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Season1 [後]

 自白した。自分の持つ能力を。俺が予想したものとはかすった程度だった。氷野が持つその能力は、霊能力者的な特殊能力。いや特異な超能力とでも言えるだろうか。まだ俺は疑いの目を光らせているが、これは演技かもしれない。

 試合の途中もそれだけで、前の試合と同様、集中できなかった。小海と氷野の同時の監視。これはあまりに無理なことで、もしかしたら意味のないことになるかもしれないが、それはそれでいい。無駄な労働だが、一つ確かめられることになる。

 しかし小海と氷野はいつもと変わらない顔をして、俺と目があっても俺が目を伏せるだけで、やつらは微笑んでいた。話しかけられても、俺が話しにくいという雰囲気を作って、逆に不審な目で見られた。本来が俺がやることをやられているのは俺から見ても滑稽だ。

 そんな時、話す相手といったらミズキぐらいしかいない。いつもならアズサも含むのだが、今はどうにも話せないような空気を作ってしまった。

 そして試合は終わり、気付いてみたらリーグで優勝。明日のトーナメント戦に進出するという展開となった。

 試合後の集会で、決勝トーナメントに進出したチームの発表をした。朝と同じように並んでいた。アズサは無口で、並ぶ前も何も話さなかった。俺も話せなかった。互いに話せない同士で五十歩百歩だと思うが、切り出すタイミングが分からない。

 集会が終わり、俺はいち早く人混みから離れた。アズサと小海と氷野から逃げたいと思った。今日は一人で帰ろうかと考えていた。

 誰よりも教室に戻り、誰もいない教室でいち早く学生服に着替えた。そして教室を出ようとしたところ、運悪く、ミズキとばったり会ってしまった。

「おい、探したんだぜ」

「今日は用事がある。忘れてたんだ…じゃあな」

 ミズキをかわし、その横をするっと抜けた。

 これから人が階段を上がってくる。この階段ではしばらく降りることはできないだろう。そしていつかはアズサや小海も上がってくるだろう。それを避けるため、この高校生活一年で培って見つけた、抜け道を行くことにした。ミズキはどんな顔をしているだろうと思いながら、俺の抜け道を歩いていた。何年ぶりだろう。この抜け道。しばらく使ってなかったことに気がついた。単に非常階段を下りるだけなのだが。

 昇降口には誰もいなかった。がらんとしている。やけに高い天井には虚しさがたまっていた。

「…リョウ」

 突然のことに驚いた。誰もいないと思っていたところで、声をかけられたのだった。

「…来て」

 声の聞こえるほうを振り向くと、そこには澁がいた。初めてリョウと呼ばれた。初めて話しかけられた。どういう風の吹き回しか。

 横を向いたと思うと、下駄箱に隠れ、そのまま見えなくなってしまった。俺は後を追うと、もう靴を履き替えて外に向かって歩き出していた。俺もその後を追った。

 澁の横に並び、何を切り出せばいいのか分からないまま、何も話さずに歩き続けた。駐輪場の横を通る時、今日は自転車で来ていたことを思い出した。どうしようかと思っていると、澁はぼそっと言った。

「自転車…」

「とってきていいのか?」

 何を聞いているのか俺。それにしても、こいつは単語しか話せないのか。

 澁はうなずき、俺は自転車をとってきた。

 自転車を転がし、俺よりもやや先を先導していた澁を見ていた。小柄で無口だというのは分かっていたが、よく見ると端整な顔つきをしている。今まで変わったやつだという偏見で顔なんか目もくれていなかった。清楚な体から細身の腕や足が伸びていた。

 こんなに清艶だっただろうか。下手したらアズサや岸よりもきれいな肌の持ち主で、また、清雅な面があるかもしれない。いつも周りから孤立していて目立たなく、誰にも気付かれなくひっそりといたからこそ、こういう形が生まれたのかもしれない。

 俺は澁についてをいろいろと研究しながら、これからどこに行くのか、どこに向かっているのかが気になってしょうがなかった。しかしどう聞けばいいのだろうか。一言しか話さない澁に、その限られた条件を突きつけられていた。その上、自転車置き場の前から、一言も話していない。

 とりあえず、何かを話さなければ始まらないと思って、どうせなら直接言ってしまおうと思った。

「なあ。どこに向かっているんだ?」

「…家」

 はたしてどこの誰の家なのか。予想は大体ついていた。

「誰のだ?」

「…私の」

 澁は話すのに興味がないかのように目を合わせようとせず、前をひたすら見て歩き続けた。こいつについていっても、何もされないことは分かっていた。だってあまりに積極性のない澁だし、その上まだ確かな関係を持ったこともない。唯一の長い会話は今日あったが、それは質疑応答のようであったので、会話とはいえないだろう。

 しかしやはり不安な気持ちはでてきて、聞いてみるだけ聞いてみようと思った。

「それで、何するんだ?」

「話…」

「どんなだ?」

「今日のこと…」

「そうか…」

「そう…」

 これは会話なのだろうか。無駄な心の探りあいなのだろうか。それともわざわざ貴重な時間を放棄しているのか。

 この空気を何とかしたいと、話題を詮索するが、ない。仲を深めようというわけではない。そんなことをしても無駄だ。こいつは誰にも心を開かないような気がしたからだ。

 結局何も話さずに澁の家に着いた。マンションだった。かなり高級に見える。最上階はどこだと見上げると、てっぺんがよく見えない。

「ここ…」

 澁は駐輪場の横の少し開いた空間を指差した。そこに止めろと言っているのだろうか。

 俺はそのとおりに自転車を置き、俺を見ていた澁を見た。置いたと確認するや否や、澁は透明の自動扉の向こうへと消えていった。

 早足で追いつくと、アズサのマンションと同じように、セキュリティが完備されていた。そして自動扉が開き、エレベーターに乗り込んだ。澁は最上階を押した。いつになっても慣れない。他の人と一緒に乗るのは異性問わず慣れないものだ。息苦しいエレベーターを降りると、澁は無言で歩き出した。一番奥の部屋だった。カギがかかっていなかったのか、そのままドアを開いた。やはり無言で一人勝手に上がっていった。

 俺は試しにここで待ってみればどう澁が反応するかが知りたかったが、上がったと思っていた澁は親切にもドアを押さえていてくれていた。さすがに俺もそんな意地悪なことは出来なかった。

 結構きれいに片付けられていた。アズサの家以上にきれいだった。置いてあるものが何もないといっても過言ではない。生活に必要なソファーにテーブル、カーテンぐらいしかなかったのだ。新聞やゴミなんかはない。

「座って…」

 言われたとおりにソファーに座った。かなり高級なのか、お尻がはまってしまうようだった。

 高級感溢れているのに、なんだか簡素な家だな。

 それは前に来たことがあるような不思議な感覚が前触れもなく訪れた。それとも昔、想像に描いていたものがたまたま一致してしまったのか。しかしそれは思い出せなかった。

 澁はキッチンから出てきて、適当なものをお盆に乗せてやってきた。

「それで、何話すんだ?」

 これがまず話の原点であるが、俺は本題に感じられた。下手したら話題づくりだけで終わってしまうかもしれないからだ。

「…なんでもいい。リョウの知りたいことなら…」

 何を言っているのだろうか。こいつは俺にとっての全知全能の神なのだろうか。それとも酔狂な発言か。

 しかし俺は試してみたかった。四月にアズサが変貌してから今に至って色々とあった。それがもし続いているシンドロームなら、今回もそうだと感じられた。今日の小海にしろ氷野にしろ、今年は変なことが立て続けに続いている。こんなことは今までないし、あるはずがないと思っていた。望んでさえもいなかった。だが望んでいた。

 それは俺がいつかこの世界がもっと面白ければいいと思っていた時だった。ゲームの主人公や世界が真っ二つになったらなんては考えていない。ただ、少しの刺激があればいいと思っていた。ほんの小さな衝撃でもいい。この世ではありえない小さなことが起こればいいと思っている。小さな発見。それが俺の望みだった。だが今ではそんなことを望んでいなければ、実現しないほうがいいと思っている。それがもし起こってしまったらという恐怖があったのかもしれない。自分のことなのに、本当の気持ちがまったく分かっていなかった。

 しかしここにあるチャンスを逃すべきか。面白いことが起こる予感がした。だが相変わって恐怖という理性が俺の欲を押さえつけようとしたが、好奇心が食って掛かった。そのおかげで俺は何もためらわなかった。

「それなら、今日の二人は一体何なんだったんだ」

 澁はこのことを知らないはず。この質問で試すことにした。知るはずがない。知っているはずがない。どんな返答が来るか楽しみだ。

「…それは、彼らが神からの使命により実行された行為。私とは独立された、神からの勅使。特別な能力と命を与えられ、そしてそれぞれが過去を持ち、選ばれてなりえた神仕者。神により召集された者たち…」

 もうわけが分からない。これは澁が作った何かのゲームなのか。あいつらはこう澁がずらずらと言葉を並べたとおりのお偉いお人なのか。

 それよりも澁の解釈は違っていた。

「いやいや、そういうことじゃなくて、あいつらが言ったことなんだが…」

「…彼らの言ったことはすべて神の命を受けて述べたこと。神が望んだことをやりえたまで。彼らが言ったことはすべて正しい。だが一つ抜けていた。魔法使いや錬金術師を守っていたのは超能力者であった。しかし今ではそれらが絶えかかっている。限界がある。小さな集団だった。彼らの世代交代が始まると、彼らは絶えた。今残るのは一部であるということ…」

 なんだかファンタジックでマンガな要素が取り込まれてきた。

「どうやって守っていたんだ?」

「…周囲に結界を張り、彼らを見えないようにした。能力を使うことによって自分の寿命を削っているのにもかかわらず、だが超能力者は多くもない。彼らは魔法使いや錬金術師としての絶尽することを決意した。彼らは超能力者になった…」

 いつの間にか澁の話に飲み込まれていた。そのおかげで俺が聞こうとしている話の路線からずれていることに気がついた。

「それで、あいつらの変貌はなんだったんだ?」

「…あれは神に与えられし能力による副作用。そして人間の怒りと恨みによる感情の形成。我々には到底理解が出来ないもの。神が創りえたものは、分からない…」

 やはりこいつの実態を知りたくなってきた。気付いてみると、初めの企みは見事に返され、それがあまりに見事すぎて俺は気付かないで好奇心に駆られていたようだ。澁がお宮氷野のことを知っていた事実。どういうことだろうか。

「お前と小海や氷野との関係って何なんだ?」

「…私は彼らとは独立したもの。それ以上の関係はない…」

「そういうことじゃなくて、何でやつらと話してた内容を知っているんだ?」

 澁の返答は確かに適確だ。だが、それは人間として解釈としては間違っているものだった。普通なら分かるようなことを分からない。こいつは一体何なんだろうか。人間辞書がふさわしいかもしれないが、単なる人間では済まされないような気がする。

「…彼らは神から必要とされ、召された者。私は神からの願いを承った者…」

 何の違いがあるのか俺には分からない。

「一体、お前は誰なんだ?」

「…私は、私。澁航…」

「いや、だから、お前は何なんだ?」

「…物質的に言うと、生命体。この地球に住む人間とは違う人間…」

「…で、結局は人間か」

「そう…」

 人間なのは分かったが、こいつはここで生まれて、ここで育ったのだろうか。もしそうであれば、少なくともこんなやつがここにいるはずがない。

 しかし澁の言葉に引っかかる部分がある。地球に住む人間とは違う人間。つまり地球には存在し得ない人間。いわゆるこの地球には存在しない人間。宇宙から来たとでもジョークを吹っかけたいのだろうか。

「それでその人間が何のようで」

「…私は神を観察するために来た者。この地球のシステムのデータを集め、本部に送る仕事を任された者…」

 来た?これははたしてどういう意味か考えることはない。だがこんなことは信じられない。これではSFや小説、マンガの世界だ。そんなことはありえないと自分は否定する。それもそうだ。今まで生きてきて養った教養が全否定されるようなものだ。こんなことはありえない。宇宙戦争なんてない。地球侵略なんてない。NASAは宇宙人と交信していない。

 今での常識が覆ること。それは俺が生きてきたこの地球上の天地がひっくり返るということ。まさに足を天高く持ち上げられ、頭から地面にたたきつけられたような感じだ。

「…つまり、何だ。お前は自分を…宇宙からの来襲とでも言うのか」

「…来襲じゃない。調査。それが目的…」

「つまり…宇宙人だとでも…言いたいのか?」

 澁は縦にうなずいた。

 俺は何も言えなかった。何の目的でこんなことを認めるのか。こんなユニークなことを言うやつは山ほど見てきたが、自分が宇宙人だといったやつは見たことがない。それに、この会話は何だ。知らないはずのことを知っているは、あたかも自分を宇宙人だと知ってもらうための誘導をしているようにも思えた。

 俺が口を半開きのままにしていると、澁は自分から語り始めた。

「…私はこの地球を調査するために宇宙から来た。それは私の住む場所がまだ不完全で、基盤がはっきりとしていないために派遣された者。そして私は生命の住む星を探した。それがここ。私の住む環境の条件と似ているこの土地に目をつけた。しかし入れなかった。私を受け入れなかった。それは私ではどうしようもないことだった。だから私は調べた。どうやったらここに入れるか。そしてここを統治し、治安を保ち続ける神の存在を知った。私はその神と交信し続けた。そして面会はせず、すぐに入れることになった。しかし条件があった。神に協力すること。それがここにいられる条件。だから私はあなたにこれを伝える。今から言うこと。神からの伝言…」

 俺は唖然、呆然、愕然だった。自分にはまだ宇宙人という存在が分からない。だがこいつが目的とその詳細を話した。これがすべて事実なのかも分からない。理解は出来るが、その前に目の前で起きている自分とは明らかにかけ離れている事実が例え本当のことでも、

