Season1 [前]
今度は対照的にリョウの話。
アズサでいう二年目の春の話。
まず初めに言っておこう。これは物語ではなく、作り話でもなければ本当の話となる。いわゆるフィクションではなく、ノンフィクションである。
これは俺が実際に体験した一年の経過であり、一年の思い出で一度だけの経験である。そして長いようで短い一年の記録でもある。
俺はこの一年に不可思議な出来事や事件を経験し、あらゆる世界の諸事情を知った。初めは驚きを隠せなかったが、経験という名目のもとで理解ができた。人は必要とされるから存在し、恐竜は必要とされないから絶滅された。今、この世界にも絶滅した動物がいるが、それは人のせいとされるが、いらないものとされたからこの世から去った。
このことを逆手に持つと、人間はいつ使い捨ての電池にされるか分からない。いつ絶滅されるか分からない。SF映画のように、突然の宇宙人の襲来や隕石の接近が起こるか分からない。実際の話、明日起こることかもしれないのだ。
しかしそれは、現在の段階ではありえない。何て言ったって、今、この世に神という存在があるからだ。神が統治するこの世界には、世界の破滅はあれども人間の絶滅はない。神は人間だからだ。自分が最後に残るからだ。
そして人は生きる。何も知らずに、会社へ行き、学校へ行き、買い物へ行き、家事を済ませ、勉強をし、いつものことを当たり前にする。人が新しくやろうと思うことなんて希であり、三日坊主で終わる。それは神が望まないことなのかもしれない。ダイエットをしたいと言っても、それは神や世界にとって、不都合なのかもしれない。今現在が不都合ではなくても、未来が不都合になることかもしれない。
記憶喪失というのも同じ原理で、過去を失われるというわけだから、習った言語や知った物など、すべてを忘れるはずである。それも不都合だ。何を言っているか分からない迷える子羊みたいな人間を扱うのかは、想像するだけで心苦しい。そんなことで神は習得したものと思い出と呼ばれる二つの記憶を作った。
まあ、そんなことはどうでもいい。これはあくまで神が行った過去のことと、これからやりうる未来のことである。
これから綴る文字の組み合わせは、まったくもってふざけているつもりは少しもない。初めも言ったとおり、これは事実であるのだからしょうがないのだ。
それはそれでこの話は、俺のごく平凡すぎる平凡な生活をいつもように暮らしていた俺なのだが、突然ある一年だけ百八十度変えた話である。あの時は本当に天地がひっくり返ったかと思ったが、今ではすべてを鵜呑みにできる。
それはすべて、昔からの幼馴染が原因である。奴がいなければ、こんな破目にならずに済んだのに、しかしいなかったらいなかったで、面白いことは何もなかったと思う。
そして始まる。たった一年だけだが、俺たちの小冒険の予感なんて、その時は何の微塵さえも感じなかった。それは運命で、もう引き返せない一本の綱渡りをたどらなければならないことなら、いっそ死んでしまいたいと思ってしまう。これから苦しいことが起こるかもしれない。しかし渡らなくていいことならば、逆に渡りたくなってしまう。
それは俺の人生の分岐点であり、一つの句読点であり、一段階の人生の終わりであり、そして同時に人生の始まりでもあった。
それは見るからに明るく平和な青い空が広がっている四月の初め。俺とミズキは土手に寝転がっていた。学校の帰りであった。俺たちは一人を待っていた。いつもここで待っている。昔から、今まで。風が草の上を駆け抜けた。
ここから話し始めるのは別にいいのだが、ちょっと早すぎたかもしれない。もう少し戻れば、もしかしたらこの話が分かりやすくなるかもしれない。俺がまだ家から学校に向けて出発するところからだ。これが俺の冒険と夢のような世界を信じ始めた出発点だった。
俺はその日が始まってから、憂鬱でしょうがなかった。いや、憂鬱だと決まっていた。高校生活の一年がもうすでに終わってしまい、口を開けて過ごしていたら、気付かないうちにもう二年目の初日だ。ついこの前に新年を迎えたと思っていたら、今度はまた新たな一年が始まることに、嫌気がさしていたからというのもある。そんなのも結局は、学校に行きたくないという念であることには間違いないだろう。
家を出て、自転車にまたがると、特にすがすがしくない空気が待っていた。空には雲が覆っていたのだ。この雲は俺の憂鬱度をさらに上げたに違いない。春休みの間に何も変わらない道、店、家を見て走るのは一年の経過から苦痛になっていた。まったくもってこの一年、楽しいことなんてなかったと思っていた。地味な疲れが蓄積され、翌月に借金が繰り越されたような気持ちであった。
その学校までの道、友人はともかく、知人さえも会わなかった。そんなに遅い登校か、もしくは早い登校だろうか。自分にとっては十分に早いと思っている。
ゆっくりと進む自転車に対して、車は俺の横を次々に飛ばす。危ない運転だと分かっているのか、この町の教習所の制度を疑った。
土手の道を走っていると、端に咲いている春の植物が目に付く。よく踏まれている。雑草はなぜ踏まれてもめげないのか、俺には到底分からないことだ。
踏切を通り、商店街を突っ切り、駅の前を通るとすぐに学校の姿が現れる。その地理は変わっていて、少々小高い丘の上にある。そして周りは自然に溢れ、よくこんなところに学校を作ったなあ、と感動してしまう反面、不可解なことでしょうがなかった。
この学校までの丘というのがなかなかの曲者で、自転車で一気に上るにはきつい。だから校門十メートル前からは降りて歩く。こんなところで無駄に体力を使って、まして汗をかいて一日を過ごすなんて嫌なことだ。
やっとのことで学校に着き、駐輪場に自転車を置いて正面玄関に向かう。そういえばクラス編成があった。その通りに昇降口には紙が張ってあった。いくら興味がなくて面倒くさいことでも、すでに終わってしまったことだからしょうがない。俺はしぶしぶ、見に行くことにした。
するとそこに、見覚えのある同級生が目に入った。そしてそいつも俺に気がついた。
「よお、今日は珍しく早いな」
それは河口瑞樹という名前の通称はミズキ。俺の無二の親友で、小学校からの付き合いだ。しかし小学校の時、学校を離れたが戻ってきた。付き合い始めた理由というのはよく覚えておらず、いつの間にかそこにいたような存在だ。まあ、一緒にいて楽しい奴だ。だから一緒にいる。
そしてミズキは続けた。
「そういえば、もう一年が経ったんだな。早いもんだよな」
「そうだな」
俺はそう答えながら、目で自分の名前を探していた。
「あ、あったぞ。お前も一緒のクラスだ。ほら、二年四組のところ。これで二年連続か」
そう。俺は去年もミズキとは同じクラスであった。中学を通じてだと、これで四年連続となる。こんなまぐれもあるものなのかと思いながらも、自分のクラスに誰がいるのか確かめていた。
「あいつもか」
俺はその名前をしばらく眺めていたが、ミズキは俺の肩をたたいて言った。
「行こうぜ」
下駄箱に靴を入れ、上履きに履き替え、俺たちは並列で階段を上っていった。クラスに入るまで、無言でいた。そしてクラスに入る。
入ったその時、新鮮な感じがした。光の入り具合が一年の頃のクラスと違い、明るくなったような気がする。そんなことを思いながら、誰だろうというような目でこちらを一斉に見ていることに気付かなかった。俺はミズキの反応を見るなりそのことに気付いた。
「なあ、これって、歓迎されてるのか」
少なくともそれはない。俺たちは足早に自分の席を探し、そして座った。席は六席で一列となっており、俺たちの席は偶然に隣同士であった。
「あいつは後ろか」
そう俺がつぶやくと、そいつが教室のドアから顔を出した。そしてこちらに歩み寄って言った。
「よお、諸君。元気にしてたかな」
席を確認し、ここだと確信してから荷物を置いて席に着いた。
「なんだなんだ、この登場は」
「ふふ、いいでしょ。それより、また一緒のクラスかー。何年ぶりだろうね」
「ざっと…中一以来かな。三人とも一緒のクラスは」
「こうやってまた一緒のクラスでいられるのも、何かの縁かもな。しかもこうやって席が近いし」
「そうそう、それそれ。すごい偶然が重なってるよね」
アズサは相変わらず元気だ。春休みで十分に含蓄したかのように思える。
ここで一応、自己紹介をしておこう。名前は滝川梓。通称アズサ。元気いっぱいの女子で、決して裏を出そうとしない。幼稚園からの付き合いで、近所の家に住んでいる。もちろん幼馴染といえる。自分のやりたいことをまっすぐ突き通そうとする性格で、そこを理解するのはやや困惑することもある。そこが欠点であり、長所でもあるといえよう。俺たちと付き合っていたということもあって、少々男勝りであった。成績は中の上、運動は上の中と、ほぼパーフェクトなやつだ。中学の頃、俺にはそうは思えないが、魅力的だということで男子からモテていた。高一の頃とは打って変わって、だいぶ体のほうにも変化が遂げていた。腰は細くなり、足は長くなった。スタイルは素晴らしいほど恵まれていた。そんなことから中学の頃から継続して、今に至っても男子からの人気は健在であった。
「まあ、この一年、よろしく」
そう言うとアズサは今日一番のスマイルを見せた。
そしてしばらく俺たちは話していた。クラスの席はだんだんと埋まり、会話は広がっていった。すると一つだけ空席だということに気付いた。
「なあ、お前の後ろの席、誰だ」
「俺に聞いたって分からねえよ」
その後、どんな人がそこに座るのかを話していた。何も話すことがないのが本当の理由だ。春休みのことを話したって、互いに大変だったなどで終わってしまうが、俺たちの場合は春休みでもよく会っていたりしていた。話すことがないのが、今の俺たちの現実である。
そして時間は過ぎ、チャイムが鳴った。それと同時に、担任になるはずの教師が教室に入ってきた。しかしミズキの後ろの席は誰も座らなかった。果たしてどうしたのか。不登校、それとも遅刻か。
担任の話は長々と続いた。まず自己紹介から始まって、担当の教科。水泳部の顧問であること。水泳部員は少ないから入るようにということ。水泳による身体的の効果。水泳部に入ってのメリットなどなど。
話が終わるまで、俺はそれを適当に聞き流した。今の俺にはあの席に誰が座るのかということが気がかりで、そのキーワードとなりそうな言葉を拾っていたのだが、あるはずがなかった。そして始業式があると言う言葉だけを聞いて、担任は教室を後にすると、俺は重い腰を上げ、立ち上がった。結局ミズキの後ろの席は誰だか分からなかった。
「早く行こう」
そのアズサの呼ぶ声が聞こえ、やっと動く気になった体は腰を持ち上げた。
クラスについていくように、俺たち三人はその後を歩いた。体育館について順番に並んで床の上に座る。そしてしばらく冷たい板の上で待たされ、その間、知り合いと話をして過ごす。校長が壇上の上に上がり、つまらない話をしている。その間、俺は眠りの中にいる。目が覚めると、大して時間が経っていないのか、まだしゃべっていた。いつ終わるのかとまたうつむいて目をつぶろうとしたら、話が終わったような気がしたのでもう一度顔を上げたら、本当に終わろうとしていた。
教室に戻り、また三人であの席のことを話す。飽きると別の話題に移る。
いつもどおりの変わらない生活がここにある。俺はこんなつまらない、退屈な人生がいつまでも続けばいいと思っていた。俺の経験から、変わらないというのが一番いいことだと思っている。このまま自分の思惑通り、ことが進めばいいと思っている。しかしそれはその時の俺であった。
学校が終わり、俺とミズキは先に土手で寝転がって待っていた。アズサは自転車のカギを教室に忘れたから先に行ってて、と言い残していた。
待っていたほうが良かったかと、ここに着いてから考えたが、朝とは打って変わって青空がどこまでも広がっているそれを見ていると、そんなことを考えなくなり、無心になってしまう。大きく深呼吸すると、新鮮な空気が肺にどっと流れ込んでくるようで、身体に染み込み渡っていく。
あー、時間よ止まれ、と思う瞬間であった。
どこまでも続く道のように、空はどこまでも伸びる。道路の水溜りのように、雲が点々とある。どこまで空は続くのか、一度歩いて旅をしてみたいものだ。一人旅がいいかな。
俺はそんな妄想を膨らましていった。
そして土手の上で、自転車のブレーキ音が聞こえた。
「なんで置いていくのさ」
アズサは土手を滑り降り、俺とミズキの間に入った。
「何言ってんだ。お前が先に行けって言ったんだぞ」
「なーに言ってんの。待ってくれると思って、ちょっと期待してたのさ」
アズサは目をつぶって、大きく深呼吸をした。
「やっぱりここは、気持ちいいね」
腕を精一杯伸ばし、小さくうめき声を上げた。
「さて諸君。今日はどうしようか」
「何でもいいんじゃないか。好きなやつで」
ミズキは空を眺め、微笑みながら言った。
「じゃあ、何しようか」
俺はアズサの横顔を見た。別にアズサを見たかったからではないが、ただそっちを見たかったからであった。そしてその時、たまたまアズサが視界に入ってきたのだ。
そういえば、アズサの身長は少しであるが、伸びている。去年と比べると一、二センチは伸びているだろう。そろそろ一七〇センチになる。俺はそれをすでに越して入るが、もう成長は止まっている。ミズキも同じく、俺と同じくらいで、成長は止まっている。残るはアズサだけであった。
