Season0 [前]
この話は物語です。
信じるか信じないかは、あなた次第です。
『Mr.Children/シーソーゲーム〜勇敢な恋の歌〜』
これがきっかけ(とは限りませんが)でアイデアが…
過去をぶち壊したり、未来を破ったり、まして時間を戻ろうと思って戻れるものではない。今起こった現実は素直に受け止め、それは紛れもない事実である。タイムマシンやタイムスリップ、某小説のタイムリープなど、SF世界の夢中的仮想&妄想だ。まず時間が止まるわけがない。それができるのは、人間が操作する時間上のみだ。例を挙げるとストップウォッチがそうだろう。
普通では起こりえない、超偶発的事件なんて、事実、あることはないといえよう。その例はバミューダトライアングルでも数々の船や飛行機などの消失、再現、また消失という繰り返しを何度聞いたことだろうか。だが世間では、これは二十世紀最大のデマと言われている。
もしこういう身の回りの奇跡や偶然、事実とは思えない事件らをすべてあって当然だとあえて考えた場合、我々はどう対応していけばいいだろうか。素直に受け止められるほど器用であり、度量の広い人物はそうはいないだろう。まして目の前で見てしまった場合、混乱と困惑は避けられない。
だがさらにそれが本当は事実であった時、いや、本当はそれらが本当に本当なのだが、今だけはそれを伏せておこう。
これから述べるのはすべてふざけているわけではない。真正面からこれからこの話を聞くに当たって聞いておいて欲しいことだ。すべてが夢のように思えるかもしれないが、すべてを信じろというわけではない。信じれるなら信じて欲しい。見ることができるならずっと見ておいて欲しい。現実から目を話さないで欲しい。
サンタや竜を信じろというわけではない。ただこれだけは知って受け止めておいて欲しい。『事実は小説よりも奇なり』。こんな言葉は現存しないが、『既成は事実なり』ということを。目の前で起こったことは、現実だからこそ起こり、事実だからこそ見ることができるということを。
青い空。白い雲。今日は海水浴だ、ではなく、朝とは打って変わっての蒼天なのだ。
その空の下で、私、リョウ、ミズキはどこへ行こうかと土手に寝転がりながら相談していた。それは高校一年生を終え、二年生が始める始業式の帰りのことだった。三人は幼馴染で、しばらく同じクラスになれていなかった。だが、今年は久しぶりに一緒のクラスになった。
「じゃあ、何しようか」
私の横顔をリョウは眺める。私はその視線を感じ、早く決めようと決起した。
「カラオケに行こう。ほら、諸君、立つのだ」
「はいはい、やれやれ、と」
いつも私は先導をする。その後ろを、自転車をまたいでリョウとミズキはついてきた。
いつもと変わらない生活。毎日。人生。友人。自分。それはナイルの賜物のようで、流れていく時間と同じように当たり前のようだと思っていた。こんな毎日が当然だと思っていた。
私という存在は誰か。それは自分でさえ分かっている。
しかしその当然だと思っていること、無変化のリズムを崩すきっかけがやってきていたのを、私たち三人は知らなかった。
ひっそりと忍び寄る怪しげな影に、もう私の影とシンクロしているなんて知るはずもなかった。
私はご機嫌だった。ご機嫌だった日は続いた。毎日が楽しかったのだ。今まで私だけが違うクラスになっていて、また新しく友達を作って、愛想を振りまいて、それを繰り返す日々が大変だった。今はこうしてまた三人と一緒になれているわけで、楽しい日々だ。一日中一緒にいられる。気を使わなくていい。幼馴染の特権である。
こんな日々がいつまでも続けばいいと思っていた。
それに、気が合う同性友達も見つけた。転校してきたり、近くの席だったこともあり、趣味も同じようなものだったこともあり、すっかり意気投合した。今までの人生で、一番楽しい。まるで人生のピークが今、迎えられているようであった。神様によく思われているのかなあ。
しかし不思議に思った。こんなに上手くことが進む人生があっていいものか。今がピークなら間違いないことだと思うが、別に不安になる。
だがそんな不安も今が楽しくなるあまりに忘れてしまい、どうでもいいことだとも思ってしまう。今が楽しければいいやという精神で、ついつい遊びを繰り返す毎日。本当にこんなのでいいのだろうかという日々。天の神様に感謝する日々。
どうやっても変わらない日々は続いた。
そんなある日、さらに楽しくなりそうな企画が持ち込まれた。毎年恒例の球技大会だ。テスト明けに行う行事だ。本当の目的は採点疲れに休みが欲しいということだという先生たちの勝手な意見なのだが、授業がないならこちらも楽だ。
こう毎日楽しいのに、追い討ちをかける楽しさがあっていいものだろうか。
しかもこの球技大会は毎年行われているものとは違い、今年から追加のルールが起用される。それは男女混合ルール。すべてのスポーツに男女を必ず入れることとなっている。
それは私も望んでいたことだ。リョウやミズキとまた一緒に野球がしたい。その思いが通じたような気がする。小学校、中学校と野球部に入っていた私にとっては、これは非常に嬉しいことだった。今まで女と言われて疎外されていて、今回ので自由にできるのが、私にとって世界一の幸福だ。
私はもちろんチームに加わった。リョウとミズキも一緒だ。これでまた一緒に野球ができる。
あらゆる人材の個性豊かで面白いチームができた。これでどこまでいけるか。
苦渋の末の野球はどう楽しめるか。私にとってはそれだけが楽しみだった。
「私たちのチームだけね、やっぱり…」
私たち以外すべてのチームに共通するのは先発が男子だということだ。
「やっぱり体とか気にして出たくねえんじゃねえの」
「いや、戦力外通告かもな」
二人はけらけらと笑っている。私はそれに耐えかねた。
「何言ってんの。それって私に対しての挑戦状?」
女をのけ者扱いにはされたくない。そんな思いで言ってやった。
「いや、そんなんじゃねえけど」
「絶対挑発してる。もっと口を慎みなさい」
「悪かったな…」
「まあ、分かればいいのよ。分かれば」
別にそこまで機嫌を悪くしたわけでもないが、ついつい声が強張ってしまう。
「まあ、見てなさい。華麗にグラウンドで舞う私に見惚れていなさい」
「そりゃ、見ものだな」
私たちは試合をするグラウンドへ向かった。
この学校は公立にも関わらず、野球場のグラウンドが二面、サッカー場が一面、他にも弓道場、ラグビー、プールなど、安い土地だからこそできる、私立並みの設備が整っている。そのおかげで部も強い。事実、よく大きな大会でいい成績を収めている。
グラウンドにはもう試合が始められるようになっていた。
「それにしても、よく男女混合チームなんて採択されたよな」
「そのおかげでまた私とできるじゃない」
「まあ、そうだな。感謝、感謝」
シートノックが終わり、試合が始まる。
しかしその試合の内容は非常に薄く、あっという間に終わった。コールド、負け。
当たり前かな。相手は現役野球部軍団のようなチームだ。叶うはずもない。しかしリーグなので、まだ分からない。
「ほら。元気だしなって。まだ終わったわけでもないし」
声をかけてみるも、やはりコールドゲームを喫したチームは盛り上がらない。もう何と言っても動じないだろう。
しかし私はまだどうにかなることを信じて、試合をやってみると、やってみるものだ。なんと残りの二試合とも勝ってしまった。相手はそんなに弱いチームではない。あえて言えば強いチームだった。だが私たちをコールドにしたチームは全勝し、決勝トーナメントへコマを進めた。
「何気にすごいな。俺たち」
リョウは勝ったことに驚いている。
それもそうだ。私たちをコールドにしたチームも辛勝だったチームを私たちは、大量得点の大差で大勝した。
「決勝には出れなかったけど、明日は楽しくやろうな」
「そうね。どうせ消化試合だし」
私たちはその日、家に帰る前にカラオケに寄った。今日は疲れたけれど、もっと一緒にいたいと思った。楽しみたいと思った。今日は特別だ。朝まで歌い明かそう。だがそんなお金も時間もなく、二時間でカラオケを後にした。しかしいつもより長く楽しめたような気がする。四時間ぐらい、歌ったような気がする。
それはともかく、楽しかったことには変わりはない。
その帰り、別れのY字路でミズキと分かれ、リョウと一緒に帰った。やっと一緒になれた。最近、テストだか、家庭の事情なんかで、リョウは直接家に帰って行った。だから今日はチャンス。
公園の脇を通っている時、私は決心をした。
「ねぇ。ちょっと寄ってかない?久しぶりにさ」
私は先行して公園に入ると、リョウはしょうがないなというような、不満そうな顔でついてきた。
すっかりさび付いた鎖の、昔から座り慣れているブランコに座った。もうすっかり鉄のにおいが強かった。いつも私が向かって左で、右がリョウのこいでいたブランコだった。
リョウもブランコに座り、一息ついた。
「久しぶりだね。この公園も、十年前までは新装開店みたいだったのに、今じゃ錆び付いたオンボロ公園だね」
「そうだな。そういえば、すっかりこの公園にも来てないな。前に来たのはいつだったかな…」
「四年前ぐらい…かな。何で来たのかしら?」
「そういえば…そうだ。お前が卒業式の日、タイムカプセル埋めるって言ってたじゃないか。もう忘れたのか」
「ありゃ。そうだっけ。埋めた場所、覚えてないわ」
「だめだこりゃ」
夕陽はまだ沈まないようで、目の前に映った。私の足元まで、紅葉色に照らす。
私は愛想笑いを続けた。リョウの方もやっと警戒がほぐれたような感じで笑っている。
愛想笑いの反面。今、私の鼓動は速くなっている。言おうか、言わないか、どうしようか。だが言おうと思う。
「ねぇ、リョウ…好きな人とか、いんの?」
「あん?いきなりどうした、お前」
まったく動揺してないようで、相変わらず幼馴染視だ。
「いや…高校生なんだから、そんくらい、いるでしょ。もう一年も経つんだよ」
「いや…やっぱり、いないな。お前は?」
その時、私は足元から崩れたような気がした。心が空っぽになった。不思議だ。私は告白さえもしていないのに。
「おい、聞いてるか?」
「ん?え…私もいないよ。うん」
「そうか。でも、お前に気があるやつなんて、山ほどいるぞ。男を選ぶ時は、しっかり見極めろよ」
さっきの私のセリフ、自分に嘘をついたようで、私は自分のことが嫌になった。
「うん、そうする。ありがと、今日は。帰ろ」
リョウの家の前で別れ、私は、一人で家に帰った。
ドアを開け、誰もいないマンションの一室に入る。
「ただいま…」
訳あって、今は家族は遠くに離れて暮らしている。だから今は一人暮らし。一人で家事洗濯料理など、何でもこなしている。
ソファーに座り、そのまま倒れこんだ。
すると、目から名もなき涙がほろほろと溢れ出してくるのであった。
「何でだろう?何でこんなに悲しいんだろう…」
負けたような気がした。私に、気持ちに、リョウに。幼い頃から好きだった。リョウのことが。しかしそれは好感に過ぎなかった。意識し始めたのが中三になってから。ある女子がリョウに告白している瞬間を見た時、腹立たしく、悲しく、切なかった。今まで感じたことがなかった。その帰り、振ったことを知った私は嬉しかった。その時、私はなぜそんな気持ちでいるのか考えた。一睡もせず、純粋な気持ちで考えた。それは気付かない方がよかったかもしれない。考えない方がよかったかもしれない。私は次の日から、しばらく面と向かって話すことができなかった。
もう夕飯を作らなきゃいけない時間なのだが、今日は冷蔵庫にあるヨーグルトで済ませようと思う。それに食パンと牛乳も。
「もう…だめだ」
クッションに頭を埋めて、さらにその上からクッションをかぶせた。
「何で何で何で何で何で?何で?」
もう考えるのはやめにしたが、もうリョウとは顔を合わせたくなかった。
初めて会ったあの時。運命を感じた。その時はそんな言葉、知らなかったが、そのような感じがした。気持ちが震えた。具体的に言えばそうだろう。
「もう…いや…」
私はこれからどうすればいいのか。また考えることになった。中三以来だった。
決めた。好かれるようになればいいんだ。
私はそう心に誓い、グラウンドに出た。
リョウたちはどこだと探すと、すぐに見つけた。だが私は恥ずかしさでまみれていた。すぐにその場から逃げたくなったのだ。頬も高潮し、背中も汗が流れてきた。
「今日もガンバろ。じゃ」
「おい、じゃって、ここでやんだぞ」
私はその言葉を聞かずに、一目散に逃げた。
ゴールデンウィークは何もしなかった。何もできなかった。一日中テレビを見て、寝て、家でごろごろと時間を浪費している日々。何やってんだか。私は。
学校も終わり、帰宅部の私は、同じく帰宅部のリョウとミズキをまたカラオケに誘おうと思った。前と比べて、だいぶ楽に話せるようになった。
「ねぇ、帰ろう。今日もカラオケだぞ」
ミズキは誘ったが、リョウは岸と話している。
今年、転校してきた女子で、球技大会のチームも同じだった。私の席に近かったこともあって、結構親しくしている。容姿も可愛らしく、スタイルはいい。少々照れ屋で、猪突猛進の私とは、まったく性格が逆であった。おしとやかで、静かで、女の鏡であった。
私はあの時のように、少々ムカついた。
「ねぇ、カラオケ行かない?ミズキは行くって」
「ん…そうだな…まあ、いいぞ」
リョウは取り残された岸にじゃあねと別れを告げた。
「ほら、行くわよ」
私を先陣に、カラオケに向かった。
梅雨に入った。
自転車登校の私にとってはこれほど嫌なものがない。だから今日ぐらいはと、バスに乗ってきた。
いつもより早く着いてしまった。自分の席に座り、リョウとミズキが来るのを待った。外を眺め、あー憂鬱だ、と小さい声で呟いた。
「おはよう」
私の後ろを通って、岸は自分の席に座った。
そして続いて、ミズキと一緒にリョウも教室に入ってきた。
「ははは。びしょ濡れだぁ」
「うるせえ」
リョウがハンカチで顔を拭こうとして、ポケットに手を突っ込んだ。
「あら…」
どうやら忘れたようだ。私はハンカチを貸そうとしたが、先に出したものがいた。
「はい。これ使って」
「え…いいのか?お前も濡れてんじゃん」
「うん、大丈夫。私、タオルも持ってるから。それに…この前のお礼」
「…そうか、ありがとな」
私はポケットに突っ込んだまま、その会話を聞いていた。そしてその手からハンカチを取り出し、照れながらミズキに渡した。
「これ、使いなさい」
「いいのか。ありがと」
こんな会話より、もっと気になることがあった。この前のお礼、とは何だろうか。何をしたのか。
