17 紅羽
階段の一番下に腰を下ろして空を眺める。今日は雲一つない快晴。見上げた先にある太陽はギラギラと輝き、自らを主張する。
ポケットに入っている飴を取り出し、口に入れた。じんわりとレモンの優しい味が口内に広がる。
「……随分とご機嫌だね」
どこか不満を持った声が背後から聞こえた。振り返らずも声の主はわかる。
「そうだね。そういうお前はやけに不機嫌じゃないか」
「当たり前だ。君だろう? あいつに僕の所へ行くように指示したの」
そう言った黒鬼は深くため息を吐いた。その声はやけに疲労を感じさせるもので、少し申し訳ないと思ってしまった。
「すまない。うちの洸輝が迷惑をかけたようで……」
「あれは迷惑の枠を超えているよ」
げんなりした顔つきで零した言葉は珍しく本音の塊で、思わず眉を下げて苦笑いを浮かべた。
……一体コウは何をやったんだよ。後で話を聞く必要があるな。
カラリ。口の中の飴が歯に当たり音を出す。黒鬼が近づいてくる気配を感じ、手元に置いていた狐の面をつけると、自分の横の少し空いている場所を指さした。
「隣、失礼するよ」
一言断ってから階段へ腰を下ろした黒鬼は突然少し悔しそうな表情を見せた。何故急にそんな表情を見せるのかがわからず、首を傾げる。
「黄華はまだ僕に素顔を見せてくれないんだね」
なるほど、そういうことか。確かに黒鬼は俺の素顔を知らない。いや、知られていると困る。いくら髪を短くした所で顔立ちは女のままで誤魔化すことはできないだろう。そんな事を悶々と考えていると不意に肩を押された。油断していた身体はその力に逆らえずそのまま地面へと倒れる。衝撃に備えて目を瞑るが、予想していた衝撃が感じられない。目を開けると、目の前には黒鬼の綺麗な顔。あまりの近さに息を呑む。頭と背中には黒鬼の腕が回されており、地面に着かないようしっかりと抱き抱えられていた。
「不意打ちだとしても、倒れるなんて黄華らしくないじゃないか」
「そんな事を言われてもな」
ふわりと微かに香る甘い香りは何かの香水だろうか。じっと黒鬼の目を見つめて考えていると、黒鬼は私を地面へとゆっくり下ろした。
「お前は何がしたいんだ?」
驚くほど優しい手つきに黒鬼の意図が読めず混乱するばかり。目は口ほどに物を言う……なんて聞くが、黒鬼の場合は違う。
「黄華、君は油断しすぎじゃないかな」
そう言ってにっこりと笑うと黒鬼はゆっくりと俺の狐面へと手をかけた。
「抵抗はしないのかい?」
行動に反して優しい口調。狐面に触れていない手で私の手首を力強く押さえてくる。無駄に体力を消耗するのも面倒だと体からフッと力を抜けば、その態度が気に入らないのか笑うのをやめて冷めた目で見下ろしてくる。
「俺は今日、機嫌が良い」
突然話し出した私の言葉を聞いた黒鬼は言葉の真意を探る。暫く目をキョロキョロとさせ、考える仕草をしていたが結局意味がわからないのかそれがどうした、と目で訴えてくる黒鬼を俺は鼻で笑った。
「だから、今なら特別に許してやる。はやく俺から離れろ」
ガリガリッ、音が黒鬼と俺の間で聞こえたと同時に、無意識に飴を噛み砕いていた事に気がついた。最初に口に含んだ時よりも小さくなった飴は簡単に破片へと変化し、口内に刺さるようにして味を広げた。
これは忠告。紅羽と戦う前に無駄な争いはしたくない。お前と戦うために此処へ呼んだ訳ではない。スッと目を鋭くさせて、じわりと殺気を出す。
黒鬼はピクリと肩を揺らすと、小さく息を吐いた。
「すまない、降参。今日の相手は君じゃないってわかってるよ」
そう言った黒鬼は、素早く俺から離れると前方へと鋭く視線を走らせる。
「どうやらお客さんが来たようで……」
聞こえるのは複数の足音。その音が近づいてくるにつれ、自分の口角が徐々に上がっていくのがわかる。この日をどれほど待ち望んでいたか。