そしてアズサは突然、よしと声を上げた。どうやら何をやるか決めたらしい。
「カラオケに行こう。ほら、諸君、立つのだ」
「はいはい、やれやれ、と」
勝手に先導するアズサに、嫌だなと思ったり、飽きたりはしなかった。昔からの付き合い、女子であるから、それが当たり前になっているから、すべてをひっくるめて、不思議とついていきたくなる。昔から魅力があり、人を惹きつける。アズサの笑みにはそういう効果があるようだ。今までにこうやって何度もあっちへこっちへと振り回されている。そんな時はいつだって笑顔を振りまいて、周りを自分のものにしてしまう。空気をすべて自分の得意なものにしてしまう。
俺は時々、その時のアズサを少し憧れの目で見てしまう。そういうところを見習いたいと、自分でも思っていた。リーダーになりたいのではないが、もしそういうことができるなら、さぞその場に自分がいやすくなるだろう。
そして俺たちは自転車にまたがり、ペダルに足をかけた。
「今日はどこのカラオケに行くんですか、お嬢様」
「いつものところ」
アズサを先頭に、俺たちはいつものカラオケ屋に向かった。
「じゃあね」
俺の家の前で別れたアズサはさらに奥への道へと走り去った。
今日は毎日といたって変わらない日々の一ページに過ぎないものであった。日々平凡な人生に、非凡な人生を望む暁には、結局平凡が良かったと思えるような日に戻ることを俺は知っていた。もともと非凡な人生を歩むものは、逆に平民の人生に憧れることだろう。
俺はドアを開け、家に入った。不気味なにおいが鼻をつつくが、それはいつものことである。新築のにおいではなく、人工的に作られた、今のにおいであった。
「ただいま」
「お帰りなさい」
リビングのドアの向こうから声がし、においもそこからのものだと分かった。
俺は頭の辺りまで生える草木を掻き分けるようにして進み、階段を上がって自分の部屋に入った。特に変わったこともなく、いつもの自分の自由にいられるスペースだ。そこに勉強机があり、本棚があり、ベッドがある。俺は机にスクールバッグを投げ、ベッドに横たわった。
そして首を絞めるネクタイをはずし、一つずつ胸を締め付けているボタンをはずし、背中に食い込む布を直しながら、今日のことを思い起こしていた。
今日の朝、どんなことを思っていただろうか。学校に行く途中、何を考えていただろうか。学校に着いて、ミズキと何と話しただろうか、アズサはどんな登場をしただろうか。まるで今までの人生を振り返るように、はるか昔を思い起こしていた。それは近いようで遠いものであった。
そしていつしかは、勝手に体が動き、コンポに手が伸びるのであった。シャッフルで流れる曲は、ジャーニーのドントストップビリーヴィン。結構お気に入りの曲だ。昔を思い起こさせてくれそうな懐かしさと、これから未来に向けての励ましになっている。中学の頃よく聞いたのを、今でもはっきりと覚えている。
すると俺のポケットで携帯が震えた。俺はすぐに携帯を手に取り、着信がアズサからであるのが分かった。
「もしもし、アズサ?」
次の瞬間、俺は息を飲んだ。さっきまでのアズサとはまったく違ったからだ。
「…リョウ?ちょっと、今日あったこと、教えて欲しいんだけど…」
その声は恐ろしく落ち着いていて、聞いただけで身震いがした。今までこんなことはなかった。そんなことより、今日のことを教えてほしいって何だ。もう今日のことを忘れたというのか。俺はさっき思い返していたこところだった。俺の頭にはいろんなことが駆け巡った。
しかし、俺は素直にアズサの言葉に沿って返した。アズサは熱心に俺の言葉を聞いているようだが、適当に聞いているような気がした。適当に相槌を打っているようにも思えたからだ。
「ありがと、リョウ…ミズキ、元気してる?」
またまた変なことを言い出した。今日のミズキを見ていないとでも言うのか。
「あ、ああ、元気だ」
「そう、じゃ、明日、学校で」
そう言ってアズサはすぐさま電話を切った。俺の心には不安と不思議が隣り合わせにあった。電話をかけてきた理由や目的も何も分からないままだった。自分が問い詰めようともしなかったのだから当然のことであるが、さっきは自分の頭では考えられないほど驚いていたのだ。緊張して声が出ないのと同じ原理だと思う。
こうして俺は電話をかけなおすわけでもなく、携帯を手に持ったままベッドに仰向けに倒れこんだ。そしてアズサのことを考えた。なぜあのような電話をしたのか。もしかしたらおふざけか。もしかしたら記憶喪失なのか。しかし今の俺にはどちらも当てはまらないような気がした。しばらくそんなことをずっと考えていたが、長年付き合っているアズサのことが、その時初めて分からなかった瞬間であった。
自分がふがいなく感じ、自分の顔をも見たくなくなるといった、自己を追い詰める感情に変わる。今、自分は自分に追い詰められ、壊滅しかけている。
しかし結局の原因、アズサをああさせたものはなんだろうか。よくよく声を思い出してみると、何か一人、悩んでいるような声だったような気がする。自分の原因なら、時分でどうにかなるかもしれない。しかしそれでもだめなら、今日はよしといて、明日その悩みにでも乗ってやろうと思う。でも俺よりミズキのほうが聞き手として向いているだろう。よし、明日学校に行ったら、ミズキにこのことを話そう。
俺はこうやって人事のように済ませることが多い。そして自分の嫌な癖で、治さなければならないといつも思っているが、一向に治らない。意識しているだけで、実行に移さないからだ。その時の俺には、まだそのことに気付いてはいなかった。
しかし、これはまだ、不可思議なシンドロームの前兆だとは、知る由もなかった。
「そうか…アズサが」
俺は昨日のように早く登校し、携帯をいじっていたミズキにアズサのことを話した。昨日かかってきた不可思議な会話、声。そして俺が立てた予測。とりあえず、自分の思うことをすべて話した。これが一大事だと、肌が感じ取ったからかもしれない。
「あ…あれ、見ろよ」
俺はミズキの指差すほうを見た。そこには、いつもとは違うアズサの姿があったのだ。普段は普通のショートヘアなのだが、今日は後ろにポニーテールをくくりつけている。しかしこの髪型はショートのときと比べると格段に似合っている。俺の心のどこかで、アズサに魅せられていた。俺とミズキは唖然であった。
アズサは元気なさそうな顔で席に座ると、深いため息をついた。やはり何か深い悩みを抱えているようだ。しかもこの様子だと、話す気配がしない。
今の俺たちに、はたして何か話すことがあるだろうか。しかし俺は、昨日からアズサが気になってしょうがなかった。おかげで昨日は大して眠れなかった。しかしこれは恋愛感情からこういうことになっていることではないことは、十分といえるほど分かっていた。古くからの幼馴染からの故の不眠だと思う。そして俺は初めて話しかけるかのように、強張ったように言った。
「どうしたんだ、そのポニーテール」
アズサは外をぼんやりとした様子で眺めていたが、その言葉にこちらを見た。
「…前と変わらないわよ」
「あ、ああ、そう。ポニーテールにしては…テールが短すぎじゃないか」
アズサは何も言わず、一つため息をすると、また外を眺めた。今日の声は、昨日の朝と比べると、百で割った以上に暗い。
俺たちはそのことに圧倒されていた。声量か、もしくはその声からか、とりあえずいつもと違うアズサには初めから圧倒されていたに違いない。
「本当にこいつ、どうしたんだ」
ミズキは俺にひそひそと耳元で話した。俺はさあ、と手でジェスチャーをし、アズサの背中を見ていた。
その後も一向に何も話そうとはしないアズサに対し、俺たちは時間の過ぎるままに過ごしていた。
今日も昨日の始業式と同じように、オリエンテーションのような形で、今日も早く下校となる。そして昼の前に、俺たちは学校を出て、昼飯を何にするかと話し合っていた。しかしいつも自分で決めようとするアズサは、だんまりで俺たちの自転車の跡を追っているようであった。また、アズサに聞こえないように、アズサの豹変について、小さい声で話していた。そして俺たちが勝手に決めてしまったファーストフード屋に入り、それぞれメニューの中から注文し、二階の窓際の席に座った。しばらく俺たちは談笑もせず、黙々とハンバーガーを食べ進めていた。しかしミズキはその重い空気の中、口を開いた。
「今日さ、どこ行くよ」
この空気にははっきり言って参っていたようで、いかにも勇気を出しました、といった顔でミズキは言った。しかしそれは結構いい結果を生み出したかもしれない。アズサはその閉ざされた口を開いたのだった。
「…あ、それなら、カラオケに行きたい。久しぶりに…」
「何言ってんだ、お前。昨日、行ったばかりじゃねえか」
俺はつい、いつものように返してしまった。これがどうでるか、俺は気になってしょうがなかった。もしかしたら、このせいでまた口を閉ざす確率がないとも限らないからだ。しかしその心配も、無駄に終わってよかった。
「そ…そうだっけ。忘れちゃった」
忘れちゃったって、昨日、お前が電話をかけてきて、俺が教えてやったじゃないか。しかも、昨日は恥ずかしながらデュエットまでしてやったじゃないか。忘れたとは、もう次の言葉が出なかった。
「お前さ、今日よ、大丈夫か。何か変だぞ。暗いし、どうしたんだ」
「い、いや…別に…」
アズサは戸惑った顔をして、上手く何かをごまかそうとしていた。しかしそれが俺の思い込んでいた悩みを隠すものではなく、自分の秘密を隠しているように見えた。俺の思い込みも曖昧なものだ。
「今日の朝さ、嫌なことがあって…気にしないで」
ウソだと俺の感が脳に伝えた。昨日の電話、あの時のように暗かった。やはり何かを隠している。しかしその秘密とは、今の俺にはどうやっても知ることができないと思った。なぜならアズサの心は鉄の箱で包まれ、さらに何重もの頑強な鎖で縛られていると思ったからだ。今からその鎖を解こうとしても、何十日、何ヶ月、いや何年かかることか分からない。もしかしたら意外と早く解けるかもしれないが、それは雲をつかむ以上に確率が低いこと。しかし俺はどう考えても今の段階ではその心の鎖を解こうとは思わなかった。自分から解かすまで待つしかない。俺は気長に待つことに決めたのだった。
そしてその後、また沈黙が訪れ、食べ終えるまでは一切誰も口を開くことはなかった。いつも先陣を切って話し出すアズサが話さないとなれば、いつものペースを乱す。いうなれば俺たちはワンマンチームのような集団である。
最後の最後に口を開いたのは、ハンバーガーの紙を丸めていたミズキであった。その上その言葉は短く、単調に言うのであった。
「じゃ、行こうか」
アズサの一言で、俺たちは昨日も入ったいつものカラオケ屋に向かっていた。相変わらずアズサは後ろで何も話さずに走り、俺たちはそのことを気遣ってなるべく明るい話をしようとしたが、まったくの皆無だと分かった。というよりも分かっていたが、やらずにいられないという変な正義感がむき出しになったのは間違いない。それにしてもアズサが行きたいと言ったカラオケ屋に向かっているはずなのに、元気がないのはどうしたことだろうか。そんなことを気にしながら、俺はなぜか一人心を痛める思いでいた。
「やっと、着いたな」
その言葉にはずっしりと重い意味がこめられていた。確かに長かった。ここまで来るのにいつもより長い時間をかけて来たような気がした。
店に入り、カウンターで部屋を決め、そしてボックスに入った。
さて、誰が先陣を切るか。俺はそれだけを心配していた。ここに来て、沈黙のまま時間は過ぎ、金だけを払うという虚しい結果に終わるストーリーを考えてしまったからだ。なので今、俺が考えていることは、皆無に過ぎる時間をどう過ごそうかと考えていた。天井を眺めるか、何も映っていないテレビを無情に眺めるか、他にもあるが、迷うだけで終わりそうだな、と思った。
しかしその心配はなくなった。アズサは収録曲の雑誌を左手に、リモコンを右手に持っていた。ものすごい速さで指を動かしながら、時々雑誌のほうに目をやっている。
その姿を見ていた俺とミズキは唖然になっていた。気付いたら、もう入れた曲が十曲に達していた。
そしてアズサは手を止め、雑誌を置いて、リモコンからマイクに持ち替えた。
「…よし」
曲は流れ出した。しかしそのイントロは昨日、耳にたこができるほど聞いていた。
「アズサ、この曲、昨日お前が散々歌い散らしたじゃねえか」
「え…知らないもん。そんなの」
そしてアズサは歌いだした。
が、しかし、今日のこの聞きなれた曲は、いつもとは違った。なんだろう。なんか、心にしみるようだ。体中に染み渡るようだ。昨日とは、まったく違う曲のようだ。声が高いパートに入ると、そこが一番ピークだった。その時の俺は、なぜかと不審に思わずに、その曲に聞き入って、そして魅入っていた。
「ふぅー」
アズサが歌い終わっていたことに、俺は気付いていなかった。気付いた時には、もう次の曲を歌いだしていた。アズサ一人で、気持ち良さそうに歌っている。なんだかさっきまでのアズサがウソのようで、何かと不思議であった。悪魔から逃げ、やっと追いつかれないところまで来たというような顔をしている。
アズサの横顔を眺めているのもいいが、俺はしたいことがあり、スッと立ち上がった。
それを見ていたミズキは俺に言った。
「どうした」