リョウは岸と話し始めた。自分の席に座って、私を無視するように、壁を作っているように見えた。
「これ、ありがとな。洗って返すから」
「いいわよ、別に」
私はミズキからハンカチを奪い取るようにとった。ボーっと二人の会話に耳を傾けていた。リョウの声質は、私と話している時とは違う。私と話す時は大抵、同じトーンで、比較的、暗い。それに顔色一つ変えずに、ミズキとはまるで正反対だった。
何でこうなるのか分からなかった。ルイとリョウが仲良くなっていくのが、嫌だ。
すると、さっきまで滝のように降っていた雨が急に上がった。通り雨のように、雲はさっと引いていった。
今の私は、立ち上がってトイレに行くことしかできなかった。
「雨、降ってないね」
「おお。グラウンドが湖だな」
朝早くから上がっていたにも関わらず、朝の勢いは水溜りとしてその被害を表れている。
ミズキは今日、家庭諸々の事情で、先に帰った。岸は掃除当番で、教室を離れていた。
これはチャンスかもしれない。
「ねぇ。今日、用事ある?」
「何だ何だ?この前みたいに、またどっかに行きたいとでも言うんじゃないだろうな」
「いや。私、今日、バスで来ちゃったからさー。乗せてけって思って」
「まあ、いいが。別に用もないし」
私たちは教室を後にし、私はリョウの荷台に乗り、リョウはペダルをこぎ始めた。
私たちは特に話すことがなく、学校、駅、踏み切り、商店街を早々と通り過ぎた。ここまで何も話していない。一言もだ。何か話そうと思うと、思うように声が出ない。羞恥心がそうさせていたのだった。
ついに土手に差し掛かった。夕陽は流れる川の上で、自由自在に踊っていた。
駆け抜ける風が気持ちいい。
「風が気持ちいいわね、リョウ」
「そうだな」
「そういえばさ、久しぶりだね。こうやって乗せてもらうのも」
「そうだな」
風が私をよぎる。
「ねぇ。最近、ルイと仲がいいみたいけど、どんな進展なの?」
「…何だ。嫉妬か?」
「ううん、別に…最近、仲がいいみたいだなって」
変わらないトーン。いつもと変わらず発展しない、粗末な話。聞きだしたい話もろくに聞けない。とりあえず、この空気は嫌だと、このことを打開すべく、私は一つの案を思い立った。
「そうだ。あそこ行こう。絶景丘」
「は?さっき俺をタクシーじゃねえって行ったばっかじゃねえか」
「いいじゃないのよ。あんたん家から近いんだし。ほら、急いで。ゴーゴー」
自転車の再度を私は蹴り続け、それに参ったのかリョウは折れた。
「…ったく。しょうがねえな」
別れのY字路。住宅街。公園。すべてをさっそうと通り過ぎて、リョウの家の前の道を曲がる。ここからほどほどな坂道がずっと絶景丘まで連なっていた。それを二人乗りで、リョウは立ちこぎになった。
これは無理かなと、私は荷台から降り、後ろから押した。
「ほら、頑張って」
「おお。ありがとな」
もう大丈夫だろうというところで私は押すのをやめ、丘に向かって走り出した。
「ほら、早く早く」
丘を上がり、私の目に映ったのは、素晴らしくきれいな夕焼けだった。やはりそこで見るのはいつになっても変わらない気持ちでいられた。
「やっぱりきれいだね、リョウ」
リョウはまだ自転車を立てていた。
「ちょっとぐらい待てよ…ったく」
私たちは並んで立っていたが、直に感服したようにベンチに座った。
「きれいね。やっぱり」
「そうだな…」
炎のごとく、真っ赤に燃えていた。雲が夕陽にかかり、雲に夕陽が反射し、幻想的な景色だった。はるか遠くに海が見えていた。めらめらと、焚き火のように燃えている。
それにしても、私の視界に入るリョウが何とも邪魔で、気がかりだった。
「…っていうか、あんたも座りなよ」
私はベンチをたたき、早く座るよう急かした。
夏になると、ここから満天の星が望める。まるでプラネタリウムをタダで観賞しているようなのだ。星のきらめきが一つずつ、克明に見える。昔、リョウとここに来て、星と星を結んで勝手に星座を作ったものだ。
それに、花火も見える。毎年行われるイベントで、その時はミズキも一緒に欠かさずここに来て、一緒に観ている。その帰りに近くの神社で屋台の出店もしているので、そこにも出向く。
「ここ来たのも久しぶりだね」
「そうだな。去年の夏、ここに花火を見に来たっきりだな。花火大会って、祭りの帰りだよな」
「そうそう…今年も祭りの帰りに、見に来ようよ。ね」
「まあ、多分、空いてると思うが」
「じゃ、約束…しなさい」
「できたらな」
「何で?できないの?」
「まあまあ。祖父の忌引きとか、そんなかんなで来れない日もあるだろ。まだそんな予定はないが、突然の不慮の事故的の想定だよ」
「じゃ、それ以外ならいいの?」
「ああ。行けるなら、ちゃんとメール送るよ。というより、メールで送っから」
「それにしても、あんた、想像に行き過ぎ」
まったく、と一旦安心した私は、また夕陽を眺めた。さっきより低い位置にあったが、美しさはいまだ健在だ。
「もうそろそろ暗くなっから、帰っか」
「そうね。でも、もうちょっとここにいさせて…」
私は自然にリョウの肩に寄りかかった。別に緊張やドキドキ感などはなかった。本当にごく自然に、流れでやってしまった。我に気付いても、私は寄りかかることをやめなかった。肩はごつごつとしていたが、ぬくもりがあった。
リョウも拒否しようとはしておらず、逆に受け入れているような感じだった。しかしそれは幼馴染で親友の壁を、まだ越えるものではなかった。
もうちょっと。もうちょっと…
私の気持ちは駆動する。
雨はひどく降っている。もうダムも満タン近く貯まっており、田んぼや植物にも十分に蓄えられている。川も危うく氾濫しそうだというが、実際にそれはないらしい。洪水もなく、津波もなく、まことに平和だった。ここ最近、殺人や少年犯罪なぞの事件も聞いていない。あえて言えば、それが事件なのかもしれない。
「リョウ。おはよう」
「おはよう」
挨拶を交わし、いつものように話し、いつものように昼を一緒に食べ、いつものように帰る。それが楽しかった。すべてが平行線で進んでいるように思えた。そうであって欲しかった。
そんなある日のことであった。教室に入ってイスに座って気がついた。ある一人の女子が、離れた位置にいる集団の女子から罵声を浴びせられていた。いわゆる、いじめ、である。女子の集団は面白がって罵声を浴びせていた。
何でそんなことをするのか、私は理解ができなかった。何が楽しくてやれるのか、私は一緒になってやろうとは思わない。あいつらの気が知れない。
だが私はそれを見て見ぬフリをしていた。関わっても損も得もない。無駄な労力だ。巻き込まれて、標的にされたら嫌だ。あらゆる思いが交差し、挙句の果てには鑑賞会。
その日々がしばらく続いた。梅雨も終わりを告げ始めているのか、雨が少なくなってきていた。
相変わらず罵声を浴びせ続け、集団は楽しそうに笑っている。
それをみていた私は、そのいじめられている人、成城に話しかけようとする一つの影を見た。
「ちゃんと嫌ならやめてって言わなきゃだめだよ」
見かねたのか、それともヒーローにでもなりたいのか、岸は積極的だった。
「容姿もいいのに、それじゃだめだって。私が言ったげる」
まっすぐその集団に向かい、割るかのように岸は集団内に入っていった。
あの優しくて静かでおしとやかな岸とは思えない行動だった。
「やめなよ。嫌がってるじゃない」
刃向かう態度で食って掛かった。
「何であんたにそんなことが分かるのよ」
「そうよ。何も言わないって事は、そういうことじゃないの」
しかし、クラスは岸の勇気に味方したのか、白い目と非難の声を浴びさせた。
「そんなの、モラルの問題じゃない…」
「そうよ。そんなことで快感を得るなんてねぇ…」
「やめればいいのにな。聞いてるだけで腹が立つ」
集団のリーダー格の女子が立ち、周りの女子を引っ張るように言った。その集団と入れ違いに、リョウとミズキが教室に入ってきた。
「トイレ行こ」
集団はクラスから消えた。
もうクラスは岸の味方だった。歓声と歓喜。岸に温かい言葉が送られる。岸の勇気に見惚れられる。
「すごいな、お前。見直したぜ」
「あーすっきりした」
岸はその後、何か成城に話し、席に戻ってきた。この席にも、温かく差し伸べる手があった。リョウとミズキはクラスの雰囲気だけを感じてすべてを覚ったようだ。
「なるほど…岸が…」
岸が戻って来て席に座ると、と、リョウは岸の頭をなでた。まだ私が一度もされたことがないことだ。ずるい。岸が憎く思える。
見ていた私。止めた岸。その差に、私は大きな距離を感じた。それは後に、リョウとの距離となるなんて、まさかの展開ではあるが、夢にも出てこないだろう。しかしこれは現実となってきているのであった。
岸はすっかり成城と仲良くなっていた。いつも楽しそうに話している。今だって、話題も発展していなさそうなのだが、今まで無表情だった成城の顔も緩みつつあった。
「すごいな…岸…」
リョウがぼやく。
私はそれが嫌だった。リョウの頭の中が、ルイの毒に侵されていくのをみすみす見ているなんて、絶対嫌だ。
「そうだ。今年も行こうよ、キャンプ。もしかしたら来年はいけなくなるかもだし」
「そうか…もう夏休みか。早いな」
私たちはクラスの窓際、後ろの席の一角で、いつの間にかたまり場となっていた。前から席も近かったし、席替えをしても大して移動はしていない。むしろしていないと言った方が正しいだろう。この一角に固まって、陣取っていた。岸は成城の席の前になった。私の周りに、リョウ、ミズキ、ミズがいる。
ミズは今年、たまたま一緒のクラスになった。中学校では一度も同じクラスになったことがなかった。ただ、見かけたことがあるだけだった。そして近くの席になってから、急に仲良しになった。相手の方から、積極的にだ。
ルイもそうだった。転校してきて、近くの席になったから仲良くなっただけのことだ。以前からの交流はない。
「行こうよ。来年はもう受験生だし、もう遊べないんだよ」
「そうだな…それなら、波和さんも行くか?」
「え?私?」
突然振られたミズは戸惑っていた。私たち幼馴染の間に割って入るというのだから、不安も積み重なるだろう。それも尋常じゃないほどの。
「いいじゃん。たまにはあんたもいいこと言うわね。ミズも行こう」
「たまには、って…」
「そ、そう?」
私の一言で決めたようで、戸惑いの顔もにっこりと笑顔一番を見せた。
「じゃ、お言葉に甘えて、行くことにするわ」
ミズは少し大人びている。周りと比べて一つ先に成長しているような、一人だけ雰囲気が違う。話し方も大人みたいな口調で、私や他の女子よりも先を歩いている。その何歩か先に歩いているミズが、時々遠くの存在に感じられることがある。
「そうだ。岸さんも誘うか?」
またリョウは余計なことを。
「…き、きっと…用事があるって」
「そんなの聞いてみなきゃ分からないじゃないか。岸さーん」
ああ。絶体絶命だ。今まで策を練るに練った予定が。ルイに用事が訪れよ、幼児が訪れよ、訪れよ。
ルイは何も知らずにやってきた。
「岸さん。一緒にキャンプに行かないか?」
「え…それっていつ?」
「そりゃ、そろそろ夏休みだし、だから夏や…」
「ごめん。夏休みはちょっと…」
「え…まだ何も…」
「じゃあね」
冷たくさっそうと去ってしまった。
そのルイの態度にリョウは唖然となった。
正直私も驚いた。私が案じたとおりだったのはよかったが、まさかその通りになるとは思わなかった。思惑通りとはこういうことか。それにしても、ルイは用事がさっきできたように見えたが、実際どうなのだろうか。ルイの意図が読めない。
とりあえず、ルイがキャンプに行けないということなので安心した。私はこの運を見方に、自分の計画を実行使用と自身を持てた。
「いきなりだけど…私に付き合って」
「…え…何?いきなり」
放課後、用事があると作って先にリョウとミズキを家に帰らせてから、昼休みに呼び出したミズと、とある喫茶店風のカフェ店にて落ち合った。そしてしばらく、紅茶を飲みながら会話を楽しんでいた。それをしばらくしていた。
そして私は言い出す決心をし、紅茶を飲み干してから言い出したのがこれだった。
しかしこの意味がまったく分かっていないようで、ルイは私が変な告白をしたと捉えたようだ。目がそう言っている。あの話し方では、ミズに誤解を招いてしまったようだ。
「いや、そういうことじゃなくて…ほら、キャンプでさ、ちょっと頼みたいことがさ…」
「ああ、キャンプの頼みごとか。私はてっきり…」
「いや、それはどうでもいいんだけど…」
私は練った計画、私がリョウのことを思っていること、今までどれだけリョウのことを見てきたかということ、そしてそこで行うすべてのことをミズに話した。ミズは最後まで深刻に聞いていてくれた。信頼できるからこその行動なのだが、果たして承諾してくれるだろうか。
「…別に、さ。構わないけど…でも…」
「でも?」
「いや。何でもない」
そしてミズは吹っ切ったように言う。
「うん…いいよ。私…頑張ってね。できるだけ、協力する…あ…もう暗い。私、帰るね。はい、これお金。私、先帰る。じゃあね」
「ねえ。それなら一緒に帰ろうよ」
「いや…私、寄りたいところあるから。じゃね」
ミズは足早に店を後にした。ドアが閉まる時、虚しくカランカラン、と鈴だけが音を残した。机上には小銭と空と半分まで残っているカップだけがあまり、小銭はこれでは絶対私の分まであるだろう、というほどあった。
何だろう。今日のミズは何だかおかしい。
私はとりあえず、会計を済まして店を出た。
ミズが言うほど、外は暗くはなかったが、夕焼けがきれいだった。オレンジ色のその温かい暖炉のような明かりが私を応援しているようで、気持ちが高揚した。
そして帰路に着いた。
私はいよいよの夏休みに興奮した。きっと楽しく、有意義な時間になるだろう。キャンプの日が遠くて遠くて、いくら走っても追いつけないような距離にさえ気がした。
予定通りに駅前の木陰が少々ある噴水近くに集まった。これからが暑くなるという、真夏の昼下がりであった。
水の上を走った風が頬に当たると、とても気持ちいい。今が猛暑の夏だとは思えない。木々のざわめきも、いとをかしだ。
先に着いていた
「遅くなった。悪い」
最後に来たのはリョウとミズキだった。なんと十分も遅れて着た。
「遅い。罰金」
それは当然のごとくの口調だった。私たちはいつも、こうやってどこか遠征に行く時、必ず決まってビリは駅前の喫茶店でおごらせている。今日も例により、餌食となるのはリョウとミズキだ。
「お腹が空いたから、そこの店でなんかおごりなさい。決定」
「おいおい。俺たち、たいしたお金なんて持ってないぞ」
