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第1章 其の壹


「だーかーらー、何度言ってやりゃあ納得するんですかねこのクソご主人野郎はさぁ!」

 ばくぅ!

 午前6時、電子レンジとオーブンをフル活用して10時間前の様相を再現した食卓を蹂躙しながら、彼女――――ゴキ子は怒ったような声を出した。

 怒ったような、ということはつまり、本当は怒ってなどいないのである。態度で丸分かりだ。箸もフォークも滅茶苦茶な持ち方で、しかし器用に料理を口へ運んでいくゴキ子の顔は、喜びで満ち満ちていた。シンデレラが王子様と結婚して、初めてお城での食事を堪能した時は、きっとこんな顔をしていたのだろう。そう思わざるを得ないくらい、喜色満面とした笑顔だったのだ。口の周りはべったべただったし、そもそもが口汚かったけど。

 衝撃的過ぎる邂逅から、およそ13分。

 ゴキ子――――齧澤季語と名乗ったその女に対し、まず俺が行ったのが、服を着せるという作業だった。

 仕方ないだろう。だってこいつ、裸なんだもん。

 その上、たっぱも胸もまったくない幼女が裸でいるならばまだいいものを、選りにも選ってゴキ子は、思春期男子の性欲を否応なしに刺激するような身体をしていやがったのだ。俺よりは低いけど、そこそこの背丈はある。細身で華奢ではあるものの、変に弱々しい感じはしない。そしてなにより、胸が大きかった。

 巨乳だった。

 そんな女子が素っ裸で目の前にいた場合、果たして俺は本能を抑制することができるだろうかなんて無理に決まっているだろうが! 思考時間要らねーわ即決だったわ!

 という訳で、ゴキ子は現在、制服用のワイシャツに体育着の半ズボンという奇妙な格好をしている。無論、下着は着けていない。女物の下着なんか、俺の部屋にある訳あるか。一人暮らしで彼女なしだぞ。

 服を着せ、怒鳴りつけた末に取り敢えずドアを直させ(ガムテープで留めただけ。多分、強風が吹いたら壊れる)、そして現在の食事へと至るのである。

 以上が、今までの流れ。

 さーて、以上どころか異常がいっぱいだなぁ、おい。

「まったくまったくまったくさぁ、頭に蛆湧いてるとしか思えねーですよクソご主人テメーこの野郎! ちったぁその両の眼をしっかと見開いて、現実っちゅーものを直視しやがったらどうですぅ? ご主人テメーこの野郎如きがなにをどう曲解し逃避し目を逸らしたところで、現実は厳然として現実でしかねーんですよボケが!」

「…………おい、ゴキ子。俺さぁ、そろそろ真剣にキレていいか?」

「丁重にご遠慮願いますけどなにか?」

 盗人猛々しいとは正にこのことだった。

 昨夜の残り物を嬉々として口に運びながらも、彼女は俺に対する罵倒の手を緩めようとはしない。終いにはそうやって罵詈雑言を口にすること自体が楽しくなってきたらしく、段々と口端を吊り上げてくるほどだ。なんと性格の悪い女だろうか。俺にはこういう女子との縁しかねーのかよ。

 閑話休題。

 現実。現実。現実問題。

 齧澤季語なる少女は、俺の部屋に入ってくるなり、自分の正体について言及してきた。正体なんて単語自体、平穏無事に日々を過ごすだけの高校生である俺には縁遠いものなのだが、そんなことはお構いなしに、彼女は朗々と語ってきたのだ。

 自分がここに来た理由。俺の所へ来た、その理由を。

「おんなじ話を繰り返すなんてのは私の趣味じゃねーんですけど、あんたの理解が非常に異常で非情なくらいに悪いんで、仕方ねーから繰り返してやりますよご主人テメーこの野郎。私はね――――あんたに昨日助けられた、しがねーゴキブリの1匹でやがりますよ」

 ゴキ子はそう言って、オムライスを一口、パクリと食べた。

 昨日、助けた、ゴキブリ。

 ……確かに、俺は昨日の夜、なんの気紛れか部屋に迷い込んできたゴキブリを助けてやった。餓死寸前でぴくぴく動くだけだったあいつに、肉の塊を分け与え、その命を長らえさせた。