アズサは何をするか察知したかのように、こっちを横目で見て、その目はなにか物寂しげであった。そのような目になった時、アズサの声はだんだん小さくなっていった。
俺はそのことに気付いていながらも、やはり行きたかった。
「いや、トイレ行ってくるわ」
ボックスを出て、俺はトイレへ向かった。
今頃どんな顔をしているだろうか。ドアを開けるとどんな顔で待っているであろうか。俺は考えられる限り、アズサの顔を想像していた。物好きだと思われるが、俺が出て行った時の顔がどうも気がかりであった。
しかし俺は何食わぬ顔で部屋に戻った。どんな表情をしているかと思えば、のんきに元気よく、アズサは歌っていた。
そして俺はミズキの隣に座り、一つ質問を聞いてみた。
「これ、何曲目だ?」
「三曲目の終わりだ。それにしてもお前、結構長くトイレにいたな。なっげえ大便だな」
「は?俺は…」
三分ぐらいしか経っていないと思っていた時間は結構経っていたようだ。一曲五分と換算すると、この曲はもうそろそろ終りそうなので、約十分ということになる。しかしそんなにいた覚えはない。これはバカでも分かる。時間の感覚なんて、三秒と十秒が大きく違うように、大体は肌で体で覚えているはずだ。
奇怪なこともあるんだな、と思っていると、アズサは歌い終わった。そしてこちらを振り向き、カラオケを口元に近づけて言った。もとの笑顔はすっかり取り戻したようだ。
「リョウ、歌お」
俺はアズサに立たされ、ミズキに尻を押されて、なすすべなく歌うことになった。
こうして俺たちは歌いに歌い散らし、六時間近くそこにいた。大体、七十四曲ぐらい歌った。時間が時間なので、俺たちはぐったりしたようで帰路につこうとした。もう声が枯れたから、出てきたというのが本当の話だが。
レジで会計を済ませる時、なぜだか知らないが、ふと目に入った時計の針はまだ二時間しか経っていないと物語っていた。あの部屋では六時間経ったと、確かに時計を見たはずなのだ。ちゃんとその経過も見ていた。二時が過ぎ、三時が過ぎ、いつしかは七時になろうとしていた。しかしこういうことになるのはどういうことなのだろうか。
まあ、きっと、この時計が間違っているのだろうと、内心そうやって目の前の現実から目を遠ざけようとしていたが、価格を聞いて驚いた。二時間での価格であったのだ。どうなっている、と首をかしげながらも、不思議で、何だか胸が痛くて、しかし二時間の料金で払うことにした。結局俺は開き直って、店員がそう言っているのだからいいのだろう、と思い、払うことに決めたのだった。
そして店を出ると、店員が後を追いかけてきそうで怖かったので、早足で自転車のところまで行った。ミズキも同じような様子であった。俺と同じようなことを考えていたのだろうか。きっとそうだろう。顔がそう言っている。
とりあえず、俺たちはそのカラオケ屋から逃げるようにして自転車を走らせ、時々後ろを振り向くのであった。なぜか俺たちは犯罪者というレッテルを貼られているようで、いつの間にか警察に追われているようで、気がかりでしょうがなかった。
土手を通り、いつもの道を黙って走っていた。まだ信じられなかった。そのおかげで、放心状態が続く。しかしせっかくアズサがいつもの調子を取り戻したというのに、今度は俺たちがアズサの病気にかかってしまったようだ。
ついに別れのY字路に着き、ミズキは左の道へ行ってしまった。この帰り道で、ミズキとは一度も話さなかった。
「じゃ、また明日」
ミズキの背中は、まあ、いつもと変わらなかったが、まだあの状況が理解できない、動揺したような雰囲気を漂わせていた。
そして俺とアズサは並列で自転車をこぎ進め、住宅街を通って行った。
俺は何も話せないでいると、風がピュッと鳴り、それをきっかけにしたのか、アズサは口を開いた。
「ねえ、公園に寄ってかない?」
「ああ…いいが」
なんでだか分からなかった。公園に寄る理由は何か。俺は不思議に思いながら、すっかり枯れてしまった声で返した。
公園に入り、まだ日も高かったので、少年少女が仲良く遊んでいた。つまり子供がいたということだが、俺たちが入ってくるなり、全員、撤退するように風のようにあっという間に出て行った。
まったく、今日はどうなっている。
俺はアズサに先導されるまま、指の先にあるブランコに座った。
「で、一体、なんだ。話があるんだろ。言ってみろ」
「…あんた、覚えてないの?あんたが昨日の夕方、何を言ったのか」
アズサは厳かに、そしておそるおそる尋ねた。俺は相変わらず、アズサが何をしたいのか、何を話したいのかがまったくと言ってもいいほど分からなかった。
「は?昨日は携帯で話しただろ」
「…そう」
アズサはブランコを小さくこぎ出し、ブランコの音を軋ませていた。
そして、風はしばしの沈黙をかき消しくれた。俺に何を言えばいいのか、考えさせる時間をくれたのだ。しかし俺の頭脳では、何かかける言葉が見つからなかった。そんな自分が恥ずかしい。
何かないのか、何かないのか、と頭の引き出しを模索していると、アズサは気付いたように言った。
「そうだ。明日、ミズキの後ろの席にね、転校生が来るよ。女の子で、ちょっとつんつんした性格だけど、仲良くやろうと思えば、すぐに仲良くなれると思うよ。良かったね、女の子で」
アズサはブランコから降り、やや不敵な笑みをこぼして自転車にまたがった。そして俺に見当がつかない微笑みを見せた後、置き去りにして自転車をこいで行ってしまった。しかし一声上げ、俺に振り向いた。
「そうだ、リョウ。余計なことは、余計にしか終らないんだよ」
そう意味の分からない言葉を言い残し、ペダルを強く踏んで、今度こそは止まらずに行った。
俺はアズサを公園から出るまでその背中を追い、見えなくなると深くため息をついた。台風一過とはこういうことのためにあるのだろうか。とんでもないことを言い残して、風のように去っていったアズサは、まるで未来を予知する預言者、いや、未来がはっきりくっきりと見える女子高生なのだろうか。明日のことを、一人の人間をあそこまでずばずばと予知的なことを言えるのも、どこからか湧いてくる自信なのだろう。その自身を形成しているのは、やはり知っているからか。
やはりアズサは変わっていなかった。カラオケでいつものアズサだったのかと昨日の夕方のことからをすべて消してしまったが、この言葉を聞いた途端に、現実に引き戻されたような気がした。頭にまたよみがえったのだ。
うなり声を上げて、頭を抱えていると、ますます分からなくなる。幼稚園から高校まで一緒に歩んできた十三年間のおかげでなんでも分かる、なんでも理解できるはずだと思っていた。アズサの親より、世界中の誰よりも一緒にいた時間が長いアズサに、今では何も分からなくなっている。
俺はふと、地面を見ていたら、辺りが暗くなってきているのに気付いた。カラオケボックスを出てはや一時間。あの部屋にいて、時間の流れがよく分からなくなっていた。体内時計はまだ二十分ほどしか立っていないような気がする。
とりあえず、俺の頭の整理は後にして、帰ることにした。しかし帰ると言ってもそんなに離れていない。昔はよくここにアズサと遊んでいたものだ。
俺は公園を出る前に、自転車を止め、公園を一望した。
もう、これが最後だと思ったからだ。俺の感がそう言っていたのだ。あまりに頼りない感であるが、その時はなぜか信じられた。
ここにはもう用がない。ここに俺は立ち寄ってはいけない。アズサは遠くでそう言っているような気がした。
「さて…」
どうしようか。もうこの後はフリーだ。勉強をするのもよし、音楽を聴くのもよし、寝るのもよし。しかし俺はどれもとることはなかった。今日はただ一つ。アズサのことが忘れられない。
好きなわけではない。興味があるわけではない。昨日の昼までは普通だった人間が、突如クレイジーガールになったら、誰だって気になるだろう。
それにしても、今日は不思議なことがあった。いや、不可思議というほうが賢明であろうか。アズサの豹変から始まって、ローテンションの朝、やけに長く感じる時間、挙句の果てには公園でのちょっとしたどころではない予知。しかしこの予知というのが、もし明日、言ったことがすべて実現となったら、とんでもないことだ。女の転校生が来ることになる。それも入学式二日後のことだ。それも変な話である。
ベッドに仰向けになって目をつぶり、今日はもういいや、と投げやりでいた。どう考えても変な出来事が続き、今の俺の情報や推理では解決できるわけがない。それに疲れた。六時間もの時間の間、歌っていたはずなのに、実際は二時間しか歌っていない。しかも声は枯れていて、変な具合に疲れた。七十曲をぶっ通しで歌ったのだ。しかしここでまた、あの疑問が浮かび上がった。
七十曲近くの歌を歌ったことは、つまり、少なくとも五時間は歌っている。しかしこれはあくまで最小値。実際は六時間近くがあっている。だが二時間とはどういうことだろうか。そういえば俺がトイレに行って戻った時、だいぶ時間が経っていたような気がした。つまり、俺がトイレに行っていた時、時間は遅くなっていた。あるいはあのカラオケボックス内では早く時間が流れたかのどちらかだと思われる。
しかしさっきも考えたように、今の俺では結果が見えている。
俺は考えるのを止め、電気を消して目をつむった。手探りで布団を探して、それをかけた。さて、明日はどうなっていることやら。
明日が楽しみで、複雑な気持ちでいながらも俺は寝ることはできた。
運命の日。いや、少し大げさすぎるか。まあ、とりあえず、今日でアズサがどんな人が見ても一般人にしか見えない日になることであろう。きっと転校生は来ない。なぜなら始業式に合わせないで、わざわざ二日を遅らせて来る人はいない。
今考えてみると、人に聞いてその情報を俺に流したという可能性も出てきた。しかし実際の話、俺にはそれがないと思った。なぜなら単純に、この話をしようとする人、している人が誰一人いないからだ。もしかすると、アズサだけの秘密であり、誰にも教えていなく、ふと校長室の前で聞いたとかなんやらあるかもしれない。あるいは後ろの席には誰もいないから、と適当に話を作ったか。やはりそれはないと思う。あそこまで明確で、この日に転校してくると指定したことが驚きだ。
さて、ここで大体が整理されて、残ったのは、転校生が来るのを前提として、アズサがどこかでふと耳にしたか、もしくはアズサの予言どおりにすべてが上手く進むかだ。もし来たら、多分俺はふと耳にしたことを信じると思うが、今はそう思っているだけで、その時になったらまったくの逆になるだろう。ボールを投げてはるか遠い小さな的に偶然当てた人が無駄に尊敬されることと一緒だ。それが結局は人間であり、それが俺なのだ。
ミズキは俺よりも早く来ており、俺はアズサが昨日話してくれたことをすべて話そうと思ったが、今は保留しておこうと、アズサの余計という言葉が俺の気を咎めたのだ。
ミズキはまだ俺が何かを隠しているということには気付いていないようだった。それは俺にとって、少しの優越感を与えた。
俺はミズキに話しかけ、しきりにアズサ以外の話をしようと努めた。口が滑って、その話をするのを避けるためだった。それなら初めから話しかけるなということだが、それはそれで変に思われて、疑われたくなかった。しかし最近のアズサの話をしないのも疑われる原因になるだろう。
そして運がいいことに、アズサが教室に入ってきた。これで話題作りをしなくて済むと思うと、肩の荷が下りたような気がした。
「おはよう」
アズサは昨日と変わらず、ポニーテールであった。今日は昨日とは違って、朝の機嫌がいい。
そしてまた三人で、いつものようにくだらない話をする。その時はまた、いつもの生活が戻ってきたと思っていた。しかしそんなことも、一時の楽しい間に過ぎなかった。
先生が入ってきた。ちょうど自分の担任の授業で、その時、俺は自分の目を疑った。先生の後ろを追尾するように、一人の女子が入ってきた。アズサの言うとおりであった。
先生は一人の転校生を注目させ、いや、入って来る時には皆が注目していたと思うが、とりあえず言うことだけ言って、自己紹介までもして、言うことをすべて言い尽くしてからその転校生に自己紹介するように命じた。もう何も言うことがないのに、可哀想だと思った。
「岸、瑠衣です。よろしくお願いします」
簡潔だった。それしか言えなかったのだろう。
それにしても、転校生はやってきた。アズサの予言どおり、女の転校生が今日やってきた。明日でもなく、もっと先でもなく、男でもなく、しかも今日に来たのだ。まだもう一つの可能性である、誰かから聞いたというのは、逆に信じがたいものになってしまった。より一層、その神秘的なことを追求してみたいと思ったからだ。それに至るまで、アズサの一昨日の夕方からの背景を振り返ると、それは自然と不可思議なものに、一途をたどることになってしまう。
俺はただ、いまだに信じられないような目で見るだけであった。
拍手の後、先生はミズキの後ろの空席を指差した。
「えー、これから一年、仲良くするように。では、授業を始めます。教科書を出して…」
岸は席に座り、授業の準備をするために、なぜだかまだ何も入っていないはずの机の中に手を入れた。
「リョウ、前見なよ」
俺はアズサの声に気をとられているうちに、岸はすでに教科書とノートを開いていたことに気付いた。その一瞬の間に、何があったのか。教科書を出して、ノートを開いて、もう授業を受ける準備は整えている。
「ほら、前、見ろ」