「そうだよ。今日ぐらいはさ。ただでさえ少ない小遣いで…」
「とりあえず、おごればいいの。ね、ミズ」
「…え。あ、ごめん。聞いてなかった。何?何の話?」
ミズの髪は風にあおられ、なびいていた。誰かに優しくなでられているように、その髪の毛は気持ち良さそうに宙を泳ぐ。
「もう。こいつらが遅れたから、そこの店でこいつらのお金でおごりだっていう話」
「ああ、そうなの…それって決まりなの?」
「うん。決まり」
「まあ…そうなんだけどね」
ミズキは照れるようにして笑った。
しかしミズは違った。その場にいる三人の誰もがおごりだと思っていた。しかしミズだけは違った。
「今日ぐらいはいいんじゃない。そこでペットボトルぐらいでいいと思う」
「そ、そう。そうだよ。それでいいと思うぜ」
「そうそう。ペットボトルぐらいなら手ごろだしな」
私は迷った。いや、困惑だろうか。ミズの一言で、場の雰囲気は一気に水に持っていかれてしまった。そのことに対する困惑だと思う。
「ま…まあ、いいわ。それで我慢する」
駅前のコンビニでペットボトルついでおにぎりも買ってもらい、荷物を持っていよいよ電車に乗り込んだ。
電車の中で、上手い具合にリョウの隣になれた。リョウが一番端に座っているので、誰にも邪魔されずに話できる。
そして何か話題がないかと考えていると、特にない。はっきり言って、毎日一緒にいるわけだから、リョウも私の周りで起こったことを知っている。しかし昔のことを思い出して話してみるのもいい。
「昔から同じキャンプに来続けてるけどさ…」
私とリョウは何駅も何駅も通り越して、話し続けた。最近のちょっとした発見や昔一度話したこともあることもすべて、一緒になった幼馴染から今まで起こったことをすべてひっくり返すように、思い出を掘り起こした。それも話を絶やさないため。
すると突然、電車は急ブレーキしたようで、私はバランスを崩して、リョウの肩に寄りかかってしまった。私とリョウは無言のまま、少しの間、そのままでいた。
「おい…いつまでやってんだ」
「あ、ごめん…」
私はすぐに体を起こし、うつむいた。
もっとあのままでいたかった。もう一度ああなりたい。
私の頭の中は妄想と欲望に駆られていた。すっかり自分がリョウと話し続けることを忘れていた。
そのことに気付かない私は、しばらくどうすればまたああなれるかを考えていた。もうすでに目的は違った。ずっとそばにいたいのではなく、触れたいと。
昔からよくボディタッチなんて、しょっちゅうの出来事だったが、今この年齢になり、そのことを思い出すと、体が熱くなる。しかしそれは私にとって、一番の安らぎであり、一番の喜びとなっていた。
急ブレーキがかかってから二駅ほど行くと、一つの案を思いついた。
私はその駅を出発しようとする電車と同時に実行することにした。
「ああ。何だか眠くなっちゃった…」
「おいおい。あと二駅なんだから、我慢しろ。ほら」
リョウの肩に寄りかかろうとする私の頭をリョウは無理やり起こした。確かに後少しの辛抱であれば、相手も我慢しろというだろう。
しょうがないと思い、それはバスの中で実行することにした。
「着いたか。やっぱり、誰もいないな」
そこはあまり大きくない駅。プラットホームと言うには程遠い、ただ屋根とベンチ。それだけがあれば十分だというような駅だった。周辺には水田や畑に囲まれ、比較的田舎町というのが正しかった。
だって、においがちょっと、土のにおいと肥料のにおいが漂わせているんだもの。
「ほら、行くぞ」
三人はすでに改札口前まで移動していた。
私は空をぼんやりと眺めていた。あまりの空気の透明度と健やかさに感服し、空はパレットから水色のインクがこぼれたようにきれいに広がっていた。雲はどの空よりも生き生きとしているようで、ウサギが飛び交っているようであった。
「ほら、行くぞ」
今度はミズキから声がかかる。
改札を通り、駅の前のいかにも古びてバスでも来ないのではないかというバス停の前でバスを待った。ベンチは色あせていて、プラスチックが折れて地面に落ちていた。四人は座れるものの、少し窮屈だ。こんな暑い日にくっつくなんて。だがそれはいいことかもしれない。
だがリョウは言う。
「座れよ」
そう言われた私とミズは素直に座った。
しばらくして、バスに乗り込み、強いクーラーが何とも天国に感じられた。非財は少しだけ感じられるが、一番後ろの席に座ることにした。
私は当然のようにリョウの隣を独占して座ろうとしたが、リョウの隣にミズが座った。
あれっ。何で。
意味が分からず、私は躊躇した。
バスは動き出した。
「危ないぞ。ほら、座れよ」
そう言われて、ミズキの隣に座った。ミズキはその『一番後ろの席のひとつ前の席に座っていた。
私はしぶしぶとした顔で座りながら、その席越しからミズをにらんだ。だがミズの表情は穏やかで、この上なく嬉しく、喜びに満ちていた。
「アズサ、どうした」
ミズキが心配そうに聞く。なかなか前を向かない私を不審に思ったのだろう。
「いや、なんでもない」
ミズキにも分かったのだろう。私が不機嫌そうな顔で座ったのだった。そして話しかけづらかったのだろう。ミズキは口を開くが声を出さずに途中でふさぐ。
外は先ほどまで晴天以上の快晴で、雲なぞ一つもなかった。だが山付近の転校は変わりやすいらしく、雲は空を覆いだした。一斉に、戦火を巻き起こそうとしているようで、煙が立ち上って天井に留まった。
「嫌な空だな」
ミズキは思いため息をついた。
「せっかく来たのにな」
背後からリョウの声も漏れたように聞こえた。
こんな天気は私も嫌だ。だが私には雲を掻き分け払いのける能力など、持っているはずがない。残念だが、リョウの要望に答えられない。
バスの運転が荒くなったのか、それとも道が悪くなったのか、よくゆれるようになった。右に左に、その度にミズキの肩に私の肩が当たるのであった。
それを我慢しながら、背後から聞こえる楽しそうな会話を耳にしていた。それを邪魔するようにバスは右往左往と動く。
「着いたー」
とりあえず無事に着いてよかった。しかしいくらなんでも何回も来ている所に無事に着くのは当然だ。
そこは昔、私が家族と連れられて来た所だ。思い出と記憶はかすかで、思い出せないほどではないが、残像がぼやけていた。今こうやって辺りを見渡すと、アルバムに残る、今ではすでに色あせた写真のように、当時の景色とは、大きく変わったように思える。
二階建てのログハウスに似たところで受付を済まし、前とは違うコテージに泊まることになっていた。
「ここだー」
コテージに入り、私たちは荷物を投げ出して、冷たく固い床の上に寝転がった。
「疲れたな」
その言葉を発したリョウの言葉から、その後、まったく話がなかった。しかしその沈黙を破る、ミズの言葉があった。
「ねえ。夕飯とかって、どうするの?」
リョウが言う。
「野草でも食べるか」
続いてミズキが。
「コンビニはないかなー」
「そんなわけないでしょ。ほら、立ちなさい。準備するわよ」
「そうだよ。もう日も暮れることだし、早く準備しないと」
やっとの思いで体を起こして、リュックから持ってきたものを出し合った。
「あんた、何もってきてんの」
「ああ、これ。誰かもってこないかなーって」
リョウは冗談にもほどがある、缶切りを持ってきていた。
「まあ、しょうがないわ。とりあえず、どうやって分担する?」
「どうでもいいけど、とりあえずさ、作る人と、焚き木を集める人で分けりゃーいいんじゃねえの」
「やっぱり去年と変わらずか…まあいいわ。じゃ、くじで決めましょ」
そして置いてあったティッシュを四つに切って、その内二つの先端を丸めた。
「ほら、引きなさい。丸まってるやつは作るほうだから」
そしてリョウとミズキとミズは同時に引いた。するとミズキとミズが作る人となった。リョウは私と焚き木を集める人。
何もない仕掛けなのだが、今日は運が味方についているらしい。
そして当番ごとに散って、私たちは林の中に入った。だが湿ってない、よく燃えそうな枝があまりない。いくら探してもないわけだから、すぐに飽きだした。
「ないよー」
「おいおい。蹴るなよ。それ、使えんじゃねえか」
転がっていった枝は、まるでもろい骨のように折れた。
「無理無理。折れてちゃったもん」
そして三十分ほど経ち、私たちは色々と話しながら拾い続けていた。そして話は私の興味に注がれていくのであった。
「ねえ、あんた、彼女いる?」
「あん?いないけど…なんだ急に」
「いや、別に、いるかなって…作りなさいよね、そろそろ」
「別にお前に言われる筋合いはないだろ。ま、いつか作るけど…そういえば、前もこんな話をしなかったか」
確かに前もした。だが、もしかしたらもうルイとの仲のよさを見て、実はすでに付き合っているのでは、と不審になっていたのだった。
しかしここはそのことを悟られないように、とぼけるしかなかった。
「…そうだった?」
「ああ、そうだよ」
「最近、忘れっぽくてさ、ははは…」
そして愛想笑い。
だが次の瞬間、私の耳を疑った。リョウから話しかけてくるなんて、思っても見なかった。
「ところでお前はどうなんだ?聞いてばっかじゃおかしいだろ」
「え、私…は、いるわけないでしょ。バカ」
「何でだよ。もう年頃の女子高校生だろ」
「そんなこと思っていないくせに…」
「どういう意味だ?」
「私のこと…女として見ていないくせに…」
私たちは幼馴染。昔から共に遊び、共に笑い、共に時を過ごした。だがそれは、私たちがただ一緒にいただけに過ぎなかった。相手をどう見ていたかなんて、遊ぶだけにそれ以外のことはいらない。だから私のことをどうせ、女なんかと思ってもいないだろう。
しかしリョウは、不思議そうな顔で言った。
「何言ってんだお前。俺はいつもお前のこと、女だと思ってるぞ。そうじゃないで、何でスカートはいて、リボンして、わざわざ胸膨らましてくる男子なんかいるんだよ」
それはもっともだ。だが、それは私を窮地に追い込んでいた。
「それだけ?」
「え?それ以外、何が…」
すると突如、林の影からミズが現れた。
「あ、いた。ねえ、リョウ君、ちょっと来て。味見でさ、どうかなって」
リョウはこの状況をどうしようかと私を見たり水を見たり迷っている様子だった。
「行けばいいじゃない。私はもう少しここで拾って行くから。まずかったら絞殺ね」
「ああ、分かった。それも持ってってやるよ。じゃ、後は任せた」
リョウは枯れ枝を持って、ミズとコテージのほうへ行った。
私はリョウを見送った。木々をよけ、さらに奥へ奥へと行って、見えなくなると、私は我慢をやめた。
私は女だと思われていない。飾りだけが女で、中身はただの幼馴染。そのことで無神経なリョウが傷つけた私の傷は、マキロンでも、ムヒでも、セメントでも埋められない。マリアナ海溝よりもずっと深い傷が、立った一言の言葉でできた。
私は木に寄りかかり、ため息をついた。
こんなことでいいのか。本当に。リョウを引き止められない自分が情けない。
すぐに泣き止むことはできたが、その時は全部出し切りたかった。すぐに止まると思っていた。それがすべての体に蓄積する重みであって、出さないと垢になると思った。
そよぐ風が涙をなでる。くすぐるようで、気持ちよかった。
そして突風に変わると、私は吹っ切ることができた。
私は枯れ木を持ってキャンプ場に戻ると、そこには一人ミズキがいた。
「おお、戻ったか」
「あれ、二人は?」
「え?波和さんはトイレだって言って行っちゃったけど…そういえば、ずいぶん長いな…あれ、リョウはどうした?」
私は気付いた。腕の力が入らず、持っていた枝は真下にバラバラに落ちた。
そして気付いた時には走り出していた。
「おい、どこ行くんだ」
「リョウを探してくる。ミズキはそのまま作ってて」
「ああ、おい…はぁ…」
私はもと来た道、といっても林の中で道という名の道はないが、木々の間をすり抜けていった。しかし行けども行けども目の前に現れるのは木ばかりで、私の心は飽きるよりも、不安が積もるばかりであった。
空はいよいよ黒い雲が覆い、今にも土砂降りの雨が降りそうであった。それに混ざって本当の土砂も降らないか心配だ。
そしてその心配はすぐに的中した。そのおかげで私は木の下から木の下へと、雨宿りをしながら進むことになった。なるべく雨に当たらない努力はむなしい。結局ぬれてしまうのだから、それだったらいち早く見つけるのを優先したほうがいい。だが人間の本能のようで、思うようにはやめられなかった。それが雨に当たらなくていいという時間で、安心して、今の心境と重なるようになっていた。
雷が鳴り出した。それがきっかけで、雨も堰を切ったようにさらに強くなった。
あれから何分経ったか。それよりも早く見つけたいという一心だった。
ついには林を突っ切って、小さな空いた土地に行き着いた。短草しか生えていない、何もないところだった。そして小さな洞穴を見つけた。小さい丘の崖の下にそれはあった。
私はそこに向かった。雨宿りもしたかったし、しかし一番はそこにいるという確信があった。特に根拠のないから元気と一緒で、いつもの勘であった。
中は暗かった。寒い空気が肌に感じる。その空気は人のにおいを乗せてきた。
目を凝らすと見えるようで見えない、うっすらとゆらゆらと見える人影らしいもの。
雷が光って、それが誰だか分かった。
「…リョウ」
雷が私の背後に落ちた。それはある程度離れていたものの、音と光すさまじかった。
ミズは壁に寄りかかって寝ているリョウのそばにいた。私の声ではっとリョウの顔から遠ざかり、すぐさまこちらを見た。
私はリョウに近づいた。
「どうしたの?」
「いや…その…」
「あんたには聞いてない」
私はしゃがみ、リョウの顔をさすった。
リョウの顔には泥が塗られていた。そして気付いたようで、また、痛みに耐え忍んでいた。
「どうしたの、リョウ」
「…ああ、どうしたんだ、ここまで…ッ」
リョウが足を抑えているので分かった。ただ足をくじいたようだ。
私は目つきでミズを退けさせ、そしてリョウの肩を持とうとした。
「立てる?」
「ちょっと…無理かもな…」
「脱ぐ?」
「いや。ちょっと、このまま放っといてくれ」
今はもう、リョウの言った言葉を忘れている。目の前で苦しんでいるリョウを見てはいられない。二つの気持ちが一つに押し込められていた。
「でも、ここにいつまでもいるには…」
「そうだけどよ…お前、ずぶ濡れじゃないか。大丈夫か。これ、着ろ」
「いいよ、別に…」
「ほら、着ろ」
リョウは上着を脱いでいた。
私はそれをほぼ押し付けられた感じで受け取ったが、内心嬉しかった。
「悪いわね…立てる?ほら、私の肩につかまって」
