プロローグ 其の參
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「あ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~くそったれぇっ!!」
ドンッ!
最後の皿を卓袱台に運び終えると、俺はこういう時の為に伸ばしてある爪で、両腕を同時にガリガリ引っ掻いた。痛いは痛いし、もう血がどばどば出ている訳だけれども、それと同時に何故か心地よい。痒みを痛みで打ち消している間だけ、得も言われぬ快感が腕を走っていく。
本当、12年前の一件以来、蚊だけは本当に苦手だ。
みんながみんな気にも留めちゃいないが、あいつら、人の血を吸っているのだ。やっていることは蛭やら吸血鬼やらと変わらない。そんなえげつないことをいとも容易く行っているというのに、声は例外なくしっかりと聞こえるものだから厄介だ。人なら誰しも自然と行っている『蚊を潰す』という行為が、俺には声を発しコミュニケーションを取れる相手の殺害と等しいのだ。
殺す殺されるのヒエラルキーって、きっとコミュニケーションが取れるかどうかだと思うんだよな。話し合える奴がいたら、無闇に殺そうだなんて思わないだろう? 自慢じゃないが、俺は生まれてこの方、虫を一匹も殺したことがないのだ。正確に言うと、殺せない、の間違いだが。
「それでも、この痒みだけは――――あぁもう本っ当にっ! 俺とはまったく関係ない所で俺の全然関与していない原因によってあいつら滅んでくれねーかなぁっ!」
まぁ、確実に無理だろうけれど。
虫といって、侮ってはいけない。彼らは地球上において最も栄えている生物種だ。種の中でさえもヒエラルキーがある所為か、高度な社会を築くには至っていないものの、もしも虫たちが俺ら人間のおよそ半分の知性でも有していれば、地球の覇権は容易く虫側に譲渡されることだろう。
クトゥルー神話でも、未来の地球を支配していたのは虫っぽい生物だったよな?
「くそっ! …………まぁいい、さっさと食うか」
丁度虫さされの薬は切らしている。明日まで我慢するしかないのなら、いくら掻き毟ったところで同じだ。
俺も俺で開き直って、目の前の食卓を見た。親元を離れての、アパート一間での一人暮らし。そんな家庭環境に似合わず、卓袱台に並べられた料理は我ながら見事かつ、アホか、とツッコミを入れたくなるようなものだった。
メインディッシュはオムライスにビーフシチューをかけたもののグラタン焼き。おかずには鰆の西京焼きに、ミルフィーユトンカツ(チーズ付き)。小皿には花わさびの醤油和え、ヒジキの炒め物。飲み物はインターネットで作り方を拾って作ったラッシー(グレープ味)。
繰り返すが俺は、アパート一間での一人暮らし。
…………言い訳をさせてくれ。元々料理は好きで、趣味みたいなものなんだ。そしてさ、ストレスを感じた時って、趣味に熱中しちまうことがあるじゃないか。イライラするとつい食べちゃうとか、ついつい買い物しちゃうとか、ああいう奴。あれの料理バージョンなんだよ、俺は。イラっとくるとつい豪華な料理を作っちまうんだよ。
どうせ食うのは俺なんだし、誰に遠慮することもあるまい。
いいや、さっさと食っちまおう。明日も学校だし。
「いっただっきま――――あ?」
そこで俺は、それに気づいた。気づいてしまった。
消え入りそうに微かな、その声に。
『…………あ……う……』
酷く弱々しい声は、すぐ足元から聞こえた。
サバンナを駆ける野生動物もたじろぐであろう、びっくりするほどに棒な卓袱台の四足。その中でも、俺から最も離れた足の根元に、それは転がっていたのだ。
「……ゴキ、ブリ……?」
黒光りする、楕円形の身体。
うねうねと動く触角。
かさかさと、今にも音を立てて這い動きそうな脚。
間違いない。全国の皆様方に毛嫌いされている虫断トツナンバー一の、ゴキブリである。通称Gである。昨今では、このアルファベットが毛虫の如く(いや、毛虫よりも遥かにか)嫌われているこの虫単体を示す記号になり下がってしまった節があるよなぁ。胸のサイズとかだったらときめくのにな。