アズサは俺の頬に親指を、前を見るよう押し付けた。俺は抵抗する理由もなく、最後まで流し目で岸の様子を見た。最後に見えたのが、ロングヘアをなびかせて、こちらを見て優しく微笑む天使のような顔であった。
俺は気を良くしながらも、なぜだかあの疑問に思うことがすべて消え去るように、一時的、忘れてしまった。代わりに岸の微笑がくっきりと頭の中に映るのであった。
授業は終わり、俺とミズキはトイレへ行って戻ってくると、アズサは岸ともう一人の女子との三人で、楽しそうに話している。そのもう一人というのは、髪の毛を後ろに束ねている女子であった。確かアズサの隣の席で、名前は波和とかいった。
俺たちは席に座り、アズサたちの会話の一部始終を聞いていた。すると、それに感づいたのか、アズサは俺たちにむけて言った。
「なーに、あんたたち。そんなに女子の話に興味があるわけ」
いや、そんなことより、お前が二人以上の女子を交えて会話することに興味がある。めったにないことを見るのは、とても興味深いし面白い。それに波和と岸も気になる。
そして俺はアズサの言葉を否定して、今俺が思ったことを言おうとしたが、ミズキは先に言った
「いや、お前が女子と話しているとこ、珍しいし…」
「何、まったく。私はいつも一人の時、大体はこうやって会話してるわよ。それに、素直に言いなさいよ。二人のことが気になるんでしょ」
アズサは怒っているように見えて、少々照れ隠しをしているように見えた。
すると、思わぬ人の口が開いた。それは岸だった。ロングヘアと優しい目を持ち、さらに声は透き通るようであった。
「瀬上君に、河口君でいいんですよね。私、先ほど転校してきた岸、瑠衣です。名前でも苗字のほうでも、どっちでも呼んでください」
岸は微笑んだ。それはつくりものでない、決して愛想ではない、本物の笑顔であった。これが彼女の本当の顔なのだろうか。
まあ、それは置いといて、もう一人、気になる人がいた。まだ俺たちは声さえも聞いたことがない、未知の女子だ。どんな人物か、はっきり言って興味がある。しかし、どこかで見たような気もしないが。
「こっちは知ってるでしょ。中学校、同じだったもんね」
あれ。そういえば、確か、あの時。中二の頃に引っ越してきて、中三の頃、合唱祭実行委員で一緒になった。髪型を変えたから分からなかった。中学校の頃と同様、ショートヘアに戻したら、まったく顔が合う。眉ともども吊眼で、少々男勝りなところがある。
「話したことあるでしょ、体育祭で、両方とも」
そうだ。この人は波和美水。度々見かけたことがある。そして体育祭の得点係でも一緒だった。その時はミズキもいた。ミズキを見ると、なるほどとうなずいている。それにしても、アズサとは仲がよかったのであろうか。接触したところを見るのは、これが初めてだと思う。三年もの間、一度も見たことない。
まあ、そんなことはどうでもいいだろう。アズサだって中一の頃以来で、一緒のクラスになるのは久しぶりであり、一緒のクラスではない間、もしかしたら波和と一緒になっていたかもしれない。多分そうだろう。むしろ、そうでないと困る。
この三人が一緒のクラスになったのは単なる巡り会わせかもしれない。言い換えると神様のいたずら。それは本当に行われたのだろうか。イカサマ。ズル。
そんなことが毎日行われ、誰も気付いていない。
本の一瞬のうちに、俺はまた一人妄想世界に引き込まれていた。アズサの声で引き戻されたのだった。
「…ウ、リョウ。ボーっとするな。ルイ様のありがたい話を拝ませてもらっているところなのに」
「え、別にいいですよ。私、そんなに偉くないですから」
「ほら。いいってさ」
しかしアズサは不満そうな顔をしていた。何も話さなかった。つんとした表情で、こちらから顔を背けた。
岸は微笑み、話を続けた。俺はアズサの言うとおり、岸の話を聞こうとしたが、まったく何の話か分からなかった。分かるはずがなかった。
今頃後悔している。聞けばよかったというものではなく、あの無神経に言ってしまったアズサに対する言葉だ。
岸の話が終わった後でも、俺には眼もくれずにつんとした表情でいて、一言も話さなかった。
アズサが話し出してくれたのは放課後だった。それは俺の一言から始まったものであった。俺で終わらせたのだから、それは当然か。とりあえず、いつもの日常会話をするのがいいだろうと思った。
「今日はどうするんだ。どっか寄るのか」
アズサは笑いもせず、怒りもせず、どちらでもない表情をしていた。
そして人にとって一番決まりが悪いことに俺は今直面している。こういう場面には度々遭っているのだが、どうやって切り抜けたなんて、覚えているはずがない。だってそうだろ。いちいち今日の登校時に何を見てきたかなんて、覚えているはずがない。
とりあえず、今は話してくれるだけで首にかかった縄が解かれるような気がした。
「別に。もう帰るけど」
まだつんとしているようだが、とりあえず話せる範囲での怒りなので助かった。しかしミズキは用事があるとさっさと帰ってしまうし、二人で帰るのかと肩を落とす思いであった。どうやってこの状況を脱するか。すでに頭の中ではそんなことを考えている。
アズサは無言で歩き出した。俺はその後を、砂浜に残された足跡を踏むように歩いた。自転車置き場まで来た。自転車に乗った。アズサの横に並ぼうとした。アズサは前へ行った。俺は結局、アズサの後ろをキープすることしかできなかった。ついに公園の前まで通りかかった。教室からここまで、まだ何も話していない。あと少しで俺の家だ。
俺は何か話せねばと口を開けたが、何も出なかった。考えたが、喉がからからということではなく、喉を突かなかった。麻痺していたというわけではない。勇気がなかっただけだった。
公園を通り過ぎ、影は俺の先を行った。
すると、思いがけないことが起こった。アズサの口がついに開いたのだった。
「ついて来て」
これは果たして脱のチャンスなのか。もしいるなら、神様に感謝したい。今だったら何だって信じられる。これからの展開がいい方向に向かえばそれでいい。とりあえず、これからのことをシミュレーションするのではなく、祈ることだけをした。
これからどこへ連れて行かれるのか。それだけは想像できた。
しかしアズサについていく道は見覚えがあり、よく通った。これはもしやと思うと、予想通りだった。思ったところで曲がり、思ったところで自転車を降りた。住宅街の中でひときわ目立つマンション。アズサの家だ。アズサは自転車を止め、俺もいつも止めているところに止めた。
アズサの家はよく来ていた。さすが幼馴染といえるぐらいだ。俺の家とアズサの家を、俺たちはよく行き来していた。一日に何回もだ。しかし最近、行ったためしがない。あれは、高一に春が最後であろうか。高校に入学したと、アズサとミズキとで小さなパーティのようなものをした。それっきりだ。このマンションの前まで来たのも、それ以来だ。
アズサは特に俺に何の指示もせず、マンションに入った。そこは広くきれいな空間で、つい最近作られたような防犯セキュリティがある。自分の家の部屋番号を押して、部屋のカギをさす。扉は開いた。アズサはさらに奥へ歩き、俺は例のごとくついて行くしかなかった。
エレベーターの空間ほど息苦しいものはなかった。唯一アズサが俺を誘った空間がそこなのだが、今日限りで閉所恐怖症になる思いだ。何もない沈黙。重い空気。俺には耐えられない。水の中で息を止めるのと比べると、はるかにそっちのほうが楽だと分かる。緊迫と消沈した空気の重圧に押しつぶされるのだ。誰が喜ぶか。エレベーターの中では息を止めていた。着くまでの時間が、無駄に長く感じられた。
ついにエレベーターのドアが開いた。俺の脇の下、額、首筋には限りない汗が噴出している。アズサは早足でエレベーターを出た。俺は気付かれないように、新鮮な空気で深呼吸をした。
部屋のドアを開け、中に入る。その人の家の独特のにおいというものはあるものの、アズサの家ほど慣れた家はない。もう我が家と同然だ。しかし、今日は違った。玄関がきれいになっていたせいのか、部屋の模様替えがしてあったせいなのか、俺は気付かない。
リビングにある見慣れたイスはなかった。ソファーに変わっていたのだ。真っ白なソファーだ。開放感のあるガラスは変わっていなかったが、汚れ一つさえなかったのが気になった。窓の向こうの世界は点々と灯火があり、空は鏡となっていた。
「座って」
そういえばアズサの言葉は教室からまだ三回しか聞いていない。俺は一回しか開けていない。不思議だ。不思議といえば、このしんみりとした空気は、本来この部屋にはないはずだ。もっと明るく、平穏すぎる空気があった。はっきり言って似合わないで言い切れる。なにやらこの家庭は切羽詰った状況に直面しているのだろうか。
アズサに言われたとおり、ソファーに座った。深々とは座れなかった。この場所で何が起こったのか、俺は知りたくなかった。
それから何分も経っていないだろう。外の闇が時間を早まらせた。時計の針の音がやけにはっきりと聞こえる。遠くからクラクションの音も聞こえる。風は吹いていない。やがてそれらの音は遠退き、入れ替わってアズサがお茶を持ってリビングに入った。
アズサは座り、ゆっくりお茶を俺の目の前に差し出した。カチャンと音を立て、コトンとカップと皿のすれた音がした。俺は喉が渇いていた。このお茶がオアシスに思える。そのお茶があまりにおいしそうに見えたので、俺はまさか毒入りかと根拠のない勝手な憶測を展開してしまったが、それはアズサの一言で夢のように消えるのであった。
「ねえ、あの子、見たことある」
俺はきょとんとした表情をつくったのに気付いていなかった。お茶に見とれていたのもあるのだが、第一に質問おかしいと思ったからだ。しかしその質問を返すことなく、アズサは続けた。
「ああ、ゴメン…あの子っていうのは、ルイのこと。岸、瑠衣」
ルイ。聞いたことあるぞ。俺の頭にくっきりと顔が浮かんだが、思い出という思い出というのは追尾して浮かんでは来なかった。アズサのことだったらいろんなことが浮かぶのだが。
「知らない」
これを言えばお茶が飲めると信じていたが、やっと出てきた言葉のおかげで、それはお茶だけを右手に持たせるだけで終わった。
「今日転校してきたばかりじゃないか。それに、今まで俺と一緒にいて、岸なんか見たことあるか?」
なんでそんなことを聞く意図が読めなかった。いつもなら読める心理が読めない。前と同じだ。あの電話の時と。確かあの時からアズサは変わっていた。
最近のアズサは何だか、偽者に思える。
こんなことを思ったのは初めてだ。今までアズサを怪しんだり疑ったりしたことがない俺なのに、その時から首をひねり始めた。何かが動き出していた。歯車か、時計の針か、リングか。もしかしたら気持ちか。しかしどれも合っていないような気がした。動き出したのは別のもの。確信はできた。いつもと同様、根拠はないが、それは確実だった。知っているようで分からないもの。今はまだ分からないと思った。
「…ないなら…いい」
アズサはお茶を手にして飲んだ。もう話すことがないような空気になってしまった。しかし唐突にアズサはその空気を破った。
「私は…ある。それに、変だと思うだろうけど…リョウもいた」
アズサの言った言葉のとおり、俺は素直にそう思った。俺は一人で、今までの記憶で確かに岸と会うのは今日で始めてだ。それは誰が言おうと言い換えることができないし、記憶も組み替えることができないはずだ。ましてそんなことができるやつがいたら、ぜひとも家の和室に飾っておきたい。
俺は何も言えずに、ぽかんと口を開けていた。何も言うことができなかった。喉は渇いていた。お茶を流し込みたかった。苦いわけじゃない。金縛りにでも遭ったような、一時の全身麻痺的なものだ。
時計の音が聞こえた。その間、俺は考える時間をもらったような気がする。何を言えばいいのか。この状況をどう脱するか。やはりこれは好機ではなく、破滅への序章だったようだ。
「もう、暗いね。そろそろ帰ったら」
アズサは言った。その言葉を聞いたとき、ホッとしたが、逆に何だか寂しくなった。
ああ、と適当な答えをし、まだ飲み終えていないコップを机の上に置いた。帰ろうとしてお尻を持ち上げようとしたが、さっきから気になっていた、この家の状況についてを、この状況でないほうがよかったが、ぜひとも聞きたかった。不審だった。きれいな玄関には、俺とアズサの二足の靴だけだったのだ。
あとはどう聞き出すかだけなのだが、それは考えてもしょうがないことかと思った。
「そういえばさ。今日はおばさんいないけど、どうした」
これでよかったのか。俺はアズサを直視できないでいたものの、アズサも俺を見ないでうつむいていた。何か言いづらかったのか、声はこもっていた。
「今はね…そう、単身赴任してるの。今はたまたま母さんもついていって…そうだから、大丈夫。気にしないで」
「そうか。お兄さんは」
何気ない質問だったが、アズサにとっては首を絞めるような一撃だったようだ。表情を見れば歴然だ。苦しんでいるというより、眉間にしわを寄せ、考えているような表情だった。
「兄さんは…仕事よ。就職して福岡のほうまで行っちゃった」
まだ言っていなかったが、アズサには兄がいる。五歳年上の兄だ。去年までは大学を無事卒業して、就職活動だけをしていた。結局その年は就職できなかったが、今年はどうやらできたらしい。