「だから無理だって」
「後で無理するより今無理して休んだほうがいいって。ほら、さ」
リョウは重かった。
昔、といっても小学生の頃だが、リョウを持ち上げたことがある。その時はまだ、私のほうが力が強く、リョウを持ち上げるぐらい、たやすいものだった。だが今になって、リョウの成長が感じられる。それに、こんなに近くにいたのはいつ振りだろうか。電車の中での近さとは違う、妙な感じのものだ。
「あ…やんだ」
私たちが洞穴から出ようとすると、それを見計らって雨はやんだ。そして雲は掃除機で吸われるように、すぐにきれいに一掃された。
「ほら、太陽も出てきた」
機を見て出てきたように、太陽は笑っていた。
私はリョウを担ぎながら、ゆっくり、キャンプ場へ戻った。自分の足が棒になっているのにも気付かずに、無我夢中でリョウをコテージまで運んでいった。疲れきって、顔もやつれ、まるで山姥のような顔になっているのにも気付かずに。
その後ろからミズがついてくる。ひどく眉間にしわを寄せている。疲れた顔ではなく、不安な顔でもなく、嫌なものを見るような目でもなく、ただ今の状況を飲まないように気を使っていた。
そして長い時間をかけて、やっとの思いでコテージの前まで着いた。そこで順序良く、コテージからミズキが出てきた。
「どうした、お前ら」
ミズキは驚いていた。もしそうでなければ、ミズキの人間性を疑う。ぼろぼろの三人を目前にして、しかもその内一人が足をやられて、なおかつこないのはおかしい。
「後は俺が…アズサは着替えて休めよ」
ミズキにリョウを任せ、二人がコテージに入ると、次いで私もコテージに入った。
一階の部屋で横になるリョウを見てから、私はロフト的存在の二階に上がった。そこは六畳ほどしかないが、寝転がれる。
寝転がり、私は足を伸ばせるだけ伸ばした。そして鼻でリョウの上着をかいだ。少し汗臭かったが、昔からよく知っているリョウの匂いだそれを改めて知って、懐かしみながら何とか落ち着くことができた。
ミズも二階に来た。
ミズは私の横に座り、目を合わせようとしない。だがミズは唐突に言った。
「ごめん…」
しかし私は許せなかった。バスのことといい、リョウをだまして連れて行ったといい、しかも二人きりになって何をしようとしたのか分からない。
私はあの時、ミズが何をしようか分かっていた。あの顔の近さ。寝ている間に、リョウにキスをしようとしていた。間違いない。絶対そうだ。
私はミズの言葉を聞こうとしなかった。
「ごめん…」
もう一度ミズは言う。
だが私は耳をふさいでいる。
「私…何やっていたのか分からない。でも、これだけは言える。あれは誤解なの。違うの。ただ、迷って、それで、さまよって、雨が降ってきて、私が崖落ちそうになって、それでリョウ君は、私の身代わりになって、落ちて、足をくじいて、洞穴があったからそこにいた…それだけなの…信じて…」
何やっていたのか。それが気になる。あの顔を近づけたときの事を言っているのだろうか。それなら私を挑発しているに過ぎない。
ミズはうつむいたまま、動こうとしなかった。
私もミズのことを一瞬たりとも見ようとは思わなかった。目を合わせたところで、水がどんな反応をするのが目に見えている。
私はいつまでもこんなところにいたくはなかった。同じ部屋で、同じ空気を吸っているのが息苦しかった。
荷物から着替えを取り出し着替えた。その際、ちらっと横目でミズを見たが、まだうつむいたままだった。何を考えているのだろうか。自分の罪を考えて欲しいと思う。
私はその場にミズを残して、早く階段を駆け下りた。
「どうなの。リョウは」
リョウはまだ寝転がっていた。時々うめき声を上げて、その声が私にも克明に伝わってくる。
「アズサか。いや、ちょっと、大変なことになってきてな」
ミズキはリョウの横に座り、刻に眉間にしわを寄せていた。時々乾いたタオルを水にぬらして額に乗せていた。
リョウの顔を覗くと、顔が赤い。そして苦しそうだ。
「まさか…熱?」
「ああ。そうみたいだな…きっと、痛みと疲れと雨にやられたんだろうな」
そういえばリョウを運ぶ時、リョウの体が火照っているように思えた。あれは思い違いではなく、本当に熱があったからなのか。
「大丈夫なの?」
「ちょっと熱がが高いようだけど、死ぬわけじゃないし、大丈夫だろう」
「でも…苦しそう」
いくらなんでも、衰弱しきっているように思えた。しきりに小刻みに震えていた。
「着替えっか。な」
ミズキはリョウのバッグから着替えを取り出し、リョウの体を起こし、上半身の着ているものを脱がせた。
私はそこに居合わせていた。だが、別に恥ずかしくなるような光景には見えなかった。
ミズキは丁寧に体を拭き、服を着させて、再びリョウを寝かせた。
「あ、そうだ…カレーどうなってかな…やばいだろうな」
こんなにもミズキが頼もしく見えた日はない。私の目には家事ができる家庭ママに見えた。
「私が、リョウ見てるよ」
「…そうか?頼むよ」
ミズキはそこを去った。扉が閉まる音が聞こえた。
音という音がなくなり、室内は閑散となった。リョウの激しい息継ぎが、部屋を熱くしている。宙を舞うその空気は空中分解されているように中和され、この部屋に馴染む。
リョウと二人きりになった。その事実を私は受け止めていた。しかし上にミズがいることを忘れていた。
リョウはいたって苦しみ、一向によくなる形勢ではない。
こんな状況でありながら、私は落ち着いていた。リョウの額に触れ、確かに熱いのを確認する。自分でもこんな状況に置かれて穏やかな気持ちでいられたのが不思議だった。そういう気持ちでリョウを見つめていると、
そしていつしかは、ミズと同じ過ちを犯してしまうところまで来ていた。
ちょっとだけならいいだろう。今だけなら。
そういう気持ちが後押しして、私を高揚させる。頬も紅潮し、体もかっと熱くなる。体中のエネルギーが放出されようとしていた。
リョウとの距離が近くなってきた。胸の鼓動も高まり、息もリョウと交差させていることで、より一層私を興奮へ導いた。
しかし突然、私の頭の中で、大きな雷が落ちた。あの、ミズとリョウの一場面が脳裏を横切ったのだった。一瞬だったが、それは明確に見えた。二人の姿が、くっきりはっきりと。そしてミズがこのコテージ内にいることを思い出した。
私は躊躇した。だがそのまま、リョウの額に私の額を当てた。
あそこでやめて、体を起こした時、私は後悔をするに違いないと思った。なぜなら、すぐ上で私たちをじっと望んでいたところを想像したからだ。私が怒った行為に対して、私だけが許される行為なんて、それすなわち、自己中心的な行為である。
それだけはどうしても避けたかった。さもないと私のプライドが傷ついていた。
しかし自分の罪を犯さなかったことに後悔をも感じられた。不思議だった。これは私が決めたことなのだが。
私はそっとリョウの額にかかる前髪を取り払った。
リョウは変わらず苦しそうに咳き込み続ける。
私はできればリョウの代わりにでもなってやりたいと思った。逆の立場になって、リョウに看病されたいとも思った。
蝉の鳴き声が聞こえる。クーラーが効いている音は無情にかき消されていた。強い日差しはそろそろ消えてなくなる寸前であった。赤い血は乾こうとしている。
こんなはずではなかった。こんな予定になることはなかった。ミズが林から現れたりしなかったし、雨も降らなかったし、リョウもこんな熱を出すはずはなかった。むしろ今、湖のほとりで二人、燃え尽きるまで夕焼けを見ているところだった。調子も予定も計画も皆狂い、ぶち壊しだ。
何もこれもすべて、ミズのすべてだ。きっとそうだ。バスの中から狂わされてきた。いや、電車に乗る前からだ。あの時からミズが邪魔に入ってきた。私の針を壊した。
許さない。絶対。協力するって言ったのに。
怒りをこみ上げ、そのボールテー時はピークを迎えて叫ばんばかりいると、リョウは苦しみあえぎながら言った。
「ハァ、ハァ…アズサ…そこに…いるか…」
「いるよ。ほら、ここに」
まるでご臨終寸前の入院者と接しているかのように、私は気付かぬうちに両の手を握っていた。
「そうか…すまんな…こんな、ことに、なっちゃって…ゲホッ…」
「大丈夫だよ。今度また行けばいいじゃん。今日だけだよ。たまたまこうなったのは。きっと。明日になったら、きっと、元気になってるって」
「…はは…はぁ、はぁ…ありがとな…色々と…」
「いいよ。そんなこと。大丈夫だって」
「本当に…すまんな…」
「もう、謝らないで」
私は泣きそうになりながら、必死に耐えていた。その苦しむリョウと共に、その上に感謝ではない苦しみの声が上乗せして、何とも聴き難かった。込み上げてくる感情を制圧したくて、もがいていた。
沈黙が投入された。絶対平穏ではない未知の産物が、見えない壁を壊そうとしている。ハンマーで叩く音が鳴るたびに、石のかけらがぽろぽろと落ちる。もうひびができて、今にもその姿が見えそうだ。あ、そこに、いる。見えそうだ。聞こえる。感じる。
すると私の耳に、それとは別に、とんとんという音が入ってきた。ゆっくりと、体中にしみこむような音。その一つ一つの音が不気味にこの空間、空気が笑っているように思えた。
ミズは私の背後を通り過ぎ、ドアを閉めた。
きっとミズキを手伝いに行ったのだろう。
これで実質、二人きりになった。リョウと、二人だけに、だ。正直な気持ち、今、ミズのあの時の気持ちが分からないでもなかったような気がする。そして欲というものがいつの間にか私を飲み込もうとしている。驚いた。今、素直な気持ちが外見に表れている。
私はもう、自分のことが分からなくなっていた。自分が何をしたいのかが分からない。欲に任せるままにしたら、私は間違いなく後悔する。だがここでやめても、後悔する。この二者択一が私を苦しめ、辛く陥れている元凶だった。
沈黙は長い。『沈黙の春』がもう訪れてしまったか。外で鳴いていた虫の声も聞こえなくなっていた。差し込む日も刻々と過ぎていく時間と比例して、開いた口がふさがっていくようだった。
気づいた時、私の隣にミズキがいた。何か話していたようだが、私には聞こえなかった。
「…にしても、だいぶよくなったな」
もっとリョウと二人だけでいる時間が欲しかった。もっとリョウを眺める時間が欲しかった。だがミズキが来て、やっと我に返れた。
「アズサの看病の賜物かもな」
ミズキは微笑む。
ミズキのおかげでこの状況を脱することができた。私は逆に感謝せねばならない。
「そうだアズサ。ちょっと手伝ってくれないか。波和さんと二人でやるのは大変でさ。頼むよ」
「でも、リョウが…」
心のどこかで、まだリョウに対する執着がある。もう取り払ったと油断したら、風邪を引いてしまったようだ。
「大丈夫だって。寝てるし、様態も前よりいいし、このまま寝かせりゃ明日までには終わるって」
「…そう。なら」
「おお。ありがと」
私はミズキの背後を見つめて歩き、扉を閉めるまで、振り返ろうとはしなかった。そのコテージを出た瞬間、足元がフラフラとなった。しびれたわけではない。
風が私に強く当たっているような気がした。
リョウにももちろんカレーを食べさせて、いつもと違って今夜は何もせず、すぐに寝ることにした。いつもだったら川の字で仲良く寝れたが、今回はミズの参加により、男は下の階で、女は上の階で寝ることになっている。
そして今夜、私は誰もが寝静まった雰囲気の中で、一人目覚めた。窓を通して、外の池にぼんやりと映る丸い光の穴が精妙な工芸品に見えて、何とも心が和んだ。届きそうな距離だ。少し行けば、そこにある。
その光が部屋を照らしている。そのせいで、暗い部屋の隅もはっきりと分かる。
そして横を見ると、布団に入っていたはずのミズがいなかった。
私は起きた。体は軽く感じられた。
すぐに窓を開け、ベランダのようなちょっとした場所から周りを見渡した。私の頭を電流が走ったような感覚で、外だと感じたからだ。
私はまた中に入り、窓を閉め、音を立てないように階段を駆け下りた。ミズキの頭上を通り過ぎ、リョウのぐっすりとした健やかな表情を見て通り、靴を履いて外に出た。
とりあえず、どこへ行けばいいのかということが分からなかった私だが、思い当たるところに行くことにした。森林の中、洞窟の中、丘の上、給水場。どこにもいない。
私は走った。汗が出てくるのを感じる。これはもしかしたら事件なのかもしれない。
走っていると、木々の合間から、光が一点に集まる場所が見えた。開けた場所だった。広い水溜りに、水面にゆらめく月の光が幻想的で、まるでそこから違う世界に行けそうな気がした。
そして今、そこに入ろうとしている人影が一つ。光の反射ではっきりと顔が分かった。
「ミズ!!」
ミズは水の底へと向かって歩いていく。もう膝の辺りまで浸かっていた。私の声も届かないのか、ミズは月明かりの下に今にも沈もうとしている。
私は駆け出した。靴をすぐ脱ぎ、裸足でごつごつとした石の上を走る。血が出てきたのか、体に一歩走る毎に痛みが染み付く。足が水に触れた瞬間、体が震撼したように思えた。地球が寒くて震えたように、それが心身と体に染み渡る。膝辺りまで浸かると、これ以上は入れないような気がした。ここから先が異世界への扉に思えた。
もう足が浸かるところまでないというところで、ミズの腕をつかむことができた。
「ミズ。どうしたの…いきなり…驚いたよ」
まるでロボットのように、ミズは足を止めようとしなかった。
「どうしたの。こんなところにいると、風引いちゃうよ。ねえ、ミズったら」
ミズの腕をぐいと引いた。だがミズは動じない。
今気付いたことだが、ミズの腕は氷のように冷たかった。そしていくら力を出そうとも、岩のように固く、冷えた鉄のように硬直していて、動かなかった。
そして私は嘘をつくことしかできなかった。
「もう私、あのこと…気にしてないから…」
「…ウソ」
ミズはその水面上で、垂直に水平面の上に一滴の涙を着地させた。
私は何もすることができなかった。私は嘘をついた。こんな時、この状況でミズのことを考えると、このことしかこの状況の離脱法が見当たらなかった。いや、凝視せざるをえなかった。
ミズは鬱憤をためていて、たった今、吐き出そうとしていた。
「…何、いきなり。恩着せがましくして…あんたはただやりたいだけじゃない…何よ、私ばっかり…何が悪いって言うの?私があの時、何をした?なのにあんたは、ものすごい形相で私を見た。目つきだけで私を制圧しようとした。何を止めようとしたの?何?何の権限があって、私を束縛しようとするの?」
この豹変振りに驚いたのは私だけだった。唖然だった。ミズがこんなに話し出すのはめったにないことだし、それに、怒ったところも初めて見た。いつもおとなしい彼女が、今目の前で変化した違う生き物になっているような気さえさせた。