閑話休題。
日本全国の皆様、特に主婦の皆様方には大変不評なこの黒い悪魔であるが、実際、俺はそこまで毛嫌いしてはいない。確かに他の虫に比べてやや気持ち悪いことはあるものの、悲鳴を上げるほどではないのだ。こいつもこいつで、たまに会話はできるしな。大抵が餌のことだけ考えているけれど。
だが、このGにはもう、そんな体力もないようだった。
『……、……う……』
時折呻くように、一音だけ発される声。
動きもそれに連動して、酷く鈍い。普段ならカサコソと、所構わず這い回る厄介な輩なのに、今日に限ってどうしたことか。脚一本どころか、触手さえ動かす気配はない。
ぴくんぴくんと、心電図みたいに痙攣するだけだ。
「……怪我は、ないみたいだな。このタイミングで出てきたってことは…………空腹、か?」
『…………』
訊ねても、返ってくる答えは無言。
うーむ。
どうしようかなぁ。いや、元々ぼろいアパートだから、Gなんて年がら年中、冬でもお構いなしに出てくるから、特に思い入れなんてないんだ。助けようとも思わない。いくら会話が自在とはいえ、所詮は虫なんだ。自然の摂理に逆らってまで生き長らえさせようとは思わない。こいつらの場合、生き延びた方が地獄だってこともあり得るんだからな。
「……………………」
『……ぁ……ぅ……』
しっかしなぁ。
こうも目の前でびくんびくんと痙攣されちゃあ、正直放っといている時点で結構な罪悪感なんだよ。なまじっか声が聞こえるばっかりに、酷く同情が入っちまうんだよ俺は本当にお人好しなことにさぁ!
あぁもう苦しそうだなぁこいつ! Gだけれど!
それを放置している俺って、すっげぇ悪人みたいだなぁちくしょーっ!
「……傍から見たら俺って、すっげぇバカっぽいんだろうな」
言いつつも、無意味と分かってはいても、胸を締めつける痛みは消えてくれない。
俺はスプーンに牛肉の塊を乗っけて、そっと、瀕死のゴキブリの前に落としてやった。
『!』
声こそなかったが、ゴキブリが蜘蛛の糸を見つけたことだけは伝わった。今までの死に体が嘘のように、Gは転がり出た餌に食らいついていく。流石は生きている化石で最も図太い神経の持ち主。雑食の王。食事シーンはあんまり見たいものじゃないので、俺は後ろを向いたまま作業を続ける。
スプーンから滴り落ちる、ビーフシチューたち。ヘンゼルとグレーテルが道標にしたパン屑みたいなそれは、一直線に玄関の方へと続いていく。
人間の垢やら髪の毛でも遠慮なく食み、頭を切り落とされても一週間程度は生き続けるとまで言われるゴキブリが、ここまで弱っているのだ。相当期間、なにも食べていなかったのだろう。そんな最中にこのご馳走だ。Gは特になんの疑問も抱かなかったようで、大顎で肉の咀嚼を終えると、すかさず俺がこぼしたビーフシチューの雫を追いかけてきた。
単純な奴。
ここまで簡単だと、可愛らしいとさえ思えてきてしまう。
やがて、最後の大きな肉塊が、開け放たれたドアの外に落とされる。
『っ! 肉っ!』
欲望に素直な奴である。一言そう叫ぶと、ロクな飛行能力を持たない翅を一生懸命に広げ、肉目掛けて飛んでいった。
玄関の外。
アパートの廊下。
黄ばんだ蛍光灯が光る、ぼろっちい共用空間へ。
勿論外である。嫌味なくらいに月と星が綺麗で、六月という微妙な時期に相応しい、生温かい空気が流れていた。
「ったく、お前みたいな奴が飢えてんじゃねーよ。――――じゃあな」
むしゃむしゃと、肉を一心不乱にひた齧るゴキブリにそう言って、俺は扉を閉める。
ゴキブリは複眼を持っているが、その機能はあまり発達していない。代わりに奴らは、触覚などを使って辺りを探るものなのだ――――けれど。
何故だろう、最後に俺の方を向いていたそいつの目は。
真剣に真摯に真っ直ぐ極まりなく、俺のことを見ていた。
確かに、そんな気がしたんだ。