 それは、事実だ。

 だけど、だけど。

「だけど、俺が助けたのはゴキブリだぞ? あくまで、単なるゴキブリだった。お前みたいな女の子を助けた覚えは、一切ない」

「だーかーらー! そのゴキブリが私だって言ってんでしょうが意味分かんねーですよあんたの頭蓋骨にはフンコロガシの糞でも入ってんですかこの盆暮れがぁっ!」

「ぼんくらな」

 地味に変な所を間違えるなよ。

 しっかし…………つまりゴキ子なる少女はこう主張したい訳だ。自分は、ゴキブリであると。

 ……なんか、ピックアップするとドMみたいな主張だな。

 まぁ真面目に考えてはみるけれど、流石にそれはあり得ないだろう。確かに俺は虫の声を聴けるなんて特異体質を持ってはいるけれど、けれどもそれだけだ。あくまでそれだけ。それだけ。そーれーだーけ。虫の声を聞き、会話をするという、ただそれだけの技能だ。強いて言うなら、英語が堪能な日本人が、日本人とイギリス人両方と会話できることと変わりない。

 だから、俺の行為が虫そのものになんらかの変容を促すなんて作用はないし。

 ましてや虫が人になるなんて珍事、聞いたことがない。前代未聞だ。

 そんな漫画みたいなことが、現実世界で起きて堪るか。

「はぁ…………分かったよ、もう分かった正直なんでもいいや。取り敢えず、それ食ったら出てけよ。あんまり居座るようだと、警察呼んで親御さんに扉の修理費用払ってもらうことに――」

「オーケー、どうやら私がご主人と定めちまった豚野郎は、想像を絶するほどのクソバカご主人野郎だと分かっちまいました」

 箸を卓袱台に置き、ゴキ子はとうとうイラついたような顔を見せて立ち上がった。可愛いか綺麗かで言うと、ゴキ子は間違いなく綺麗系に属する女子であるので、怒ると顔が普通に怖い。普通以上に怖い。しかもフォークをしっかりと握り締めたままなので、恐怖心は単純計算倍だ。

 立つと、胸がぱっつんぱっつんの上半身にウエストがゆるゆるの下半身、その双方のガードが一気に緩くなるので、目の毒過ぎる。目を中空で個人メドレーさせながら、俺は仁王立ちするゴキ子に言う。

「……なんだよ。さっきから聴いてりゃお前、俺の悪口言ってばっかりじゃねーか。仮に、仮に万が一あり得ない仮定であるという前提を置いた上で、お前が俺の助けたゴキブリだって言うんなら、ちょっとばかり態度が筋違いじゃねーのか?」

「ご主人テメーこの野郎の分際でぎゃあぎゃあ喧しいですね。胃の中に入り込んで卵でも産みつけて繁殖してやりましょうか?」

「それ、都市伝説だからな」

「タガメ程度の脳味噌しか持ってねー癖に、私の言うことを否定してっから腹が立つんですよねーご主人テメーこの野郎は。身の程を教えてやろうじゃありませんか、それが食物連鎖の頂点に立つ、齧澤季語ことゴキ子ことこの私の役目、ですからねぇ」

「言っとくけど、ゴキブリを食う国ってのもあるからな?」

 それどころか、ペットとして飼っている国まであるのだという。あのフォルムに愛玩動物としての用途を見出すことは、残念ながら俺の感性では難しい。

 しかしそれにしても頭が痛い。朝っぱらからなんなんだろうなこいつはいやもう本当にマジで。俺が66回も女子に振られたもんだから、憐れんだ神様が遣わしてくれた謎の女子とかなんだろうか。いやそれにしては口が悪過ぎるよな。神様なんていうのはこう、清廉潔白で清らかな奴だってイメージがあるんだけど……。

 なーんて、そんなよしなしごとを考えている時だった。

 ゴキ子が、自分の前髪をくるくると捻り始めたのだ。何本かの髪をまとめて、紙縒りでも作るかのようにくるくると、きゅるきゅると。

「……なにやってんだ?」

「いや、証拠の一つでも見せりゃー、いくらバカで愚鈍で間抜けでアホで愚かでクソでクズでダメでゴミでロリコンで巨乳フェチでドMでキモくて変態でモテなくてデブでガリでカスでゴミクズでミジンコにも劣る生命体としてあるまじきレベルの萌えない不法投棄物であるところのご主人テメーこの野郎にも、少しは話が通じるかと思いまして」

