第4章 其の壹
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「ふいー、危なかったですねぇご主人テメーこの野郎。大丈夫ですか? ビビって失禁してたりしません? お漏らしプレイなんてマニアックな真似していやがったら、お返しに浣腸プレイをお見舞いしますよ? 直に口へ、私のきったねー排泄物を」
「おま、お前……命がリアルに危険だったのに、言うことはそれだけかよっ!」
「もう助かりましたからねぇ」
過ぎたことは気にしねー主義なんですよ。
恩返しという、自身の行動理念そのものまで崩しかねない危険な台詞を口にしながら、ゴキ子は俺の肩の上で、ふいー、と再び息を吐いた。
肩の上。
いや、ゴキ子がどこに立っているとか、そういうことは気にしないでおこう。俺自身が腰を落ち着けているのだって、高さ2メートルはあるだろう、ブロック塀の上なのだから。
5秒前。
俺たちは、無数の手榴弾に襲われた。
全方位に満遍なく、人間の足ではカバーし切れないほどの距離にまでばら撒かれた爆発物。避ける術を持ち合わせていなかった俺は、ゴキ子によってなんとか救われた。
ゴキ子の背中に生えた、2対4枚の翅によって。
「っていうか、お前飛べたのかよっ!」
「私自身も今気づきました。案外、ゴキブリと人間の境界がいい加減ですね」
「触角よりも大分ゴキブリ寄りじゃねーか。本当にこいつ、ちゃんと人化してるのか……?」
肩の上に、スカート姿の女子が立っているという事情を鑑みるに、俺は今上を向くことができないのだけど、しかし気配から察するに、あの翅はまだ生えているのだろう。透明でありながら薄茶色の、お世辞にも綺麗とは言えない翅が。
羽を生やして飛ぶ女の子とか、漫画やアニメじゃ天使辺りが妥当なのに。
世の男性方の夢をぶち壊しである。なにせ、羽じゃなくて翅だしな。
「結果的に助かったからいいけど……その翅、ふとした拍子で広げたりとかすんなよ? お前のことは、遠い親戚ってことで通してんだからな」
「人間社会は面倒くせーですねぇ」
「人に見られたりしたら、即見世物小屋行きだぞ。或いは研究所とか、かな。とにかく以後、その翅を濫りに出すのは禁止な、ゴキ子」
「命を救ってくれた要素に対して、いやに辛辣ですねぇご主人テメーこの野郎。……ところで」
「あ?」
「以後、なんてものがあるんですかねぇ? 私たちに」
やけに遠い響きを持ったその声に釣られて、黒目だけを上方に動かす。
空は再び、手榴弾に覆い尽くされていた。
「っ!? ゴキ子っ!」
「ヒロインの力に頼りっ切りのヘタレ主人公っ振り、困ったことに嫌いじゃねーですよっ! ご主人テメーこの野郎っ!」
言った瞬間にはもう、ゴキ子は行動を開始していた。
膝を曲げずに腰を落とし、俺の肩を両手で掴む。そしてそのまま翅を広げ、振り子の要領でブロック塀を蹴ったのだ。その勢いから生じる風を翅が捕まえ、滑空するように俺たちは中空を駆ける。道を挟んだ反対側にあるブロック塀に着地した瞬間、手榴弾は一斉に爆発した。
熱い爆風が飛んではくるものの、ダメージはない。
ゴキブリは脚が速い代わりに、そこまで飛翔能力が高くなく、どうしてもグライダーのように滑空するような形になる。スピード優先のこの飛び方は、しかし攻撃の回避にはもってこいだ。
尤も、それだけじゃこの猛攻を止めることはできないのだろうが。
「くそっ、揚羽宮の奴…………今日は本気の本気で殺しにかかってきやがるな……」
「揚羽宮って、昨日矢を放ってきやがった奴ですか? なんなんですか? ご主人テメーこの野郎を殺して、そいつになにかメリットがあるんですか?」
「溜飲が下がるんだろ。あいつはそういう奴なんだよ、下手すればお前よりずっと最悪だ」
そう、その通りなのだ。
揚羽宮愛虫――――あいつはきっと、俺を殺すことで証明しようとしているだけなのだ。自分の尊大さを、自分の偉大さを、俺なんか及びもつかない上等種なのだと。
そう声高に主張したいだけ。
巻き込まれた方としては、堪ったものではない。あの時だって、俺はなに1つ間違ったことはしていないのだから。
「っ、しつっこいですねぇ!」
再びの滑空。今度は爆風も上手く利用して、やや高度を上げることに成功した。着地できる箇所が、どんどん少なくなっていくのだ、揚羽宮が足場を破壊していくから。
これはもう、1種の消耗戦といっていい。
とにかく、どこかへ逃げないと。
「ちっ、ゴキ子ぉっ! とにかく一旦逃げるぞ、どうにか屋根の上に登れないかっ!?」
「可能性が1%でもあるなら、そりゃできるってことなんですよっ!」
使い古された口上を得意げに口にして、ゴキ子は一層大きく翅を広げた。
次いで、4度目の爆発。地面に跳ね返った爆風は上昇気流となり、俺たちの高度を強引に押し上げた。
赤い瓦が敷き詰められた屋根を、俺の足が踏み締める。
「よし、流石にここまで来れば、――――っ!?」
「っ、敵さん厳し過ぎでしょーよっ!」
人の家を破壊するようなことは、いくら揚羽宮とはいえやらないだろう――――そんな風に甘ったれた考えを否定するように、またもや上空には手榴弾が舞っていた。
爆発される前に、俺とゴキ子は駆け出す。屋根から屋根へ、まるでどこぞの怪盗の孫みたいな逃走劇の始まりだ。民家が隣接している地域だからか、人の足でも走ることは可能だった。
なのに、どこまで逃げても、際限なく手榴弾が追ってくる。
足場にしていた家々が、1軒1軒壊されていく。
「…………あいつ……!」
別に、住民に対してなにかしらの思い入れがある訳じゃない、けれど。
流石にこれは、腹が立つ。
腸が、煮え繰り返る。
なんなんだ、なんなんだよこれは。
あいつの、揚羽宮の我儘勝手で、どうしてこんなにも色々なものが壊されなきゃいけない?
