第3章 其の參
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「俺の逡巡を完全無視だとてめぇっ!?」
しかもめっちゃあっさりとバラしやがったっ!?
こいつ一体なに考えてんだっ!? いや、割とマジで真面目な話っ!
「? なに愕然とした面しやがってんですかご主人テメーこの野郎。ただでさえ貧相で、見るからに童貞の皮被りの触手臭いバナナぶら下げてるのが丸分かりに顔しているのに、さらに酷い面になりましたね。彼女いない歴=年齢っていうのが、露骨に分かっちまう顔をしています。きったねーんで今すぐチャンネル変えてくださいよ」
「お、おおおおおおおお前っ! お前の身の上を気遣った俺の心情は完璧に無視かっ!?」
「は? なに? ご主人テメーこの野郎、まさかミジンコにも劣る下等生物の分際で、私の身の上とか気にしてやがったんですか? 引きますわー。身の程知らずっぷりに尊敬通り越して引きますわー」
「ゴキブリに言われたくねーよっ!」
「身の上とか言いつつも、結局はご主人テメーこの野郎のことですし、私の身体にどれだけの食材が乗るかを計算していただけでしょう? 胸には生クリームでも巻きますか? 股には鮑でも乗せます? 隠せてんだか隠せてないんだか微妙ですけど」
「お前の思考回路はそういうところにしか接続されねーのかっ!?」
「今更気づいたんですかっ!?」
「認めたっ!? しかも気づかなかったことに驚かれたっ!?」
「ま、どうせご主人テメーこの野郎は私のえろくて柔らかくてふっわふわでマシュマロいおっぱいにしか目が行ってねーから、そんな単純明快なことにも気付けねーんですよね。やだやだ、童貞は本当に無駄にがっついているもんですから」
「この期に及んでまだ胸に話題を持っていくとか、お前は勇者かっ! 今度こそ繭遊に殺され――――はっ!」
そうだ、繭遊だ。
すっかりお馴染みになってしまった、エンドレスの罵声と怒声の応酬。しかし、そこに今回は繭遊という部外者がいるのだ。今朝とはまるで状況が違う。
それも、繭遊には今、ゴキ子がゴキブリだったということを聞かれてしまった。
兄である俺を愛している繭遊のこと、これで正気を保っていられる筈がない。邪魔者であろうゴキ子が人外の徒であることが分かった今、なにをするかは本当に、文字通りの意味で計り知れない。
地球破壊爆弾とか、簡単に出してきそう。
焦りの為か、額にぶわっと湧いて出た汗を拭うのも忘れ、俺は繭遊へと目を向けた。
果たして、繭遊は――
「……………………」
「……ま、ゆゆ?」
繭遊は、腕を組んでじっと考えていた。
口元に手を当て、思案顔で目を宙に泳がせている。俺が目を如雨露にして注いでいる視線にも、まったく気づいてはいないようだ。声だって、もしかしたら聞こえていないかも知れない。
この状態を、俺は知っている――――蟋蟀峠繭遊の四天宝技の一『考黙天』。
持国天・広目天・増長天・多聞天という、仏教で言うところの四天王から取って名付けられたその技術は、繭遊が天才である所以の一部だ。中でも『考黙天』は、繭遊の類稀なる集中力を指す技名である。極限まで思考に集中した彼女は、きっと至近距離で爆弾が炸裂したところで、眉根一つ動かしはしないだろう。
他の3つについては…………うん、解説するタイミングが来ないといいな。4つの内2つまでは、飽くなきまでに戦闘向きの技術だし。
「……ふぅん、成程ね」
やがて、繭遊は腕を持ちあげて伸びをしながら、欠伸交じりに呟いた。
思考はどうやら、終わったらしい。
なら、もう結論も出ているだろう。
さて、天才と名高い人災そのもの、ハイスペック故のトラブルメーカーである繭遊は、人外であるゴキ子に対して、どのような結論を下す?