「お前、もしかしなくてもぶっ殺されたいんだろ? そうなんだよな? そうって言えよ」

「生憎あんたみたいなド変態じゃないんで、嬲られて喜ぶ趣味はないです」

「俺にだってねーよ!」

「あぁもううるせーっすねぇ。あんま騒ぐようだと、ご主人テメーこの野郎の下着の絶妙な位置に穴開けますよ? ズボンのジッパーとか、閉まらなくしますよ?」

「お前、最終的になにがしたいんだよ…………!」

「いやですねぇご主人テメーこの野郎、ナニがしたいとか…………昼間っから人間様が盛んねーでくださいよ」

「えーっと、確かどっかに殺虫剤が」

「ゴキブリにそんなもの効かねーですって。あぁ、それともヤられている振りした方が燃えますか?」

「お前が燃えちまえよ」

「蝋燭責めがお好みとは……」

「どんな単語出してもそっちに持っていかれるのかっ!?」

 つ、疲れてきた……。

 知らなかった……女子との会話って、こんなに疲れるものなのか。もっと気軽に、きゃっきゃうふふとできるものかと思ってた。きっと本来は普通にできるんだろうけどな。こいつが相手だから、無闇に疲労ゲージが蓄積されているだけなんだろうけどな!

 しかし、証拠。証拠、ねぇ……。前髪捻って、もしかして触角でも作りたいんだろうか。そんな面白くもなんともない一発芸を披露されたからって、俺は一体どんなリアクションを取ればいいんだろう――――と。

 そんな風に、俺は油断していた。

 齧澤季語のことを、舐め切っていた。

 もう少し思考すべきだったのだ、この如何にもな名前についてだって。

 齧澤季語――――ゴキブリの元々の名前であるところの『ゴキカブリ』が、残さず含まれたこの文字列について。

「よっ――――と」

 やがて、前髪を弄り終えたゴキ子が、持ち上げていた腕を下ろした。

 それと同時に、既に前髪ではなくなったそれが、しゅるりと伸びたのだ。

 目の上で切り揃えられていた筈の、ゴキ子の前髪は。

 彼女の腰まで伸びる、細くて長い触角に変わっていた。

「…………え?」

「はっ! どうですご主人テメーこの野郎。いくら童貞で遅漏で不感症でインポテンツの短小包茎野郎でも、こうも立派な証拠ならぬ触手を見せられちゃあ、パーの音も出やしねーでしょう!」

 どこからぶん殴ればいいのか分からない台詞はひとまず放置しておくとして、触角。

 間違っても触手ではない、触角。

 ゴキブリにとって、餌や天敵の場所を探る上でも重要な器官である触角が、紛れもない触角が、ゴキ子の頭から伸びている。

 髪の毛を縒ったものでは決してない。その証拠だと言わんばかりに、ゴキ子はさっきから触角をうねうねと動かしていた。耳を動かせる人間ならいるけれど、髪の毛まで自在に動かせる人間なんて、それこそ漫画の世界だ。上下左右、自由自在に過ぎる動きが、それが二本の触角であることを如実に示していた。

 彼女が――――ゴキ子が、人外の存在であることも。

 …………名前、どうにかならねーかなぁ。ちょっと緊張感に欠けるんだが。

「……じゃあ、お前は本当に…………昨日の、ゴキブリ、なのか?」

「最初っからそう言ってんじゃねーですか。ったく、物分かりのクソ悪いクソご主人テメーこの野郎ですねー軽蔑しますよ」

「なんで、なんで人間の姿してんだよ。おかしいだろだって! お前、お前普通のゴキブリなんだろう!?」

「普通、って言葉がなにを指してんのかっつー問題は普通にありますが、うん、そうですね。難しく考えなきゃ、私はただの普通のしがないゴキブリ風情ですよ。あんたら人間が日頃から潰して飛ばして爆ぜさせている、ゴキブリ目の生物の一種ですねぇ」