ミズはとうとう泣き出した。目を真っ赤にして、水面の明かりを見つめていた。
私はどうしようかと考える間もなく、すぐにミズを引っ張って、陸に上がることができた。そのときのミズの腕の力は、さほど強くはなかった。
陸に上がるなり、ミズは私の手を振りほどいた。
「何よ…私がいないほうがいいんでしょ…」
私は知らずに手を出していた。
「バカ。何言ってんのよ。そんなわけないじゃない」
ミズは頬を押さえ、叩かれたまま、動かなかった。涙だけがつつっと頬を統べるように流れた。
「死んでいい人間なんて…この世にいない…」
反応しないまま、ミズはうつむいた。
私は座り、湖に映る美しい幻想を望むことにした。たまにはこんなこともいい。誰もいない静かな真夜中に、美しい景色を見るのは初めてたっだ。過剰というほど興奮していた心が落ち着き、今まで貯まっていた疲れもどっと出た。
続いて隣にミズも座ってきた。座った時に見えた顔は、泣いてできた枯れた細い道筋がいくつもできていた。
私たちは何もせず、何言わずに座っていた。
まだ夜は長い。湖の底に沈む宝は相変わらずまぶしいほどの光で包まれていた。
ミズの様子を見て、私は機を見て話し始めた。
「正直には言ってね…あの時…キスしようとしたの?リョウが寝ている隙にさ。女の子だから、しょうがないよね」
ミズはすでに泣き終えていたが、のどが渇いているのか、声さえ聞こえなかった。
「…がう」
「え?何?何て言ったの?」
ミズは気立っている様子ではなかった。だが強く、深い声で言った。
「…違う」
私はたじろいだが、そのミズの言葉の意味を知りたかった。
「え?何が」
「私、そんな汚い手を使わない」
ミズは私を睨み、私を圧倒させた。そしてその行動に気づいたのか、はっとして、またゆっくりと前を見た。ミズは険しい表情になりながらも、続ける。
「私、あの時、本当にリョウ君のことが心配で、私のために怪我した足が痛そうで…しかも熱も出てきて、どのくらいかなって、あなたと同じように額に当てようとしただけなの…でも…」
怪我した足はミズのために。しかも熱も出てきた。あなたと同じように額に当てようとした。
私は恥ずかしかった。それにやはりミズが憎く思えた。それはリョウがどんな形でも、ミズのために尽くしたことがうらやましかった。熱がすでにあったことっみずは気づいていた。私はあの時、額に当てたのを見られていた。しかも本体の意味を沿っての行動のあてつけだが。
ミズはいまだ険しい表情だった。しかし、その表情の裏側は、こんな状況でもリョウのことを心配していると思えた。
「でも、私…キスしようとしたのには間違いない。本当は欲しかった。リョウ君が。だから、あなたにどう思われようが、仕方がない。裏切り者だって、嘘つきて言われたって、私は構わない。だって…私…リョウ君のことが、好きなんだもん」
突然の告白。私は驚いた。口の渇きは相変わらずで、今日はどうも渇く見込みはない。
深々と時は流れ、だがその空間だけは止まっているように思われた。木々に囲まれた、よくある一風景空間に、私たちは特別の膜で隔絶された異空間にいた。
ミズの口調はだんだん重くなる。
「その気持ちだけは変わらない。あなたには悪いけど、ね。私、正直、仲介役を頼まれた時、私は困った。どうしようかと思った。でも、あなたの目は必死だった。本当に好きだと感じた。その時はいいと思った。あなたには勝てないと悟った。でも、私、その日、後で家に帰って考えた。私は好きだった。リョウ君のこと。勝てない戦でも、私はやろうと思った。だって…やっぱり好きなんだもん」
ミズは私の顔を見ようとしない。私もミズの顔を見ることができなかった。これまで話した時、これから話す時の顔が、どんな顔になるか、見たくはなかった。
「でもね、一つだけ、あなたに謝りたいことがあるの。私がリョウ君を呼びに行った時、あれ、味見の件で呼びに行ったんじゃないの。もう分かってたと思うけど…でも、これはフェアプレーじゃないって、後で後悔した。それで歩いて、さまよって、どうしようかと考えてたら、雨が降ってきて、地面がゆるかったから、私がちょっとした崖から落ちそうになった時、リョウ君が身代わりになって、落ちて、足をひねっちゃって、あそこに至ったの。しかも疲れと怪我に体力奪われたんだと思う…熱も出てきちゃって、でも、これだけは話したかった。ごめんって。こんなことになっちゃったって。でも、リョウ君ね、微笑んで、別にしょうがないよ、て。私が勝手に連れ出して、こうなっちゃって、もうどうしていいか分からなかくて…でも、嬉しかった…」
あれ。何でだろう。こんな話で、涙が出てくる。ミズにとってのいい話で、私にとっての悪い話なのに、人のことなのに、私、何泣いているのだろう。
溢れ出る涙に抵抗はできず、肩から伸びる袖で涙を拭く。
私、何がしたいのだろう。リョウの前だと何もできない自分に、何ができるのだろう。ミズにさえ先に越されようとして、私は何をしているのだろう。気持ちだけがうわべで、勇気が持てない自分が情けない。私は、何をすればいいのか。私は無力だ。結局、人に先を越されて、自分は何もできない。勉強だけができても、違うことに考えようともしなければ、考える方法が分からない。いくら頭がよくたって、いくら待遇がいい人間だって、その時のチャンスやピンチに対応できないなんて、ゴミ同然だ。私もそのゴミの一種だ。
無垢な気持ちの持ち主であるミズは優等生だった。ひねくれ者の誰かとは違う。
その私が言えた言葉はこれだった。
「…帰ろう」
水面はあくびをして見せ、風は強く当たり、風は嘲笑し、地面は罵倒し、森林は蔑。挙句の果てに、空はそっぽを向いて、無関心だった。
吸い込む空気は私の肺を、大きな穴をすっぽりと空けたように、貫通していた。外にいるのが不思議だった。裸の王様が歩いているのだから。
私は逆風に耐えながらも、小走りでコテージに戻った。
朝起きたら、まだミズは隣にいなかった。私はもしやとベランダに出て外を見てみた。しかし湖周辺に人だかりなどはなかった。そのことで私は一時の安心感が持てた。
朝の湖のほとりに薄い霧がかかっている。そしてそれを夢幻のように一役演出をしているのが太陽。そのマイナスイオンの効果なのか、空気は清々しく思えた。だがベランダは寒かった。まだ夏の真っ盛りなのだが、私は上着を着ることにした。
一階に降り、そこには起きているリョウがいた。他には誰もいない。
「おはよう」
とりあえず挨拶を交わして、ここに誰もいないことが疑問に思った。
「他の人は?」
「朝ごはん、作りに行った」
「ミズも?」
「そう」
「それで大丈夫?熱は引いた?」
「ああ。だいぶよくなったよ」
少しの会話だった。その会話は久しぶりに思えた。何年も、何十年も、前世に一度だけ会って話したことがあるような、それぐらい久しぶりに思えた。
「それよりさ、お前、早く着替えてこいよ」
「うん。そうする」
私はまた階段を上がり、二階部屋に戻った。
その後、朝食を作るのに手伝いに行ったが、もうすでにできていたところであった。その時のミズはなるべく周りに悟られないためなのか、いつもと同じように接した。だがその行動は私にとって痛々しい光景であった。
キャンプは一泊二日で、結局リョウは何もしなかった。逆に災難だったであろう。遊びの矢先に起こった災害に見舞われたのだ。楽しいことなんてなかっただろう。
そして私にも楽しいことなんてなかった。進展はなく、ただ滞るだけだった。だがリョウが元気になってくれたことが、私にとっての幸せだった。
今日の朝、リョウが元気そうなのを見て、実は足はふらつくほど疲れていた。よく寝たはずだったが、疲労はたまっていた。今までリョウの怪我などが気がかりで、私の心は緊張状態が続いていたのだった。そのおかげで、電車の中も、バスの中も、私は寝たきりだった。その時、私は知らずに私のやりたかったことを実演していた。
駅で別れ、家に帰ろうとしたその時、ミズは私を誘った。リョウとミズキも一緒に行くと言ったが、ミズは断固としてそれを許さず、先にリョウとミズキを帰した。
それで私は何事かと思った。ミズはリョウが好きなだけだということで、それだけを知っている私は十分な事物だと思っていた。
そしてあの、私がミズに要請を求めた喫茶店に入った。そこで、私たちは座るなり、思いも寄らない言葉をミズは深刻そうに吹っかけるのであった。
「お願い…私に…キャンプの…記憶を忘れさせて…」
ミズは泣いて私にすがりつくような一心で、必死さが感じられた。
それは私に大打撃を与えた。ショックだった。ついにミズがイカれたのだと思った。
だがそれがなぜ打撃を与えたのかというと、本当にそのミズの必死な姿が思わせぶりな態度にも思えなかったからだ。
「お願い…お願い…」
ミズは泣いて顔をうずめるだけで、私はどうしていいか分からず、ただその光景を呆然と見ているだけだった。
「お願い…お願い…」
ミズはまだ言い続ける。
だが、だんだん私はこのことをまんざらでもなく思えてきた。実は私はそんな能力があるのか。そう思わせた。とりあえず、周りの人も店員も、皆注目している。今までこんなに人から見られたことはない。それが不快で、また、嫌に思えた。
「分かったから。もう、泣かないで」
なだめるように問いかけたが、それは届いていないようだった。
「泣かないで。ほら、顔を上げて…私のほうが悲しくなってくるよ」
私はとりあえずミズを連れ出した。何も頼んでいなかったので、ただ水だけを飲みに来た、嫌な客にしか思われなかっただろう。
人気のない場所までミズの腕を引っ張り続け、踏切を越え、商店街から外れた野球場まで来た。そこのバックネット裏の五段でできた客席の中段に座り、またそこでなだめた。
「ほら、もう泣かないでよ。本当に…」
ミズはここまで来る時に少しずつ落ち着きを取り戻しつつあったので、もうなだめて泣き止ませることぐらい、容易なことだった。
そしてその落ち着きを取り戻したミズはやっとの思いで口を開いた。
「…うん…もう、泣かない」
そういうことで、私は色々と質問攻めに合わせた。それも泣きたくなるぐらいの。泣かないと言った以上、ミズは泣くわけにはいかず、ただ質問に答えるだけだった。だが質問攻めと言っても、大したことはない。生まれた疑問の解消のためだ。
「記憶を消すって…どういうこと?」
「ほら…分かってない…」
「いいから、答えなさい。どういうことなの?」
「それは…言いにくいけど、あなたはそういう能力があるっていうこと…これ以上、話せない」
「何でよ」
「それは…言えない。絶対…だめだから。いつか、知るときが来る…」
こういう会話を繰り返していくうちに、ミズの言う言葉の意味が道理に合わないことが分かった。なぜ私が知らないことをミズが知っているのか。それがあまりに不自然で、不思議でたまらなかった。
「何で言えないの?それに、何で私のことを知っているような素振りなの?知るときが来るって、どういうこと?」
「それは…」
ミズは口を閉じ、開ける気配は見られなかった。
すべての質問に答えて欲しかったが、一つの質問でいいから答えて欲しい。そうすればどうにかなる、一歩進めると思った。どう進めるのかは予想も想像さえもできなかったが、私が何なのか、ということが分かるような気がした。
夕陽が落ちようとしている。そして遠くでカラスが鳴いている。
「それは…私が…私は…これは…だめなの。言っちゃ…」
「え…何で?」
もう聞いてはいけないような領域に入っている。だが私はそこに踏み込もうとしている。まだ見もしない世界を見たくなるような、そんな童心だった。入っては二度と戻れないような気もした。だが現実に、そんなことは普通、考えられない。だって現実なんて、単純で同じような日々の繰り返しだもの。
「これは…これは…そう。禁制。私にとっての、禁制…要目。そう、禁制要目。それをしちゃいけないの」
ミズはようやく答えることができたことに満足していた。
それとは真逆の位置にいたのが私だった。こんなの答えだとは認めたくはない。
「それじゃ、答えに…」
「とりあえず私の記憶を消してくれればいいわけ。あなたのために言ってるの。まあ、私のためでもあるけど…分かった?じゃあね」
ミズは疾風のごとく去った。それもあまりの早さだったので、言葉も言いかけてしまい、しかも相手に圧倒されたかのように一方的に聞いていた。
残された風に、私の背中を押され、そして震撼した。今まで長椅子のふちを強く手で握っていて、体の震えを制圧していた。だが椅子を揺るがしていて、その揺らぎ勝ちを揺らしているように感じられた。会話をしているうちは気付かなかったが、未知なる世界のまだ見知らぬ地に踏み入ったようで恐ろしかった。心のひびが今にも割れそうで、私のどうしようもない感情が、今か今かと鳩時計の鳩が飛び出てくるのを待っているかのように、その時期を見計らっていた。世界が渦を巻いて回りだして、各地の火山が一斉に噴いたような気がした。まだ明るかったが、大きな空が落ちてくる恐怖感でどん底という言葉が私を襲った。
それにまだ疑問は残る。質問したこともそうだが、第一、記憶の消し方なんて、どうやるのか。そんなこと、私は知らない。念じていればいいのか。ミズの頭を叩くような方法で根本的に根こそぎなくすのか。それともまったく予想できないような方法なのか。それよりもそんなことができるのか。
ミズは途端に見えなくなっていた。
私はどうしようかという咎めもなく、ただ風が吹いてカラスが鳴いたから帰ることにした。その残らない足跡は、私の生きる価値を表しているようであった。
ただ念じた。それだけだ。他にする方法が分からなく、それしかやっていない。何か他の方法はないかと、ミズの夢幻世界に引き込まれていた。それでそのミズに言われた日は眠れずに一晩考えていた。
夏休みという時間はむやみに早く、人の都合など考えない。宿題をする時間もこちら側が追うばかりで、止まってくれやしない。時間の特急列車に間違って迷い乗車をしてしまった。
そしてもう夏休みは終焉の光を迎え始め、間に合いそうにない宿題はしょうがないかとあきらめかけていたが、ついにあきらめた。
目の前に迫る祭りの日は数日後となった。そしてリョウとミズキに呼びかけのメールを送った。私はただ返信を待った。
そして帰ってきたメールは二件。ミズキは行けるというが、リョウはもしかしたら用事で行けなくなるというメールが来た。
