18 交わす拳
突如現れた目の前の男は、狂気を纏っていた。人を痛めつけるのが心底楽しいようで、鉄パイプを振り回す男の目は爛々と輝いている。
「………ックソ」
予想外の展開に頭がついていかず、苛立ちが募る。
「黄華、冷静にならないと駄目だよ」
黒鬼は僅かに頬を引き攣らせながらも、今の状況を冷静に捉えようとしている。
そんな中、男はカラカラと笑った。
「初めましてだよね。今日は、黒鬼と黄華を潰すために朱斗に呼ばれて来ちゃった!」
なんて清々しいほどの笑顔で話すものだから、正直今すぐにでもその顔を殴り飛ばしたい衝動に駆られる。
「駄目だよ、栄。黄華は俺の獲物だ」
「えー……。せっかくやる気満々で来たのに」
栄と呼ばれた男は不満そうに顔を歪めたが、すぐに笑顔に戻りニコニコと黒鬼を見つめた。
「いいや。黒鬼だけでも充分楽しめそうだし」
楽しそうに話をする栄は、戦うのが待ちきれないのか何度も鉄パイプを握り直す。興奮をした様子を見せる栄に、微かに苦笑を浮かべる黒鬼は苛立ちを抑えようと深く息を吐いていた。
「随分と格下に見られてるみたいだね……。心がとっても広い僕でも流石に怒るよ?」
「あれれ、怒っちゃった。どうせ今からどっちが強いかがわかるんだからさ。そんなにイライラしないで気楽にやろうよ」
へらりと笑われて気に食わないのか黒鬼は小さく舌打ちをした。珍しく感情的になっている。
他人が感情的になっている様子を見るとやけに冷静になる。
狐の面を乱暴に外し地面に放り投げる。鉄パイプを避けた時に脱げたフードを顔が見えないように深く被り直し、俯いて深呼吸を一つ。多くの酸素を得た脳は活発に活動を始める。
頭の中で今、自分が置かれている状況を整理する。ズボンの左ポケットにはバタフライナイフ。今回は銃を所持してない分、体を大きく動かすことができる。
体の力を抜いて重心を前に置く。顔をゆっくりと上げ朱斗を見た。
綺麗な黒瞳と視線が絡む。
瞬間、待ち構えていたように互いへと飛びかかる。簡単な軌道を描いた拳は互いの左頬と食いこんだ。
「……っ!」
鋭い衝撃が走り、視界がグラりと揺れる。じんじんと痛みを訴える頬と同じように右手の拳は痺れるような痛みを感じる。
朱斗を見れば頬を押さえている程度であまりダメージは受けていないようだ。
「……チッ、浅いか」
口内に広がる鉄の味が不愉快でペッと血を吐いた。結局、体格も力の強さも男には勝てない事は理解している。どうせなら男に生まれたかった、なんて……ないものねだりをしてみたり。
「どうした黄華。こんな軽い攻撃で俺を倒せるとでも?」
「まさか。お前の力もこんなものじゃないだろう?」
実力が上かもしれない奴を挑発するなんて、我ながら馬鹿だと自嘲する。
身体全体を包むピリピリとした緊張感が心地良い。
学校の同級生や大人達が言う『普通』の生活をしていたのなら味わうことの出来ない感覚。色褪せた味気の無い日々を過ごす人生の、唯一の刺激。家族だけが色鮮やかに見える世界を一気に明るく照らす瞬間。
「ほら、もっと俺を殺す気で来いよ!」
腹が立つほどの長い足を自慢するかのように放った蹴りは見事に私の腹へと直撃した。息苦しさと共に胃液が喉を通り口内は嫌な味で一杯になる。
「ゲホッ………!」
鈍い痛みに顔を歪める。まともに攻撃を喰らったのは久しぶりかもしれない。
「……ははっ」
思わず声を出して笑ってしまった。最近は弱い敵ばかりを相手していたから平和ボケしていたのかもしれない。
反撃をするために、朱斗へと一気に距離を詰める。左手の拳が降り掛かってくるのをヒラリと避けてそのまま胸元へ潜り込むと朱斗の綺麗な顔へと思い切り右腕を振る。ゴッと鈍い音が耳に響いた。痛みで一瞬怯んだ隙に朱斗の胸倉を掴んで膝蹴りを数発叩き込む。
「……かはっ……!」
反撃をされる前に腰を捻り回し蹴りを食らわせ、後方へ距離を取る。
「……ゲホッ、ゲホッ…………っはぁ!」
朱斗は咳き込みながらも肩で大きく息をした。ふらりと足取りが落ち着かないまま立っている。
このまま一気にケリをつけよう。長引かせると流石にこちらが不利になる。
ぐっ……と足に力を入れて、地面を蹴った。あと少しで朱斗の歪んだ、絶望した顔が見られると思うと自然と口角が上がる。
朱斗の頭を掴もうと手を伸ばしたーーその時。
ゾクッ……っと全身を駆け巡る確かな『殺気』。
肌の上を蛇が這いずり回っているような悪寒に、体をぶるりと震わせた。危険だと本能で感じた。避けようという思考とは裏腹に動かない体。
これは痛そうだな……なんて他人事のように考えながら鼻を守るため、咄嗟に顔を横へ背けた。
「……っ黄華!」
バキっと鈍い音と共に左頬に強い痛みを感じながら聞こえたのは、珍しく焦った黒鬼の声だった。ぐらりと視界が回転して、平衡感覚がおかしくなる。
マズイ、おちるっ……!
声にならずに吐き出された息と視界を埋め尽くしていくノイズに呑まれ、抵抗する間もなく意識を落とした。