「いやいや質問に答えろよ! だからなんで、なんでお前は、ゴキブリなのに人間の形を――」

「そんなにいきり立たねーでくださいよご主人テメーこの野郎。勃たせんのは閨ん中だけで充分ですって」

 冗談めかしてそう言うと、ゴキ子は触角を普通の髪へと戻し、すっとその場に正座した。持ったままだったフォークで肉をぶっ刺し、満面の笑みを湛えて口へと放り込む。

 1回噛むごとに、深みを増していく笑顔。咀嚼回数に比例して、笑みは蕩けるような幸福へと昇華していく。

 ……幸せそうだな、こいつ。

 パニくってるのがアホらしくなるくらいには、少なくとも。

「それにしてもご主人テメーこの野郎、あんたってば結構料理上手いじゃねーですか。ゴキブリん時は死なないように必死で、味なんかまるで分かんなかったけど、こりゃいいっすね。人間の味覚っつーのは、こうも楽しいものなんですか」

「お褒めに与り光栄至極だ。…………で、ゴキ子」

「焦んねーでくださいよ、早い男は嫌われちまいますよ」

「…………」すぅ、と常時携帯型の蠅叩きを取り出して威嚇するも、まるで効果なし。

「まぁ白状しちまえば、私にも分かんねーってのが本音なんですよ」

 開き直ったようにラッシーを啜りつつ、ゴキ子は言った。

「いやね、どうも私は生来性根と口がねじくれちまいやがってるんで、この通りの悪口雑言パラダイスな訳なんですけどね? けれどさぁ、昨日は本当に感謝したんですよ。本当の本当に、九死に一生を得たって感じで、地獄に仏とはこのことだと、ご主人、あんたをじぃっと見つめちまいやがってましたよ」

「……そ、そうかよ」

 子どもみたいに真っ直ぐな目で見られると、妙に顔の温度が上がってきて、俺は目を逸らすことしかできなかった。

 昨日の、最後に感じたあの視線…………気の所為じゃ、なかったんだな。

 ゴキブリなのに、人間相手に感謝とか、バカなんじゃないか、こいつ。

「この素敵な男に恩返しをしたい、命を助けられた恩を身体で返したい――――そう思っていたら、いつの間にかこの姿になってやがったんですよ。ご主人テメーこの野郎と同じ、人間の姿にね」

「……だから、それがなんでかって」

「ほら、漫画やアニメや動画や都市伝説だとよくあるじゃないですか。虚仮の一念岩をも通すってね、私の純粋で強く清らかな想いが、奇跡を起こしたってことでいいんじゃねーですか?」

「いい、のか? それ」

「いいでしょ別に。現にほら、私はこうして人間になっている訳ですし」

「ん……まぁ確かに、見た目は人間そのものだけど」

「成程、中身も見て確認したいと。しょうがねーですねぇご主人テメーこの野郎は。生娘の膣内(なか)覗きたいとか、朝っぱらからかましてくれるじゃねーですか」

「お前は隙あらばそういう方面に話を持っていくなぁっ!」

「あ、もしかして直腸の方がよかったですか? マニアックですねぇご主人テメーこの野郎。まぁそっちなら膜が破れることもねーですし、遠慮も隈もなく覗いちまっても構わねーですよ?」

「言いました? 俺ってばそんなことを本当に言いましたかね齧澤季語さん?」

「まぁまぁ、細けーことはいいじゃないですか。ご主人テメーこの野郎」

「それ、それだよ。さっきからずっと気になってたんだけど、その『ご主人テメーこの野郎』ってなんなんだよ一体さぁっ! 呼び名にしては長くねーか!? あと一番気になってんだけど、ちゃんと感謝の念はこもってんのっ!?」

「いや、流石の私も、面と向かって『ご主人様』とか言うのは気恥ずかしいんですよねー」

「もっと恥ずかしい発言は今までにたくさんあったぞ!?」

「いいこと考えましたよご主人テメーこの野郎! これ、もういっそ一つのプレイにしちまいましょう! ご主人テメーこの野郎は誰にも理解されないマニアックな性癖を満足させられるし、私は恩を返せる上に気持ちいいので一石三鳥ですよ! これもうお得過ぎるでしょう! そうと決まればご主人テメーこの野郎、さっさとペットショップで首輪とリードを購入してきて――」