私は何でというメールを送るのをためらった。それはリョウがそういうメールを送った理由が分かったからであった。今まで一緒に末永く付き合ってきて分かったことは、リョウは少々ひねくれていて、とにかく変わっていて、誰に対してでも優しく接するということであった。そしてこのメールの解釈というのが、未来のことは分からないということである。これから変わるかもしれない予定を今決める必要はないということである。だから大体こういう時、ほぼ間違いなく行けるという答えである。だから私は安心してその日が来るのを待っていられた。
そしてその前夜、私は二人に待ち合わせと集合時刻のメールを打ち、ベッドに潜り込むと、ピクニック前夜の小学生のように眠れないということはなく、すぐに眠りに落ちた。
次の日、言い換えれば祭りの日の朝、私は時間になるまで部屋で音楽でも聴いて暇をもてあそんでいた。こういう時間は異様に長い。逆にもてあそばれているような気がしたが、勉強する気は起こらなかった。
そろそろ家を出ようと思い、家を出る前にシャワーを浴び、浴衣を自分で着付けし、少しおしゃれでもしてから下駄を履いて玄関の扉を開けた。
集合場所には早くミズキが来ていた。もうおやつの時間は過ぎていて、太陽の光も変わろうとしていた。
「あ…早いわね」
私は少し照れてしまった。着物姿を見られるのはあまり好かない。普段着ない上に、見られた時、人からじろじろと見られるあの注目が嫌だ。だがなぜ着ているのかと自分で問いかけると、赤面をしてしまう。
「おお…きれいだな」
ミズキの目にどう映ったか分からないが、やはり見られることは好きではない。いくら幼馴染であっても、やはり嫌だ。そしてまたなぜ着ているのかと自分で問いかけてしまった。
「それで…リョウは?」
「さあ…まだ来てねえけど…」
「仕方ないわね…」
私は仕方なく携帯を取り出した。開いてみると、メールが一件受信されていた。それはリョウからだった。しかも受信の時刻は昨晩だった。私の寝た後に届いたメールは、今ここで携帯を開けるまで、知られなかった。よくよく思い出してみれば、今ここで、今日は初めて開けた。
そのメールを見てみると、なんとリョウは今日の祭りには行けないというのだ。驚きの一言でしか言い表せない。
「どうした?」
ミズキは気付いていないようだった。
「リョウは…来ないって」
「そうか…」
私たちはしばらく何も言わずにその場に留まっていた。どうすればいい。このままだと二人だけの、デートのようなものになってしまう。私はそんなつもりは更々ない。ここで別れてもいいと思っていたが、私から誘ったものだし。だけどきっとミズキも分かってくれるはず。着物の着付け、大変だったな。
私が渋そうに帰ろうと言おうとしたその時、ミズキは言った。
「じゃ、しょうがねえから…行くか」
少し恥ずかしそうにミズキは言う。勇気を振り絞った証なのだろうか。私とはまったく逆の考えを持っていたようだ。
私もその一言で心が揺らいだ。行かないという意思から行ってもいいかなと思い始めたのだった。
「じゃ…行く?」
「ああ…」
恥ずかしかった。二人で並んで歩くのが。話し出そうとしても、上手くいかない。何だろう、この気持ち。隣にいるのがリョウではないのに、ミズキなのに、胸の鼓動が速くなっていた。私は今、確実にミズキを意識している。なぜだろうか。
その理由は単純で明快。だが私はそれを認めたくない。今、私はリョウが好きなのだ。絶対そうなのだ。間違いないことなのだ。それだけは誰にも曲げられない。絶対そうだ。間違いない。そう念じながら歩いていた。
ミズキもこの空気が嫌なのか、私のほうを見るなりすぐに背けてしまう。だが唐突に話し出すのは、やはりミズキだった。
「そういや、夏休みの宿題、終わったか?」
「まだ…」
「俺もまだなんだけど、数学が難しくてできねえんだよ。そういや、今度のテスト範囲、どこからどこまで…」
明らかにあがいているようにしか見えない。ただもがいて、水面から顔を出そうと必死だ。しかしそれは私にとってどうこうと変えるものはない。むしろ私の代わりに助かろうという意志さえ感じられた。
会話は続くが一方的で、私が受身になっていた。どうでもいい世間話はなぜ長く続くのかといえば、その後に残る沈黙が恐くてたまらないのだろう。
私から話すことはなかった。口ずさみ、ああ、そうだね、うんなどを繰り返していた。
神社までの道は長い。去年の十倍はあるのではないか。着物が重く感じられる。下駄が足に大きく負担がかかる。平坦な道が急な坂に変わり、頂上が私を見下ろしている。そしてそれが目の前に立ちはだかるようで、越えるのは難儀に思えた。
しばらく汗をかきながら歩を進めていると、にぎやかな音と声が聞こえてきた。そして視覚的にも明るく愉快な演奏を奏でているのが見えた。みこしを担ぐ騒ぎがこの空気を一気に取り替えた。毎年見る同じような光景なのだが、今年はより一層映えて見えた。目に映る不思議な光景は、輝きを放つ妖精たちが、あっちへこっちへ飛び交い遊んでいるように見えた。満ちる輝きが千の星のようにも見える。夕方の夜景というのがふさわしい。
それに近づくと、やはり歩を早めてしまう。今まで存在していた空気よりも先に、反射的に、決まった動作のように体が動く。
「おい、待てよ」
ミズキの声は聞こえず、にぎやかな人声にかき消されていた。陽気な笛や太鼓の音が明るい空間を作り出している。現実的な明るい光景と幽玄で爽快な光景が交差して、夜警よりも美しい光景が広がっている。
私は夢中に祭りに飛び込んだ。
屋台の間を歩く。ミズキはその後をついてくる。そして並ぶと、何を食べようかと問いだす。だが私はまず一周、この祭りの概要を見てみたいと思っていた。だがミズキはそんなことに気をとめず、すぐそこのカキ氷を買った。
「お前は買わないのか?」
ミズキは無神経に突発的に言った。
「まだ、いい」
歩けば歩くほど、見えるのは人、人、人。まるでどこかで生産されて流出されてきているのか、その多さには毎年驚かされる。ここに何人の人がいるのか。もしかしたらここに日本の人口の半分がいるのではないかと。だがそんなことはない。ここにいるのはごく一部の人間の集団である。市内とせいぜい隣市から流れ来る人たちだろう。具体的に表した数字やデータは何一つとしてないが、ここにいるのはほんのごく一部の人間の集団なのだろう。
私は世界と比を比べていた。世界の人口が六十億で、ここにはごく一部。だが私はその六十億という数字がよく分からなかった。
あらゆる色を重ねた提燈は前から後ろから、幾度歩いても減る傾向はなく、逆に増えていた。
この祭りは市内の中では大きいほうだが、そこまで大きくはない。神社の周辺と神社の敷地内で行われているからだ。上から見ればきれいな四角形に見える。
私たちは一旦、神殿の前まで来た。ここにはあまり人だかりもない。この神殿の前で屋台は終わりで、振り返ると、たくさんの人だかりが見えた。この中を割ってここまで来たのだなと思うと、何だか複雑な気持ちにならざるを得なかった。
「どうする。戻るか?」
ミズキはどうしようもなさそうな顔で聞いた。
「うん。そうしよっか」
私も何かを買わねばと思った。それこそ無駄遣いに思えるが、それはムードとこの空気に溶け込むことが大事だと思った。
ここにいる自分が他の人とかけ離れている存在で、私が一人取り残されているような気がした。周りが白黒で、その中に浮いたカラーの自分がいる。自分が特別だ何て思えなかった。
昔、私はこんなことを思ったことがある。自分が特別な存在なんだと。しかしそれは嘘で、実際、私は特別なんかじゃなかった。それは物心が着いた、いや、着いていると思っていた小学五年生の頃、私が親に連れられてコンサート会場に向かった時だった。当時、私はそこまで音楽には興味がなかった。ただ、どんなものかとは興味があった。だがそれ以上の目的はなかった。いざ行ってみると、そこは私の目を丸くさせた。人がざわめいている。恐ろしい断末魔のように、まだ暗い会場で騒いでいる。そしてライトが点火した瞬間、そこは魔物が降りたように、会場内の人の血が騒ぎ立っていた。恐ろしかった。歌手が出てくると、さらに騒ぎ立つ。私はそこに二時間近くいた。その二時間は耳に入ってくる音と視覚的に広がるうごめく人とちかちかと光るライトだけだった。そして終わった。その帰りも驚いた。あの狭い空間にいた人は、こうして歩いて自分の住居に帰ろうとしている。その列は二度と途切れないのではないかとまで思った。ここに世界中の人が集まっているのではと思った。あそこにいた人は何人かと父さんには聞けなかった。恐かった。だけどそれは無意味だった。その日、親と家に帰って夕食を食べても、おいしく感じなかった。それに変に落ち込んでいる私を気遣った親は気の聞いた話をしようと家族を笑わせたが、それは私にとって何も感じさせなかった。私の周りにいる家族、友人は世界で一番楽しくて面白いやつだと思っていた。リョウは例外で一番を飛びぬけていた。だが、それは果たして本当なのか考えた。そういえば毎日見ているテレビだって、出演している芸人や街頭インタビューに答えている人も面白い。話は変わるが、人は個人特別だと聞いたことがある。人にはそれぞれ使命があり、生きる意味を持っている。だがそれは本当だろうか。自殺志願者、ホームレス、いじめられっ子、凶悪犯罪者…。どういう使命だか教えて欲しい。自分だって、結局今は生きているだけで、最終的には自分のしたいことをやる。どこに使命を果たそうとする心があるだろうか。ただ人間は欲に満ちて自然を壊す生き物。自覚も持てず、めんどくさがり、この世から第一に排除したほうがいいもの。私の存在意義は何だろう。私がここに生まれたことはどういうことにつながるのだろう。もしかしたら生きている価値なぞ初めからないのではないかと思った。これはコンサートに行ってから考え込み始めたことである。一日たりとも忘れたことは、ない。
こういうことを、祭りに限らず人混みの場所、つまり駅や遊園地、東京なんかに行くとなおさら深く考え込む。
風が吹いた。強い風だ。私は不吉な思いがした。
「ほら、早く行くぞ」
ミズキは急かす。もう人混みに入ろうとしているところにいた。
「うん。行こ…」
そしてミズキの元に行こうと神殿から降りる小さな階段に足をかけた時だった。私はリョウを見た。人混みに紛れて、すっと消えていった。
私はまさかと思い、すぐさま階段を下りた。そして人混みに潜り込み、ミズキよりも先に行った。
「おい。どうしたんだよ」
ミズキの声はだんだん遠くになっていった。そんなことも気にせずに、茂みを掻き分けて、押し分けて、リョウの向かっていったほうへ歩く。こんな時、なぜ着物なんかを着てきたのだろうと思う。こんな重いものなんて、今すぐはぎ捨てたい。
「あ…」
たこ焼き屋の角を曲がった時だった。五メートルほど先にリョウの姿があった。
「リョ…」
だが呼べなかった。呼べるはずがなかった。だってそこにはリョウと一緒に、ルイもいたのだから。その二人の仲良しっぷりったら見れたもんじゃない。目を伏せてしまいたい。いっそ目を取ってしまいたい。今まで私には見せたことのない笑顔を、ルイの横でしてみせた。ルイは一丁前に着物を着こなしていて、きれいだった。おしとやかなイメージがそのまま味が出ている。そしてリョウの笑顔に満足そうに笑う。
「どうしたんだよ…」
この人の多い中でついてきたミズキは息切れしながら言った。
「私…帰る」
「え…おい…」
ミズキを置いて、私はリョウたちの進行方向とは逆のほうへ向かった。そっちは私の家から遠ざかるほうであったが、気にせず歩いた。
ミズキはついてこない。むしろついてきて欲しくはない。今は一人でいたい。長く、しばらく、夏休みが終わるまで。
住宅街に出た。ミズキの家に向かうにはここを右に曲がればいいのだが、私は帰ることを目的としているのでここを左に曲がる。下校途中に差し掛かる別れのY字路で、左に曲がり、後はまっすぐに歩く。風が冷たく当たったが、気のせいだろう。
駅から遠ざかる汽車のように、汽笛はだんだん小さくなっていった。住宅街を下駄の音を除夜の鐘と重ねて聞きながら歩いていると、いつの間にか公園の前まで来た。私は公園に入り、そのまま公園内を通過して反対の出入り口から出た。あえて遠回りの帰路である。少々時間がかかったが、ようやく玄関のドアを開けた。
腰に巻いた帯を廊下で捨て、自分の部屋に入り、ベッドに死ぬように倒れこんだ。
そのままどれだけ時間が経ったか覚えていない。はっきりとした意識はなく、朦朧としている。
いつの間にか花火が始まっていた。音よりも無感な光が教えてくれた。彩る花火は暗い部屋の私の部屋に花を咲かせる。しかし私はそれが嫌だった。ムードとか関係なく、ただ無垢なその花火が嫌だった。
すると雨が降り、それは豪雨と変わった。空に咲く花火は消沈し、遠くで聞こえていたわずかな笛のささやきもなくなっていた。
私が今感ずるものは何もない。無の心境の極地にいると思った。このまま時間が流れずに、地球は止まり、太陽の火は消され、地球以外の星が消滅する。
ベランダでそれを予言していた。
すべてが消されていた今、暗黙の了解で生きてきた者たちと一緒に眠った。同時に死を歩もうとしている自分をも見受けられていた。
儚いという言葉は何のためにあるのか。人の夢と書くが、それは本当である。もろく、崩れやすく、まさに人間自体を象徴している。人間とも読めそうだ。
目を真っ赤にして、大きなくまをつくって、しわくちゃですっかりでれでれに垂れた着物はベッドの下に滑り落ちていた。
太陽の光はなく、空は曇天に覆われていた。
私は起きず、しばらく動こうとはしなかった。
ベッドの下で無駄に騒ぐ携帯をよそに、布団に顔を埋めていた。朝から昼に、昼から夕に、そして夕から夜に、時間と空の変化は早く、まるで太陽のほうがとんでもないスピードで地球の周りを公転しているようだ。
しかし生活は変わるもので、夏休みの課題をせねばと思った。そしてやろうと思い机に向かうが、それは形だけで、実際はやっていない。だがそれの形もだんだん本物となり、勉強をやっては寝て、勉強をやっては寝て、それを機械的に繰り返した。外の変化を気にせず、空腹も気にせず、時間にも気にしなかった。ただ無心で、勝手に脳の機能が働いて、ただ虚しさと寂しさがその場を支配していて、その他のものを受け付けようとは、まして入ってこようとはしなかった。
そうやって幾日も過ごし、時々水を飲み、時々冷蔵庫のものをあさり、そんな生活が続いた。何も変化がない生活。その甲斐もあって、夏休みの課題は終わった。だが、最後の夏休みであるだろう、大切な日々を捨ててしまったようで、その後、泣かずにはいられなかった。悔し涙も混じり、その涙はすっぱく、切なさを物語っていた。