こんなことはありえない。神?神なんていない。いるはずがない。無宗教の俺にとっては神なんて程遠い存在だ。神聖なものと言われても分からない。どこかで常識ではありえないことを否定している自分がいた。認めたくない自分だ。

 しかし心は揺らいでいた。半信半疑が似合う。

 澁はその後を続けた。

「…昔、神はいなかった…」

 なんと。さっきまで神だ、神だと言っていたのに、突然否定し始めた。

「…私が調べている間、気がついた。これは私のデータだったが、神には既知の情報だった。どうやら継承されるとすべてが継がれるようだった。知識も、過去も、権力も、政治も、すべてのルートが受け継がれる。だが神は変わる。たった一年で。この制度が取り上げられたのは人類がこの地に立ち、二千年もすると、そこには指導者や統治者、支配者が地を支配する時代に変わっていた。そして戦は起こり、人々は乱戦の中を生きることを強いられた。その支配する者たちによって…」

 支配という言葉で思い出した。小海の魔女狩りという言葉。時代は違うが、それらは人が人を支配したことによってなってしまった現状だ。いや、今では過去のことか。

 澁の声のトーンはいまだに変わる気配は見せない。

「…だから、その支配者を押さえつけるためだけに神が採用された。これとは別に人々は偶像の神を崇めた。自分たちで創造した神々だ。創造の神を創造し続けた。本当の神を知らないで、心の奥に逃げ道を作った…」

 ここで、一つの疑問が浮かんだ。

「採用したのは、誰なんだ?」

 もっともだと思う。

 だが澁は顔色一つ変えなかった。

「…人間と考えることは同じ。偶像の神は人間が作った。統べる神も望んだとおりに生まれたもの。外部から力を加えられたものではない。人間の意志で作られたもの…」

「だがな、それだったら偶像の神はいらないじゃないか。みんな知ってたんだろ」

「…知っていても知らないことはある。思っていても知らないうちに行われていることがある。苛政は望まれないが、善政は好まれる。それと同じ。望まれることが現れた結果。だがまだ支配者はいる。統治者が支配者を支配するから。望まれたとおり神は生まれたが、そのことは誰も知らない。神は知られずに生まれた…」

 淡々と話を進めようとする澁だったが、ここで一旦話をやめた。何でやめたのか分からない。

 俺はこの間に澁の話したことを整理した。つまり神は誰にも知られていない存在で、なら神とはどういうものなのだろうか。疑問は膨れ上がっていく。

「それなら、神ってどんなのなんだ?やっぱり存在しないとか」

「…そう。存在しない。物体でも存在でもない。あなたたちの欲。それらが神を創るための材料。人間が意志で示したから生まれた、存在ではない存在…」

 存在ではない存在。どういう意味だろうか。最終的には存在しないのか。

「なら、どこにいるんだ?」

「…人間の心の中にいる。生まれて物心ついた時、もうすでに存在している。そしてそれらは変わっている。一人一人個性があるように、神も違う。だが、たった一人、絶対神が存在した。神より上を行くものが生まれたから…」

 どうやらこれより奥に深入りすると、ややこしくなりそうだ。初めて知ることばかりだ。すべてを知るにはまだまだだと感じるが、これはほんの序文に過ぎないんだなと思った。今ではもうすでに理解が出来ないところに到達している。実際の話、この澁が語ったことはどうなのだろうか。すべてがウソのように見えて、ホントのように思える。虚実相半ばしている。

 外はいつの間にか暗くなっていた。ここは最上階だから、きっと夜景がきれいなのだろう。耳に鮮明な時計の針が動く音が聞こえる。

 俺はやっと我に返ることができ、澁の話に一生懸命聞き入り、さらに信じ込もうとしている自分がいることに気がついた。いや、むしろ虜になっていたのかもしれない。やっと出てきた言葉がこれなのも疑問だった。今頃なんだとあきれてしまう。自分の見解は、こうだ。

「…いや、そんなことがあるわけないだろ。神なんて、ばかばかしい。それに、今生きているやつらは過去を見たことないんだろ。実際にあった話か分からないじゃないか」

「…あなたはまだこの現実を受け入れていない。受け入れればならない日が来るまで、あなたはすべてを受け止める必要がある。そうでなければ、その日がこの世界の終わりである。歴史は現代に至ってもなお、生きている。それを語るのは過去を生きた史伝や史話が語り継ぐ。未来は私たちを待っている…」

「どっから来るんだ、その自信」

「…私がこの地を調べている間、気付いたことが一つある。神は地球を統治しているだけではない。宇宙までも、この太陽系を守り続けていることに気がついた。そしてもう一つ。神の選出のされ方。これは全人類の意志と望みの平均をとって、その最も該当する人間が神になる。つまり理想の統治社会が実現された…」

 こいつはのどが渇かないのだろうか。俺は澁の話を聞きながら、何度もお茶をのどに通しているのだが、こいつは唇が乾いている様子はなく、さらに一度も噛まないでぺらぺらと話す。

「…だが欠点があった。その制度は誰が神なのか分からないこと。そして、自分が神だと知ったら権力と能力を使って暴れまわること。だけど、今の神は知っている。自分が何をすればいいのかも知っている。それは…」

 澁は突然口をつむぎ、表情一つ変えずに黙りこくった。俺の目を一途に強い眼差しで見つめ続けた。

 にらめっこをしているわけじゃないんだから、と俺は目をそらし、再び口にお茶を注いだ。そして顔を上げると、まだ澁は俺の目を見ていた。まるでもう用がないから帰れとでも言っているようだった。呼んだくせになんだと創造で空想会話を勝手に進めた。

「じゃ…そろそろ、おいとまするか」

 俺は立ち上がり、置いてあるスクールバックを持ち上げた。

「言いたいことは言っただろ。これで終わりなんだろ?」

 澁は何も言わず、俺の目だけを見ていた。

 さすがにたじろいだな。まだ見ているとは。

 俺は玄関まで歩き、澁がついてくるのを背後に感じていた。そして靴を履き、ドアノブに手をかけた時だった。

「…いつか、来る…」

 つい、え、と声を出してしまった。澁はまだ俺を見続けていた。

「…リョウも、いつか、向かい合わねばならない…事実に」

 その時は何を言っているのやらと、もう今日澁が話したことを大部分一時的に忘れていた。

 まさかこんなに多くのことを話されるとは思わなかった。小海や日野の話から今話したことまで、すべてを覚えることはできない。感覚的でなら覚えている。それに、すべてを丸呑みに信じるとなれば、覚悟と自分を捨てることが必要だった。今の俺には双方ともできない。

 しかし、このことが後に信じることになるとは今の俺では想像もできなかった。


 荒れ狂った日はすぐに過去のものとなった。

 今日は朝から曇天模様で、また雨が続く日に戻ってしまうのかと思われたが、雲間から太陽が覗いていた。涼しく過ごしやすい日になりそうだ。そして今日は球技大会の最終日。と言っても二日しかないのだが。

 それはそれでまた波乱の一日にならないよう、今日も警戒を続けようと思う。だが昨日はそれで失敗した。今回はその反省を活かそうと思うが、きっと心のどこかで波乱の幕開けを待っているに違いない。

 もう昨日のことは今日になっては考えないつもりだ。どうせ考えても無駄だ。予想以上の情報量が蓄積されてしまっているからだった。俺は昨日のことをまだ信じていないとしている。つまり保留状態。いつでも忘れる気になれば忘れられると思っている。だがそれが裏目に出て、強く印象に残っているのには間違いない。そのせいで昨晩うなされてなかなか寝付けなかったのは事実である。

 おかげで今日はかったるい上にしんどい。こんな言葉を使うなんて、もうそんなに疲れていたのかと感じる。すでに老人になった気分だ。腰も曲がっているように痛い。足も筋肉痛。たいした運動もしていないのだが張ったように痛い。中学校の頃はこんなことはなかった。毎日運動していることのありがたさが身に染みた瞬間だった。アズサはどうなのだろうか。あんなに投げて、無事なわけがない。きっととんでもないことになっているだろう。今日は来るのだろうか。

 それはさておき、痛みに耐えながら登校すると、すでに着替えを始めているミズキがいた。

「おはよう」

「おはよう。今日さ、体中が痛くて参っちゃうよ」

「俺もそうだよ。朝起きたら驚きだもんな。体が思うように動かせねえんだよな。これじゃ、アズサは大丈夫なのかよ」

「多分、沈だな」

 そんな談笑をしながら体操服に着替えていた。

 そして続々と教室に男子生徒は入ってきた。

「お、氷野に小海。おはよう」

「おう、おはよう。今日も勝とうな」

「ああ、もちろんだ」

 いつもならついていけるテンションに、俺はついていくことが出来なかった。俺は楽しそうに話すミズキの後ろで黙々と着替えていた。

 本当にこいつらは人間なのかと思ってしまう。いや、昨日は人間なのだが、小海が魔法使いで、氷野が超能力者とか言った。だが結論、人間なのだろう。しかし俺たちと違う世界にいるようなことを自ら言った。実際の話、こいつらはどんな世界に住んでいるのかは気になった。

 この二人の実態を追いつつも、今日は球技大会の決勝トーナメントだということを頭に留めておき、今日も一日頑張ろうと張り切った。だが、もしかしたらまた話の押し付けをされるかもしれない。それだけは避けたかった。なぜかというと、これは思った以上にハードで精神的にもヘビーなものだからだ。

「ミズキ、行こう」

「ああ、小海と氷野も…おい、どこ行くんだよ」

 ミズキが小海と氷野も連れて行こうということは目に見えていた。だからあえて強行突破にでた。

 教室から出たところ、ミズキに肩をつかまれた。

「おいどうした。いつものお前らしくないぞ」

 いつものお前らしくか。もうすでにそんなのいない。俺はアズサが変貌してから探究心が溢れて警戒心が強すぎるほどの昔とは違う俺になってしまったからだ。

「そうか。どうだろうな。今日の試合…」

「やっぱ変だぜ。今日は休んだほうが…」

「いや、大丈夫だ。最近、色々とあってな」

「ついに心身ともにイッちゃったとか」

 ミズキだけは自分で言ったこのジョークを笑っている。しかし俺は大丈夫と言ってしまった以上、愛想笑いをしなければならなかった。それが辛くてたまらなかった。

「よお。お前ら、元気ないぞ」

 それは嵯峨野だった。違うクラスで野球部。同じ中学校で、去年までは三年連続で同じクラスだった。勝手にテンションを上げて、行き過ぎたと思ったら勝手に消沈する変わったやつだ。社交性があり、話も面白い。誰からも好かれるやつだ。

「ん…本当に大丈夫か」

 俺の顔色をうかがって嵯峨野は尋ねた。

 そりゃそうだろ。ちょっとした不眠症に遭ったんだから。

「いやいや大丈夫。昨日、寝るの遅かったから」

「そうか。ならいいや。それよりもさ、俺たちも決勝トーナメントに出るんだぜ。すごいだろ」

「そりゃそうだろ。二年の頭角的存在の組なんだからな」

 嵯峨野は野球部の中でも相当上手いと聞いている。だから三年の試合でも混ざって出るときがあると聞いたことがある。それが本当なら、優勝候補といわれても当然のことだった。

「お前らも何だかんだ言って、優勝してんじゃん。優勝候補とやってさ」

 まあそうだが。あれはすべてアズサのおかげと言っても過言ではない。あんなに事が上手く進むゲームは初めてだった。しかも全試合コールドゲーム。どこのリーグにも、今までにも新しい記録だった。

「ま、ガンバレや。せいぜい貧血になって倒れんなよ。あ、それと、やりあうことになったらお手柔らかにな」

 高笑いをしてクラスの連中と行ってしまった。

「まあ、全学年の中でも三本の指にはいるチームだからな。負けるか」

「それでもいいや。初戦だったら一試合しかやらないし、第一に疲れないな。それはそれは、グッドアイデアなことで」

 たいした話もせず、それっきり、黙ったまま外に出た。グラウンドに出て、また同じように整列して二日目の開会式が始まった。アズサはすでに並んでいた。

 校長のバカに長くありがたい話を聞きながら、それを子守唄にして立ったまま眠ろうと思ったが、やったことのない未知なことはさすがにやめたほうがいいだろう。もし寝ることに成功はしたものの、そのまま足が崩れて地面に伏せた時、嵯峨野が言ったとおり、俺は貧血だと間違えられるに違いない。

 寝不足から来る睡魔は驚くべき速さで襲ってくる。払ったら来て、払ったら来てときりがない。頭をこっくりこっくりとさせていると、後ろから突かれてやっと目覚めた。

「ありがとな」

 小声で言うが、聞こえただろうか。いくら喧嘩をしているといっても、一応感謝の言葉は言うべきだと思った。だがアズサは聞いていないことだと思う。

 話が止まり、お経は読み終えたかと校長のほうを見た。そして解散となった。

 それにしても、今日一日頑張れとはどういうことだろうか。昨日負けたチームはどうなのだろうか。それとも決勝リーグのチームだけに向けられた言葉か。つまり悔いの無いように頑張れとでも言いたいのだろうか。

「行こうぜ」

 アズサの声は聞こえなかった。それはミズキだった。後ろを振り向くと、そこにはアズサの影がなかった。

「おい。アズサはどうした」

「ん…先に行くって」

 そういえばアズサの体調について気になった。整列する時にアズサは見かけたが、俺とは目を合わせようとはせず、隣のクラスの女子と話していた。まるでその辺に落ちている石ころのように気にしていないようだった。