「…………あー、やっぱグラタンは日が経つと味落ちるなー」

「ここにきての無視ですか。放置プレイですか。心得得てますねー流石はご主人テメーこの野郎!」

「…………もういい」

 本当、なんなんだろう、こいつ。

 ゴキブリであるってことは、もう確定事項でいいや。否定材料もないし、触角(あんなもの)を見せられちゃ納得する他にあるまい。素っ裸だったことも、元々が服を着ていないゴキブリだったってことで説明はつく。性に対して奔放なのだって、繁殖を己の生における第一目標として掲げているであろう虫にはよくある傾向なんだろう。いや、俺は聞いたことないけどさ。

 しかし、しかしだ。それはさておくとしても。

「じゃあお前、なんの為にここに来たんだよ、ゴキ子」

 喋り過ぎていい加減口が疲れてきたが、とにかくこれだけは訊いておかねばなるまい。ゴキ子にとっての、目的だけは。

 朝っぱらから俺を無理矢理に起こし。

 扉を蹴り飛ばして俺を殺しかけた上。

 遠慮なく飯を食らう穀潰しと化した。

 そんなゴキ子が、齧澤季語が、なにを目的にしているのか。

 その部分だけは、絶対に把握しておかねばならない問題だろう。

「なんの為って…………そりゃ恩返しする為に決まってんでしょうが。脳味噌っつったって、まさか本当に発酵しているんじゃねーですよねぇご主人テメーこの野郎」

 高校生に平仮名の書き方を教えるような調子で、ゴキ子は平然と言ってきた。

 恩返し、ねぇ…………今日日聞かない台詞だなぁ。純朴な響きを持っているからこそ、現代社会じゃ嘘臭い。昨今じゃ、恩を仇で返すって言葉の方が大手を振って歩いているような気がしてならない。

 けれど、それはあくまで人間の話。

 こいつは――形こそ人間ではあるけれど――元々虫なんだ。

 ゴキブリなんだ。

 彼ら彼女らをバカにする訳ではないけれど、虫は人間と違って単純だ。単純で、それは即ち、悪意があればすぐに露呈するということと同義である。口の悪さだけは隠しようもなかったが、しかしゴキ子に悪意があるようにはとても見えない。これでも、人間観察は得意なんだ。

 ……恋に飢えているとね、ついね、周りの女子に目が行くんだよ。その過程で培った力だよ。文句あるかちきしょー……。

「なぁに胡散臭げかつ信頼し切っている感じかつしょぼくれているっつー奇妙な百面相をかましてんですかご主人テメーこの野郎。キモいですねー、私をキモ殺しにする気ですか? 萌えないゴミの日にかぴかぴになったエロ本と一緒に縛って出してやりましょうかご主人テメーこの野郎」

「さっきも言ったかも知れねーけどさぁ、いやもう今度は遠慮なくいかせてもらうぞ容赦なくツッコませてもらうけどなぁ」

「いやんっ。ご主人テメーこの野郎、あんたもなかなかの好きものですねぇ、こんな朝っぱらから遠慮なくイくとか突っ込むとか…………ま、まぁあれですね。私も恩返しに来た訳ですし、股の一つや二つおっ広げないことには、話が始まらね――」

「待て。その部分もよく話し合う必要があるよなお前の口調云々の以前に」

「口? ははぁん、まずはお口でご奉仕って奴ですね。初めてなんで上手くできるかどうかは不安ですが、まぁやるだけやってみますか。取り敢えず、歯ぁ立てなきゃオッケーですよね?」

「だぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああもういい加減にしろこの女郎ぉっ!!」

 叫んだ。

 いやそりゃ叫ぶだろ。俺はなにも間違ったことは言っていないだろ。

 きょとんと、不思議そうな顔をしてこちらを眺めるゴキ子を、俺は鋭い目で睨みつける。それでも威嚇の効果はまるでないらしく、ゴキ子はマイペースに食事を続けるだけだった。

「うるっせーですね、いきなり叫ばないでくださいよご主人テメーこの野郎。私は言葉責めとかも割とありな方ですけど、ご近所さんに迷惑でしょうが。こんな朝っぱらから大声出してちゃ、結構壁は薄いんですから、安眠妨害とか騒がれますよ?」