今頃何をしているのだろうと一途に思い、だがそれは何もやっていない私と対比させて、ただ痛い思いを感じるだけだった。はるか昔に心臓が傷ついて、しばらくしてやっと癒えたというのにまたうずきだすような、心が痛むとはこういうことだろうか。
生きている理由なんてないと思い始めている自分と、もしかしたらと奇跡を信じている自分がいる。立ち直り、新しい道を拓こうという自分はいない。
数日経てばすぐ始業式で、そのことを思い出したのは前日だった。
その日に私は外へ出る気も、テレビを見る気も、特に何をしようという気も起きなかった。ただ、しばらく風呂に入っていなかったなと風呂に入っただけだった。それは一週間ぶりで、蓄積された体の疲労と気持ちよさで優しく包んでくれた。風呂上りに何か食べようと思い立って冷蔵庫を開けたが、残っているものはお粗末で、牛乳半分とバターと玉子二つだけだった。私はその内、玉子を一つだけ使って目玉焼きを焼いた。そして食パンもつけて空腹を満たそうとしたが、それも意外に今まであまり食べていなかったおかげですぐ満腹になった。
まだ外は明るかった。夏休み初めとは変わって、早く夕陽が落ちるようになった。
それでも私は寝ようと思った。明日の用意をした後、電気を消してすぐに寝た。
一人で学校に向かった。その道、誰とも会わなかった。朝早くから川付近は霧がかかっており、曇り空なので周囲はややぼやけて白いだけで、その霧の先はよく見えなかった。学校に着いても閑散と寂しく、自転車の数も少なかった。まだ人がいないことを物語っている。
教室に入ると、まだ誰もいる気配はなかった。これはこれでよかった。今だけは一人でいたかった。この教室に一人でいる空間が、虚しさだけが友達に思えた。
時間が経つのは早い。続々と人は教室に入ってきた。
私は机に身を任せて寝ていたので、そのことは気にしなかった。ただ起きた時に驚いただけだ。
後続からミズキも入ってきた。ミズも入ってきた。さらに遅れてリョウとルイが一緒に入ってきた。
「ねえ…起きなよ」
教室のざわめきではなく、ミズに初めて起こされて私は起きた。
ミズは微笑んで、そして前を向いた。キャンプのときには見せなかった笑顔で、まるで本当に記憶がなくなってしまったような顔だった。後で聞いてみたが、キャンプに行っていないという。その間は何をしていたのかは覚えていない、だそうだ。それは演技には思えず、マジメそのものだった。
リョウを見ると、何もなかったような顔をしている。
始業式を行い、無駄な話を聞いて、教室に戻った。そして午前で学校は終わり、一人で家に帰ることにした。
なぜだかその日、誰にも一緒に帰ろうとは言われなかった。ミズキにもだ。
そんな日が三日ほど続いた。朝から何も話さず、ミズと昼食を一緒にとっても私から話すことはなく、帰りも変わらず一人だった。面白くも楽しくもなかった。だが、たった一つだけ、不思議な体験をした。
始業式の日から三日目だっただろうか。私は一人で帰っていた。
同じような日々が続く、まったく進歩のない、動こうとしない世界。こんな面白くもない世界を消したい。どうなってもいい。こんなつまらない世界なんて、どうなっても構わない。私自体も、この世から消えたいとうすうす自分で思い始めているのを感じていた。
そして交差点を渡ろうと信号待ちをしていた。ここの交差点は人通りが少なければ、車も少ない。その交差点で事件は起こった。
次の瞬間、目の前で起こるにはもっとも確率が低いと思われることが起こった。それは交差点で、青信号を渡っている人がいた。すると一台の車がその人に当てた。人は宙を舞った。対向からも車が来た。トラックだった。今度は、宙を舞っている人はトラックに当てられて、ピンボールのように飛んでいった。地面に叩きつけられた。トラックは目の前に飛んできた人に驚いたのか、ブレーキをして、凄まじい音を立ててドリフトし、そのまま対向の車のボンネットに倒れこんだ。下敷きになった車はスクラップ状態で、やがて、自動車の機関部から火の手が上がった。
私はこれはいけないと思って、そこから離れようとした。そう思って振り返った瞬間、背後から何者家の手によって勢いよく押された。私は灰色の地面に押し付けられ、そして熱さも感じた。
恐る恐る背後の事故現場をうかがうと、トラックと乗用車はもろ共炎上していた。その光景は息を飲む光景であったことはいうまでもない。時間が経つと、てっぺんから燃えている鉄くずが崩れてきた。魔物が積んだ積み木を自分で燃やし、そしてジェンガをしている。目に焼きつくのはその焼けて天高く黒い筋を伸ばす煙だった。目は開けるのを維持するが難しく、頭を鈍器で叩かれたような震撼が骨の隋まで伝わった。
私はこの事故に遭遇しながらも、奇跡的に生きていた。ただの膝と頬と額にすり傷。赤い血がにじんでいるだけだ。
ここからはよく見えないが、乗っている人は共に燃えてしまっているのか。跳ねられた人を探した。だが、地面にはいなかった。鉄くずの下敷きになっているのか、燃えてしまったのか。
しかし、確実にいえることは一つある。事故が起こった。ビデオがあれば確実にどこでもニュースのネタにできる大きな事故。
私ははっと我に返り、夢中に携帯をいじりだした。まず警察に。そして消防署に。伝えると私はすぐにその場から去った。その事故は、炎上しているものたちが、私にとって脅威に思われたからだった。それは何の脅威だか分からないが、そこにいつまでもいたら身震いしそうだったからだと思う。死人を見なかった恐怖かもしれない。大きな交通事故で、なおかつ炎上した現場で死体がないのは変に思えた。
私はすぐに家に帰り、ベッドにもぐった。そしてやっと、腰を抜かした。長い時間差であるが、再びあの事故の一部始終を思い出すと、今、目の前で起こっているようだった。それほど鮮明に思い出すことができた。
こんな時、私は変な妄想に陥る。私があの時、変なことを考えたからだ。あの時、あんなことを考えなければ。半ば加害妄想になりかけていた。
だがその時、さらに追い討ちをかけるように、この最近のことを思い出した。
それは帰宅後、テレビのニュースを見ていた時である。テレビの中は大騒ぎだった。地下鉄サリン、再びか。東南アジアで紛争。西南アジアでデモ行進。ヨーロッパで大使館襲撃。世界各地で自爆テロ。アフリカで独立運動。アメリカで原始施設爆発。特大の荒れ狂うハリケーンとタイフーン。高々と天から見下ろすような島国への津波。核兵器の…。例を挙げたらきりがないくらい、それほど多かった。
もしかして、私があの時あんなことを思ったから事件や事故が起こった。前だってそうだ。あの球技大会、一度負けた後、私は残り二試合を勝ちたいと思った。だから勝った。勝てないというのが当たり前だったのに。あのキャンプだって、ミズがリョウといたあの時、私は探しに行った時に不安になったから雨が降り出した。そしてその場所に居合わせて逆鱗したから雷が落ちた。リョウの熱も同じようにそうだろうか。祭りの日の豪雨もそうだろうか。
すべてのことがもしそうだとしたら、私って何?これって全部偶然なの?
しかし偶然にしてはすべてがつながり、偶然が奇跡になり、驚愕な事件となっている。偶然でも奇跡とも言い表せない、他の普通でない現象。
私は何?これってどういうことなの?
誰かに教えて欲しい。誰でもいい。嫌いな人でもいい。アメーバでもいい。牛でもいい。母さんでもいい。神様でもいい。リョウでもいい。もう何でも信じるから、受け入れるから、すべての努力をするから。
私は何が何だか分からなくなった。混乱ではない。ネクロフォビア的な、そんな恐れがある。私が何者なのか分からない、いわば自己喪失。
私は恐怖に震えながら、長い長い一夜を明かした。一生を感じた。永遠とはこれほど長く、遅く流れるのだろうか。その一夜は時間という恐ろしい化け物にうなされた。
次の日、無論、体調が優れなかったので、学校を休んだ。ミズキに連絡して、それから伝えてもらうことにした。
それから暇だった。あの恐ろしく永い一夜は今考えると、あっという間だったように思える。暗さがさらに恐怖だった。今はそんなに苦痛にならない。ベッドに寝転がり、眠るだけだった。
起きた時、耳元に置いておいた携帯が鳴っていた。すぐに鳴り止んだ。そして目を濃すぎながら携帯を開けると、メールの受信が一件。それもリョウからだった。メールを開き、どんな内容かと読むと、何とも短い文だった。
公園で待ってる。
本文は空白で、題名だけにそれだけ書かれてあった。
私は会う気にはなれなかったが、体は覚えているのか、服を選んで外に出た。
リョウと面を向かって何を話せばいいのだろうか。それが分からない。何をすればいいのか、分からない。自身が無かった。何て言われるかが恐かった。リョウがどんな存在だか、今は昔と変わって、大きく異なっている。兵器以上の脅威を、恐れを感じていた。
私は自転車に乗り、公園へ向かった。昨日は帰ってから何もしなかった。何も口にしていない。途中でコンビニに寄ろうとしたが、お金を持ち合わせていない。体がだるい。体が水を欲しがっている。だが給水などできない。どんどん公園に近づいていった。
到着した。この植木越しから覗くと、リョウの姿があった。ブランコに座り、地面を一点、思いつめたような目で見ている。
私は心の準備をした後、いざ、自転車と共に公園へ進入した。
リョウは私がきたのに気付かない。影が目の前にあっても気付かない。
私はできる限り、いかにも元気なように振舞った。
「よ。元気?」
リョウはやっと気付き、ああと言ってから隣のブランコを指差して、座れよと言った。
私はその通りに座るが、不思議と何も起こらないで欲しいと思っていた。先のことが予知できる、とでも言えるだろう。そんな嫌な気がした。
しばらく沈黙の後、リョウが話し出す。
「そういや、大丈夫か。体調は」
「う…うん。大丈夫…平気」
何を言い出すのかと思えばこんなこと。電話でもできる。だがこれだけでは終わらないと分かっていた。
また沈黙。今度は長い沈黙だ。
こうなったら私が切り出してやろう。私も聞きたい事があった。ルイとの関係。始業式の日から、いつもルイと一緒に登校して来ている。それが気になっていた。よし、話そう。
話し出そうと口を開けた時、リョウは先に言った。
「俺…怒られたんだよ。ミズキに」
「え…」
分からなかった。なぜミズキが怒るのか。そしてなぜこんな話になるのか。
リョウはさらに眉間に深く刻み込んで話す。
「ミズキがさ、お前のこと、あまり悲しませんじゃねえって、さ」
「ミズキが…?」
「そうだよ…俺、驚いた。ミズキがあそこまで必死で言ったのは、初めてだったよ…驚いた…」
リョウは感嘆している。よっぽどすごい気迫で迫られたのだろう。しかしミズキはなぜそこまでやったのだろうか。それが分からない。
リョウの話は続く。
「されでさ、俺も、気付いたよ。逃げてばっかだった。俺が、お前から、逃げてた。お前を見ようとせずに、いつも目をそらしてた。いや、そうすることしかできなかった。俺、お前を見ることができなかったんだ。全部、何もかも。お前といつも一緒にいたのにな。何でだろうな。俺、バカだな」
リョウはまた思いつめ始めた。
「それで、俺…けじめをつけようと思う。今、ここでだ」
夕焼けの陽は赤く、まだ高かった。公園で遊ぶ小さい子達が楽しそうだ。元気印そのものだ。
「俺、お前に言うよ。これだけはさ。絶対、言う」
何を言いたいのか、分からない。もしかしたらと期待している自分がいる。
リョウの口を開けた次の瞬間、私は時間が戻って欲しいと思った。
「俺、ルイが好きだ。今、あいつと付き合ってる」
私は固まった。正直、こんな展開だとは想像できなかった。いや、想像しなかったのかもしれない。私の理性がそれを食い止めていたのかもしれない。
「お前のことも好きだ。でも、それは幼馴染でだ。だから、お前のことは親友以上にはなれない。俺、ルイが好きだから。あいつのことを、愛してる」
とどめの言葉をぐさりと言われた。言わないで欲しかった。これだけは、本当に、言わないで欲しかった。ルイが好きだだけでよかった。そこまでで食い止められたなら、そうして欲しかった。
もうこれ以上、言わないで。
「俺…ルイを愛してる」
このたった十文字の言葉をいじって、いろんな文に言い換えている自分がいる。文字を足したり足さなかったり。単語の配列を変えたり変えなかったり。
俺、お前じゃなくて、ルイのことだけしか愛すことができない。
頭の中が真っ白になり、空白の時間が流れた。頭がくらくらする。
気づいた時、ベッドの上で寝転んでいた。どうやって戻ったのか分からない。あの公園から、自転車に乗ってこないで歩いて帰ってきたような気がする。いや、走ってか。それともちゃんと自転車で。帰る途中、何度も転んだような気がする。その時アスファルトをにじませて。風は吹いたか。石でもあったか。コンクリートにひびでもあったか。何で転んだのか。
風は吹く。ヒューと吹いて、無理にでも窓の隙間から入ろうとしていた。
私は泣くことができなかった。自分を喪失しているわけだから、意識も人間が持つ心もどこかの広い大空を飛び回っているみたいに、自分の体からすべてが抜けて、もぬけの殻化となっている。
目は死んでいた。ドライアイ寸前のように目は乾ききっていた。
はるか遠くの繁華街で車同士がクラクションを鳴らし合っているのが耳に入ってくる。瞬く星は今にも落ちてきそうであった。ライトアップされたジオラマのようで、もしかしたら天地が引っくり返ってすでに星は落ちていたのかもしれない。
ここで、私は、何をやっているのだろうか。私は、何のために生きているのだろうか。私は、何だろうか。私は、何。昨日と同じように、誰かに教えてもらいたい。私を。世界を。すべてを。
私はベランダに通じる引き戸を開けた。そして外に出た。まだ夏なのにも関わらず、風は冷たかった。
私は何ために存在し、何のために生きて、そして私は何?もしかしたら、価値が無いんじゃないの?もし私のすべてを知っている人がいたら、教えて欲しい。いや、人と限らず、何でもいい。
私はベランダのふちに手をかけ、ふちを強く握った。腕にも力が入り、その力は体にまで伝わる。足は地面を離れ、ふちの上に掛けようとしていた。
だがその時、私の背後から声がした。誰もいないはずの部屋のはず。
私は足を地面に戻し、恐る恐る、振り返った。
「…誰?」
目の前にいたのはまだ見ず知らずの私より小さいだろう、女子がいた。私はその場から動けず、突然のことに驚きを隠しきれなかった。だが私は勇気を出して、問いだした。