先頭の男の顔が判断できる程近づいた距離。頭の中は冷静である筈なのに身体は言う事を聞かないようで、今すぐに走り出そうとしていた。
「よく来たね。それじゃあ、はじめようか」
この言葉を合図に、地面を思い切り蹴り弾丸のように走り出す。目の前の敵へと拳を振り切り、左頬へと食いこませる。勢いに耐えられなかった相手は後方へと吹き飛ぶ。そのまま勢いを殺さずに横にいる相手へ体を捻り、回し蹴り。ふわりと重力を感じさせないほど軽い動きで確実に敵を仕留める。
「うわ、最初から全力で突っ込むのか」
ため息混じりに呟いた黒鬼はその場から動かず、敵自らが近づいてくるのを待つようだ。
「……っ黒鬼だ!まずは黒鬼を潰せ!」
切羽詰まった声で声を荒らげる敵の指揮官。朱斗の姿は未だに見当たらない。主役は遅れてやってくるようだ。
「あらら。僕ってそんなに弱そうにみえるのか……」
不貞腐れる黒鬼は未だに身体の力をダラリと抜いて立っている。だが、重心は前。何もしてないように見えるがどんなタイミングでもすぐに動けるように立っている。
「駄目だよ、相手の力量はちゃんと自分で測らないと」
その声には殺気と興奮が見え隠れしている。背中に冷たい戦慄が走るのを感じた。
その声に潜む感情に気が付かないのか、拳を振り上げて襲いかかる敵の群れは黒鬼へと牙を向く。鳩尾を狙ってくるわかりやすい軌道を描いた拳を受け止め、そのまま敵の頬へと拳を入れる。後ろから向かってくる足は避け、腕を掴み目の前の敵へと背負い投げ。これだけでも明らかに黒鬼の力が大きいのがわかる。
「余所見なんかして、余裕だな!」
前から勢い良く振り下ろされる拳を横に流して敵の頭部を掴み、思い切り壁へと打ち付ける。バキッと何かが折れる音がしたが、知ったことか。襲いかかってくる敵をひたすら、容赦なく殴り飛ばす。その度に鉄の匂いが辺り一面に広がった。
「これで最後の一人かな」
ぼそりと呟いた声の主をみて、その場に立ってるのが私達だけなのに気がついた。あれだけいた人数がこんなに早く片付いたのはそれだけ黒鬼の力が大きいのだろう。
一息つこうと気を抜こうとすると、背後に先程まで感じなかった新たな気配を見つけた。バッと振り返り警戒して気配の原因を睨みつけるようにじっと見つめる。
すると、パチパチと乾いた音が鳴り響いた。突然俺達へ向けられた拍手に警戒を強める。
「流石だな。思っていたよりも早く終わってる」
壁に体を預けて拍手をする彼。わざとらしい口調で私達を褒める姿はこちらの神経を逆撫でする。
「そういう君は仲間がやられる所をみてるだけなんて、良い趣味してるね」
「ありがとう。俺もそう思うわ」
負けじと言い返した言葉をサラリとかわしてわざとらしい笑顔を浮かべる。
「それにしても、随分と遅い登場だな」
私は『赤』を纏う彼の顔を見上げた。前髪をアシメにして短い赤髪から覗く耳からはシンプルなシルバーピアスがキラリと光っている。
「あんた達の力を再確認する為にやったんだけど、確認する前に方がついちゃって……」
俯き大袈裟に肩を落としたかと思うと、ニヤリと笑い顔を上げた。
「まぁ、あんた達が強いのは最初から知ってたしね。俺一人で立ち向かうのは少し無理があるからね」
そう言って朱斗は俺達の背後へと視線を向けた。その瞬間、ゾクリと背中が粟立ち額に冷や汗が流れる。
咄嗟に上体を反らせば、ヒュッと音を鳴らして目の前を通り過ぎた鉄パイプが見えた。
「あは、避けられちゃった!」
コロコロと聞こえてきた愉快そうな笑い声と、瞳孔が開いた青色の瞳が更に俺達の恐怖心を煽った。
「だから、俺の相棒も連れてきちゃった」
そう言った朱斗の顔をまともに見ることも出来ず、驚き固まることしか出来なかった。