死刑判決を待つ虜囚のような心持ちで待っていると――――繭遊は、ゆっくりとその口を開いた。
「お兄ちゃん」
「…………な、なんだ? 繭遊」
緊張の一瞬。
胃液が競り上がってくる感覚に、俺は思わず苦い顔をする。それでなくともきっと、今の俺はやつれた顔をしているだろう。妹のキャラを考えるに、その可愛らしい曲線を描く唇からどのような判決が下されるのか、考えただけで胃に穴が開きそうなのだ。
ほんの少しの間。か細い溜息。紡がれる言の葉。
無限とも思えるタイムアウトを取ってから――――繭遊は、口を開いた。
「お兄ちゃん…………繭遊は、貧乳もステータスだと思っているの。ほら、揉めばまだ成長するよ? お兄ちゃん好みに、調教ててほしい、な」
「まだ胸の話引き摺ってたのっ!?」
直前までの緊張を丸ごと忘れて、俺は派手にツッコミを入れていた。
内容自体もツッコミ所満載だったが、しかし、心のどこかでホッとしている自分がいる。触れれば折れそうだった自分の心を支えることの方が、急務に思えて仕方なかった。
……っていうか、ゴキ子には触れず?
人外とか、元・ゴキブリって件はスルー?
「えと、繭遊? あの、ゴキ子のこと……」
「あぁ、齧澤季語というホルスタインが、元はゴキブリだったって話? うん、まぁ納得済みだけど…………あれ? お兄ちゃんがそこまで慌てるってことは、嘘なの?」
「いや、残念ながら本当のことだけど」
「そ」
「そ、って…………あの、なんか異論とかは?」
「特にないよ?」
純真無垢を絵に書いたような惚けた顔で、きょとんと首を傾げる繭遊。兄の目から見たってドギマギするくらいに可愛いのだが、これで実兄のことが好きだと公言していなけりゃなぁ……本当、残念極まりない。
しかしそれはそれとしても……え? 本当にいいの? 別に反論とか否定とかしてほしかった訳じゃないけど…………なんにもないと、それはそれで不安になる。
「だから、別にいいんだって。お兄ちゃん、そんなドギマギした顔しないでよ…………襲いたくなっちゃうよ」
「もじもじとなにを仰ってますか繭遊さんっ!?」
「安心してよ。何度も言うけど、納得したから」銀髪の向こうに柔らかい笑みを浮かべて、繭遊は歌うように言った。「生意気言うようだけど、繭遊にはお兄ちゃんの知らない情報網、いっぱいあるんだよ。検証は記憶の中で充分だし、反証は特になかったから、だから、別にいいの。それに」
「それに?」
「お兄ちゃんの言うことだもん。だから、信じるよ」
「…………!」
うあ…………な、なんだよ今の。なんだこの破壊力。
反則だろこんなの。一撃でっていうか一言で、心の耐久力を一気に根こそぎにされた感じだ。実の妹だっていうのに、何故だか胸が熱い。心臓が痛いくらいに早鐘を叩いている。
やべぇ、繭遊やべぇ。
あれ? もしかしてだけど俺の妹って、この世で一番魅力的だったりしねーか? そりゃうん、俺に彼女ができね筈だよ。虫たちによる邪魔はあるかも知れねーけど、それ以前に、俺がこんな魅力的過ぎる妹を知っちまっているんだもん。66人に告白したはしたけれど、その内誰か1人でも繭遊に並び立つ奴はいたか? いねーだろ。凡百の高校生なんかには、我が妹の魅力は超えられねーんだ。やばいやばいやばいやばい。上限を知っちまっているからには、妥協なんかできねじゃねーか。
つまりなんだ? 俺が彼女にするなら、繭遊しかいないってことなのか?
繭遊こそが俺の運命の相手とか…………つまりはそういうことか?