 試合のグラウンドへ赴く前に、グランドに通じる階段前に立ててある掲示板を見に行った。そこに今日の日程があるのだ。

「ほぉ…初戦は運悪く嵯峨野とか…」

「そうみたいだな。それよりさ、お前…アズサと喧嘩でもしてんのか」

「え…」

 どうやら気付いていたことを察していて、あえて気付いていないフリをしているようだった。俺も気付かないとは、まだこいつとはまともに向き合えていないような気がしてきた。

「まあな。昨日、ちょっとな」

「俺も見てたぜ。お前、昔からよく人のことを考えるからな。あの時怒った気持ちは分かるけどよ、やりたいて言ってんだからいいんじゃねえの。勝手に突っ走るのもあいつのいいところだしさ」

「でもさ、あいつはプライドってもんを知らないのか」

「まあ、もしかしたらないかもしれないな。下手すると知らないで生きてきたのかもな」

「お前にはそう見えるか。俺には必死こいて生きてきたって感じがするけどな」

「お前…いや、後はお前らのことだよな。そうか。なら、もう言わない」

 その時思った。こいつも神からの使者なのか、と。そう思ったのは今まであまりに身近にいる連中だったからだ。神の意志で集められたという言葉も気にし始めていた。どこかで三人の言うことを信じ始めている自分に気付いた。心のスイッチが変わって何かが稼動し始めている。それが何かはこれから突き止めるつもりだ。

 それっきり何も話さないでグラウンドへ向かうと思えば、ミズキから積極的にまでとはいかないが話しかける。それで俺も応答のみだけでは申し訳なく、話題の拡大を目指して広げる努力をするのであった。しかし無理にするだけでは面白くない。俺も無理にするつもりではないが、今日のミズキとの会話はいつもより面白いものだった。

 試合は二試合目となっている。グランドにはもう大体のメンバーはそろっていた。もちろん小海や氷野、アズサもだ。今のうちにグランドのすみでウォーミングアップをしてしまおうと思い、ミズキにそう提案した。

「そうだな。そうしたほうがいいかもな」

 小海や氷野が恐くて俺は近づけない。恐いというのは恐怖という意味ではない。煩わしいという意味でもない。敬遠したい人物だというのは間違いない。

 だがそのことまでは知らないか、ミズキは止まった俺の足を見てもその集団の元へ行こうと言い続けた。

 俺もさすがに考えた。これからこうやって生きていかねばならないのか。それはない。関わらねばいいのだ。離れて接さないようにすればいいのだ。

 そう考え、俺はやっとその集団に混ざることを決めた。

 ミズキは俺の提案したとおりを皆に告げた。それは提案した俺がやるべきことだと思うが、ミズキは今の俺を察してやっていることだと思う。俺は素直にその好意を受け止めた。

「どうした、リョウ。顔色悪いぞ」

「体調でも優れないのか」

 小海と氷野は俺のことを心配してのことだと思うが、次にどんな本性を見せるのだろうか。それが嫌でたまらなかった。隠されるのは嫌だが、こういうことは別だ。また、ひどく荒れた彼らを見るのも、目を覆いたくなる。ファンタジーの世界に誘われるのも嫌だ。同じ感性だと思われたくないわけではない。いつかこいつらに、本当に洗脳されてしまうと思ってしまうからだ。本当のようだが信じ難いことを御託のように並べてもらっても困るものだ。セールスマンの勧誘のように、誘導されている気がした。それに乗りかかる自分も恐かった。

「まあな…昨日、夜更かししてな…」

 氷野が近づいて来ていることに気付かずに、俺は二人の顔を見ずに、その二人の間を見ていた。そして氷野に肩を抱かれ、小さい声で言われた。

「昨日のことだろ…あいつにはよく言っておいたから、もう心配すんな。昨日のようなあいつはもうよっぽどの限りださないって…あとさ、どうするよ。昨日の続き…」

 背筋に冷たい筋が走った。凍ったようだった。

 小海だけでなくお前もなのだが、氷野はなぜか笑みを浮かべている。不気味だ。

「いや、遠慮しとく…ほら、疲れてるしさ」

「そうか」

 氷野は俺の肩から腕を下ろし、小海と再び話し始めた。

 鼓動が速くなり、緊張がなかなか解けない自分がいた。なんて末恐ろしいやつだ。

「おい、どうした。寒気でもしたか。顔色悪いぞ」

 ミズキは全体に指示を入れてから戻ってきた。

「保健室に行ったほうが…」

「いや、大丈夫だ。眠くてたまんないな…」

 俺たちがやるはずのグランドでの第一試合はすぐに終わった。接戦の接戦で、一回に一点をとってそのまま逃げ切った、あまりにシンプルなゲームだった。

 そして俺たちの試合。挨拶を交わし、始まった。

「そういえばお前らだけだな。男女混合チームは」

「でも勝ったからここにいるんだろ。そんなこともあるってこった。どんな試合もやってみなきゃ分からないってな」

「そうだな。こういう制度を採り上げてすぐに決勝トーナメントだもんな。決勝トーナメントに進んだって聞いた時、正直言って驚いたよ」

 嵯峨野と試合前に少々だべっていると、いつの間にか先攻後攻は決まっていた。俺たちが先攻だった。

 初回、俺たちはあっという間に二点を献上した。一番二番と二者連続フォアボール。そしてアズサの二塁打。しかし後者はあっという間に三者凡退。

 守りの初回、先発はアズサだった。体をぎこちなくではなく、昨日のようにしなやかに動かしている。鉄人とでも豪語されそうな勢いで投げていた。どうやら体調は健康そのもののようだった。昨日のように完全試合を続けそうだ。なんて言ったって、この回も三者凡退だった。

 回と回の合間の攻守交替で、嵯峨野は言った。

「滝川ってあんなにいい体型だったか」

 やはりそうだ。こいつらも全員して魅せられていたようだ。

 俺のことではないが、アズサのことでも許せなかった。しかし見るなとは言えない。その理由は誰でも分かるだろう。やはり幼馴染だからこそ言ってやりたい。アズサに言う決心をした。

 ベンチに戻り、氷野がバッターボックスに入った時、アズサは一人で離れたベンチ端に座っていた。俺はアズサの横に座った。

「お前、ピッチャー交代しろ」

 アズサは俺が座った時、不審で不思議そうに俺を見た。俺の言葉に少々とどまったようだ。突然のことに予期できなかったのか、何も言えなかったようだ。

「お前にもプライドがあるだろ。これ以上投げ続けたら、お前が汚れるだけだぞ」

 きょとんとした表情でアズサは聞いていた。俺の話が理解できないのか、もしくは理解をしたくないのか。自分で投げて、何か目標でも達成させたいのか。

「何言ってんの?ちゃんと点も取られないで抑えてるし、それに、まだヒットも打たれてないよ」

「試合で勝つだなんてどうでもいい。お前のためを思って言ってんだ」

「何、それ…あんたで抑えられんの?」

「だからそういうことじゃなくて…」

「だったら何なの?意味分かんない。はっきりしなさいよ」

「つまりだな。もっと女としての自覚を持てと言ってんだ。やりたいことをやるってのは確かに実行力があるって言うことだけは評価できる。だがな、それは諸刃の刃だってことを覚えておけ。血迷ってやるのと、分別と自分を知ってからやりたいことをやるのとではまったく違う。考えてやりたいことをやっても遅くないだろ。我慢できないものでもないだろ。今しかできないことでもないだろ…」

「今しかできないのよ」

 アズサは立ち上がり、俺から離れたところに座った。ベンチとグランドと相手ベンチから強い視線を感じた。完璧に見られていたようだった。

 俺は急に恥ずかしくなってうつむいた。そして時々アズサのほうの様子をうかがった。アズサもまたうつむいたまま、ピクリとも動かなかった。

 今しかできないか。俺も何を言っているのだか。アズサの言うとおり、確かにこの球技大会でピッチャーをできるのは今しかない。まして男子を相手することなんてこの将来ないことだろう。それにもしかしたら来年にもなれば、男女混合チームがなくなるかもしれない。これが最後かもしれない。だがプライドを捨てる場面なのかと考えると、絶対違う。アズサが何と言おうと思おうと嫌われようと、俺は絶対にこの信念を曲げない気だ。

 そんな不信で気まずい雰囲気で俺たちは各ポジションに散った。アズサはピッチャーマウンドに向かった。

 俺はアズサを眺めていた。どうせ球なんて飛んでこないだろうと思い、アズサの横顔を見ていた。何かを振り切ろうという思いで思い切り腕を振っていた。

 この回も三者凡退で、俺たちはそそくさとベンチに戻った。

 互いが肩身狭い思いをしてベンチに座ることになるはずだったが、この回俺の打順が回ってくることに気がついたので、ベンチから早く脱退した。

 その空気と雰囲気が嫌だった。アズサは変わらず一人集団からはぐれたように離れて座っている。それはなんとも孤独で、惨めな姿だった。今まで例がない、アズサの姿。いつも明るく振舞って周りをその空気に引き込む魅力の持ち主なのだが、俺の言ったことはそんなにへこませる内容だったであろうか。少なくとも俺にはそれはないと思う。しかし実際にこうやってへこんでいるのは希どころではなくない。元気がないというのはあっても、このへこみようは一体何か。

 そうこう考えていると、あっという間に先頭の岸は三振した。そして小海も凡退。俺の打順が回ってきていた。

 審判の先生も不服そうに待っている。怒らせてしまったか。

 とりあえず、早くバッターボックスに入り、構えた。しかし俺もあっという間に凡退。

 またアズサはマウンドに上がった。俺はもうやる気さえも失せ始めているのに気付いた。あらゆる意味でのやる気である。

 そしていつものように投げて三人でぴしゃりと抑えた。

 試合は淡々と進んでいる。

 次のバッターはアズサ。ここまで全打席ヒットであったが、一度もバットを振らなかった。ミズキや水崎に振れと言われても断固として振らなかった。

 二点をリードしたまま四回に入った。

 アズサはまたマウンドに上がる。俺はその場に座り込んで寝てしまおうかと思った。特に朝のように眠いというわけではないが、寝るように何か別のことをしたくなった。こんな試合、はっきり言ってどうでもいい。

 本当につまらない試合だ。初回二点きり、点は動かない。初めから点さえもとっていないように盛り上がらない。相手のチームも追いつこうとしない。面白くない。

 これが野球かというと、絶対違う。誰かが壊している。楽しいはずのスポーツがつまらないとは致命傷以上に崩壊まで危機に瀕している。誰とは言わない。

 気付けば勝ち目前。気合を入れなおして頑張ろうという気にもならないし、勝とうという気も起こらない。嬉しいと思うことがなければ、当然楽しいと思うこともない。

 ベンチだってそうだ。勝っているのにガンバレとだけの声援だけ。バックからの黄色い声なんてない。寂しくしんみりした空気がグランドを制していた。

 こんな試合は大抵面白くなるはずである。追い、追われて、その連続のはずである。まだ二点差はひっくり返せるという気が起きないのか、相手もこの空気に嫌気が差しているようであった。

 三者凡退が当たり前のように思えてきた。こんな変化のなく展開が乏しい試合は生まれて初めてだ。

 俺はまた守備につこうとした。今度こそ座って寝てやろう。そんなくだらない決意を攻撃の時に考えていた。

「ねえ。ちょっと」

 アズサは守備につこうとする俺の服を引っ張った。

「何かようか?」

「話がある」

 どうやらまともな話らしい。時間を割いてまでも重要な話だろうか。

「それで、何だ」

「あんたがピッチャーやりなさい。私がそのままショートに入るから。肩がこっちゃって…何よ、その目」

 正直じゃないところがまたアズサらしい。なんとも膨れ面な顔をして、いかにも肩が痛いかのように振舞った。

「ああ…分かった」

 しかし度胸だけでマウンドに上がったが、よく考えてみると、ピッチャーなんてやったことがない。どうすればいいのか。とりあえず投げればいいのか。

 交代のことを審判に告げねばと思った時、澁は審判に交代を告げていた。なんとも要領のいいやつだ。まるで俺たちの会話をすべて盗み聞きしていたような、素早い行動であった。

 澁は座り、審判は三球投げろと言った。

 俺は投げてみた。すると、以外にも以外、放ろうと思ったところにボールはまっすぐと行くのである。しかしアズサよりかは遅い球だ。それがなんとも恥ずかしく感じられた。

 バッターが立ち、このままの調子で行こうと思った。そしてボールが手を離れた。だがボールはさっきとは思うように行かず、外角を外れた。多分、バッターに当てることが恐いのだろう。実際当てたらというその先の想像が恐い。こういう時は逆に当てようという気持ちで行けばいいというが、本当だろうか。

 物は試し、俺は澁のミットにめがけて、当てても構わないという気持ちで投げた。

 金属の快音が聞こえた。ボールは俺を越え、センターに向かった。そしてセンターの頭上を越える当たりとなった。だが、小海は追ってついにグローブにボールを収めるところまできた。体は半身で、なおかつ足はもつれていた。ボールは虚しくもグローブには収まらず、地面に落ちた。

「ドンマイ、ドンマイ」

 ランナーは二塁に達し、ノーアウト二塁のピンチを迎えた。しかし皆はさっきの静寂とは違い、互いに声を掛け合うようになった。

 それに応えようと、俺はボールを握り締めた。

 そのおかげなのか、次のバッターはサードフライだった。だが、次のバッターは粘られて、フォアボールで出してしまった。次のバッターはボテボテのファーストゴロ。その間にランナーは一つずつ進塁した。そしてラストバッターとなるバッターは、ふらふらと上がるライトフライを打ち上げた。

 よし、と拳を握り締めたが、思い出した時には堕落に変わっていた。ライトは岸だ。

 岸は相変わらずの千鳥足で、どこが落下地点なのか、分かっていなかったようだ。そして虚しきかな。ボールは大きなバウンドをした。しかしセンターの小海はカバーに回っており、すぐに捕って、中継のミズキに投げ返したが、ランナーは二人とも生還していた。