両親はというと、口喧嘩が絶えず、ドメスティックバイオレンスを繰り返したということはまったくもってない。むしろその逆だ。もしそんな噂が立ったとしても、三日以内にはなくなってしまうことだろう。
家族単位でも、外から見れば誰だって認める円満な家庭を築いていた。時には喧嘩もするが、それは喧嘩するほど仲がいいという程度のもので、本当の殴り合いはない。毎朝食卓を囲んでの朝食を基盤に一日をスタートしていて、どこの家庭もそのことを夢見ているのか、我が家の家訓は滝川家なりとスローガンを掲げる家庭も少なくはない。
それほど仲がいい家庭なのだが、何の前触れもなくばらばらに離れるのはどういうことなのだろうか。時間と共にいなくなるのは分かるが、こんなにきれいに消えてしまうものなのか。アズサの言うことは一応筋が通っているが、やはり変だ。アズサの表情を見れば分かる。油性の黒ペンで顔に書いてあるからだ。
とりあえず、俺は帰ることにした。これ以上聞いたところでアズサは何も話さないような気がしたからだ。
「そうか、大変だな。がんばれよ」
「…うん。じゃあね」
アズサは玄関まで来て見送った。じゃあねと言って笑っていたが、明らかなつくり笑いで、その証拠に俺は一歩踏み出すと、バタンとドアの閉まる音が聞こえた。小さい音だった。俺は振り向いた。ドアは閉まっていた。
エレベーターのボタンを押して、このまま下に下りるべきか。なぜかそんなことで迷ってしまった。別に他の選択肢もあったが、一度別れてもう一度会いに行くなんて、恋人のようだ。しかも今会いに行ったところで、何の話をすればいいのか見当がつかなかった。
やはりここは下に下りて帰るべきなのか。
俺の指はすでにボタンを押しており、足は個室の中に入る。ドアが閉まり、体にたまっていた息がここで出た。さっきまでは緊迫感で押しつぶされそうだったのに、今では安心できる空間になっている。空気は決して和んでいるとはいえないが、エレベーターに乗る前よりかははるかにましだ。とりあえず、肩の荷が軽くなったのは間違いない。
いつの間にかエレベーターは止まっていて、ドアは開いた。何もない広々としたきれいな玄関を通り過ぎ、自転車に乗って帰った。外は暗く、遠くの方で白と赤の縞々で塗られている塔がやけに目立っていた。
俺はもうマンションを見ようとはしなかった。見るとアズサの家のベランダを見ていて、そこにアズサが目を細めて遠くを見ている、時々目からこぼれる何かを袖で拭いている姿を想像してしまうからだ。なんでそんなことが浮かんだのかは分からない。ただ浮かんできたのだ。ふと浮かんできたのに、俺は疑問を持たなかった。
「…でさ。そいつったら…」
アズサは今日もけろっとしたように、昨日のことを忘れたのか、次々とぺらぺらと話している。もしかしたらある一種の才能かもしれない。
昨日は呼び出された時は何だと思ったが、今となっては夢となって散っていった。つまりの話、岸とは以前にも会ったことがあるかということであった。ただそれだけのこと。しかしずいぶん長々と居座ったような気がする。それに岸と以前に会ったことあるかなんて、変なことを言うわけが分からない。いつも欠かさず一緒にいた身だ。アズサもそのことを十分に理解しているはずだ。それになぜ岸限定なのか。自分よりかわいい転校生に嫉妬したか。そうだとしても、家まで呼び出すようなことではないと思う。他に何か話したかったのか。もしそれにしろ、わざわざ家に呼び出すことなのか。今までだってそうだ。秘密は互いに暴露してきた。秘密なしは常識だった。もし秘密があるなら、言ってくれるまで待つが。
俺はミズキと五月初めにある行事、球技大会の話をしようとした。
球技大会とは、クラスに慣れるためだとか言っているが、テスト後の疲れを癒すためだろう。もちろん教師のだ。テストは四月末にある。その採点疲れは教師なら体育教師以外の誰でも持ってしまうものだが、わざわざこういう行事を持つ必要はあるのだろうか。かったるいたらありゃしない。しかし授業もないし、テスト後なので、ついつい楽しんでしまう。
「あ、そうだ。そろそろ球技大会じゃありませんか。リョウ、今年はどうすんの」
こいつは心が読めるのか。もしかすると超能力者か。でもそう考えると、今までのことが当てはまる。しかしそれではどんなことでも超能力者といえばいい話だ。それに超能力者なんているはずがない。結局は何かタネがあるはずだ。神から与えられたような特別な力なんてあるはずがない。昔はそんな神ががり的な力を持つ人間はいたそうだが、実際に見たという人は現在にはいない。聖徳太子は実はいないというような説と同じで、本当はいなかったかもしれない。ミイラに残って今もあると言う人も、実際にその人が功績残したというのは分からない。まったく違う人をそうだと言っている可能性がある。
そう考えて、とりあえず超能力者はいないという結論に至った。
「多分、去年と同じだな。他のスポーツなんてできないし」
「じゃ、野球ね。ならミズキも同じでしょ」
「ああ。そうだな」
球技大会の野球は男子限定で、十二人を一チームとしている。去年はまともにやっても勝てなかった。野球部が何人でも入っていいので、三年や二年のチームは強すぎた。俺たちは中学までやっていたが、今は足を洗って勉強に専念している。
「で、お前はどうするんだ」
「内緒」
アズサは去年、バレーボールを選択していた。それなりに健闘して、それなりに勝ち進んだ。内緒と言っているが、多分今年もだろう。
「あー、球技大会が楽しみ」
「でも、その前にテスト、忘れんなよ」
「それじゃー、今度の球技大会の種目を決めるぞ」
先生は声を張り上げ、後はホームルーム役員に任せた。クラス中は何をやるかという話題で持ちきりになった。騒然としているというほうが合っているか。後ろの席に俺たちは座っているので、役員の声が聞き取りづらい。何か言って、黒板にチョークでスポーツ名を書いていく。サッカー、野球、バスケ、バレー。すべてがチームスポーツだ。田舎の中に立地していて、安く広大な土地と大きな体育館が建っているからこそできる行事だ。二日でとり行われて、詳しく順位をつける。そんなことをかれこれ三十年近くしている。そういう伝統ある行事だ。
俺たちはもちろん野球だ。このクラスには野球部が二人しかいない。その二人というのは小学校の頃から一緒にやっている。親交もそれなりにある。中学も一緒だった。そういえば、このクラスには何人同じ中学校がいるのだろうか。よく考えてみると多い。
話は戻るが、野球は男子限定だ。アズサも小学校やって、中学も俺たちとやりたいと言ってしょうがなかった。結局中学もやったのだが、試合には出ることはなかった。小学生の頃はさほど実力差というものはなかったが、今となっては大きな違いがある。
俺たちは野球だ、とミズキと当然のように話していると、先生はスッと立って、また声を張り上げた。
「えー、そういえば、これから、野球とサッカーとバレーだけは男女の壁がなくなることになったから。つまり、男女混合チームも大丈夫だからな」
クラスは騒然となった。さらに大きくだ。渦を巻いている。どよめいている。スタジアムのようだ。そうなることは当然のことであった。つまり野球、サッカー、バレーは、男子だけのチームを作ってもいいが、女子だけのチームも作っていい。試合が大きく左右されることになりうるということだ。
ということは、と俺とミズキはアズサを見た。予想は的中した。
「というわけで、ヨロシク」
アズサは俺たちに向けて、頭の上に手でピースを決めていた。
男女混合チームが生まれたのは、バレーと野球だけだった。サッカーにもいることはいるのだが、控えで埋まっている。他の組も同じようなのだが、唯一違うのが、野球だけはレギュラーに女子を入れていないことだ。
今まで男子と女子に区別をしたことはやはりケガの問題である。バレーではスパイクに気をつけねばならない。サッカーでもクロスプレーなんかがある。そんなことでもやはり野球は一見平和そうに見えるが、野球は色々と厄介な事故が多い。死球、ライナー、イレギュラーバウンド、暴投などで体に当たるとあざをしかねない。いくら軟式だって、あざぐらいは残る。
そんなスポーツを、今俺たちは与えられた練習期間を活かそうとしている。こりゃだめだ、という感じである。唯一動けているのは野球部の二人、こいつらとは同じ中学校で野球をしていた連中で、仲もいい。小海と氷野だ。しかしもう三人、以外な人物がいた。それは女子三人なのだが、アズサと波和と澁だ。アズサはまだ未だにできたのかという意外さ。波和はソフトボールをやっていたという意外さ。そして澁はよく分からない。口数は少なく、特に必要以上は話さないのだが、きっちりとできている。
それにしても、この澁とは前から変なやつだとは思っていた。休み時間の時は席も立たずにイスに座ってただ本の同じページだけを眺めている。写真集ではない。小説だか評論だか、とりあえずそういう文字がある本だ。授業中では、黒板に何か書くと、文字の乱れや書き直しがなく、今まで見た中では黒板消しを使ったことがない。しかも書く速さはとんでもない。時々、先生も分からないような解説を書くので、先生の教科書は激しくめくられていた。こいつはもしや宇宙人かと思ってしまった時もあるが、ただ頭がいいだけだという結論に至る。こうして俺は自分を正当化させる。自分がいる自分の地位を認識させるためにだ。
いつか化けの皮が剥がれるだろうと期待しつつも、そんなことがないと中和する自分が逆に、不浄に見えてしまう。
それは置いといて、元の話に戻ると、とりあえず七人が動けるので、普通の試合はできるだろうと思ったが、この七人に加えてはいる二人はその他に入るのは岸と沢木ということで、不安になった。岸はよく分からない。なぜ入れたのか、クエスチョンマークが頭を囲う。沢木はまったく知らない人物だが、他の男子や女子よりははるかに使える。遊びで子供の頃よくやっていたとか。
まあ何だかんだで面白いチームになった。どうなることやらと心配もあるが、やはり楽しいというのが一番だろう。
しかしその前にテストがある。それを考えるだけで憂鬱だ。
練習は終わり、俺と小海は二人で顔を洗いに水飲み場まで来た。ミズキやアズサは先に教室へ戻っていた。俺は今年の球技大会はどうだろうかと小海に尋ねるところであった。
「どうよ、今回は」
「いいんじゃねえか。なかなかいい人材だし」
二人は顔を水で洗い、肩から伸びる袖で顔を拭いた。俺は外に出た時とトイレに行った時はいつも口をゆすぐ癖がある。その癖は口の中が荒れそうで嫌だというところからだ。小海は顔を洗い、袖で拭くだけで、後は俺を待っていた。
しかし小海がなぜ口もゆすがず、水さえも飲まなかったのか分かった。突然何を言い出すのかこいつはというような事象はよくあると思うが、これほど愉快なことを言うやつはいないだろう。それよりもこんなことを言うとは、まさかの展開でしかないと、確信さえ持っていた。
「なあ、リョウ。お前さ、この世に、この地球にさ、何が住んでいるのか、知ってるか」
「はあ?」
そんなことは決まっている。生物である。人間、動物、植物の他にはない。揚げ足を取って石などの無生物も入れてしまうか。そんなことはないだろう。小海は揚げ足を取ったり冗談などはあまり好きではない。むしろ嫌いと言ったほうがいいか。
小海の一言で、二人しかいないが、空気が見事にしらけた。それよりも静まった。まさか冗談の嫌いな小海がこんなことを言うなんて、という意外なことに俺は驚いて表に出してしまっていたのだ。水から口を離し、唖然として、眉間にしわを寄せて、いぶかしげな表情をつくっているのに俺は気付いていなかったが、目はしっかりと小海を捉えていることは分かった。
小海はまったく動じていない。自分の言っていることが果たして分かっているのか。俺は小海の脳を是非スキャンしてみたいと思った。そうすれば傷かガラスかねじでも混合しているかもしれない。もしくは足りないか。
冗談嫌いの小海にしては変なことを言った。また続けてテンポよく言った。
「分からねえか、やっぱ。まあ、気にすんな」
小海は行こうと俺に呼びかけ、俺はそれに答えた。しかし小海の質問には答えていないままだ。なんの意図があってこんなことを言ったのか。小海との付き合いを初めから確認したいと思った。
教室までの道のり。小海は一言も冗談を言わなかった。そして水飲み場で言った話題を口に出そうとしなかった。俺も引っ張り出そうとは思わなかった。ミズキにさえも相談しようとは思わない。これは自分ひとりで考える問題なのだと判断した。
アズサはテストの出来がよかったらしく、上機嫌だ。それにしてもあれには驚いた。
テスト前、いつも俺たちの家の誰かの家で勉強会をするのだが、アズサはテストに出てくるヤマをすべて当てたのだ。余計なところは言わずに、すべてを当ててしまった。こいつは何者だとまた考え直す機会をもらったが、不思議とそんな考えも消え失せていた。小海の言ったことと言動理由があまりに考えさせられて、いや、不思議と頭から離れてくれなく、ちょうどアズサの言った範囲の勉強ができなかった。気付いた時には、自分のできる限りをやろうという段階に入っていた。おかげでいつもより悪い点数をとっていることであろう。ミズキはしっかりアズサの範囲を勉強していたらしく、アズサと同様浮かれている。
