プロローグ 其の貳
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それが人間の声じゃないと気づいたのは、5歳の時だ。
俺の家族は、両親を合わせてなんと6人。4人もの兄弟に囲まれての生活だった。やや年の離れた姉と兄は喋々喃々とよく喋る性格だったし、多少五月蠅いのもデフォルトとして認識されてしまっていたのだ。
けれど、1歳の妹と2人きりで留守番をしている時に、その認識は一変させられる。
1歳なんて年では、人間はまだまだ喋れない。はっきりと意味を持った言葉を喋るには、もう少し時を待たねばならない筈だ。
なのに、俺にはその声が聞こえた。
母親がマンションの入口まで、荷物を受け取りに行く間だけ。そのほんの2、3分の留守番が、俺の世界を変えたのだ。
『かわいいね』
『かわいいね』
『ふたりとも』
『かわいいね』
明らかに妹が発したものではない、発音のやけに明瞭な音声。
5歳の浅知恵とはいえ、俺は音源を必死になって探した。当時から読書家だった影響だろう、俺は5歳にして幽霊なる存在を知っていたし、子どもを攫うお化けなんて枚挙に暇がなかった。妹が不思議そうな顔をするのも構わず、俺は半狂乱になって声の聞こえてくる方向を探ったのだ。
そして、それを見つけた。
話しやすいようにとの配慮だろうか、ティッシュ箱の上に座ったそれは、俺の顔をじっと見つめてきたのだ。いや、目なんかどこにあるのか分からないから、視線の行く先なんて分かる訳がないのだけれども。
「……きみが、はなしてたの?」
『うん、そうだよ』
それは答えた。
くすりと、笑ったような声で。
『ねぇ、君の血、吸っていい?』
蟋蟀峠蜻蛉――――虫の声を聴ける男。
そんな俺の、虫との付き合いを避け得ない人生は、恐怖に狂っての逃走から始まったのだった。