 グランド内で小さなため息がこだましている。岸はいづらそうだった。小海は励ましてポジションに戻ったが、岸はすっかり落ち込んでいた。

 まだピンチは続くもの、今度はピッチャー返し。俺はグローブに当てるだけで精一杯だった。

 ランナーは一、三塁。ピンチは続く。ピンチはチャンスという言葉があるが、どんな意味がチャンスなのか分からない。

 ラストバッターにレフトへのクリーンヒットを打たれ、ついに逆転された。

 掛け声は止まないが、さっきのため息は続いていた。掛け声で聞こえづらいのがなんとも心にとげを刺すようだ。

 この回はこれで終わったものの、逆転されてしまった。

 皆が岸に声をかけるものの、やはり白々しい目で迎えるベンチがあった。俺も励まそうとしたが、励ますための言葉が見つからなかった。

 とりあえず、一人空けて岸の隣に座った。言葉を探した。自分の少ないボキャブラリーがここでこんな墓穴を掘るとは思いもしなかった。

 金属音の快音が聞こえた。アズサが打った。きれいなセンター返しだった。

 アズサはベース上でガッツポーズをした。

 岸は顔を上げて、切ない顔で言った。今にも泣きそうな顔だ。

「いいな…野球が上手くて…」

 その言葉を聞いた時、言うべき言葉がないのが恥ずかしく思えた。普通なら返す必要はない。だが言わねばという気持ちがあった。ふがいなさが逆転された俺をさらに追い込んだ。

 また快音が鳴り、だがショート真正面のライナーを取られた。真芯で捉えたからしょうがない。守備位置というのは統計上、一番ボールが来る場所に並べられているそうだ。それに真芯で当たった時のボールは大抵、守備の正面だと決まっている。

 ミズキは悔しそうに戻ってきた。

 次のバッター澁は、立つだけでバットは振らない。ここまで全打席を三振となっている。しかし今回は違った。打つとこれもまたきれいなセンター前のヒット。チャンスを作った。

 もしかしたら、もしかしたらと皆、ベンチを立った。

 次は波和。ここで打ってくれれば、サヨナラのチャンスができる。だが、狙った初球はセカンドゲッツー。ショートに嵯峨野がいたのがこの試合を終止符を打たせたのかもしれない。

 ため息がベンチに流れた。もしかしたらと思って上手くいくことなんて、そんなに多くはない。

 挨拶をして、試合は終わった。今日の試合はこれで終わりだった。

「惜しかったな。ま、俺の手にかかりゃ、こんなもんだけど」

 試合後、嵯峨野は俺に話しかけてきた。

「だけどよ。お前がピッチャーやり始めた時は正直驚いたぜ。まさか本当にやるとはさ」

 俺だって驚いている。まさかアズサのほうが折れるとは思ってもいなかった。このまま試合は勝ってしまうのかとさえ思っていた。しかしそれは何も変わらない面白くない試合だっただろうと思う。だが今日の試合は楽しかった。今までの中で一番だ。負けたが、新鮮で、何か手に入るもがあった。

「これからもう休めるからよかったよ。負けて」

「それが狙いだったのか。それにしちゃ、点取らせてくれなかったけどな。しかも、抑えてる時はお前、ガッツポーズをしてたけどな」

「今年のアカデミー賞主演男優賞、狙えるだろうな」

「何言ってんだお前」

 試合は終わった。無性に悲しかった。しかしその試合後は、何でもできるような気がした。こうやって話しているのが悲しみの反面、心が温まり、一番に楽しかった。

「まあなんだ。これからの試合、ガンバレよ。じゃあな」

「ああ。でもお前らの分まで頑張る気にはなれねえけどな」

 嵯峨野はベンチに戻った。

 今年の球技大会は終わった。だがまだ他のチームは何試合かある。それは決勝リーグまで勝ち上がり、だがそこで初戦負けのチームだけはない。昨日負けたチームは他のリーグのチームと交流戦らしきことをするらしい。

 俺は切ない気持ちであり、しかし勝ってもないのに喜びの気持ちにあった。それは心のどこからともなく溢れてくるエネルギーのようだった。

 皆はそそくさとベンチを上がった。移動するその中に遅れて一人、歩いているものがいた。

「そんなに落ち込むなって。こんな日もあるさ」

「だって…だって…私のせいで…」

 岸は半ベソをかいて、今泣き出してもおかしくない様子だ。

「昨日はお前のおかげで勝てたんじゃないか。今日はたまたまツキがなかっただけ。お前のおかげでここまで来れたんだぞ」

 どう励ましても表情一つ変えようとはしない。うつむいたままだった。

「だって…だって…今日勝って、優勝して…でも、初戦負けなんて…」

「まあまあ。とりあえず落ち着けって。どっかに座るか?」

 岸は首を振る。

「いや、座ったほうがいいって。ほら、そこに座れよ」

 今度は縦に振る。

 俺たちは花壇の囲いである石のふちに並んで座った。

「…十分頑張ったよ。俺もふがいなかったし」

「でも、あの球…普通なら捕れてた。あれで終わってた」

 励ましは逆効果だった。どうすればいいか。俺は迷った。

 すると岸のほうから話しかけてくるのであった。

「この試合勝って、リョウ君をデートに誘おうと思ったのに…」

「へ?」

 突然のことに驚いた。こんな時にデートの約束なんて、何てお気楽なのだろうか。さっきまで半ベソをかいていたとは思えない、すさまじい変わりようである。

 俺は自分の耳を疑い、また聞きなおした。

「え…なんて?」

「こんな私だけど…明日、遊ぼ。ダメかな…」

 半ベソの反動なのか、まだ肩で息をしている。その顔がなんとも可愛らしくて、しかしこれを断ったらためていた涙が滝のごとく流れ落ちてきそうな気がして、断ろうにも断れるはずがなかった。いや、断る必要はないだろう。

「あ、ああ。いいけど…本当にか」

「本当?嬉しい。ありがとう」

 どうしても俺は恐縮してしまう。それもそのはず、俺はまだ異性とのデートたるものをしたことがなかった。アズサと二人で遊んだことがあるが、それは論外である。デートとは言えない。

「本当に俺なんかでいいのか」

「うん。前から遊びに行きたいと思ってたんだ。どこ行こうかな」

 もうすっかり半ベソの顔はない。太陽のように輝く笑顔に変わっていた。目をこすり、うれし涙か、寸前まで来ていた涙が溢れてきたのか、涙が頬を滴ろうとしているのが見えた。

「明日、何しようかな」

 もう明日のことを思い描いているようである。

「後はメールで連絡するね」

 そう言うと、岸は立ち上がって俺の前に立った。

「ありがとう」

 台風のようにやってきた突風は、疾風のごとく去った。

「おい…」

 ミズキは岸と入れ替わるようにやってきた。

「さっきの岸だよな。何話してたんだ」

「あ…大したことじゃない」

「そんなこと、あるめえよ」

 周りには誰もいない。助けを求めるにも誰もいないのだからしょうがない。この機器をどう切り抜くか。

「それで、何話してたんだ」

「何でもねえよ。しつこいな」

 さっきからミズキが付回す。岸と話してたところを目撃されてしまったようだ。それもしょうがない。四方八方、壁という植木などがなかったらだ。

「そんなはずないだろ。わざわざ座って話すことなんだろ。で、何話してたんだよ」

「何でもないって。ただ励ましてただけ」

「それであの笑顔か」

「…それよりも、この後さ、何して暇つぶすか」

「ん…何するんだろうな」

 これはチャンスだ。俺は立ち、ミズキに背を向けた。

「おいおい。どこ行くんだよ。何を話してたんだよ」

 ミズキは俺についてきながら同じ質問を何度もふっかけた。

 俺は無視をしながら、俺にとって問題のない質問といつもの会話だけに答えた。ミズキの不満はなくならないようだが、それが俺を守るための最善策だと考えた。

 この後の暇をどう過ごすか。

 ミズキに相談したが、とりあえず、アズサの元に行こうと言った。そうしてもいいが、今会うとなんて言われることやら。仲直りをしたのはいいのだが、試合は結果的に敗戦投手となっている。しかし今は話してみたいとも思っていた。

「んじゃ。そうすっか…で、あいつ、どこにいるんだ」

「探すか」


 それで探すことになったが、探すだけで時間は丸々つぶれてしまった。何時間もあったが、そのうちの一時間ほどしか探さなかった。たった一時間であっても、無駄に時間を過ごしてしまったという意識は強かった。

 その後、ミズキと二人で近くに座って、野球の試合を観ていた。探すよりも待っていたほうが出会う確率が高く思えた。探し物は何ですか。見つけにくいものですか。とか鼻息で歌って。

 しかし結局会えなかった。波和や水崎、小海や氷野が通りかかるだけだった。挙句の果てに澁が少し離れて一人で座る始末。こんなにも違う人と会うなんて珍しいことだ。

 閉会式には会えるだろう。いつの間にか、アズサに会うことだけが目的になっていた。

 そしたら今まで探して待っていた自分がアホらしく思えた。今までの苦労はなんだったのか。こんなことで簡単に会えたなら、もっと先に気付くべきだった。

「どこにいたんだ。探したんだぞ」

「何で?何か用があったの?」

 用って言われたら何もない。もともとミズキからの誘いであり、目的なんて暇つぶしのその他はない。

「いや、何も用事がないんだけど…」

「じゃ、何?」

「いや…ただしばらく会って…なかったな、て思ってな」

「え…何、考えてんのよ。そういえばあんたのせいで結局負けちゃったじゃないのよ。どうしてくれるのよ」

「いや…その…あ、始まるぞ」

「あ、こら、逃げるな」

 何を言っているのか分からなくなっている。逃れようとして言った言い訳があまりに変だ。何だ、しばらく会ってなかったなって。自分でも顔が赤くなりそうだ。

 閉会式が終わり、すぐにアズサは俺にけしかけた。

「何なのよ。早く言いなさいよ」

 すぐに背中を小突かれた。

 本当に何も用がないのだが、こんなことになるのであるなら、アズサを探していた自分が変で、滑稽に見えた。今は何も話したくない。これほど厄介に思ったことがない。

「いや…ホンッとなんでもないわ。ただ…」

「ただ?」

 俺はその後の言葉が見つからなかった。素直に言うべきか、何か他の言葉を探してそれでごまかすか。

 そういえば、アズサは今日、なぜこんなに突っかかってくるのだろうか。こんなことは希にしかない。それはアズサが怒っている時、俺が落ち込んでいる時。それだけだ。しかしその双方とも今の状況には当てはまらない。それならなぜ、突っかかってくるのか。頭に引っかかる謎が残った。

「おい、リョウ。行こうぜ…お、アズサ、探してたんだぜ」

 起死回生のミズキの登場。そのおかげで俺はピンチを脱したように思えた。だが、アズサは俺が言った時と同じ質問で返した。

「え…なんで?」

 ミズキは当たり前のように話す。

「そりゃあ、負け試合後の敗戦インタビューと洒落込もうかと…」

 そういう答えがあったかと俺はミズキを感心した。なるほど、と頭の中のメモに書き込んでおいた。

「そんなことしたら、土管に詰めて、東京湾に沈するからね」

「はいはい。今日は何かするか?」

「疲れたから、今日は早く帰る。でも明日、打ち上げに行こう。適当に面子そろえておくから、いつもの…」

 ここで言っていいのか、悪いのか、しかし俺は言うしかなかった。

「明日はちょっと…」

「え…何?何か用事?」

「まあな…」

 ミズキに脇腹を小突かれたが、それは俺も言ってはいけないことだと予期していたことだ。俺もミズキと同じ意見だ。こんなことをしている自分は、やっぱり変だ。

「何の用…」

「お前んちのおじいさんが危篤だったよな、確か」

「…あ、そうそう。俺の祖父が今、本当にやばくて…」

「あ、て何よ」

 俺たちは何も言えなくなった。

「まあ、いいわ。じゃあ、明後日ね。それならいいわよね」

 アズサは俺の腹に軽く拳骨を食らわせた。

「じゃ、いつもの時間、いつもの場所でね。ばいばい」

「おい、一緒に帰らないのか」

「うん。今日は用事があるから」

「何だあいつ…あいつだって用事じゃんな」

「ありがとな」

「まあ、気にするな。困った時はお互い様ってな。これで借りは…二個か?」

「お前が借金三個だよ」

 二度もミズキに助けられた。それをすべて一つとしてしか数えてなく、今までの分も換算したから借金三個。

「そんなはずないだろ。二回助けたんだから…」

「今までの分」

「そっか」

 それよりも、ミズキと親友であってよかったと思う。もし違っていたなら、この徐今日はどう切り抜けていただろうか。そっちにも関心があったが、俺は今こうなっているのであるからいいと思った。結果オーライという言葉がある。それが当てはあまるだろう。

 しかしミズキに助けられたと同時に、一つの犠牲を払ってしまった。ミズキに俺と岸が明日にデートすることを感づかれてしまったように思えたからだ。それは感ではない。ほぼ、確かなことだと言える。野生的感が強いミズキであるから、しょうがないことかと諦めた。

 教室に戻る途中、ミズキは俺の明日の予定について、聞こうとはしなかった。その代わりとして気持ち悪い笑みを浮かべて、俺に誘導尋問的なことをして、俺の口からすべてを吐かせようとしている。もう分かっているくせに。

 そういう攻撃があっても、俺は吐かなかった。これは絶対に秘密だ。ミズキが知っているなんて、関係ない。これは俺のけじめであった。

 教室に入り、小海と氷野に会った。だがもう着替えていて、帰るところだった。

「お、遅かったな」

「もう帰りか。早いな。気を付けて帰れや」

「ああ、お前らもな。じゃあな」

「ああ、じゃあな」

「リョウも、じゃあな」

「…ああ、じゃあな」

 どうやら前よりかは小海と氷野に対する恐怖の癖が薄くなっていたようだった。これから付き合っていく一年間の中で、会うたびに逃げる自分を想像すると、そんなことはできないと思った。

