松阪君だがね、依願退職したそうだ、」
「えっ、A支社の松阪課長ですか?」
「ああ、君のもと上司の松阪君だ、華美堂の専務の件は知っているよね、」
「はい、不動産で失敗して多額の借金を作ってしまったと聞いています、」
「実はね、専務に不動産売買の話しをもちかけたのは松阪君だったらしい、悪徳業者からリベートを貰う為にね、華美堂の担当美容社員だった井上さんが店のスタッフから聞いてね、総務部長にリークしたそうだ、」
「まさか・・本当ですか?」
「うん、A支社の総務部長は同期でね、しっかり裏をとったそうだよ、華美堂の夜逃げの件も松阪課長は知っていたらしい、全ての責任を君に押しつけて自分の身を守ろうとしたんだね。A支社の総務部長は君のことをずっと気にかけていてね、支社長から本社の人事に君の降格の取り消しをお願いしてもらったそうなんだ、」
辞令を乗せた黒いおぼんを持ったまま総務部長が二人の会話に入ってきた、
「そうですか・・」
転勤と言うのに誰一人見送りも来ない空港に、総務部長はたった一人で来てくれた、
「美咲君、"人間到る処青山あり"だ。元気でやるんだよ、向こうで嫁さんみつけろよ、すまんな何もしてやれなくて・・」
彼は微笑みながら空弁を手渡してくれた、目には涙が光っていた。
美咲はふいに目頭が熱くなるのを感じた、
「まっ、嫌な話しはこれくらいにして、加藤部長辞令を、」
「美咲係長、もう一つ辞令がありますので支社長から交付していただきます、」
(また辞令・・)
総務部長が黒いおぼんを支社長にさしだしている、
「美咲係長、本日付をもって見習生の養成担当を命ず、」
支社長はおもむろに白い辞令をさしだした、
「あ・・はい・・」
「見習生と言っても美生堂の社員じゃないんだ、販売店関係の人でね、1年間見習生としてこの業界を勉強したいとの要望でね、本社から依頼されたんだよ、社外の人間だが社内情報の秘密厳守等の契約が交わされているそうなんでね、普通の見習生として君に教育して欲しいんだよ、」
「あっ、はい・・」
「明日から出社するので宜しく頼むよ、」
支社長は明るく微笑んでいる、
「美咲係長、係長Aに復活したので管理統括手当が15000円、養成担当手当が5000円、計20000円が今月の給料から上乗せされますよ、いやー羨ましいな、」
いつもは厳格な総務部長も上機嫌で微笑んでいる、
「よかったね、ゆうちゃんご昇進おめでとう、」
いつものカウンターのいつもの席で幸子がビールを注いでくれている、今日はいやに胸の開いたピンクのセーターと、いやに短い赤いスカートを身につけている、」
「さっちゃん、少し露出が激しくないか・・」
「えっ、なに、気になる?」
「たまに変な奴が来るって言ってただろう、危険だぜ、」
「いやーん、じゃゆうちゃんが守って、ずっとここにいてよ、」
彼女は白いエプロンを外すと隣に座り、膝に手を置いてきた、短すぎるスカートから白い綺麗な足が惜しげもなく覗いている、彼は外れそうになる男の理性をビールとともに飲みこんでいる、
その時、"ガラッ"と 扉が開いた、
「幸子、元気ー」
勢いよく、3課の兼任美容主任、山口 愛が入ってきた、酔っている、
「あー、なんかお邪魔だった?」
「な、なに言ってんのよ、そんなんじゃないよ、」
幸子は慌ててカウンターから立ちあがると、またエプロンを身につけ始めた、
「なんか酔ってるね、」
「うん、地区本部でね美容主任会議があって、その後交流会があったの・・」
「そう、なんか飲む?」
「日本酒ちょうだい、」
「冷?」
「もちろん冷、それと美咲課長代行様が召し上がっている肉じゃがもちょうだい、」
山口 愛は普段はしとやかな女性であるが、酒が入ると人格が変わる、同期の幸子はいつも介抱役であった。
「美咲課長代行どの、」
「あ・・なに・・」
彼は彼女が苦手である、綺麗な顔に似合わず言いたいことをはっきりと言ってくる、三課のクズメンバーの件でいつも怒られている、
「美咲課長代行どの、三課ってどうにかならないんですか、私はねもともと1課の美容主任で三課は兼任なの、三課って美容社員は5名しかいないのに皆んなバラバラで、営業担当と全くコミュニケーションがとれてないし、1課はね30名もいるけど皆んな一丸となってるわよ、なーんにも手がかからない・・私はたった5名の三課の美容社員達のフォローでいっつも頭抱えているの、お肌に悪いわよ、お肌に、このまま嫁にいけなかったら美咲課長代行どのが責任をとって私を嫁にしてくれなくちゃね、ね、そうでしょう?」
「だめよー、ゆうちゃんの嫁は私がなるんだから、」
幸子が肉じゃがを温めながら叫んでいる、
「あー、まぁー、あんまり飲まない方が良いと思うよ・・」
山口 愛はコップ酒を一息に飲み干すと、さらに一升瓶をグラスに注いでいる、
(頭が痛い、)
昨日は山口 愛にさんざん付き合わされて完璧な二日酔いである、
(今日、見習生が来るんだったな、少し早目に行くとするか・・)
ヤカンのまま飲む水が胃に染みるように旨い、
「美咲係長、見習生を紹介するので応接室までお願いします、」
朝礼前に総務部長が声をかけてきた、
「はい、」
応接室では支社長が品のある紳士と話しをしている、
「おお、美咲君、紹介するよ、今日から見習生になる松木 優孝さんだ、宜しく頼むよ、」
「営業三課の美咲と申します、宜しくお願いします、」
「松木と申します、こちらこそ宜しくお願い致します、」
「松木さん、今日から美咲係長が貴方の養成担当となります、彼の指示に従ってしっかりと学んでください、」
「はい、ありがとうございます、美咲係長頑張りますので宜しくお願いします、」
「はい、一緒に頑張りましょう、」
朝礼後、美咲は三課のメンバーに松木を紹介している、
「そう言うことで、今日から松木さんは三課で見習業務に就かれることになった、今週一杯は各部署の業務内容説明を受け、来週からは皆んなに同行してもらう、同行スケジュールは追って連絡するので宜しくお願いします、特に営業車が汚い山木と秋山、車内を片づけておけよ、松木さんが座る席がないぞ、」
「チース、」
「はい・・」
「皆さん、今日からお世話になります松木です、ご覧のとおりの年寄ですが体力はありますので、どんどん使ってください、宜しくお願いします、」
「チース、松木さんって幾つすか?」
「57です、」
「えー、57すか、もうすぐ還暦すね、」
「こら、山木失礼じゃないか、」
「いえ、いえ、皆さんのお父さんと変わらない年ですよね、年寄りの見習生ですが、宜しくお願いします、」
穏やかに微笑むこの紳士からはとても不思議な、高貴とも言うべきオーラが漂っている、
(この人は一体何者なんだろう・・・)
美咲はこの人物が、彼の今後の人生に大きな影響を与えることを今はまだ知るよしもなかった。