「あなた…誰?」
彼女は私を中に入れようと手で招いていた。私の部屋なのだが、いつの間にか立場は逆になっていた。だが私はその対応に応えるのであった。
私が部屋に入ると、その子は黙って扉を閉めて、カーテンも閉めた。部屋を真っ暗にした。唯一の明かりといえば、カーテンの向こうから薄く洩れる月明かりだけであった。
私はその子に指された指定されたベッドの上に腰をかけた。
私は混乱をしていないことを確認した。なるべくそう陥らないように気を付けている。しかし動揺と圧倒に押されていた。よって私から切り出すことができなかった。
彼女から話し出すのを待っていたが、彼女はずっと立ったままで、カーテンを閉めたい地にずっと立っている。カーテンを見つめているのか、それともカーテンを通してでも向こうが見えるのか、まっすぐ目の先を変えなかった。
しかし私からも切り出せない。何度も言いたいことが脳にぼんやりと浮かんでいるが、まだ頭の中の整理が先なのか、言い出せない。できれば彼女から切り出して欲しい。
「待ってた…」
彼女は唐突に一言を言った。素朴に、寂しく、小声だった。
私はそれをやっと聞き取ることができた。危うく逃すところだったが、この言葉の意味は何だろうか。そして彼女は誰だろうか。
「私は…あなたに招かれたもの…創造物…」
何を言っているのだろうか。この言語を理解できる人に、是非翻訳して欲しい。
「私はあなたが望んだからここにいる…」
彼女は何と言ったか、是非もう一度聞きたいものだ。
「私はあなたが望んだからここにいる…」
「え…」
私は確かに私のことを教えてくれるものならば、誰でも何でもいいと思った。だがそれはほんの冗談のようなものだった。まさかだとは思うが、こんなことは無いはずだ。だが、私は試してみようと思った。
「あなたは…なんなの?」
「私はあなたに招かれた者…あなたが作った…創造物」
「それは分かった。だから、何であなたはここにいるの?」
「あなたが望んだから…」
「分かってる」
依然、カーテンをずっと見つめたまま、動こうとしない。まるで不思議少女だった。必要なことしか話さない。まったく扱いが難しい。
「それで聞くけど…あなたの目的は?」
「あなたの望みどおりに来た…その他の何用でもない」
「それじゃあ、私の望みで来たの?」
「そう…」
「何で?」
「あなたが望んだから…」
「もう、同じことを言うのは禁止ね。それで、あなたは何を伝えに来たの?」
「あなたの聞きたい事をすべて教えるために来た…」
正直、私はこんなファンタジーでSFチックなことを信用したわけではない。まだ警戒は解いていない。まだ不審だと思っている。
そりゃそうでしょ。何も無いところから忽然と現れたり、不法侵入をしているわけだし。
私は聞きたい事を聞いてみた。すると的確に返してくれる。
私は何なのか。すると人間だという。
私はここで何をやっているのか。生きている。
私は何のために生きているのか。みんなのため。
あまりに的確で単調すぎて、逆にあきれてしまった。はっきり言って、信じられない。面白くも無い話に首を突っ込む気はない。彼女自体が嘘の偶像に思えた。質疑応答を繰り返すうちに積もるストレスを彼女にぶつけた。
「あなたがどこの誰だか知らないけれど…」
「私は外から…宇宙から来た…私は渋…航…」
今、何を言ったか。宇宙から来た。そう言った。つまり、宇宙人なのか。
「そう…」
今頃頭が混乱してきた。この展開は何だろうか。
それよりもなぜ、私の目の前に宇宙人なんかがいるのだろうか。明らかに容姿は人間ではないか。私の想像では、タコのようなものが宇宙人だと思っていた。
「それじゃ…あなたは…」
「あなたの感じているとおり…」
とりあえずここまでの整理をしておこう。まず、彼女の名前は澁航であり、さらに宇宙から来た宇宙人でもある。そして私は彼女を招き入れた。私には覚えがないが。私のことも人間であり、みんなのために生きている。誰もがそうだと思うが。こんなアバウトな答え方が果たして許されるのであろうか。
これらをすべて上手く飲み込んだとしても、それは理解できているだろうか。今まで普通の生活をしてきて、普通の刺激ではなく、極端な刺激が私に襲いかかっている。その大きな差に私はついていけるだろうか。
それに私は思う。今ここで起こっているのは嘘であるかもしれない。いや、何でこんなことが起こるのか分からない。なぜこんなことが、私に降りかかってくるのか。世界中の誰もが体験しているとは思えない。きっと私だけなのだろうが、今時、こんな年頃にもなって、自分のことを宇宙人だと名乗る者はいない。確かに地球の外から見れば地球の人も宇宙人だろうが、それは一般的ではない。こんな頭がいかれた人はいないと思う。だが、この渋からは異様な気配を感じる。本当に宇宙人ではないかと思わせる。
しかし私は一つの案を思いついた。もし宇宙人で私の望みを叶えに来たのなら、私の質問を何でも答えてくれるということだ。私は一つ、試してみることにした。
「私の名前と生年月日と血液型と生まれたところと幼馴染の名前を、十五秒以内に言いなさい」
渋は躊躇せず、見事噛まずに言い切った。
「滝川梓1987年12月26日A型埼玉県川越市…瀬上涼…」
こんなこと、親でも分からない。まさか病院の住所まで言うなんて。でも確かに分かることは県と市と病院名だ。だがいずれもすべて合っている。どういうトリックなのか。しかし最近のこの情報で、幼馴染にミズキの名が挙がってもいいはずだ。だが挙がらなかった。
実は言うと、ミズキとは幼馴染ではない。小学校の頃転校してきたミズキはまた学校を離れ、中学校の頃に戻ってきた。つまり私の知る限りで転校は二回やっている。別段幼い頃から遊んでいたわけではない。
つまり渋の言うことは正しいのだ。
私のことを何でも知っていると認識するのは遅かった。私でも知らないような私についてのことを知っているらしい。物事の整理をして、恐れをなしてから同時にこの正体を明かしたく思えてきた。興味さえ覚えてきた。
「あなたは…私のことをどこまで知ってる?」
「あなたのことなら何でも…」
「それだったら、私の本当の心の奥底で、何を叫んでる?」
渋は相変わらずの口調であった。つまずかず、何事も一言で言い切る。
「リョウのことを自分のものにしたい…リョウを振り向かせたい…」
やはりそうなのだろうか。私が思っているその通りだった。
「それだったら…どうやったら振り向いてくれるの?」
「あなたの努力次第…」
努力次第たって、どうすればいいのか分からない。不明だ。不明確だ。
「それってどういうこと?」
「目標実現のために…あなた自身の心身を労して努めること…」
そうだと思うが、つまり初めから言いたいことは、努力次第で自分の運命は変わるというのでいいのだろうか。
ここで理由もなく突然に思いつく質問。さっきは上手く質問ができなかったが、この質問ならしかと答えてくれるだろう。
「あなたの本当の目的は?」
これは間違いないと考えた。今まで質問の仕方が間違っていた。的確ではなかった。普通ではない者に対して、普通に話しかけるように話しても無駄だ。真っ向勝負で、丁寧に言わないとだめだ。
すると渋も、私が予想しない答えを返す。
「私は…この世界…地球の仕組みを調べに来た…」
世界。私に招かれたのではないのか。
だが実は、私は世界の仕組みを知りたいと思ったことがある。そしてそれを思うたびに、毎回違う内容に辿り着く。時には私が中心や、各個人が中心だったり、本当は神がいるのではないかとまで思ったことがある。知りたい気持ちは変わらない。
「世界の仕組みは、どうなっているの?」
「世界は…宇宙以外の範囲内で考える…そうすると…地球上の世界を支配している…動かしているのは…あなた…」
「え…何?」
「それは変わる…いつまでも続く時もある…それは神次第…どれだけこの世界に貢献するか…それで変わる…地球は神によって治められる…昔…人は人によって統治されたように…それは一番安全…神はすべての人々の…平均で決められる…今の世界まで伝統として受け継がれてきた…この制度は揺るがず…世界を均衡に保つ…崩れた時…世界は不安と殺戮に陥る…神が世界を動かし…神が世界を止める…」
私が世界の中心で、軸である。そんな馬鹿げた話は、この世界のどこを探してもない。しかしそれは不思議と一つの記憶に回帰してくる。いつの間にか半信半疑ではいられなくなっていた。
「もしそうだとして、これはどうなのかな…」
私は私が考えていたここまでの考察を渋に発表した。もし私が中心となって動いているのなら、この考えは正しいだろうが、果たしてどういう反応するか。
「大体合ってる…ただ…」
「ただ?」
渋は動かない。ただの後が気になるのだが、渋は急に話さなくなった。
私は渋を見続けた。渋の目線の先が変わらないように。すると、私の視界、下方から、きらきらと光る、光の粒子が天井に向かってゆっくり上昇していくのが見えた。
「終わり…」
「え?」
私はその光の粒子がどこから洩れているのかを見ようとした。するとそれは、私からでているらしかった。
「え…何これ?」
渋は変わらない姿勢を保ち続ける。
「終わり…世界は止まり…時は刻むのをやめる…世界は…終わる…」
「え…何、これ?何、何?」
「それは…あなたの体…姿…形…存在…」
「つまり…これは」
「消えるということ…」
私は頭に何か重い鈍器のようなものが落ちてきたような気がした。
消える?どういうこと?人間が消えるってどういうこと?
死ぬことはあっても、消えるということは知らない。
「私は…何を…すればいいの?どうすればいいの?」
「あなたは…あなたのしたいことをすればいい…それだけ…」
星のほこりのように舞い上がる私の一部は、天井に行き着く前に、雪のように溶けてなくなっていく。それをただ私は呆然と眺めていた。
しかし消えるとはどういうことか。渋は言った。体だけでなく、存在さえもなくなると。
ただ、ほんの漏らした一言の言葉。切なくて、この状況の理解がまだ乏しくて、なぜか無償に悲しくて、そうして出た言葉。
「私は…なんなの?」
するとさらに、渋の口からとんでもない言葉が吐き出された。それが渋には質問に聞こえたらしい。
「あなたは…神…」
度肝を抜かれた。胸に大きな銃口を向けられ、引き金を引かれ、大きな風穴を開けられた気分だった。風通しがよくなったようだが、気分は優れなかった。
確かに私が神であれば、渋の言う、私が世界の中心である、ということが何となく分かる。だがそれ以前に、私が神なぞというのは、信じられない。信じたくもない。つまり私が世界のトップであること。私はそう思わない。
だってそうでしょ。私はこの世界にいるたくさんの人の中のちっぽけな一人であるのだから。それにまだ高校二年生なんだよ。信じろというほうがおかしい。こんな若くて何もかもが未熟な私が神として崇められているわけはない。絶対ない。
自分が神であることを完全に否定したい私をよそに、私は消えていくのであった。
なぜ私はこうなっているの?なんで私が消えなくてはならないの?
私の腕はすでに消えていた。涙を拭こうとしても、手がないからまっすぐ床に落ちると思いきや、その涙も床に落ちる前に光の粒子となって消えていった。
「あなたは…幸せになれない…だから消える…」
渋の言うことは初めから、すべては何もかもが不可解で、理解ができなかった。その一言を聞いた時、私は初めて理解できたような気がした。
自己に幸せがもたらすことができない人間が、他人に幸せを与えることはもっとできない。
世界中の幸せは私が握っている。私の感情が左右されることにより、世界も変わる。事故だって起こった。あれもそうだと渋は言った。私の感情ガがこのまま下降していくのであれば、世界は破滅へと導かれる。
私が望んだわけではない。神になりたいと言ったわけでもない。だがなっていた。誰が決めたのか分からないが、とりあえず私がいることで世界は悪い方向に向かう。
こんなことになるならば、私が幸せになろうともっと努力していた。リョウにもっとアタックしていた。私は時間があると思っていた。余裕があると思っていた。もっとリョウといられると思っていた。チャンスは来ると思っていた。だが違った。自分からチャンスを迎えに行かねばならないのだった。実はそこにチャンスがあったのではないのか。
私はこう思ったことがある。もし世界を変えれるなら、と。もしこんなことができたなら、何でも願いが叶えられるなら、と。
前にこんなものを見たことがある。テレビの番組での話であるが、世界に散らばる、貧困であえいでいてもめげずに生き続ける子供たちのドキュメントだった。その他と別に、戦いに巻き込まれる子供。そこに住む民衆。逃げ惑う民。なくならない紛争。地雷で飛ばされて片足のない人。この他にも色々と。
もし自分が幸せになれたら、世界はもっといい方向へ進めたい。導きたい。前から思っていた。刺激なんか入らない。ただの平和なんていらない。平和の中の幸せを、それがこの世界に必要だと思う。どの世界にも、どの家庭にも、どの人にも必要だと思う。近くにそのチャンスがある。私はそれをつかみたい。
私はいつの間にか、自分が神であることを信じていた。いや、自覚していた。
だがもう遅い。私はこの世から存在さえなくなってしまう。死んだ人は地獄か天国かだけれども、存在がなくなった先はどこだろうか。無の世界か。
もう私にはできることはない。上半身が消えようとしている。
戻れるなら戻りたい。リョウから幸せを貰うために。春でいい。あの、今年の始業式の日に戻れたなら。それでいい。戻れるなら、戻りたい。
すると地面が揺れだしたのか、部屋がゆれている。私は顔だけが宙に浮いた状態になり、その揺れは感じていない。すると同じようなタイミングで、突然台風のように吹き荒れだす風に乗じ、大粒の雨は窓を強く叩き出した。
「来た…」
外は花火が落ちてきたような光を放ち、そして大きな音が鳴った。何か落ちたらしい。そして水の音も聞こえる。
「世界の崩壊…」
渋は地面にゆれるのにも屈せず、直立で立ち続けた。
「あなたが望むなら…できる…」
そう言ったのを聞くと、私は部屋を照らし出した。顔だけしかないのだが、どこも光を発していないのを見ると、私からであった。
「後戻りは…できない…」
渋はいまだ、カーテンを見透かすようにして見ている。
望むならできる。
私の目の前はぱっと明るくなり、真っ白になった。
これからの参考にしたいと思いますので、良かったら感想をお願いします。よりよい作品作りにご協力ください。