 二人が去ってから、俺たちも早々と着替えた。まだ教室に多く残っているクラスメイトらはしばらく帰らない様子で話していて、俺たちが最後になるとは思えなかった。だが、堰を切ったように教室からどっと出て行った。何かあるのだろうか。

 教室に二人だけが残った。

 着替え終わったミズキはいかにも不思議そうに教室のドアを見た。

「帰ろうぜ…それにしても、どうしたんだろうな、いきなり」

 理由なんて分からない。突然のことだったから。それにしても、なぜあのように忽然と集団で出て行ってしまったのだろうか。

「帰ろうか」

 教室を後にして昇降口まで、誰とも会わなかった。足音も、物音も、遠くで鳴く鳥の鳴き声や風のすさぶ音さえも聞こえなかった。閑静で、静寂で、まるでゴーストタウンの寂れたマンションにいるかのような、そんな気さえさせた。

 校門を出るまで、何も会わず、何も聞こえなかった。

「何か…不気味だな」

 校門を出れば、車は通る。人がいる。店は開いている。それは当然のことだ。だが、道には車が止まり、人は見かけなかった。店は確かに開いているのだが、電気がついていなく、開いているのか分からなかった。

 こんな時、澁がいればと澁の言葉を真に受けない俺なのに、助けを乞う自分が渋の信者になりかけていることを発見した自分にほくそ笑んでしまった。

 すかさずミズキが突っ込む。

「何で笑ってんだ?」

「いや、なんでもない」

「そんなに秘密なのか」

「いや、別に」

「別にいいけどよ、今日は早く帰ろうぜ。何か不気味だ」

「そうだな。そうしたほうが良さそうだな」

 俺たちは自転車のペダルをいつも以上に早くこいだ。

 学校化から家までの帰路、いろんなことを知った。閉会式が終わってから、何か変だ。風も吹かない。自転車も通る気配はない。信号も変わらない。車、人が見当たらない。猫もいない。野良犬もいない。音もない。川は流れていないように見えた。波紋がないように見えた。雲も流れていなく見えた。分解していなく見えた。先ほどまで空は赤く染められていたが、いつの間にか闇は近づいていた。それに肌寒い。

「ちょっと急ごうぜ」

 俺たちはついに立ちこぎまでして、家へ帰ることになった。

 そしてY字路でミズキと別れた。一人になってもまだこの環境は変わらない。

 住宅街を通り、いつもより早く公園の横を通った。その時初めての体験が一つあった。風が俺の顔に体に皮膚に当たらない。風を切って走っているはずだ。ならば空気か風を感じるはずだ。これが無重力かと、体験したこともないことを想像した。

 それよりも、空気は動いていないはず。ならばなぜ空気を切っている俺が何も感じないのか。そんなことを考えるのも束の間。もう家の前に着いていた。

 家に入り、居間には母さんがいることを確認した。キッチンで晩飯の準備をしているようだ。

 階段を上がり、自分の部屋に入る。ネクタイを緩め、いつものようにベッドに大の字になって寝た。今日の不可解な現象について考えた。

 あれは閉会式が終わってから。アズサと話し、ミズキに助けられ、そして着替えに教室に戻った時のことだ。そうしたら起こった。その時からだ。クラスの男子が忽然といなくなり、帰りも何も感じない。その間に何かが起きていたのか。まさか小海や氷野、澁の仕業ではなかろうか。しかし携帯の番号やメルアドも知らない俺には確認することさえも出来ない。

 どうしようかと考えていると、待ってもないことが起きた。携帯が鳴り出した。

「はい、もしもし」

「…私。ちょっと時間ある?」

「ああ、ちょうど今、暇だったところだった。それで、何の用だ?」

「いや…用ってことじゃないんだけど…それよりどうしたの?何か変だよ?」

 少し興奮していた。それが声を通してだけで分かったのか。さすが幼馴染と大きな花丸をあげたい。

 ここでやはり迷った。話すべきか。それとも話さないか。こんなことを話して、何になるか。しかしアズサはすでに俺が何かを言いたいということが分かっている。ということは今話さなくても、後に強気に攻められて吐かされるに違いない。それならばこう離れているうちに話してみるのも手だろう。

「いや、特に…いや、あった」

「どっちなのよ」

「お前さ、帰ってくる途中、何かおかしくなかった?」

「え?何にも無かったけど」

 普通の応答だった。

「いや、さ。何て言うか…何もなかったて言うか…止まってたって言うか…」

「一体何なのよ」

「いや…いつもと異様だったんだよ。何て言うのかな…俺が…俺たちが…別の世界にいたみたいでさ」

「ふーん…」

「それで、用件は?」

「え…忘れちゃったわよ、バカ。あんたが悪いんだからね」

「何だよ。お前が聞くからじゃねえか」

「それよりも、明後日ね。忘れるなよ」

「あ…ああ」

 携帯を切り、アズサは何を話したかったのかを考えた。しかし幼馴染といっても、もう昔とは違う。それに昔は微塵たりとも考えなかったが、アズサは一応、女だ。もちろん彼女と一般社会で呼ばれる対象の考えなんて俺たち男には分からない。いくら考えたところで、俺には分からない。

 それに乗じるように今日起こったことはどうでもいいような、そんな心境に至っていた。いつの間にか外も回っているようで、またいつもが訪れていた。 

 携帯は手に持ったまま、天井を眺めながらため息をついた。これは今日一日の疲れとストレスだ。ただこうしているだけで気が休まる。ボーっと何もしていない時は疲れるのだが、この違いは何だろうか。

 また自分の哲学にはまるところ、手中から震えた。

 携帯を開き、メールを見る。岸からだ。明日の集合時間、場所が表示されている。俺の都合も勝手に決められていた。しかも集合時間なんて早い。こんな時間に起きられるか不安だった。それなら今日は早く寝ようか。

 そうして今日という一日を終えた。夕飯を食べ、風呂に入り、気力のない勉強をし、すぐに就寝した。ベッドの中で考えることはない。今日は疲れたな。早く寝よ。


 集合時間は早すぎた。早く寝て十分な睡眠時間を得たはずなのだが、それは不十分だということに気付き、そして計算違いだった。たまたま昨日、体が蓄積された疲労を排除、癒されようとしたのだった。それに加えて長すぎる睡眠時間が逆にレム睡眠とノンレム睡眠の周期によってよそうより長くしてしまった。その結果、セットした目覚まし時計の指針が集合時間の二十分前を指していた。

 急いで起き、すぐに着替える。そして財布と携帯を持ち、一階へ駆け降りた。顔を洗い、誰もないリビングを何となく入って、そこの時計で時間を確認した。下手したら間に合わないかもしれない。

 家を飛び出し、自転車に乗る。集合場所である駅前の噴水。そこまでの距離は遠い。間に合うはずがないと思った。朝早くから車の通行量は多く、どこへいくのだろうかと憶測した。ゴールデンウィーク。それを思い出した。

 そういえばこの時間帯のこの道を走ったのも久しぶりだった。最後に走ったのはいつのことか。もしかしたら中学の最後の部活以来かもしれない。それからはいつもふらふらと浪人のように流浪と生きていた。しかしそれが楽しかったからいつも同じことを繰り返し生きていたのだろう。アズサやミズキが一緒だったからこそ、楽しかった。

 そういえば高校に入っても中学と同様、遊びっぱなし。成績は良いわけではない。だが悪いわけではない。しかしもうそろそろ将来のことを考えねばならない。アズサは何も考えていないというが、ミズキはその次のことも考えている。

 それはミズキに先を越され置いていかれたようで、最近ミズキを見る時の目が違う。俺は何をやっているのか。時々そう考えてしまうのだ。とりあえず今を楽しもうと能天気なアズサと、将来を見据えたように夢を実現に変えようとするミズキ。その対照的な二人を俺はついていこうとは思わない。いや、思えない。本人たちもそうは望んではいないと思う。

 自転車の上で身なりを整えながら、前方から来る空気を大きく吸い、すべてを吐いた。こんなことをしている暇はないのだが。

 そして噴水に着く前にそこで待っている岸を見つけた。ここに着く前にどう接するかを考えておけばよかった。

 しかし岸はその前にこちらに気付いて手を振った。

「遅ーい。もしかしたら来ないと思ったよ」

 その言葉とは裏腹に、顔は笑っていた。アズサとは大違いだ。

「悪いな。寝坊した」

「ふふふ。それじゃ、行きましょ」

 駐輪場に自転車を置き、本人の予定では街に出ることになっているようだ。駅に集合したのはそのためだった。すぐに電車に乗って隣町まで移動する。窓の外が横にスクロールしていくのを見て岸は楽しそうにしている。

 そういえば岸の私服を見るのはこれが初めてだ。普通の年頃相応の女の子の可愛らしい服装だった。化粧もせず、ピアスなぞもせず、あるままの自分を見せていた。

 岸はいつも見せる笑顔で、しかしいつも以上に楽しそうに話す。どうしても話したいと、声や態度はまっすぐ俺を見ていた。

「リョウ君。今日はどうする?」

「岸さんに任せるけど」

「…うん。そだね。じゃ、あっちに着くまで、お互いに考えましょ」

 すると岸はその会話を境目に、急に元気がなくなったように意気消沈とした。

 俺としては少し話が過ぎたと思っていたのでちょうど良かった。だがこの急な感情変化は気になった。

 電車は止まり、駅に降りると、改札口に向かう途中、通路に何枚も張ってあるポスターを目にした。

「…映画、か」

 ただ呟いただけだった。しかし地獄耳か、岸には聞こえていた。本当に小さな声で、かすれたように、まさか聞こえないと思っていた。

「映画…いいね。行こう」

 岸に手を握られ、引っ張られる。

 胸がかっと熱くなる。なんだろう、この感覚。この気持ち。この暑さ。アズサに引っ張り回されているのは昔から今に至って同じことだが、こんなことはいつだってない。アズサに手を握られて、先導されて、またこれか、と。しかしこの手は何だろうか。柔らかい。それに、温かい。そしてその手に巡る血液が俺の手に伝わってくるかのように、岸の鼓動が感じられる。微動だが、その流血は感じる。

 岸に釣られるまま、岸の歩調に同調する。ただただ歩き続ける。岸の背中を追うようにして、それしか見れない。いやそれしか見ていない。ずんずんと進む岸。ひしひしと重なる手から不思議な力、まだ見ぬ感覚を感じ取りながら岸についていく。

「リョウ君…どうしたの?」

 いつの間にか鼓動が速くなっていた。自分でも気付かなかった。あまりに夢中であった。それに気付いた岸は不安そうにこちらの顔をうかがっていた。

「いや、別に…」

「だったら何を観る?」

 劇場前に上映作品のポスターが張ってある。アクションから恋愛、ホラー、コメディまであった。そういえば映画に来るのは何年ぶりだろうか。映画は嫌いではない。だが今まで観たいと思うものはなかったのだ。そして今も同じである。そうなると、俺の好きな映画のジャンルを疑ってしまう。何が好きなのだろうか。

「いや…俺はなんでもいいよ。岸さんが選んでよ」

「…そう…じゃあ、あれでいい」

 そう言って指した指の先には恋愛映画のポスターがあった。

 それを見た時、俺は一歩退いた。岸はこういうのが好きなのか。俺は比較的恋愛ものは観ないし、本さえも読まない。だってそんなものを観たって読んだってしょうがない。何が楽しいのか分からない。しかもこの年齢で、まして彼氏彼女でもないのに男女二人きりで恋愛映画だなんて、岸は何を考えているのだろうか。だが俺は引くことができない。俺は何も要望さえも伝えずに岸に好きなものを、と言ったのだから。

「あ…もう時間になっちゃう。早く入ろう」

「あ…ああ」

 チケット売り場では販売員が不敵な笑みを浮かべて次々とチケットを売りさばいていた。そして俺たちが買う時、何を観察しているのか、ちらちらとこちらを見てチケットを渡す時となれば、強い眼差しで見られた。

 やはり劇場内は混んでいる。休みの日にこんなところに来るものではない。実際にその込み合いに遭って、岸は他人にぶつかり俺の胸に飛び込んできた。

 するとどうだろうか。またあの時と同じ。

 俺はどうしようもすることができず、岸が離れるのを待った。だが岸はなかなか離れようとはしない。劇場に入るこの通路で周りは客が多いし、確かにこのままでいれば迷惑ではないのだが、俺にとっては迷惑だった。そのまま劇場に入るのを待つ客と一緒に止まったまま、岸も動かない。

 客からの熱もそうだが、一番熱く感じられたのは岸からの圧力などではなく、それを感じ自分が火照っている気持ちが暑かった。胸に熱い火のようなものが燃え立て、肺が紐で縛られるような心地だった。

 しばらくして列は流れ始めた。しかし岸はまだこのままでいようとしたので、俺は岸の肩に手を当てて、そっと自分から離した。

 今まで息さえもしていなかったようで、ようやくこのむさ苦しい空気を吸って体に新鮮を取り込むことができた。ヒートアイランドのようにこもった熱が放出する。

 岸は背を向け、俺の前を歩き出した。俺はついていく。

 劇場の指定席に座る。真ん中の席ではない。その中の席が後ろまで連なり、その両サイドに二人しか座れない席がある。そこに座ることになっていた。岸が提案していた。他人が隣に座るのは嫌なそうだ。それは誰だって同じことだろうと思う。