俺はそんな二人の様子を見て、特に何も感じなかった。本来、悔しいなどと何か感情が心に表れるはずなのだが出てこない。これは俺の病気なのだろうか。考えることをここまで夢中にさせたことはない。自分なりの哲学は誰だってやるよくある話だと思うが、人から言われた課題のようなものを考えるのはあまりない。まして今まで考えたことがない。
小海の冗談は冗談ではなくなって、俺はそれを真正面から受け止めている。俺は小海が考えろとでも言っているように感じていた。
しかし俺の結論、答えは見えなかった。その単純な質問、この世に何が住んでいるのかという質問が、逆に俺を考えさせた。揚げ足や屁理屈など、そんなことはまったく考えずに、素直にどんな生き物が住んでいるのか考えていた。それでも人間、動物、植物以外は頭に出てこない。住んでいるものであるのだから、植物ではだめか。いや、住んでいるのは生きていることと同じだろう。こんな感じで行ったり来たり、右往左往に五十歩百歩を繰り返していた。なかなか日進月歩のようにはならないものだ。
そんな俺の考える時間だけが進む時間はテスト明けに多大な被害を及ぼしたのだが、それはそれで、貴重な時間に思えた。それにしても何を考えていたのやら。人に左右されるのはアズサだけでいい。
「どうした。ボーっとして」
「いや、何でもない」
まだ俺は考えているようだ。考えるのを止めようと思えば思うほど考えてしまう。いわば不可抗力である。
これから球技大会だというのに、何を考えているのか。いつだって試合や何らかの大会の前には邪念を払って集中している。
「ほら、いくぞ」
ミズキは教室のドアの前で呼んだ。
俺は気のない返事をして、邪念を取り払いきれないことに気付いていたが、これでいいのかもしれないと自分を慰め、ミズキの後を追った。
「今日はどうなるかな」
「別に…楽しめりゃいいじゃん。そんなに深刻な問題じゃないだろ?」
階段を降りて、昇降口に出る。今日は久しぶりの見る限りに暑そうな太陽がグラウンドを照らしている。
今から胸は高鳴っている。開会式でも、試合直前というわけでもなく、あの無性のドキドキ感だ。俺は昔から汗っかきで、緊張も人一倍早く感じる。そのおかげで集中も人一倍であったが、今もこのドキドキ感は慣れない。
外に出ると、予想通りの気温と湿気が待っていた。しばらく雨と曇りが続き、そして昨日の夕方から晴れが続き、グランドの水はけもいいほうなので、グランド自体はいいコンディションだ。だが夏のように、今日は特別に日差しが厳しい。まるで夏のように、地面からむわっと蒸気の塊が襲ってくる。それには少々腰が砕けそうになる。もう汗が出てきた。
グラウンドまで、しばらく赤い粘土のような、また軟らかいコンクリートのような道が続く。一面に敷き詰められて、これは何かと思ったことがあるが、そこまでまで考える必要はないだろう。
とりあえず、その道を歩いている時だけは、まだ、湿気というものは大して感じなかった。
石段を降り、グラウンドに入ると、さらに熱い気泡が上へ上へと押し上げてきた。
「結構並んでるな。早く並ぼうぜ」
こんな暑い日に集団で、その上ほぼ密着状態で整列している。俺はその中に行くことを拒んだが、これはどうしようもないことであった。開会式が始まるのだ。しかし熱帯のジャングルに入ってまですることはないと思う。誰だってそう思うだろ。どこかにでも隠れていようかと考えたが、ミズキはすでに行ってしまっていた。
どうにかしてこの開会式をなくせないかと考えながら、苦渋な顔をしながらも自分の並ぶべき場所へと向かった。
「アンタ、遅かったね」
アズサの前だ。出席番号順に並ぶのである。とりあえず、俺はアズサの前に入った。
しばらくアズサと談笑とでも楽しもうかと思ったが、そんなことをする必要がなくなった。アズサ本人も何か話したそうな素振りを見せたが、俺にひそひそ話さえすることをためらった。変なところで真面目になる。きっと後で話すのだろう。
校長が朝礼台に上がり、適当に話し出した。
それにしても暑いなあ。このままだと日射病か熱中病にでもなってしまう。だから早く話を終わらせろ。こっちは炎天下を立っているんだ。さっさと終わらせろというのが本心で、真面目に聞いているフリをしていた。そうでもしないと、無駄に先生たちは体力を使う。疲れない秘訣は互いに疲れることはしないことだ。
まあ、ボーっとしてれば終わるだろう。そう思いながらあくびを度々繰り返していた。すると、それに対してのクレームなのか、後ろから指で小突いてくる。もう我慢できなくて話し出そうと思ったのだろうか。アズサは小声で言った。
「後で話がある…」
それはかすれても、はっきりと聞こえた。我慢し切れなかったのだろうか。高校二年生になってもまだ子供なのか。
俺は突っ込みたかったが、こんな時は突っ込めない。逆に我慢させられる破目になってしまった。
開会式が終わり、皆は各競技場へと散っていった。
俺は振り向き、アズサが俺の背中を見ていたように見えた。目の高さがそこだった。そしてアズサは俺の顔を見た。
「何かようか。話って何だ?」
「んー。今日はね、私が投げることになったから」
「え、投げるって?」
投げるという言葉で連想はできていたが、まさかという心がそう言わせた。俺はきっときょとんとした顔をしていることだろう。こいつは何を言っているのか。わがままにもほどがある。
俺がそう思った時、アズサはその答えを言うかのように言った。
「ヒノキが怪我したんだって。多分突き指だと思うけど。他にも投げれる人がいないからさ」
そうかと納得しつつも、今更アズサに何ができるというのか。確かに小学校の頃はピッチャーをやっていたが、投げなくなってしばらくした時には、すでに女投げになっていた。アズサ以外で他に投げれるやつがいないなら、俺だっていい。アズサよりかはマシかもしれない。
「それだったら俺が…」
「だーいじょうぶだって。どうにかなるっしょ。気にするな」
アズサはまるで俺の話す手順を知っているようであった。それは幼馴染であったからというのもあるのかもしれない。もう気持ちよりも、パターンを知っている。俺だって、ある程度ならミズキやアズサの怒る手順なんかを知っている。きっとアズサもそんなのと同じなのだろう。
とりあえずそういうわけで、アズサはピッチャーをすることになった。本当になったかは分からないが、多分そうなるであろうという勝手な予想だ。
「リョウ、行こうぜ」
ミズキは俺の後方から声をかけた。
「ああ。じゃ、アズサ、行くぞ」
そう言った時には、もうすでに先導していた。俺の手を引っ張って、先に進んだ。
「ほら、こっち」
ミズキは俺の後についてきていたが、表情はどうにもさっきとは違い、楽しそうではなかった。さっきまでは球技大会を楽しみにしているようであった。
空は晴れて、すがすがしい風がこのグラウンド上とは対照的に、はるか上空を舞っているようであった。
勝利がほど遠くに思えた。
いくらリーグ戦であっても、こんなチームには勝てるはずがないと思った。野球部フルメンバーである同学年のクラスがあり、その上、野球部が五人ほど入っている三年のチームと同じリーグなのだ。
一リーグ四チームで、とりあえず、一チームに勝ったとしても、他の二つには負けてしまうことだろう。こちらとて、守りは固くても、攻撃はどうもよくない。まして約半分を女子で埋めている。鮭が熊にでも勝つようなことだ。勝った時には半分の体しか残っていない。
俺とミズキは張り出されているリーグ表を見て肩を落とし、重いため息をついた。
「これって、ちゃんと平等に作られてるのかね」
「いや、それはないと思うぞ」
「まあ、実際そうだな」
「どんなことになるか分からないさ」
アズサは俺とミズキの背中を思いっきりたたいた。正直それは痛く、いつもやっていることなのだが、いつになっても慣れないものは慣れない。
「また力をつけたな」
「…何よ、それ」
アズサの頬が膨らんだように見えた。
「冗談だって。行くぞ、ほら」
俺は笑いながらアズサの肩をたたいて、ムッとしているアズサを呼び寄せた。ミズキはその後ろを歩いたろう。俺たちは試合をする場所へと向かった。
野球場として二面しか取れない。だが三回コールド五点で延長なしの五回までで引き分けであれば、特別延長のルールをのっとるという。となれば、試合の回転は早い。二日で十分に終わる。去年だって終わったのだから終わるか。
俺たちは第一試合目。相手はあの三年のチーム。試合前に各チームに練習時間が五分与えられるが、それは意味がないことだろう。逆に恥をさらすだけだと思う。
それは当然的中。ライトはぼろぼろ。岸にノックの玉が上がるたびに万歳で、音がしたら後ろにボールが落ちている。
相手ベンチから野次が飛ぶ。笑いと野球をなめるなということだ。
相手の練習はさすがだ。ミスなんてほとんどない。野球経験者がそろうチームに勝てる要素など、俺には皆無に思える。
「だめだな、こりゃ」
「そんなこと言わない。頑張ろうぜ」
アズサは澁とブルペンでただキャッチボールをしながら、負けるわけがないというどこから出てくるこの自信のオーラを出していた。
「本当にお前が投げるのか」
「そうだよ」
「面目ない。俺が突き指したから…」
ベンチで氷野がすまなそうな顔をしている。だがすまなそうな顔をしているだけで、明らかに恥ずかしそうであった。なぜそんな顔をするのか。多分、突き指の仕方がよっぽど恥ずかしいものだったのだろう。
「気にするな。怪我なんて誰でもあるさ」
そう言ったのはスタメンでは出ない水崎であった。
水崎は現在、野球部のマネージャーで、氷野と小海とつるんでいる。こちらも同じ中学校で、アズサと同じように人気があった。そのわけは、やはり抜群のスタイルと、やや男勝りであるゆえの付き合いやすさ。しかしその水崎も、一度だけだが、とんでもない女子らしさを目の前で見たことがある。それは甘えでなく、可愛らしさがあった。中学の頃、ほっぺについた生クリームを指にとってその指を口にくわえた時、さすがに俺も胸がドキドキしたね。その上、上目使いが可愛らしさをいっそ増させたのだ。
「ほら、頑張ってきな。ね」
「ああ…」
氷野はまだ照れを隠しきれないようで、水崎の目を見ることができないようだ。
「もう、元気出せって」
「分かってるって、クレハ」
ベンチの上に置いていあるグローブを持って、ベンチに座り込んでいじり始めた。水崎は俺を見て、どうしようもない顔をしてだめだこりゃ、とジェスチャーをした。
そうじゃないんだけどなあ。クレハは氷野を分かっていない。
「頑張ってね、リョウ」
「もしかしたら、お前も出るかもしれないぞ」
「マジ?」
「冗談だよ、冗談。もしかしたらだよ。もしかしたら」
興味本位で聞いたことなのだが、水崎はマジメに応対していた。まさか野球を見ているだけのマネージャーである自分が打席に立っている姿を想像したら、血が引けて倒れてしまう自分を想像してしまうことだろう。今も実際にフラフラになりかねない様子だ。
気付いたら相手の練習は終わっており、先攻後攻を決めるじゃんけんを氷野が行った。結果は負けで後攻。氷野はまた面目ないとつぶやきながらベンチに戻ってきた。打ってリラックスしてから守りたかったというのが本望だが、まあしょうがないと明るく氷野を迎えた。
挨拶を交わして、普通に野球ができるチームと草野球未満のチームの試合が始まった。
そして各々が守備位置につくのはいいが、ミズキと氷野に教えられて、ライトを守る岸があっちへこっちへと移動していた。
この先思いやられる、と俺はその意味もなくあっちへこっちへ動き回る岸をはるか遠くから眺めていた。やっと守備位置につけたようで、俺は投球練習をしているアズサのほうを見た。あと一球らしいが、その一球は驚いた。
アンダースローから繰り出される速球。百二十キロ後半はあるだろう。前までオーバースローだったのだが、どうしたのだろうか。それに、アンダースローでここまで出せるなんて、今までどんなことをしてきたのか疑問に思う。相手のベンチに眼をやると、口を開けたまま動いていなかった。ノックの時までへらへらと笑っていたのが嘘のようだ。
そして試合が始まった。
何か嫌な予感が冷汗となって背筋を走ったが、何が起こるのか分からなかったので、防ぎようがない。
一球、二球、三球。一番は軟式のボールにたじろいでいた。球威に圧倒されたのか、女が投げていることに動揺しているのか、もしくは女がこんな球を投げるのに腰が抜けているのか。しかしどれも違うような気がする。バッターの目線はボールがミットに納まってもボールを追っていなかった。アズサを見ていた。
次のバッターも同じ、三球三振。そしてアズサを見たまま動かない。表情はにやついている。
これらのことから、俺はある一つの仮説を唱えることができた。そしてその仮説が今からする予想と相似していれば、仮説は証明されたことになる。
さてさてどうかなと見ていると、やはり予想は的中した。三番バッターは三球三振。そして目線はアズサだ。
やれやれとマウンドを降りるアズサの背中をたたいた。
「ナイスピッチ」
「どうもです」
アズサは健やかに笑った。何の被害も受けていないような顔であった。
「それよりもさ、お前、胸見られてんぞ」
俺の仮説とはこのことであった。アズサの胸が体をひねることによって激しく揺れる。これが相手のチームの選手らが見とれてしまったのだ。それならオーバースローにすればいいという人もいるだろうが、それは無理だ。アズサはすでに体全体で投げる癖がついてしまった。それが女投げである。昔から投げる訓練さえしていれば、女性もこうはならないというのだが、投げる訓練をしていても四年のブランクは大きい。四年というのは、三年間確かに中学野球をしていたのだが、していなかったのに等しい。試合は出ず、練習もまともにやらせてもらえない。そういう中で、自然とこうなってしまった。