「お前がここで一般常識を語るか……?」

 とんでもない暴挙だった。

 少なくとも、今朝一番に扉を蹴破って、人の部屋に素っ裸で侵入してきた不審者が言えるようなことではなかった。どの口がご近所さんとかほざくんだろうか。その綺麗に揃った歯並びをぼろぼろにしてやろうか。

「失礼なことを言いやがりますねご主人テメーこの野郎の分際で」

「お前、恩返しに来たんだよな? な?」

「さっきの扉破壊ボーナスだって、元はといえばこんな寂れた片田舎に住んでいやがる貧乏臭い上にイカ臭いご主人テメーこの野郎が、大したものも守るべき貞操もねー癖に鍵なんぞ閉めてるから悪いんじゃねーですか。お陰で私は部屋ん中に入れなくて、危うく通報されちまうところでしたよ。どう責任とってくれんですかご主人テメーこの野郎」

「清々しいくらいの責任転嫁だなぁおいっ! 繰り返し再三に亘って言うけど、お前恩返しに来たんだよなぁっ!? 俺を傷つける為に来たんじゃないよなぁっ!?」

「は? なんですかご主人テメーこの野郎。ご主人テメーこの野郎みたいなビチグソ童貞皮被り野郎は、どうせ彼女いない歴=年齢なんていう花のない人生を歩みやがってるんですから、可愛らしくて痴女入った美少女とお話しするだけでも充分に満足でしょう?」

「てめぇの持っている童貞に対する歪んだ認識を叩き直してやろうかっ!」

「あー、認めちゃいましたねー。ご主人テメーこの野郎ってば、今自分が童貞だって認めちゃいましたねー。うっわーマジチェリーっすわー」

「誘導尋問っ!? っつか、罵倒か否かも分かんねーようなこと言うのやめろっ!」

「土下座してくれるんなら、まぁ考えなくもねーですけど?」

「誰だよこんな奴助けようと思っちまったのはぁあああああああああああああああっ!!」

 俺だった。

 今まで66回告白して66回振られているけれども、それでもそんな自分の生涯を、今日以上に後悔した日はなかった。くっそ、あんなゴキブリ風情に優しくするんじゃなかった。情け心なんか出さなきゃよかったどうせ声もまともに出てなかったんだから見殺しにすりゃよかったんだあんなの。

「まぁご主人テメーこの野郎がなにをどう思おうと勝手ですけどね」なんて前置きをして、ゴキ子はラッシーを啜りながら言う。「悪ぃーけど、これはもう確定事項なんですよ、ご主人テメーこの野郎。どういう理屈かどういう因果か、私は見ての通り、ゴキブリから人間になっちまいましたからね。今更ゴキブリみてーな生活にゃ戻れませんし、頼れるゴミ……じゃなかった、人間と言ったらご主人テメーこの野郎子と蜻蛉峠蟋蟀しかいねーですから」

「今お前、命の恩人をゴミって言ったか? あと誰だよ蜻蛉峠って」

「長ったらしーんですよご主人テメーこの野郎の名前は。こんがらがっちまうから、私はこれからずっとご主人テメーこの野郎のことをご主人テメーこの野郎と呼びますよ」

「『テメーこの野郎』の所は最低限要らないだろっ!」

「ほほぉ、成程つまり蟋蟀峠蜻蛉ことご主人テメーこの野郎は、この私の口から『ご主人』という言葉を出させたいと。自分のことは『ご主人』とそう呼べと。私はあんたの下僕であり奴隷であり便器であり性処理器であるとそう言っている訳ですか」

「拡大解釈にもほどがあるっ!」

「そんな余地を作っちまったご主人テメーこの野郎の失態でしょう、これは」

「っていうか、さっきから1ミリも話が前に進んでねーんだけど。なにこれ、本当に駄弁るだけなのかこのパート」

「いやいやだから、これだって恩返しの一環なんですってばご主人テメーこの野郎」

「恩返し…………そう、そうだよ恩返しだ。そこに1回話題を戻そう」

 このままじゃ罵声と怒声がエンドレスだ。埒が明かない。俺だって、別段暇な訳じゃないんだ、今日も普通に学校があるんだから。

 どれほどあり得ない、訳の分からないことが起きようと。

 世界は今日も、通常運転を頑なに続けるのだから。

「お前、ゴキ子さ、さっきから恩返し恩返しって言ってるけど、具体的にはなにをするつもりなんだ?」

「? いえ、だから猥談をしてやってるじゃないで――」

「そういうのは抜きにして、だ」

 努めて冷徹な顔つきを作り、真剣な雰囲気を醸し出させる。

 会話がこうして通じ合い、意思疎通ができてしまっているからこそ忘れてしまいそうになるのだが――――これは、人間と人間の会話ではない。人間と虫の会話なんだ。そこにはしっかりと、一線を引いておかねばなるまい。