 席に座り、劇場が始まる前に何か買ってこようかと尋ねたが、岸は拒んだ。

 そのまま劇場は人がいっぱいになり、すぐに暗くなると、スクリーンのカーテンが開いた。ブザーが鳴り、映像がスクリーンに映し出される。

 恋愛なんて、人はなぜ面白いと思うのだろうか。人の恋愛は見てると面白い。だが見られているのは嫌。そんな人がいる。俺には信じられない実態で、考えられない事物で、だから岸も不思議な人として捕らえていた。ミズキはそんなやつではないと思う。アズサもそうだと信じたい。そうであるならばいつまでも末永く気のよい、安心して互いに暴露話ができると思えた。またいつかどこかの未来で、互いにまったく知らない配偶者がいて、そして居酒屋かどこかで大声で騒ぎ、昔を語り合うのだろうな、と。

 恋愛を知っているからといって、恋愛が上手く進むことなんてない。そんなプロか変態がいるならば一度でいいからお目にうかがいたいと思うね。だって不思議に思わないか。ただ映像と文字と、それらの経験でことが赤子の手をひねるように進むわけがない。唯一、テストの点だけがよくなる。それだけだ。

 時々岸の様子が気になってちらちらと向いてしまうのだが、岸の目は真剣そのもので、俺には到底そのような感情で見ることができない。何度か見ると、岸と目があった。岸もまた、俺のほうを見ていた。岸は笑いかけるが、俺は分が悪くなって目を背けてしまう。

 しばらく岸を見れないでいた。また目が合うと、次はどんな反応を見せればいいのか。俺には分からない。分からないこと尽くしだ。

 しかし最後にかかる頃には飽きてしまった。これを観て岸はどうなのか気になった。果たして楽しんでいるのか。

 最後に一度と岸の横顔をうかがおうとした。するとどうだ。岸は泣いているではないか。なぜ泣いているのか。俺には理解できない。頭をひねりながらスクリーンに映っている映画を確認すると、やはりそこまでの映画ではない。この映画を観て、何回あくびをしたことか。

 あまりに必死に見ている岸を見ると、俺は最後だけでも必死に観ざるを得なかった。

 そしてそれは的中する。映画が終わった後、岸に尋ねられる。

「私…初めて映画で泣いちゃった…リョウ君、どうだった」

「え…そりゃ、あれだろ。やっぱり、感動した」

「どんなところが?」

「あ、そうだな…やっぱりラストだな」

「ふーん…」

 そっけない返事で岸は行こうと言う。やはりこの返事はまずかっただろうか。明らかに岸の期待に応えられていない。岸の機嫌が悪くなったようにうかがえた。

 近くの喫茶店に入り、互いに無言のまま席に座る。店員が注文をとり、その時に何を頼むと話しただけだった。その後、俺たちは何も話していない。

 そういえば、お腹がすいた。朝から何も食べていない。後でまた何か注文しようか。

 続かない話のおかげで空気は不穏になった。この間に何か解決法はないかと、この後の話題を考えてみる。映画の話題は、もうだめだろう。これからの予定はどうだろうか。そうだ。それにしよう。

「岸さん。これからどうする?」

「…どうしよっか」

 電車の中とは打って変わって、態度はあまりに冷たく、いつもの岸は見られなかった。やはり俺のせいなのか。さっきまでの岸はもうどこかに行ってしまっていた。

「瀬上君…決めてよ」

 瀬上君。それは未だに岸の口から聞いたことがない言葉だった。聞いていなかったのかもしれないが、確かに聞いた事はなかったと思われる。

 するとなぜか切なく、心が怯えたように震えるのであった。急に友人という関係から崖の下に落とされる、いや、踏み外す、もしくは崩れる。同時にボクサーに殴られて脳が揺れるようだった。

 なぜ岸は突然、瀬上君などと言ったのだろうか。俺は罵声を浴びせられたようで動揺し、当惑した。

「そ、なの。どっしよっか」

 岸は俺と目を合わせる気はさらさらないらしく、無言で口をつむぎ、誰も座っていない隣の席を見ていた。

 店員が注文したとおりのコーヒーを持ってきても、この中でまた新たに注文をすることはできなかった。

 結局、店を出るまでに岸が話したことは会計しようということだけで、そのまま席を立ち、俺はその後についていく。会計はそれぞれが飲んだものをそれぞれが払うだけ。

 そして暗中模索の街散策が始まった。久しぶり来た街なのに、有意義に楽しく過ごそうという気が起こらない。それに散策という言葉も似合わない。散歩だというわけではない。ましてシャドウショッピングという名目は取りとめもなければ土台さえもない。ウォーキングさえもない。ウォーキングなら、歩くことが目的であるからだ。俺たちは違う。ただ、歩いているだけだった。

 いくら歩いたか。ただ無言の気まずい雰囲気を背に連れて、まるで死人がここを歩いているかのように思えた。それか、隔絶された空間、四次元や周囲の人には見えない場所にいて、周りの人間は何を話しているのか分からない。大衆で話していて分からない。むしろ、聞こえない。

 すると岸はつぶやいた。それは俺の耳まで届くのには小さすぎたが、小鳥の囁きの如く、澄まされた声は空気の波に乗って入ってきた。

「…ない」

 何を言ったかは分かった。しかし俺にどうしろと言うのか分からない。

 すると岸はきびすを返して俺の横を通った。駅に向かっていることはすぐに分かった。俺もその後に続いた。

 電車の中も無言。かろうじて隣同士であったが、それは逆にあってはならないシチュエーションである。俺と岸の間に、ねずみ一匹でも座れる間隔があった。

 住み慣れた街に降り立ち、改札口を岸の後ろから追うようにして通過し、集合場所と同じ、噴水の前で別れようとしていた。

 今日という一日。一体なんだったのだろうか。

「じゃあね…」

 岸が言う。

「ああ。じゃ…」

 俺は情けない返事をした。

 そして岸は背を向け、ゆっくりと自分の家の方角に向かって歩き出す。その背中を目で追って、その視点は寸分の狂いもなく、岸をとらえていた。しかし俺の心に残るもやもや。これは何か。何なのか。心は何を伝えたいのか。これではいけない。名残惜しい。そういうものではなく、違う感情。とにかくこれではいけないような気がした。

「岸さん」

 岸はピクッと反応して止まったが、振り返りもせずにまた歩き始めた。

「なあ。ちょっと話があるんだ」

 ついに岸の足が止まる。そして髪を振るうようにして俺のほうを見た。

「何?」

「いや…その…とにかく、これじゃ、いけないような気がして」

「それで、何が言いたいの?」

 自分でも何を言っているのか分からない。それは不確かだ。だがこれではいけない。こんな、一方的に終わる一日なんて、だめだ。それに、分からない。なぜこうなったのかを。俺はこれを聞きたい。もし自分に非があるならば、教えてほしい。それで俺はそれを改善したいと思う。そう思う。その心は確かだ。

 まだ夕暮れではないし、だが日はそう高くない。

 岸は思いつめた表情になっていた。そしてしばらく考えていた。

「うん。いいよ」

 声は強張っていた。顔も強かった。俺は岸の眼差しに圧倒されていた。

 しかしこの後はどうするか。話そうという気はあったのだが、どう切り出すか、どこで話すかなど、それは決めることができなかった。誘ったからにはその自分の義理に応えねばならない。目的もなく、話すことも不明確のままで誘ったのは、それは単なる馬鹿者でしかならない。

「…ここで話すのは嫌だな」

 とりあえず、誰もいないところへ移動しようと思った。それなのは、周囲の目が俺たちを見ているような気がしてならなかったからだ。

「あそこ、行くか」

 その時はまだ行くか行かないか、決めていなかった。宛てはあったのだが、そこがもし誰もいなかったら、と言う話だ。そうであれば、好都合な場所だ。しかし人がいたらどうしようか。そうなればすぐにまた変えればいいのだろうが、岸は途中で帰るなぞと言わないか。そうなったらそうなったらで、その時考えればいい。

 俺は岸を引き連れて、家とは逆の方角に向かった。自転車を押して、坂を上った。岸と共に歩いている。隣にいる。これはまだ、デートが続いているのか。

 やはり閉鎖されている門を目前にして、中は誰もいないことを確認した。しかしカギのかかった校門をどうやって開けるか。ここを越えれば不法侵入になる。無理矢理開けても同じことだ。それにしても、困ったことになった。起こってはならない状況が起こってしまった。

 ああ、どうしようか。迷いを掻き消すことはできず、岸に表情として見られてしまっていたことに俺は気が付かなかった。

「それで、話って?」

 岸は変わらぬ面立ちだったが、声は前より恐ろしく感じられた。

 すると気付いたのだが、わざわざこの学校の敷地内で話す必要はなく感じられた。ここでも十分静かで、何と言っても人がいなければ、人の気配さえも感じられない。そうしてここで話すことに決めた。

「あのさ。今日、岸さん、怒ってるみたいだから」

「何?それ。わざわざここまで来て言うこと?駅前でもいいじゃない」

 岸は突如怒り出した。昨日の岸はいない。昨日の岸は誰だったのだろうか。いつもの岸もいない。こんな一面も岸には隠されていたのだろうか。

「でも…誰かに見られたら、嫌じゃん」

「何が悪いの?別に見られたっていいじゃない」

 俺が言いたいのはクラスの連中に見かけられたら、ややこしくなると言うこと。だがそれは俺が話したいと思ったことの核心ではなかった。

「それより…なんで今日は怒ったんだ?岸さん。俺には分からない」

 岸は目尻をピクッとさせ、眉毛を吊り上げた。

「ほら、また言う…」

 すっかり狼のように吊り上った目を俺に目を合わせないようにしていたが、瞳はこちらを睨んでいるような気がした。そして堪りに堪っていたのか、爆発させたように言う。

「何で…何で私のことを、名字で呼ぶの?何で…何で滝川アズサのことを、アズサって呼ぶの?幼馴染だから?私が転校生だから?私はリョウ君って呼んでる。あなたはどう。私のことを何て呼んでる。岸さん。え、何?岸さん、だよ。分かる?聞こえる?私はリョウ君って呼んでる。いつになったら私のことをルイって呼んでくれるか。今日、試したわけじゃないけど、言ってほしかった。それが一度だけでもいい。間違えたって付け加えてもいい。何で…何で…どうしてアズサだけなの…」

 岸は泣き出していた。唇を震わせ、恐ろしいものでも見るような目で俺を直視できないでいた。もしかすると、できないでいるのではないのかもしれない。見たくないのかもしれない。それはつまり、乱れた自分を俺に見せてしまったから故の行為なのかもしれない。

 そうか。岸は名前で呼んでほしい。だから怒った。アズサのことは名前で呼んでいるのに、岸のことは呼んでいない。しかも期待していた。いつか名前で呼んでくれることを願っていた。

 きっと岸は不公平であるのが理不尽に思い、嫌なのだなと思った。

「そうか…」

 すると風は吹き、その風は音も時間も持ち去っていった。ただ眩いほどの夕陽が目に感ぜられるのみであった。

 こんな時、何と言えばいいのか。とりあえず、謝っておくべきか。

「悪いな。何か…」

「それだけ…?」

 岸は目線を変えないまま、まるで次の言葉を期待していないように言う。風が彼女の髪をなびかせて、涙は頬に筋を伸ばした。下唇を噛み、目の先にある自分の存在を眺めている。

 彼女の求めているものは何か。今の彼女を救えるものは分かっている。だが急に、俺がアズサのことを名前で呼んでいたことを恥ずかしくなってきた。それと同じように、さらに初めて言うということで、岸のことを名前で何て呼べない。誰もいない。それはいいのだが、岸に聞こえるということが一番の重圧だった。

 俺は切り出せないでいた。彼女は風になびかれるだけで動かなかった。

 影が突然長くなったように思えた。

 すると、岸は言う。

「私、帰るね」

 涙をぬぐい、また俺に背を向けて、足を引きずるようにして俺から離れていく。一歩、また一歩、俺から離れてゆく。その背中は俺の動きを制圧しており、追いかけることさえできなかった。彼女のそばに行って、励ましてやりたかった。

 その姿が逆光で見えなくなろうとしていたその時、脳は揺れるようにして、彼女の姿が目に焼きつくようにはっきりと見えた。

「ルイさん…」

 彼女に聞こえたのだろうか。自分には声が小さすぎると思っていた。だが彼女は足を止めて振り向いて、わずかながら唇を動かしていた。目は必死に訴えていた。

 岸は唇を止めると、進行方向をこちらに変えて近づいてきた。そして言うことはすべて霞むように、聞こえづらかった。

「リョウ君…なんて…?」

 ルイは真偽を尋ねるかのように、疑わしく、だがその裏には何か隠されていた。

「いや…ルイさん、て…」

 するとその言葉を聞いた岸は顔を急に緩め、何だか知らない空気の塊を吐き出し、一度空を仰いで息を吸い、俺を見直してから踏ん反り返るようにして言った。

「…もう…なんでさん付けなのかな…私だって…恥ずかしいんだから…」

 見る限り、明らか照れていた。話していながら直視せず、ちらちらと見るだけで、話そうにも、いと話しづらそうだった。

 するとその岸の心境の表れなのだろうか。

「…バカ」

 岸という人間はクスクス笑った。やはり笑顔のほうが似合う。それ以外の何も似合わない。受け付けていない。今までの、最高の笑顔を見せてくれた。

 ようやく終着したとホッと腕をなでおろす思いでいた。そこまでたどり着けたのは、最後は岸の笑顔だったか。これからも、ルイさんって呼んでやるか。

 夕陽は沈んできた。早く帰らねば夜になる。

「早く、帰ろうか」

「そうね…」

 そうして俺たちはやっと校門前から離れることができた。そして時々互いの事をみてしまい、目があったら伏せる。それを繰り返していた。周囲の人から見れば、彼氏彼女の関係であるかのように見えただろう。