強靭な足腰が必要とされるアンダースローをいつ身につけたのか。それにこの球速はさすがに出ないと思う。アンダースローであるからというわけではない。俺だってこんな球は投げられない。肩やひじの負担も大きい。下手したら助骨にひびが入る。
「知ってるよ」
意外な返答だ。えっとか、ウソとか、もっと動揺するかと思った。
「いいのか、それで。俺が投げてもいいんだぞ」
「別に構わないけど。なんで?」
俺にとっては人事なのだが、この言葉にはさすがにカチンと来た。
「お前さ、もっと自分に誇りとかないのかよ。もっと自分を大切にしたほうがいいぜ」
女としての誇り、プライド。自身の体の健康。すべての意味をこの言葉にこめたつもりなのだが、はたしてアズサは分かってくれるのか。
「…いいよ。別に」
アズサはベンチに戻り、イスに座った。
「そうか…」
アズサには聞こえないと思う。独り言で俺はそうつぶやいた。別に悔しかったわけではない。あいつが決めたことだから帰る理由なんてない。やりたいならやればいいさ。気付くまで、一人で考えているほうがためになる。
小海はもう素振りをしている。俺はその姿を見て、ああ、そうかと思う。俺は二番バッターだ。準備をしたほうがいいだろう。
俺たちの攻撃。やはり相手ピッチャーは野球部のエースであるので、球が速い。小海は当てることができず、セカンドゴロ。無理もないだろう。当てただけでもすごい。俺なんかじゃ到底、話にならないだろう。
どうでもいいかなと思いながら、指示を仰ぐためではなく、一度ベンチを見た。アズサは俺から目をそらして、相手のピッチャーのほうを見た。
一息ついて、呼吸を整えながらバッターボックスに入り、アズサがこちらを見るのを待った。だが目さえもこちらを見ず、こちらを見まいとの必死ささえ感じられた。
そんな俺を知らないピッチャーは次々と投げてくる。あっという間にツーストライクワンボール。アズサに気を取られてしまった。一回でも振ろうと思って、次ストライクゾーンに入ったら、外に逃げる変化球であろうと振ろうと思った。一回も振らないでベンチに戻るなんて、次の回にはきっと気持ちが悪いものになる。
ボールがきて、理想的なバッティングには程遠い、ひきつけて打つことをイメージして打った。すると、以外に球は軽く、はるか遠くまで飛んでいってしまった。出会いがしらなのか、すっぽ抜けたボールがたまたま当たってしまったのか分からない。俺も正直驚きを隠せない。打撃においては昔から自信がなかったからだ。
ボールはレフトを越え、高々とワンバウンド、ツーバウンドとはねた。それをレフトが追い、その中継としてショートも追っていった。
「おい、走れよ」
そのミズキの声に我に返って、俺は走り出した。
案の定、走り始めたのが遅かったせいで、二塁打になってしまった。本来なら三塁打以上は望めただろう。
野次も飛び、よくやったとベンチから聞こえる。はっきり言って打てた自分がすごいと我ながら思う。この学校のエースから打ったのだ。そんなにこの学校の野球部が弱いわけではない。県ではベストエイトの常連である。
俺はベース上でアズサがバッターボックスに入るところを見ていた。
アズサがバッターボックスに入る時、ピッチャーはすぐさまロジンを手にとり、落ち着こうとしているようであった。俺に打たれたショックではなさそうだ。次のバッター、アズサに対してどう投げればいいのか迷っているようであった。時々アズサのほうに目をやってはロジンを見て、その繰り返しをしていた。気持ちは分かる。どこに投げればいいのか分からない。外角に集めたいがそれがコントロールの乱れに始まって、自分で独り相撲するきっかけになりかねない。
しかしピッチャーは空を仰ぎ、何かを決めたように深呼吸をした。そしてプレートを踏んでセットに入り、俺に目もくれずにクイックモーションで投げた。すると俺に投げたハーフスピードで、打ちゴロの球であった。
確かにこれが一番最善の方法かもしれない。当てても被害は少ない。さすがエースといえるコントロールで、ボールはアウトローに吸い込まれていった。
しかしそれが裏目に出るとは、誰も思わなかった。打ったとしても、当てただけで普通はすごい。一般人が当てるのは難しい。野球をやっている人でも凡打が多いのだ。
初球打ちでアズサはボールを打った。そして思いがけなく、そのボールはライト前へクリーンヒットで運ばれた。
順を追って、俺は三塁を蹴って、ホームに走りこんだ。そしてホームイン。ライトに野球経験者ではなかったというのが一点につながった。俺たちは貴重な先取点を挙げた。
俺はベンチに戻って、ハイタッチを交わした。
「よくやったよ。走れればもっとよかったけどな」
ミズキは笑いながら、打席に向かっていた。
そしてカキーン。カキーンと、金属音が飛び交い、気付いてみたら、四点入っていた。そして沢木、岸と、連続で凡退し、二者残塁でこの回は終わった。
ベンチに戻るピッチャーの首は九十度に折れ曲がっていた。
俺たちはまた守備についた。
今思うと、こうやってアズサと澁が投球練習を繰り返しているのを見ると、不思議に思ってしまうことが一つある。よくあんなすごい球を澁が捕れるのか。アズサの球の速さより、隠された澁の秘密について、知りたくなってしまった。
そして先ほどと同じように、四、五、六番はアズサを眺めて終わった。
「なあ。やっぱり、お前さ。変わったほうがいいんじゃねえか」
「…」
アズサは俺の言葉を無視し、無言でベンチに座った。
俺はそんなアズサを不審に思った。いつも俺の言葉に傾けてきたアズサが、今日初めて無視したからだ。そんなアズサを見たくないと思わせたのか、俺はアズサからしばらく目をそらすことにした。
そしてまた打順が回ってくると、サークルに俺は入った。
終わってみれば、試合は三回コールドの十四対ゼロ。圧勝だった。ウィニングボールはやっと負けを意識し始めたラストバッターがボールにバットを当てて、フラフラと上がった球はライトの岸のもとへ行った。そして地に足が着いていない岸はあたふたしたが、突き出したグローブにたまたまボール君が入ってくれたのだった。
試合終了後、皆はアズサと岸に声をかけていたが、俺はアズサにだけはかけられるはずがなかった。そこで一人でいる澁に、一つ聴いてみることにした。
「なあ。澁さんって、前まで野球とかやってたのか」
「…やってない」
澁の声を初めて聞いた。不思議な声だ。低いのだが、真底に何か秘めているようだ。
「なら、何で捕れたんだ。あんな速い球、何かやってないと見えるもんじゃないだろ」
「…やってない」
こいつはやってないとしか言えないのだろうか。変なやつだ。
そこでいつも気になっていたことも聞いた。
「澁さん、頭いいけど、いつもどんな勉強してんの」
答えは大体検討づいていた。やってないだ。
「…やってない」
ほら。合っているものだろ。本当にこいつはこのフレーズしか言わないのか。いや、言えないのだろうか。
しかし今度は驚いた。澁から声をかけてきたのだ。
「…コウって呼んでいい。あの方の意思だから…」
「え?」
あの方とは誰のことだ。それに、なぜこいつから話しかけてきた。このなれなれしい感じ、何だ。
「え、それって…」
「了解したということ。それ以上の意味は持たない」
つまり意味を徹底的に還元させると、航って呼べということだろうか。まあ、そう呼べというのだから呼べばいいのだろう。
澁は自分のグローブを持って、早足で俺から離れた。
「次の試合、いつだか分かってるか」
澁は首だけをひねって振り向いた。そしてうなずき、また歩き始めた。
「リョウくーん。勝ったね」
岸はやってきた。ウィニングボールを片手に、本当に嬉しそうであった。
「おいおい。そのボール、持ってきちゃったのかよ」
「え、だめなの」
「ま、いいか。一球ぐらい…記念としてもらっとけや」
「うん」
甘え顔に押されて、本当はだめなのだが一球ぐらいは大丈夫だろうという勝手なことを言ってしまったが、それは良かったのだろう。
「そういえば、ナイスキャッチだったな。危なかったけど」
岸は少し恥ずかしそうだったが、それは笑顔に変わった。
「ふふ、捕ったからいいじゃない」
「ま、そうだな。評価するべき対象は捕ったことだよな」
「そうだよ」
笑顔をつくった岸は可愛らしい。俺もその笑顔に釣られてしまった。
「リョウ、水飲みに行かないか」
小海から言われて、岸もどうだと尋ねた。
「いや、いいよ。行ってきなよ」
「…ああ、分かった。次の試合、分かるか」
「多分、分かる。ついていけばいいんでしょ」
「まあ、そうだけど…」
「じゃあね」
そう言い残して岸は行ってしまった。
何で一緒に水飲み場に行かないのかは分からなかったが、とりあえず、自分のことは自分で出来るという意志は分かった。
俺は小海と水飲み場へ向かった。試合が早く終わったので、誰もここにいない。俺と小海の二人だけだ。
それにしても、小海と一緒にいると、いつも思うことがある。あれが悪いのだが、また同じシチュエーションなので、一応どんな質問がきてもいいように待ち構えていた。
「それにしても、お前、飛ばしたな」
「まあな。たまたまだよ」
俺たちはまだ遠くの方でボールと金属がぶつかる音を耳にしながら、それを見ていた。
「そうだ、リョウ。お前さ、あれ、考えてくれたか」
やはりきたか。恐るべき対象。恐るべき事態。恐るべき予想。当たるもんだな。
もちろん俺はその質問に対する答えは考えてある。そうでないと小海を意識なんかしない。
「それはもちろん、何でもいるんじゃないか。宇宙人から魔法使える人まで全部さ」
ふざけて答えれば、もしかしたらこの冗談たらしい小海の質問をもう聞かなくていいと考えていた。ちょっと悪い関係になりそうだが、そんなの修復すればいい。いくらでもやってやる。
しかし現実というのは、予想と意に反することばかり起きるのだなと改めて実感することになった。
小海はおかしくなったようだ。
「そうだよ。よく分かったな。知ってたのか?」
知るわけない。適当に考えた答えなのだから。
「え…お前、本気で言ってんのか。宇宙人、魔法、錬金術、超能力なんかを信じろとでも言うのか」
「そうだよ。お前が言ったんじゃん。変なやつだな、お前。本当に知ってんのか」
小海は笑って言っていたが、不思議そうにこっちを見ていた。
俺は正直信じられない。こんな子供しか信じないようなことを信じている小海を見ることができるとは、目と耳を疑うばかりであった。それにこんなことを俺が信じるはずがない。宇宙人、魔法使い、超能力者なんかがいるはずがない。いてたまるか。
小海は続けた。
「この世にはな、リョウ。宇宙人も住んでいるし、魔法使いもいるし、超能力者も生きていることを俺たちはその事実を受け止めなければならないんだ。今まで目を伏せてきたんだけど、それは偏見だな、単なる。ま、簡単に言えばだけど。そうだな…例えば、この前さ、映画やったじゃん。金曜の夜にさ。その時に宇宙人なんかも出てきただろ。それはメイクでもなんでもなく、宇宙人だったやつもいるんだ。不思議だろ。それにな、あんないびつに見える宇宙人もいれば、人型の宇宙人もいる。俺たちみたいのな」
俺は小海の言葉が信じられない。この言葉を受け入れると、俺の今まで築き上げた人生を丸々すべてを否定することになる。否定してきた自分を、今まで自分で自分の顔に泥を塗ったことになる。どうしても否定したい。
「なら、魔法使いや超能力者、宇宙人、錬金術師はどこにいるんだ」
俺は無理だろうと思った。つまったらウソ。小海もここまでだろう。
「基本的には人の前にはでないけど、いるとしたら、誰も寄り付かない場所にいるんだ。たとえば、グリーンランド、バミューダ周辺なんかかな。山や谷の深いところにも住んでる場合が多いし。それに気まぐれなんだよ。すぐに引越ししちゃって、会うにも行ったら会えないなんてよくある話でさ」
何楽しそうに話している。全然理解できない。ウソにもほどがあるだろ。素直に分からないとでも言えばよかったと後悔する自分が目に浮かぶ。しかし少し興味深かった。こんな楽しそうに話す小海を見るのは初めてで楽しいし、こんなに童心に戻れることなんて、これからの人生の中ではそれほどない。
「じゃ、宇宙人はどこにいるんだ」
「いるじゃねえかよ。お前のそばにさ…俺じゃねえぞ」
俺は小海を見ていた。まさかとは思っていたが、違っていた。
「誰だよ。どこにいるんだ」
「お前で探せよ」
俺はいつの間にかムキになっていた。探求心が俺をそうさせていた。
「じゃあさ、さっきの話に戻るけど、グリーンランドやバミューダ辺りに住んでるって言っただろ。そいつらは、何で隠れて住まなきゃならないんだ」
小海はさっきまで水飲み場のふちに座っていたが、突然真剣な表情になって、俺をにらみつけた。
「そりゃ、さあ…お前らのせいだろ」
「え…」
小海の変貌に驚いた。今まで飲めとは格段に違う。かなり強い眼光だった。俺は圧倒されていた。
「…どういうことだ」
小海の眼光は変わらなかった。
「お前らが追い出したんだろ。すべてを否定してな。ただ信じていなかっただけ、で済まされるような問題じゃない。殺して絶滅させて、家族バラバラにさせたも同然だ」
