前フリ
読まなくてもかまいません。
これは単なるこの話の理念、のようなものです
俺たちが過ごすこの世界は、偏屈で退屈で、そんな世界がどこまでも広がっているように思える。しかし、俺たちの住む世界は、毎日が変化の連続で、日々、進化と退化を繰り返している。まるで人間のように、世界も生きている。その広く生きている世界ももちろん、はるか昔に滅び去ったビザンツ帝国や魏・呉・蜀などのように、支配者のような、統治者がいる。世界を統治し、そしてその世界の中に国があり、さらにその中に、日本で言う市町村があり、自治体があり、町内会という、世界から見れば超小規模の団体がある。そしてさらに家まで行くと、家族があり、さらに個人の自身までに及ぶ。その先はもう、媒介できない。あえてするとしたら、できるというなら、未来の家族となる、妻子となるだろう。逆に考えてみると、世界は宇宙にまとめられ、それ以降は未解明である。人間が調査できないところは調査できない。できないことはできない。世界も同じようにできないことはできない。重力に逆らって反重力だと言って、六歳の子供が直立飛びで十メートルも飛べるわけはない。宗教を一つにと立ち上がっても、文化が各国にあるように、宗教も文化であって、共通にできるものではない。しかし人間と世界はどこかしら共通しているものがあり、そこに俺たちが住んでいる。ところで、先ほど世界を統治しているもの、と言ったが、それもまた、火星からやって来た宇宙人でもなく、全知全能の神であるゼウス様でもなく、ターミネーター的なロボットと言う名の機械でもなく、人間である。自分で見たものしか、あるいは見ていなくても常識的なもので実物があるものでしか信じられない人間が、宇宙人や神やターミネーターを見て、ハローとか言って、握手を求めるはずがない。気絶するか、逃げ出すか、あごが地面につくかのどれかである。もし、握手ができるという勇敢でアホな人がいるならば、食べられるか殺されるか、消されるかぐらいはされるに違いない。話がそれてしまった。それでその統治者と言うのは人間であるが、それは一般で言う、神である。人間ではあるが、神なのだからしょうがない。宗教である絶対神や、唯一絶対の神のような、神になったキリストやお告げを聞いたマホメットではないから、神と言う存在は誰も知らない。それは伝統の話から、伝説となり、神話となっている。つまりこの世やあの世にも存在しない神なんて、今の俺たち人間にとって、ただの安らぎの道具にしかすぎない。サンタクロースなんかがそのいい例だ。トナカイが引くそりに乗って、世界のあらゆる空を駆け回るなんてこと、想像ではどうでもいえるが、人間業ではない。超能力者や百年先の技術がある人間、もしいるなら宇宙人なんかができるのではないだろうか。また話がずれてしまった。さて、そこで存在する神については別だ。それはいつでも拝める生ける存在であって、偶像崇拝や無生物とは違う。しかし毎日は拝まれてはいない。いや、拝まれるわけがない。この世に生きる人間は存在する神は知らない。信じていない。あの世の人も知らないだろう。存在しない神を崇拝し、信じ続けている。それはなにがその人自身を駆り立てるものかは、まったくもって俺の理解に悩む。子供でたとえるなら、きっと、夢や希望、未来ではない、想像の世界で遊び続けたいのであろう。大人だって、いまやオタクなどがアニメやマンガの二次元の世界の住人に、そしてとりこになっている。そんな自分の、他からは完全に隔絶された空間を作っているのであろう。また、その空間は誰にでもあり、作るのは容易である。作ろうと思いさえすれば、その時できるのだから。おっと、いい加減に本題に戻るとしよう。生ける神は知られていないと言ったが、実際は本当にいて、認めたくないというより、広められていないといったほうがいいだろう。もちろん、認めたくないと言うのはあると思うが。今、心の中にいる神以外は、誰だって要らないだろう。信じるものは一つだけでいいだろう。複数でも構わないが、いざとなると何を信じて言いのか分からなくなる。だから一つのほうがいい。 ところで広められていないというのは、その神は小さく生きて、そして質素に消える。そんな神なのだ。誰も知るはずがない。質素でつまらない人生を過ごすのだ。個人の人生は誰よりも楽しいと思うが、人の人生はつまらなく見える。よっぽど波乱万丈でない限り、つまらない。自分は自分の人生の主人公であるのだから当たり前で、常識だなんてことはどうでもいいが、実はその神も人間であるから、もちろん死ぬ。当たり前だが、不老不死のかぐや姫なんてのはいない。そして死んだ神はまた人間へと受け継がれ、その受け継がれ方は不思議で、この世に住む人間の誰かに、なんとランダムで選ばれるのだ。その人間は自分が神だなんて気付かない。気付いた時にはもう死の瀬戸際にいる。知られていないという要因はもしかしたらこれなのかもしれない。神は永遠ではなく、人間の姿をしている。それが本来の、人間の姿であるならばの宿命ではあるが、偶像崇拝などの神は人間ではない。信じた人の中の像であり、それが存在であり、人間の姿をしている。
ここでもう、難しい話はなしにしよう。簡単に言えば、神は存在し、この世界のどこかで生きている。そして死んだら、ランダムで選ばれた人にその神の権限的なものが受け渡される。その神が世界を統治し、まとめている。
そんなことで世界はまとめられているが、一番初めに言ったように、世界は毎日変化を遂げ、進化と退化を繰り返している。つまりまるでシーソーのようにギッタンバッタンと音を立てながら、あっちへこっちへと傾いている。世界がいつまでも均衡であるなんてありえない。時間が流れると、世界は動く。それは当たり前のように見えて、当たり前ではない。誰かが常に動かして、動かさないと世界は崩壊と言ってもいいほどに追い込まれ、いつしかは壊滅する。毎日そんな状況に追い込まれているのにも知らずに、もしかしたら今いる世界も新たに作りかえられた世界なのかもしれないのに、のんびりと暮らしている。何回も作り変えて、やっとこの世界に落ち着いたのかもしれない。
人間が生まれる前、神は存在しなかった。存在するはずがなかった。誰が信じ、何が存在を必要とするのだろうか。だからこの世にある存在というものは、一つ一つが必要とされているためにあり、存在する限り、いらないものはない。しかし自分が何のために生きているのかという存在理由は知らない。存在するものが存在するものを排除しようとする考えがあるが、あれは間違っているものである。誰も願っているものでもないし、存在しないからいいという問題でもない。
しかしこんなことを知ったのは俺が高三になる直前だったし、この世に神や存在理由なんてものはなく、ただ生きているだけだと思っていた。今まで言ったことをまったく見向きもせずに、人は一日を過ごし、俺も退屈な人生を過ごしているように思えた。しかしそれもあの不可思議な出来事で、大きく変わってしまった。
いつまでも退屈な人生を、もちろん俺は望んではいなかったが、過激でハリウッドのようなアクションをしたいわけではない。平和でありふれているが、時々おもしろいことがあり、時々喜べることがあればいい。親から離れていい会社に入り、家族を作って家庭を築き、好きなものを買って、旅行に出かけて、たまには上司に怒られたりなんかして、そんな暮らしでよかった。一般の常識ある清浄な生活を望んでいた。
人生の歯車が狂い始める予感なぞ、まったくなかった始業式を過ぎて一週間以内のことであった。それが過ぎると、俺はもとの人生に戻れないと思った。俺は言わば、レールから外れた機関車であった。嫌な予感が、脳をよぎったのだ。
すでに新たなシーソーが動き出していた。