 そのような状況で長い道のりを歩いてきたわけだが、岸は踏み切りの角を曲がろうとしていた。ここをまっすぐ行けば、彼女の住む家があるのだろう。

「ついてくる?」

 岸は突然言う。なぜそのようなことを言うのか。

「え…なんで?」

「いや…なんでもない…じゃあね」

「あ、ちょっと」

「何?」

 俺は一つ言うことを忘れていた。俺が話しかけるなり、岸はすぐに反応して引き返してきた。

「明日、ソフトボールの打ち上げなんだけど、来るか?」

「リョウ君も行くんでしょ?行くよ」

 そう言い残し、背を向けて走り去った。未だ目の下に赤い筋が残っていた。俺が見えなくなるまで、角を曲がるまで岸は走っていった。

 辺りはすっかり暗くなり、春なのだが吹く風に身震いを覚える。チカチカと灯りだす外灯に急かされて家までの道は近くに感じる。そしてあの岸の言葉を疑問に持ちながら、帰路についていた。


「悪い。あー疲れたわ」

 また朝から早く起きるなんて、予想もしていなかった。二日間連続はさすがに厳しい。連休の一日ぐらい丸一日寝かせて欲しい。

「遅いんだよ、バカ」

 家を出て、ここまで急行し、アズサが見えたと思ったら急かされて思い切りペダルを踏んだ。そのおかげで一日に使うスタミナを使い切った。挙句の果てにアズサからバカ扱いにされる。

 俺が来るのと同時に岸も現れた。

「お待たせ」

 どういうわけか、アズサの表情はみるみる硬くなり、ものすごい形相で岸のほうに振り返った。

「俺が呼んだんだ。知らなかったみたいでさ」

 アズサの顔が柔らかくなるように俺は笑いかけたが、その期待は実らなかった。

 打ち上げは始まり、適当に食事を楽しんでからゲームセンターやカラオケに行った。ただいつもの日常のように楽しみ、だがその中で浮いていた人物がいた。それがアズサだった。いつもの元気がないように思えた。代わって岸とは今日一番話したのではないか。その節はどうしても名前で呼ぶのは恥ずかしかったので、名前は出さないようにした。

 個々が満足したはずの打ち上げだったはずだったが、やはりアズサだけは違う。どうしたのだろうか。

 岸と別れると、今まで嘘だったようになってアズサは元気よくなった。そして俺と今まで溜まっていたことを吐き出すようにして話す。

 ミズキたちとも別れ、二人きりになった。横になって俺たちは帰る。半ばアズサの一方的な話によって、あっという間に家の前にたどり着いた。

「じゃあな」

 だが背後に感じるのはアズサの気配。まだ動いていないように思える。

 そのままアズサに一度振り向いて、また別れを告げてから家に入ろうとした。するとアズサの声がした。しかしそれは明らかにおかしかった。それを聞いたその時にアズサを見たのだった。

「あんたのこと、私好きだよ」

 それを言い残して、アズサは自転車に乗って驚きの速さで去っていった。あまりの速さに俺にまで強い風があたったような気がした。

 アズサは何を言っていたのだろうか。それはどういう意味なのだろうか

 そんな時、告白という二文字の言葉が頭の中をよぎる。アズサの言葉は告白だったのだろうか。もしくは幼馴染として好きだと、再確認をしたのだろうか。それだったら恥ずかしく思わないでいいはず。だがアズサは言葉の選択を間違えてこのようになったかもしれない。そうとも考えられる。

 ドアノブに手をかけたまま、俺は立っていた。目の前の光景があまりに不思議な世界を映していた。

 アズサの言ったこと。今の段階では、それを言うのは早すぎたと感じた。俺だってアズサのことは好きだ。だがそれはまだアズサがいつも側にいて、悩み無く話し合い、そして仲のいい友達だった。それは俺の理想像であったのかもしれない。だがアズサはそれとは違う。その先を望んでいるのか。

 自己嫌悪に陥ると、つい嫌なことから目を離す。それはいつも自分の駄目なところであり、欠点だ。分かっていても治せない。ただ治すのが面倒なわけではなく、そうすることができない。いや、しようという意志がないのかもしれない。それは自己嫌悪に陥れば、とりあえずその場が解決する。あるいは自分が楽になる。そう感じる。それゆえ、アズサにいつも小言のように言われる。

 そのアズサに何を言われたか。俺は今、やっとその言葉の意味を理解できたのかもしれない。

 家に入って無言のまま部屋まで行き、自分の部屋を端から端まで見渡す。何も無い部屋。とくに散らかってもいなく、退屈な部屋。いつも勉強する机があり、いつも座る椅子があり、いつも寝るベッドがある。それはいつも同じことで、いつもと変わらない閑散した殺風景な景色だった。

 いつだったか。何か面白いことをと、刺激を求めたこともあった。いつもと違う生活をしてみたいと思った時期があった。だがこれはその刺激であり、面白いことなのだろうか。もしアズサと付き合うならば、それは確かに生活が変わることだろう。しかも一変と、だ。だがそれは変わるというものではない。移る、だ。まるで違う世界に行ったかのよう。もう二度とこの生活ができない世界に移ってしまうようで、恐い。

 俺は恐れていた。アズサの言葉ではなく、その先に。

 そういえば朝起きてからすぐにここを出た。布団は荒らされたままだった。それには目もくれずに椅子にどかっと座る。

 その後、何も考えなかった。考えることが無かった。考えても無駄だと思った。考えることが嫌だった。

 ただ刻々と時間が過ぎていく。それと平行に俺の生気が失われていくようで、体の重みがぐっと椅子にかかった。首が重くなってきた。

 今日一日、疲れた。夕飯なんて食べていない。お腹もすいたし、意識が遠のいていく。

 その時、ベッドに移動をしようと考えた。しかし疲労が抵抗する。動けないまま、ただ地球に逆らえなかった。

 眠った後には、お腹がすいたと一階へ降りる。もう親は寝てしまったようで、リビングは真っ暗だった。俺は何か食べれるものと飲むものはないかと冷蔵庫の中を探した。時計を見ると深夜。外を歩くような人は当然いなく、誰のためか外灯は夜道を照らしている。遠くから自動車の走る音が聞こえる。こんな夜遅くにご苦労なことだ。

 空気は重く、冷たかった。誰も使わない空気が透き通って見えて、昼間のものとは明らか違うものだった。肌をさすられると独特の感触がする。なぜかこの空間にいると、心が落ち着く。

 シャワーを浴びて体を拭く時、鏡に映る自分の姿を見た。いつもと同じ光景が目に映る。鏡に映る。だがいつも見えるものが見えない。自分の本当に見たいものが見えなかった。

 服を着て、またリビングに戻り、再び冷蔵庫を開けて体にためた熱を冷ます。テレビでも見ようかと思ったが、夢中にもなれそうになかった。

 結局部屋に至り、今度はベッドに寝る。さっきも寝たが、まだ寝れる。

 明日、どうしようか。

 やっと本題に戻ったが、考えても思いつくことは無かった。考えても無駄だ。ただ頭を悩まして眠るのと、ただ寝るのを待つのと変わらない。俺なら後者を選ぶ。

 電気を消すと、家はついに寝静まった。


「…ほら、もう起きなさい。いい加減にしなさい。遅刻するわよ」

 朝は訪れた。ほとんどの人は口をそろえて言う。清々しい朝だ、と。だがそれとは逆の人もいる。またやってきた、しんどい、起きたくない、疲れた、などと。だが俺の場合、いっそのこと楽に死にたい、だった。

 教室でアズサと顔を合わせて、何と言えばいいのか。ハロー。猪木風の元気ですか。それともご機嫌いかが。そんなバカな挨拶をする陽気な日本学生なんて数少ないというより、日本にいる限り、そんなことは希にしか無い。

「早く起きなさい。もう仕事行かなきゃ行けないんだから」

「いいよ。行って。俺は二限目からでるから」

 母さんはあきれ返って、もう知らないと言い残して部屋を出て行った。

 はあ。どうしようか。

 ああは言ったが行きたくないのが本音である。詳しく言えば、行きたくないのではなく会いたくないのだが。

 ベッドの中で玄関から出て行く母さんの音を聞くと、家で一人になった。

 何もすることも無く、ただ同じ回答を、繰り返し頭に思い浮かべることのできる質問を自らに行っていた。

 また寝ようか。布団の中から窓の外の景色を眺める。いつも見ている見飽きた景色。部屋の隅はうっすらと暗く、窓から差す光が舞っているほこりが見えた。

 布団にもぐりながら、これからどうしようかと考えた。もしこの家にとどまっても、何をするということもない。だがここから出て学校に行く道、きっとどこか店に入って時間でもつぶすだろうか。

 と言っても布団から出て自分の言葉に忠実に従うほか無い。ただ退屈だからどこかに行こうという気ではない。これが最善ではなく、最悪ではなく、もしかしたらアズサも同じような状況に陥り、もしかしたら学校に行っていないと考えた。

 試しにミズキにメールを送ってみたが、来ていないと言う。その後メールでミズキに何があった、などとメールが着たが一通も返していない。そうすることがミズキを調子に乗らせる。得られる情報はそれ以上、それ以下、と。

 それで母さんが作っておいてくれたすっかり冷めた遅い朝食を食べ、時計の時刻を確かめて身支度を整えてから家を出た。

 いつもなら登校する人やゴミを捨てに出るおばさん、それに出勤するおじさんで溢れていたはずの道には面白いぐらい誰もいない。車も無ければ何も無い。俺専用の道だ。一時限目が終わりそうな頃合に着く予定で家を出たのだが、少し早く着きそうだった。

 学校の横を通っていた。するとそこから遠くに見える人影があった。しかしもう学校の前、今更引き返すなんてことなんてできない。足取りも遅くしても無駄なことだ。

 結局、ちょうど校門前でバッタリとアズサに会った。

「おはよう…」

 このまま無視するのか。だがそんなの虫酸が走るほど嫌だ。朝から互いに不愉快になるなんて嫌だ。それに今挨拶をしなかったら、もう二度と口が利けないような気がした。

「ああ。おはよう…」

 そこから教室までの距離は長かった。一歩一歩、ずしりと重い。なぜこんなに辛い想いを抱えて歩いているのだろう。なぜ沈黙で歩かなければならないのか。それなら俺のほうから話しかけたいところだが、その行為はまるで初めて話した時のように照れくさい。

 互いに近くにいると認識していながら、教室に近付いていく。

 ドアをどちらが先に開けるかとドアの前で躊躇していると、チャイムは鳴った。そして先生は出てくると、俺の横をすり抜けるようにして出て行った。

 それから地獄のように思えた。

 教室に入る俺たち。そしてそそがれる目線。一瞬に冷めたように静寂が制す。そして何もなかったかのように話しだす。

 自分の席に座る。周囲の目が気になる。そして岸もちらちらと見る。どういうわけか、あれほど俺とアズサのことが気になっていたミズキは質問をしない。ここにいることが気持ち悪かった。

 アズサとも話さないし、話しかけてくる気配も無い。

 今日ほど何も話さなかった日は無かった。緊張して、顔が強張っていたと思う。

 クラスの連中とも話さないわ、岸とも言葉を交わさなかったわ、帰りも話す題材、また話されることは無かった。ミズキがいなくなり、二人で歩いていると、誰も見ていないのに、誰もいないのに周囲の目が気になった。そして長い道を歩いて別れることになった。もちろん俺の家の前で。

「じゃあね…」

 今日二度目の言葉。それが今日最後の言葉でもあった。

 俺はアズサを見届けずにすぐに家の中に入った。

「おはよう…」

「じゃあね…」

 この言葉が延々と繰り返される日々が続くと思った。それはあれから二、三日続いたからだ。だが時間は俺たちの心を癒していく。いつも帰って寝る前にベッドの中でアズサのことを思い返して、どうすれば仲を取り留めることができるか。だが暴発したように言ったアズサの言葉。その言葉を無かったことにするのはアズサにとってどんなに苦しいことか。搾り出して言った。そのように思えた。

 しかしアズサはそのことをまったく無しにしているかのように、その日は二言が三言となり、次の日には三言が四言になっていた。時間がそうしてくれる。しかしこれでいいのか。未だに心の中のもやもやを吹っ切れないでいる。

 しかしせっかくアズサが話しかけてくれるわけなのだから、俺もそれに応えるべきである。まあ、少しは話したいと思っていたのだが。

 それ以降、俺の一時的に塞いでいた心も元に戻りつつあった。クラスの連中とはいくらでも話せるし、もちろんミズキとだって話せる。だが岸とはどうも話しにくい。岸と二人で話したことが理由ではなく、アズサに好きだよ、と言われたあの日からだ。それはアズサに対して話しづらいというわけではなく、その真核は岸に突きつけられていた。

 その心はどこにあるのか。これはいよいよ自分がどう考えているのか固まってきているのだろうか。それとも心の隅にある埃にかぶった偶像が動き出したのか。

 その自分を分からないもどかしさがいつまで経っても慣れることはない。

 梅雨に入り、いよいよ本降りだろうと予想した日は曇りだった。しかし今にも降り出しそうだった。今日も半分が終わったなと外の曇天模様を眺めて憂鬱な思いにふけていた。昼は食べたし、アズサもミズキもいないしどうしようか。アズサはトイレに行ったきり帰って来ない。ミズキは図書室に調べ物。

「ゴミ溜まってんな」

 クラスに入ってきた先生はゴミ箱を覘いて言った。そしてクラスをキョロキョロと見回し、誰もが先生と目を合わせまいと急に目線をどこかにやる。その中でボーっと先生を見ていた俺と目が合った。

「おい、瀬上。ゴミ出し、頼むな」

 案の定、先生に頼まれる。

 しょうがないという諦めよりも、ちょうど暇であったし、それに二人はこの時間には帰ってこないと思った。だが焼却炉は外にある。その間に雨は降ってこないだろうか。

 昇降口に向かい、靴に履き替え、外に出る。雨は今にも降りだそうとしていた。そういえば、今日もアズサは一緒に帰ろうと言っていたが、どこで待っているのだろうか。

 今にも降り出しそうな空模様を見て小走りになった。いよいよ雨は降ってきたと思った。小雨だった。だがすぐにやむだろうという天気であった。今日はよく分からない。

 そういうわけで、近くの屋根に入るべく、焼却炉までは遠回りだがいつもとは違うほうから向かうことにした。あまり通ったことがなく、久しぶりであったので何だかわくわくした。

 それにしても早く戻らねば本当に降り出しそうだった。少し急ぐか。

 その時である。ふとよそ見をしたように校舎と校舎の間の狭い袋小路を見た。そのほうから声がしたのだった。そこには岸がいた。さらにその奥に、追い詰められているのかアズサがいた。

「私…あんたのこと知っているんだからね。神だってことも…全部知っているんだから」

 岸はそう言った。俺はそう聞いた。

 俺は自然とその二人に目が釘付けになり、足は自然と固まっていた。

 岸は続けた。俺は無言だった。

「アンタ、私を操って、アンタとリョウ君だけがくっつこうとしたんでしょ。今までのこと、何であんただけいい思いをしているの?何でアンタが神で、何でもやっていいの?何で私が、神じゃないの?」

 今、何が起こっている?今、目の前で、何を話している?俺とアズサがくっつく?神?何の話だ?アズサが神って、どういうことだ?