小海はまた水飲み場に座り、きつい眼光から今度は悲しい目つきに変わった。うつむいて続ける。
「昔、錬金術、魔法なんかが実際に研究されていた。だが成果は得られなかった。それは種がなかったせい。この地球を創ったのは種まく者と言われている。その種まく者がまき忘れたせいだったんだ。そして種まく者の代わりに神が種をまいた。魔法と錬金術の実験は成功した。しかしその成功は遅く、もう魔女狩りは始まっていた。犠牲者は計り知れない。魔法というだけで裁かれたんだからな。それにその周りの人も同じように殺された。錬金術は化学に変わっていた。現代の技術に欠かせないものとなったが、錬金術であればもっと簡単に出来る。それは夢となっていた。誰も信じなくなっていた。そうして追いやられた魔法使いや錬金術師は逃げて隠れ住むことになった。そこがバミューダだ。そこは魔女狩りなんてやっていない、絶好の場所だ。それに世界の果てだし…俺の言う幕じゃないか」
小海はまた立ち上がり、そして俺の横を通る時、一言だけ言った。
「俺の口からはこれ以上いえないが、これだけは言っておく。過去の出来事は今になっても語り継がれる。忘れるな、人間よ」
俺は小海の行く先を見ようとしたが、もうそこにいなかった。どこにいるかと辺りを見回す。やはりいない。
どうしようと呆然としている俺の頭の中に、ある言葉がこだました。小海の最後の一言だった。忘れるな、人間よ。あいつも人間じゃないのか。それにあの話はなんだ。魔女狩りという単語は記憶にあるが、ここまで複雑なものだとは思わなかった。本当の話なのか。種まく者だって変な話だ。世界の創造者だなんて、小説の中だけの話だと思っていた。バミューダは世界の果て?なぜだ。バミューダの向こうはヨーロッパだ。果てなんて北極か南極じゃないのか。
矛盾や疑問は俺を興奮から遠ざけようとして、逆に近づけさせているかもしれない。不思議だった。小海の変貌は恐かった。人はあんなに変われるものなのか。アズサの変貌と重ね合わせても、明らかに格段違う。怒りと怨みからなる、像が作られているようであった。まさに自分が被害でもあったような、いや、先祖の怒りを引き継いできたような、積もりに積もった怒りを面に出していた。
初めて見た小海の人格に、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。
「どうした、リョウ。次の試合始まるぞ」
氷野の声に我に返れると思った。だがまだ頭に残る小海の言葉。おれはそれから逃げることが出来なかった。患いより酷いものだった。
次の試合も勝った。十五点差のコールドだ。
相手はさほどマークするようなチームでもなかったが、悪いチームではない。しかし野球経験者不足が効いたのか、そのせいで大差がついてしまった。
また俺は試合の途中でアズサに忠告をしようとしたが、まだ俺には声をかける勇気がなかった。まして試合にも集中していなかった。できなかった。
小海は何もなかったように声をかけ、普通に野球をやっていた。消えたとき、どこへ行ったのかと思ったが、あれは思い過ごしだろう。しばらくボーっとでもしてしまったのだろう。
そう思うことでしか自分を取り直すことができなかった。
すべてが上手くいかなくなっているようで、俺は何もかもを放棄したい気持ちになった。すべてを捨てて一つを得たい。そういう気持ちになった。
そんな時、俺の心は岸に支えられていた。
「リョウ君。また捕っちゃったよ」
そう。今回の試合のウィニングボールも岸が捕ったのだった。もうないと思う奇跡を二回も起こした。
野球において、ラッキーボーイと言われる人が三人いれば、試合は必ず勝つらしい。それが我がチームには一人しかいない。それが岸だった。今までやったことのない野球で捕球を二回もするなんて、普通はない。どっちかは落としてしまうはずである。いや両方とも落とすだろう。何と言ったってまだ初心者だ。こんなに早く上手くなれるなら苦労しない。それに打撃はまったくだめだ。
やはり奇跡が奇跡を呼んだのだろうと納得し、今度は氷野を水飲みに行こうと誘おうと思った。もう小海を誘うのは、内心で拒絶反応を示していて、誘うには俺の勇気が今までより百倍必要だった。
そういうことで、俺は氷野を誘った。運がよく、小海は遠く離れている場所で水崎と話していた。氷野は俺のそばで一人いた。どうやらアリを眺めていたらしい。目先にはアリの行列があった。
「お前、アリ好きだったっけ?」
「いや、別に。それよりさ、水飲みに行こうぜ」
相手から誘われるなんて、こんな都合のいいことは今日初めてだ。
これからいいことが起きるだろうと俺は残りの今日を楽しもうと思った。
「いやー、さすがに一試合あけて水飲まないとしんどいわー」
「そりゃそうだ。水分補給はこまめに、だろ」
「そうだな。飲みゃーよかったな。試合中さ、のどが渇いて死にそうだったしな」
俺たちは水飲み場に来た。
嫌な場所だ。無償にここからいち早く撤退したい。小海のこともあって、もう嫌になった。もしかしたらまだあるのではとまだ見えぬ敵から警戒を解いてはいなかった。
しかしその敵は確かに見えないもので、突然やってきた。
「なあ、リョウ。お前、オミに何か言われたのか」
本当に突然だった。まだ水を飲むであろうと思っていたので、その上警戒を張っていたので、近い敵にはまったく反応が出来なかった。
今度は氷野か、まさか氷野がと俺はどうすることも出来なかった。
「…図星か…あの野郎、早えな」
氷野は爪を噛み、悔しそうな顔をしていた。
「まだそんな時期じゃ…早すぎるだろ…まだ、心の準備があるんじゃねえかよ…順番が狂っちまう…どうすれば…」
さっきからわけの分からないことを並べているが、俺には到底理解できないことだ。
氷野の独り言はしばらくすると、クソッの連呼に変わった。そして息は荒くなっていた。
やはりここはあまりよくないところだ。汚れを洗い流すところではなく、逆に汚染されてしまう。雰囲気に飲まれるのではない。この場所が外からは誰にも見えない異空間に思えてしょうがなかった。
「どうした、ヒノ。大丈夫か」
とりあえず氷野を落ち着かせようと近づくと、氷野はものすごい形相で俺の顔を見た。
「お前…近づくな…」
俺は本当に氷野を恐れた。どうなったんだ。氷野はどうしたんだ。
「どうした、本当にさ。どうしちまったんだ」
「俺の…俺のがぁ…」
もう尋常じゃない息の荒さだった。
氷野が壊れたと思った。壊れたとしか言いようがない事実である。一体全体どうなったんだ。小海といい、氷野といい、ここでは誰もが変わるのだろうか。しかし俺が変わっていない事実がある。しかしそれは俺だけが気付いていないもので、周りは気付いているかもしれない。
氷野はまた独り言をぶつぶつつぶやきだした。直に戻ったのだが、それは何かのフェイクだと思って警戒を続けた。
「わりぃ…何か、俺…悪い俺にになっちまったみたいだ。見てたか。見てたよな」
ようやく落ち着きを取り戻したのか、蛇口をひねって水を止めた。しかし息の荒さの代わりにやってきたのは、吐き気だった。また蛇口をひねり、水を出した。
「本当に、大丈夫か?」
「うるさい…黙れぇ…」
もう何が何だか分からない。今ここにいる氷野は何なのだろうか。勝手な推測で、多重人格にしか思えない。だが、気持ち悪くなるとはどういうことだろうか。
「また…でてきやがった。能力の…制御が…できない…」
大丈夫かとしか声をかけられない自分が恥ずかしい。
「おい…本当に…」
「大丈夫だ…だいぶ、楽になった」
氷野はゆっくりと口をすすぎ、空を一度仰いで、大きく深呼吸をした。
「こんなの…よくあるんだ、最近な。大変だよ」
「それって、何かの病気か?」
「いや、違う」
脱力したようになって、背中が丸まっていた。背中をピンと張って、思い切り手を空に向かって突き出した。起きたばかりのような表情をしている。
「リョウ。オミに何て言われたか分からないが、それが現実だ。多分、まだここにいるのは…まだ他にも言ってなかったてことか。運がいいんだかどうだか…」
元に戻ったのはいいが、小海と同じく変なことを言い出すのはまだ慣れない。というより、氷野までもがと思う。
「え、何。お前は小海が言った事を知っているのか?」
「まあな…俺たち、野球を通じて通じ合っているからな」
「なんだそりゃ」
氷野は笑い、つられて俺も笑った。優しい空気が流れた。この場所で今日一番いい空気だ。
氷野の一言前まで言っていたことなんてもう忘れていたが、そんなことも間もないことだった。
「なあ、リョウ。俺たちはな、お前に伝えにきた求人なんだ」
「は?いきなりなんだよ」
もうやってられない。まさか氷野までもが小海と同様、変なことを語るのか。もうそれは勘弁して欲しい。なぜ俺がこいつらの宗教的な考えを得ねばならないのだ。聴くだけでも無駄な時間だと思った。小海の言葉は考えさせられたが、結果的に意味のないものとなったからだ。
「いや、俺は別に…」
「俺たち、実は今、こうするために何年も前から予定されて集められた求められた人、求人なんだ。求められた人である以上、誰が求めたのかは、神だ。つまり、神の求人と言ったほうが分かりやすいだろうと思うが、実はお前の求人だとも言える」
「何で俺が…」
俺がこいつらを集めた?まさか。そんなことがあるはずがない。一度も望んだことがない。集まれと号令をかけたら簡単に集まるようなものではないだろう。しかも俺にはそんな能力がない。それぐらい自分で分かっている。
「そんなはずがない。俺は望んでないんだからな」
「いや、お前じゃない。我々が崇める神だ。我々はお前に伝えるために生まれた。神のご意志に沿ってのことだ。我々は伝えたら消える。それ以上生きる必要がないからな」
頭の中で、氷野の言葉がパズルのようにつながった。氷野の言った、小海の足りない言葉。それを言わなかったからここにいる。もしすべてを話したら、もしかすると小海は消えていた。こういうことだろうか。
そういえば、突然氷野の話し方がいつもと違うような気がする。片言というより、真面目というより、一昔も前の人のような、歴代の人が氷野にのり移ったようだった。そしてそれは武人のような口ぶりだった。
「我、ここにあるのも神のご意志…消えるのもこの我が心中。我が本望…我が使命、今果たさんと…す…」
また発作的に咳き込んで、気持ち悪そうに吐いていた。
もう何が何だか分からなかった。誰が誰だか分からないのではない。ここにいるのは事実、氷野である。ここ最近俺の周りで起こったあらゆる出来事の整理が出来ない。あっちへこっちへ箱がばら撒かれ、しかも中もこぼれ落ちていた。
氷野は再び落ち着きを取り戻し、しかしそれは元の氷野ではなかった。
「…俺は、今、神の護身として働いている。働いているより、仕えていると言ったほうがいいだろう。神を護り、俺の使命を果たす。それが俺の宿命であり、運命だ。俺だけじゃない。神に仕えるものすべてだ…それが僕らの存在理由。それ以上はないよ。僕らは神に創られ、神の手により生き延びえたんだ。神の側近に仕えて、能力を得たんだ。神から与えられし能力だった…我が能力は過去の人物を呼び起こし、我が体に取り込む能力だ。その能力を通じて、神の過去を知り、世界の過去を知れた。ここに我が忠誠が固まったのだ。すべては世界の存続の故のこと…私は、だから、今の神に仕えて、昔の私の過去を振り払った。振り払うことが出来た。それはすべてあの方のおかげ。過去を許してくれた、あの方のおかげ…」
そしてこれで終わりなのか、発作は突然にやってくる。
「…後は…俺が…機を見て…話す…」
氷野はやけに気持ち悪そうに、話す。
「慣れないことをすると…やっぱりダメだな…」
風が吹き、肌に感じるのを感じた。小さな砂をも巻き込み、舞い上げているのを感じた。小鳥がそれに乗っているのを想像した。遠くで金属音の音が風に乗ってやってきて、耳に入ってくるのを感じた。大地の鼓動が足から響き渡るのを感じた。
ここは地球らしい。ここは現実らしい。ここは俺がいるらしい。ここは現実的ではなく現実で、太陽系にある惑星、地球の上に立ち、俺は確かにここに存在している。何も代わっていない。
氷野が話している間、俺はどこにいただろうか。覚えがない。別の空間に吸い込まれ、そこで氷野と一対一のあまりに一方的な会話を繰り広げていたような気がする。異空間と言うべきだろう。
俺はどこにいたかは分からない。だが、今ここにいるのは明らかだ。
「…よし。続きはまた今度だ。リョウ。試合に遅れんなよ」
氷野は同じように準備体操をして、俺より先に歩いて行った。
俺は何をして、何を考え、何の目的で氷野の話を堪能していたのだろうか。それを信じようとしていたわけではない。信じようと努力したわけではない。それはすべて、勝手に入って記憶される。小海の話したことと対比して、次々と繰り出された言葉の数々に圧倒されて、ついにはパズルのピースがすべてはまってしまったような、そんな満足感と今まで感じたことのない不思議な興奮を味わった。
今、意識が朦朧としている。
俺は水道の蛇口をひねり、お猪口一杯分ほど飲んでから、亀が追い越してしまうほどの遅い歩みで、その上、奇怪で機械的な歩き方で歩いていた。誰にもこの姿を見られないでよかったと思う。
遠くでまだ、掛け声のこだまは響いていた。
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