 国が違えば常識が違うように、県を跨げば仕来りが違うように、生物種が違えば道理は違う。それも、国とか県とかいう人為的な境目よりもずっと、ずっとずっと、眩暈がするくらいに、俺と虫たちとの間には価値観の差異が横たわっているのだ。極端な話、俺と彼らは会話こそできるものの、互いを完全に理解するなどできはしない。

 彼らは道に落ちているものでも平気で食う。

 同族の死体を、他の虫の死体を、当たり前のように食う。

 人間から血を奪う、作物を食い荒らす。

 人間に鳥に自然に常に、命を狙われている。

 そういった立ち位置の違いを、ここではっきりと明記しておこう。虫たちの言うことを、素直に額面通り受け止めることは危険行為でしかないのだ。ゴキ子だって、今は何故だか人間の形をしているとはいえ(もうこの点については諦める)、元はゴキブリ。人間とは確実に感覚の違う、考え方をすり合わせることなど不可能な生物だったのだ。そんなこいつが『恩返し』と言ったところで、果たしてそれが人間にとって、俺にとってちゃんと益のあることなのかを、俺は確認する必要があるのである。

 最低限、害がないのかどうかだけ、は。

「ゴキブリのお前は知らないかもしれないが、日本には『鶴の恩返し』っていう童話がある。罠にかかった鶴を助けたおじいさんの元へ、1人の女の人がやってきて、機を織るって話だ。当然この女の人は鶴な訳で、自分の羽を毟って機を織っていたんだけど――――お前はどうなんだ? この童話みたいに、俺になにをしてくれるってんだ?」

「翅でももぎ取って、フライにすりゃいいんですかね?」

「激しく遠慮したい。……お前、俺がなにを言いたいのか分かってないだろ」

「いやいや、要は恩返しと銘打つからには、ご主人テメーこの野郎の利益になるようなことをやれと、そう言ってやがるんでしょう? ご主人テメーこの野郎にしては、まぁ的を射た意見ではあるんじゃねーですか? 褒めてやりますよ?」

「殺虫剤……の瓶で殴れば、少しは効くだろ」

「手が死骸でベチャベチャになってもいいならやるがいいですけど…………あんまりお勧めはしませんねぇ。私から見たってえんがちょですよ」

「と・に・か・く・だ!」

 またも罵声と怒声の応酬になりかけてきたやり取りを強引に中断し、俺は卓袱台を叩いた。皿がまとめてガチャリと揺れ、流石のゴキ子も一瞬だけたじろいだ。

 その機を逃すほど、俺もバカではない。

「俺としては、昨日てめぇを助けたのは単なる気紛れで、恩返しをされる謂われなんかないんだ。本来なら即刻追い出すところを、お前が何故だか人型になっちまってるからってことで家に入れているだけなんだ。そこのところを、努々忘れるな」

「はぁ…………なんかご主人テメーこの野郎、童貞の癖に冷静ですね。それとも、だからこそ童貞なんじゃ……」

「茶化すな。それで、だ。こんな所に住んでいることから想像できるだろうが、俺だって暮らしぶりが楽な訳じゃねーんだよ。わざわざ食客を一人増やすなんてこと、絶対にできる訳がないんだ。だから、お前を家に置いとくからには、それ相応の対価を払ってもらうことになる。例えば、働くとか、家事をこなすとか、まぁその辺だな」

