エピローグ 其の壹
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『空想上の友達』という心理学の用語がある。解離性同一性障害、俗にいう多重人格と混同されやすいものであるが、実際は病気ではないらしい。よく子どもがなにもいない虚空に向かって、親しげに話しかけているということがあるだろう。後で話を聞いてみると、『○○と話していたの』と得意げに言ってくるが、勿論そんな人物は存在しない。しかも、多くが五、六歳ほどになるとその存在自体を丸っきり忘れてしまう。だから体験談の多くは母親の証言だったりするのだが、その目には見えない話し相手こそが『空想上の友達』なのである。大穴で幽霊と話していたという可能性もあるかも知れないが、霊的存在が絡むと心理学という用語が霞んでしまうので今回はパスで。
アメリカなどでは比較的一般に知られた概念であるらしいが、日本ではいまいち認知度が低い。ごく稀に、子どもが幽霊と話していると騒ぐ親もいるらしいが、これは子どもの自我確立に必要なステップの一つであるらしく、大騒ぎするようなものではないという。大人になっても消えなかったり、或いは本来の自分の人格と入れ替わってしまうというおっかない事例もあるそうだが、そういうのは本当にごく一部だ。
さて、なんでいきなりこんなことを語り出したかといえば、俺にもいたからなのだ。それと似たような奴が。
尤も、厳密に言うまでもなくまったくの別物だ。なにしろそれは、『空想上の友達』とは正反対で、俺はいつまでも覚えているのに、俺以外の誰もがそいつの存在を否定している、そんな存在なのだから。
我が母親が暢気に電話口で話していたように、俺と繭遊は昔から、二人で遊びに行くと深夜まで帰らないことがままあった。放浪癖があったのではない、楽し過ぎて時間を忘れていたのだ。
兄妹二人で遊んでいて、そんなに楽しかったのかって?
違う。俺たちにはいつも、遊び相手がいたのだ。当時小学生の俺と、幼稚園児だった繭遊と一緒に遊んでくれた、優しいお兄さんお姉さんが。
だが、当時のクラスメートや同級生に訊いても、そんな奴は知らないと、皆口を揃えて言ってくる。親に訊ねても同じことで、終いには小学校の卒業アルバムを10年分ほど借りて見せてもらったが、結局誰一人として発見することはできなかった。
まぁ、なにしろ子ども時代の記憶だ。当てになるようなものでもなかったのだろうと思っていたけれど――――ゴキ子の出現で事情が変わった。
もしも彼らが、ゴキ子と同じように、虫が姿を変えた人間だったとしたら?
俺と繭遊は、存在しない人間と遊んでいた――――それなら、辻褄は合うんじゃないか?
そこで決定打になったのは、俺の不可思議な体質である。虫の声が聞けるという、この人間離れした能力を持った俺が兄なのだ、ならば、繭遊にもなにかしらの能力があるんじゃないか?
そう思って、俺は繭遊の住む寮に電話をかけた。
電話口で、俺の話を黙って聴いていた妹は――――1時間半後、順当な時間をかけて、俺の部屋を訪ねてきたのだった。