 文末及び語末に疑問符だらけの言葉が頭を埋め尽くし、危なっかしく浮かび、回り巡る。グルグルと、その場で犬が自分の尻尾を追いかけている。

 生きている心地がしないというような理解できない苦悩。理解しようとしても承諾できない自分。信じていない自分と目の前で飛び交った言葉。矛盾。その二文字が俺の理性を保たせようとしている。

 岸は何を言っているのだろうか。神なんているはずがない。アズサが神なんてありえない。それは人々が作り出した、生きていない、信じられることが目的で作られた偶像だ。神なんていない。

 だがよくよく考えてみないでも甦る記憶。そう。今年の春からの記憶。アズサが変になった頃からの記憶。確か、始業式の次の日だった。

 始業式以前のことを覚えていない。昨日のことさえも覚えていなかった。

 やけに長かったカラオケボックス。時間が変に感じられた。

 次の日に岸という転校生が来るという予言。奇妙だった。

 初対面の岸の事を聞く。家まで呼ぶ理由があったのだろう。

 テストのヤマがすべて当たった。あの時は小海の言葉が気になっていた。

 球技大会における、アズサの覚醒的運動神経。女ではないと思った。

 これらすべてを合わせ、綺麗に洗い流すと、すべて合点するのではないのか。仮にすべてを飲み込み、アズサを神だと認めたとしたら、すべてに筋が通る。岸の言ったことを想像で神の特性という名目でまとめてみたら、神は絶対の力を持つことに至った。何でもできるという力を持つということだ。

 もしそうであれば、あの日から起こった不可思議な現象に説明がつく。もしかしたら、小海や氷野、渋のあれらの言葉はアズサが仕組んだのではないか。逆にそうであってほしい。三人が狂った変人だという観念が固められる。

 すべてがいざこざなスクランブル交差点のように天と地が引っくり返っていた。

「リョウ…クン…」

 岸は俺を見ていた。今にも泣きじゃくり崩れそうな、それほど顔はしわくちゃだった。その裏に恐怖がこめられているのも分かる。

 すると岸の体から光が見えた。発光しているのではなく、体から散るようにして光は岸を離れて空に舞い上がる。美しい光だ。

 何だ。この光景。俺は夢でも見ているのか。

 岸はすっかり衰弱したように怯えていた。

 俺は岸に近付き、その様子を近くで見ようと思った。ただ好奇心なんかで近付いたわけではない。

「リョウ…クン…」

 どうすればいいのか分からない。どうやらその光は岸の体らしい。その証明に岸の体は半分が消えようとしていた。

 上半身だけ残った岸。どうすることもできない俺。岸は最期の生きる力を振り絞ったかのように言う。

「リョウクン…私…好きだった…」

 これが岸の言いたいことなのか。これが、本当に、岸なのか。

 何だ、これは。これは現実なのか。事実なのか。リアルな世界なのか。夢ではないのか。信じたくない。これは、嘘だ。絶対違う。人が消えるなんてこと、ない。絶対ありえない。こんなの現実であってたまるか。現実でない。絶対ない。そんなことない。

「リョウクン…私、楽しかったよ…じゃ…」

 何が、じゃ、だ。岸はこのまま消えるのか。消えるのは死ぬことなのか。岸は、死ぬのか。これは一体、何なんだ。俺はただ、ゴミを捨てに来ただけのはずだ。なぜ。俺は、何を見ている。俺の目に、何が映っている。事実なのか。

 意思とは反逆に、みるみる岸は消えていった。悲しみという感情ではなく、無情だ。生きている心地がしない。足がまるで棒のようになってしまったように、今すぐにでも座りこみたかった。

 見れば消える。次の瞬間、心にその文字が刻まれ、生まれた。

 一度瞬きをする。だが前よりも消え、今もなお消えていく。

 次に一度、しっかりつむって、しばらくしてから目を開ける。しかしもう、消えていた。いや、いなかった。どこか行ったのでは。走って行ったのでは。だが音などはしなかった。俺の横を駆け抜けたわけでもない。

 岸なのか。あの光は、空に昇天するあの光は岸なのか。下にあるこの光も、岸なのか。岸は、ここにいたのか。

 いたよな。ここに足跡もある。アズサもいる。一人でここにアズサがいるはずがない。俺もいる。ここに岸とアズサがいたからだ。しかし岸はどこに。

 俺は目の前にいるアズサを見た。

 そうだ。こいつなら何か知ってるかも。それにアズサの事実を確かめよう。こいつは神なのか。何が神なのか。神とは何なのか。それよりも先に岸だ。そんなことはやはり信じられない。岸は、どこだ。どこにいる。

 俺はアズサに詰め寄った。

「何が…あったんだ…」

 自分でもどうしたいのか分からない。自分という自身を抑えることができないまま、アズサに近付いた。エゴを忘れる。

「…それは、神のルール…神が誰なのかを外部に漏らしてはならない…彼女は知っていたが、間違いを犯した…それだけのこと…」

 すると声は背後からした。

 振り向きざま、渋は目の前にいた。あまりに近くにいたわけではないが、気配もないところから突如現れた。

「お前…いつの間に」

「…ルイは消えた…もういない…そしてあなたは知った…彼女のことを」

 渋は前見たときと変わらない様子でいた。それはあまりに恐ろしい光景だった。しかし渋の言葉を聞いて気になることがある。アズサの疑惑。

「え…何が…だ」

 俺はアズサに直接聞こうとまたアズサのほうを振り向いた。

 すると同時に痛みは感じないが、息ができなくなった。そして体もいうことが利かない。体が石になったように、ストンと地面に向かって落ちる。高いところから落ちたわけでもない。だがそのような感覚に襲われ、意識は遠のいていった。

 意識はない。地面にひれ伏すまでには冷たいという感覚はとうになくなっていた。


「ここは…どこだ…?」

 冷たい、湿った土の上で寝ていた。首筋が痛い。

 なぜここで寝ているのか。確か、ゴミを捨てに行って、その後は覚えていない。

「あ…いて」

 ひざも痛かった。だが案の定、地面は土であったのでよかった。衝撃は軽かったようだ。

そういえば、ゴミはまだ捨てに行っていない。あそこに落としっぱなしだ。何で落としたんだっけ。

 ひざ小僧や腹についた土汚れを払い、ゴミを捨てに行った。

 とりあえず、頼まれたことをせねばならない。

 捨てに行く途中、チャイムは鳴った。それは早かった。あれからそんなに時間が経っていないはず。それほど長くあそこにいたというのか。

 それはともかく、今すぐに降り出しそうな雨雲もあり、ゴミを捨てると、一目散に昇降口に向かって走った。

 もう授業が始まっている。

 教室の後ろのドアを開ける。用意していた言葉を言った

「すみません…遅れました…」

 先生の眼光は鋭く、すぐさまこちらに向けられた。

「どうしたんだ。遅刻の理由は」

 その返答には迷ったが、事実を言うべきか。しかしそれ以外、思いつかなかった。

「いや、ちょっと…寝てました」

 教室からクスクスと笑い声が聞こえた。

「たくっ…これからは気をつけろよ」

「あ、はい」

 自分の席に座り、先ほどから感じる体中の痛み、そして特に感じる首筋の痛みが気になる。さすり、授業の用意をしてまじめに授業を受けようとするが、なぜあそこにいたのが気になった。ゴミを捨てに行ってから、するとあそこに倒れていた。記憶が飛んでいたのだった。

 しかし今日の授業は特に重要なところだと思ったので、そんなことを考えることはできなかった。

「おい、リョウ。なんでお前、授業に遅れたんだよ」

 ミズキは相変わらず嬉しそうだ。俺が困ることが好きなのか。むしろ興味本位というべきか。

「いや…マジで寝てた」

「そんなわけあるめえよ」

 ミズキは明らかに信じていない。まあ、そんなこと、誰もが信じるはずがないだろう。ここで寝ればいい話だ。

「ほら、見ろよ。ここ」

 いまだに付いている土汚れを見せた。

「どこで寝てたんだ」

「ほら、あそこだよ。焼却炉に行く時さ、壁にはさまれた、狭い湿ったところがあんじゃん。ほら、あそこ…」

「ああ。分かるよ。でもなんで?」

 それが分からないから俺も困っているのだが、やはり知っていることを言うべきだろう。

「いや…分かんねえんだよ、それが」

「そんなことは…」

 延々と続きそうな話。もうそんなこと、今になってはどうだってよくなってしまった。しかしその中でアズサは暗かった。何も話さず、ひたすら俺を見ているようで、そして目が合うと背けるようにする。

 放課後もそう。なぜまたアズサはこのような態度をとるのだろうか。俺から話題を切り出してみるが、乗り気ではないようで、とにかく暗かった。

 そして俺はアズサがなぜ暗いのか考えた。

 するとすぐに一つのことが思い浮かぶ。もしかしたらまだ、あのことが気になっているのかもしれない。

 アズサの告白。それは俺を変わらせた。アズサに対する態度、気持ち、見方が変わった。アズサを見るのが怖い時もあった。

 勇気を出して俺に言ったこと。それが俺に不審な意気のような、雲がかかった心の俺の真意、いや義理のような応対を課せられた。

 それは毎夜考えている。俺が何をせねばならないのか。その心に隠されたことは何か。それが分からなかった。そしてしばらく経ち、そんなことが分からなくても、またアズサと通常といえる毎日を過ごせるようになってきた。

 だがまたこんなことになっている。

 そろそろ俺の答えを見つけなければならないのだろう。しかし見つからない。それは何か。それはとてつもなく複雑なように感じられた。

 今日もどうせ見つからないんだろうな。

 そう思いながらベッドにもぐると、ため息を吐く。今日のこともあるし、アズサのこともある。

 そういえば、今年のキャンプはどうしようか。ミズキがそう持ちかけていた。もう六月だし、そろそろ計画を立てなければ。それに今年が最後だ。来年は受験生だし、きっと行けないだろう。早急に計画を立てて、返事をせねばならない。

 すると、頭の中が急に回転し始め、パズルの最後のピースがはめられた。

 俺は、なんという過ちを犯していたんだ。

 俺はまだ、アズサの告白に対して、何の返事もしていないではないか。

 難しいと思っていたことが、いとも簡単に分かった。探しているものが見つからない。真下に落ちているのに気付かない。灯台下暗し、意外と分からないものだ。

 俺はこれから、自分の答えを見つけて、アズサに伝えるべきだ。それがこらからの俺の課題だ。なるべく早く見つけて、伝える。その前にそのことを話すべきか。もしかしたらその答えが見つかるまで、待っていてくれ、と。

 まずそのことが先決だ。課題がかさみ、だが嬉しく思う。今までの課題でこの一歩はあまりに大きすぎた。その大きさゆえの代償がかさみとなるが、それが何だというのだ。

 心のどこかでミズキに感謝しながらも、早速課題に取り組んだ。

 これから先、航路がはっきりと見え始めたような気がした。



 なるほど生きる喜び、目指す未来、そんなものを獲得したというわけではない。しかし岸が消えて、この時本当に知らなかった。それにこのことを知った時、本当にショックだった。アズサという存在がまさか神であるとは思えなかった。大概の人は神を信じている。だがその神が、これが神だと言われた時、仮にそれが本物だとしても、果たしてそれを受け入れることができるだろうか。拒否するのではないか。見えない神を信じて、ともにすごしていない時間を過ごしていない人でも、その人はいたと歴史で語られる場合、信じるしかない。言い換えれば、既成の事実として受け止める。それと一緒だ。俺だって明日は晴れになってほしいとか、この大事な場面にヒットを頼むとか、そんな時はひたすら神頼みをした。無宗教なのに、きっといるであろう、どこかの神様を頼んでいた。どこの誰の神なのか分からない。そんな時、人は自分の中に神を作る。まるで折り紙から鶴を作るかのように。

 そんな感じで自分の中の神以外、信じることはできなかった。岸が消えることも仕組みさえも知らなかったわけだから、パニックになっていたのもしょうがなかった。

 だが今は信じる。ないことがある事だってあるんだ。時々俺は自分にそう言い聞かせる。

 この春から不可思議な連動するシンドローム。俺は体験してきた。だがこれからさらに俺に大きな難儀が待ち構えているとは、このときの俺には知る由もないというのは言うまでもない。


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