「それはそうですよね。うん、ご主人テメーこの野郎も、ちゃんと頭蓋骨ん中に糠味噌ならぬ脳味噌が入っていたようで安心し危ないっ!?」

 眼球目掛けて投擲したフォークを、紙一重で躱すゴキ子。

 ちっ、流石はゴキブリ、危機察知能力には一日の長があるようだな。

「こ、殺す気ですかご主人テメーこの野郎っ!」

「次に茶化したら、口の中に殺虫剤を一気に吹き込む」

「人間相手でも立派な殺人予告ですよそれっ!」

 なんとでも言え。

 親の仕送りで暮らしている身として、あまり偉そうなことも言えないけれども、しかし我が家の暮らしぶりが楽でないのは見ての通りだ。そんな折に、元ゴキブリで現美少女だっつー奴と同居するなんてことになったら、間違いなく財政破綻する。

 本当、こいつが虫だったらどっかしら外へ行ってもらうのに。

 なまじっか人間の形をしているだけに、放っておいたら厄介だ。下手に追い出せば、俺の手に縄がかかる事態にもなりかねん。口は最悪だが、顔だけはマジで綺麗だからなこいつ。むくつけき男性警察官共は黙っちゃいないだろう。

「ふぅん……となると、私はご主人テメーこの野郎への恩返しに加えて、ここで過ごす為の生活費まで捻出しなくてはならない、と。なかなかにハードですね。世間一般じゃ、男の家に転がり込んだ謎の美少女は、確実にニートと化してオッケーだというのに」

「お前の言う世間一般は書店の片隅の肌色空間だけなのか」

「仕っ方ねーですね。まぁ、私には一応、一つの方策がありますからね。その程度のことはなんにも気にならなくなりますよ、ご主人テメーこの野郎」

「方策ぅ?」

 疑わしげな発音になったのは、仕方のないことだったろう。

 ゴキ子は腕を組み、豊満なその胸をより一層強調しながら言ってきたのだ。自信満々な顔をして、勝ち誇った強者の面をして。

 己の考えついた『方策』が、たった一つの冴えた方法だと言わんばかりに。


「恩返しとここの家賃とを兼ねて、ご主人テメーこの野郎、あんたは私の身体を好きにしていいですよ! 私は、あんたのオナペットになりましょう!!」


「あ、そろそろ学校行かなきゃな」

「ここでまさかの放置プレイですかぁっ!?」

 ゴキ子がなにやら驚愕の叫びを上げているが、俺はそれを無視することにした。

 一応は女の子であるゴキ子の目もあるが、しかしあんなことを言う奴なんだし、気にしたところで無駄な気遣いだろう。手早く制服に着替え、鞄を床から引っ手繰ると、俺は早足で玄関へと向かう。靴を履き、崩壊した玄関を慎重に開ける。

 と、そこへゴキ子が何故か涙を浮かべて這いずってきた。

「ちょちょ、待ってくださいよご主人テメーこの野郎! せめて、せめてなんかコメントをくださいよぉ!」

「巫山戯ろ。そんなことより俺は学校に行くんだ。学校に行って、この訳の分からない悪夢から目覚めなくてはならないんだ……!」

「変な使命感に目覚めないでくださいよ! いいじゃないですか学校くらいこの巣で二人爛れた生活もとい性活を過ごしましょうよぉ」

「あぁ、そうそう」

 ヒュインッ!

 鋭い風切り音が鳴り、ゴキ子の戯言が一時停止を余儀なくされる。首元に押し当てられた蠅叩きを目にして、たり、とゴキ子の額を汗が伝った。

「俺はこれから学校に行ってくるが――――お前の所為で、お前の所為で、お前の所為で扉がこの有様だ。だから、お前は大人しく留守番をしていろ。分かったか?」

「さ、3回も言わなくても……わ、分かりましたよ。留守番していりゃいいんでしょう? ……っししししし、この隙にご主人テメーこの野郎の部屋を、ド変態すら裸足で逃げ出す淫靡極まりない艶色空間に――」

「お・と・な・し・く・だ」

 ぺちぺちと頬を蠅叩きで叩いてやると、どうやら俺の殺気は順調に伝わってくれたらしく、ゴキ子はこくこくと頷いた。

 それも、液体窒素でもぶっかけられたみたいに固まった、生気のない笑顔で。

「……じゃあ、行ってくるぞ」

「ハ、ハァイ、イッテラッシャイマセ……」

 硬直したまま、ぎこちなく手を振るゴキ子に見送られ、俺は家を出た。

 警察か、それとも保健所か――――俺は、決めかねたままだった。決めなきゃいけねーのかなぁ……はぁ。


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