「くそ、くそ、くそくそくそくそっ! あっの女郎、今日こそは絶対に殴ってやるっ!」
「落ち着いてくださいよ、ご主人テメーこの野郎」
がしっ
必死になって逃げる俺の肩を、ゴキ子が掴む。
同時に、ふわり、と身体が宙に浮いた。もう何度目になるか分からない、ゴキ子の翅を使っての滑空だ。いつの間にかかなりの距離を進んだらしく、眼下には川が見える。
しかも、結構な高度だ。落ちたら多分、怪我では済まないだろう。
「ご主人テメーこの野郎、人間なんですから少しは頭使いましょうよ。私は頭脳労働まで担当した覚えはねーんですよ?」
「……? なんのことだよ」
「手榴弾ですよ」呆れを隠さずに、ゴキ子は言ってくる。「あの手榴弾、全部上から来ていたでしょう? でも、上空にヘリとかは飛んでいないですし、必然的にその揚羽宮さんは、私たちより高いところにいるってことになりやがります」
「……うん」
「うんじゃねーですよこのド変態が。だから、わざわざ高度を上げられるような屋根を選んで飛び移ってたんです。今、地上からの高さは10メートル近くあるんじゃねーですかね」
「10メートル…………高いと思う筈だよ。落ちたら死ぬな」
「私は平気ですけどね、なにせ元・ゴキブリですから。だから、ご主人テメーこの野郎は落ちないでくださいよ――」
なんて、冗談めかして言っている、その最中だった。
バシュッ! という鋭い音が、ゴキ子の翅を貫いたのだ。
右側の翅に穴が開き、バランスが目に見えて崩れる。
「っ、ご主人っ!」
お馴染みの罵倒すら省略して、ゴキ子は俺のことを放り投げた。手近な屋根へと、渾身の力を込めて。
「ぐぉっ!?」
乱雑に瓦屋根の上に叩きつけられた俺は、しかし背中の痛みになど構っている暇はなく、慌ててゴキ子の方へと目を遣った。
「ゴキ子ぉっ!」
叫んでも、返ってくる声はない。
どこを見渡しても、あの薄茶色はいない。見えない。
ゴキ子の姿が、どこにもない。
「っ、あのバカ……!」
なんで、なんで俺のことを助けたんだよ。
お前の力があれば、1人でちゃっかり助かることもできただろうに。
こんな時にだけ、なんで律義に、恩返ししてくるんだよ。
「ゴキ、子…………」
「侮れませんわね、雑魚とはいえ虚仮の一念というものは。でも、一応感謝はしましょう」
芝居がかった口調の声が、背後から聞こえてきた。
鈴のように軽やかなのに、無理に張っている所為か妙に聞き苦しい、錆びたハンドベルみたいな声である。加えて、酷く尊大な響きを持っている。言葉の端々に高慢さが見え隠れする声に、俺は、激しく心当たりがあった。
ここ1年ほど、まともに声を聞いていない、姿も見ていないけれど。
確信だけは、いくらでも持てた。
「…………お前」
「久し振りですわね、会いたかったですわ蟋蟀峠蜻蛉」
震える拳を押さえながら、俺はゆっくりと振り向く。
そこにいたのは、1人の少女だった。
整った目鼻立ち、青い瞳、金色の長い髪。更にはフリルがふんだんにあしらわれたドレスを着込んだその姿は、さながら西洋の人形のようだ。ただ、よく怪談のモチーフになるあれとは違い、背は人並み以上にある。ゴキ子以上俺未満といった辺りであろう背丈に、程よい大きさの膨らみを持つ胸。モデルとしても充分に通じる顔と体型だが――――誠に残念ながら、正確がねじ曲がっている。
クロスボウを担ぎ、豪奢な扇子で顔を半分ほど隠して。
揚羽宮愛虫は――――およそ1年振りに、俺と邂逅を果たしたのだった。