あぁでもしかし、抗い難いその魅力に誘われちまったら、拒むことなんて――
「? どうしたの、お兄ちゃん? …………もしかして、繭遊でえっちいこと、したいの?」
「な、なにを、バカな……」
「うふふ、我慢しなくても、いいんだよ? 繭遊の身体はもう、ずっとずぅっと昔から、お兄ちゃんを受け入れる準備が――」
花に群がる蝶の如く、砂糖に集る蟻の如く。
拒み難い本能への刺激が、俺を操る。ふらふらと、誘蛾灯に誘われる哀れな虫のように、俺は繭遊の方へ身体を寄せた――――が。
甘ったるい時間は、そこで終わりだった。
『危ないよ』
『危ないね』
『危ないな』
『危ないぞ』
「――――?」
久し振りに聞こえてきた虫の声が、揃って警告をしてきたのだ。
そしてそれ以上に、ゴキ子の反応が早かった。いつの間にか触角に戻していた前髪を動かしつつ、彼女はいきなり繭遊の身体を俺と逆の方向へと倒したのである。
「へ――――?」
不意をつかれた繭遊は、ドミノのように簡単に倒れる。急に離れてしまった繭遊へ向かって伸ばそうとした俺の腕も、ゴキ子の射抜くような視線に止められた。
なにが起きたのか分からない、そんな静寂はほんの一瞬。
次の瞬間には――――我が家の卓袱台に深々と、弓矢が突き刺さっていた。
「――――っ!?」
俺の指先の、その数ミリ先の空気を劈いて飛来した弓矢は、手加減抜きで木製の卓袱台を貫いている。もしも俺があと少しでも手を伸ばしていたらと思うと、ゾッとするどころではない。確実に右手首から先は切断する憂き目に遭っていただろう。
3本どころか1本でも絶対に折れないであろう、ぶっとい黒光りする矢。
こんな、こんなことをしてきやがるのは――
「揚羽宮、愛虫…………あの女郎またかよっ! しかも自宅を狙ってくるとは……!」
窓を全開にしていたのが裏目に出たか。
これからは窓を閉め切り、尚且つ遮光性の高いカーテンを張り巡らしておくとして――――対策よりも、取るべき行動は制裁だろう。警察は今までに何度も頼っているが、揚羽宮の財力に踊らされやすいのでNG。となると、頼れるのは――
「……揚羽宮……ふふ、そっかぁ……あの、あの雌豚かぁ……!」
「っ、ま、繭遊……?」
「ふふっ、ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ…………!」
すぐ隣で、正座の姿勢のままフィギュアみたいに床に寝転んだ繭遊が、不気味な笑い声を漏らしていた。
って怖っ! 超怖いなにこいつ本当に俺の妹っ!?
俺の妹がこんなに怖いわけがないっ! 多分っ!
「ご主人テメーこの野郎、現実から目ぇ背けんじゃねーですよ。あんたの妹はマジで怖いしおっかねーし、ご主人テメーこの野郎は非モテの童貞野郎なんですよ」
「いや、お前は少し空気を読め。今この瞬間は黙って――」
「ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ――――あっはははははぁっ!!」
狂ったように笑い声を漏らし続けていた繭遊が――――今度こそ、確定的に壊れた。
瞳孔をカッと見開き、形だけ笑みを作った三日月の口を美麗に歪ませて、彼女は立ち上がる。その礼拝服の中から、お得意の凶器を取り出して。
右手には鉈。左手には半月型の両刃の剣。ショーテルというらしい。あまり知りたくなかった。
「許さない――――許さない許さない許さないよっ! 選りにも選って、繭遊とお兄ちゃんの蜜月を邪魔しようだなんて――――天と地と神と悪魔が許そうと、繭遊が絶対に、絶対に許してあげないんだからねぇっ!!」
言うが早い、繭遊は俺たちのことなど視界にも張っていないかのように一心不乱で、窓から外へと跳び出した。
言い忘れていたが、俺の部屋は2階。
落ちたら、まぁ死にはしないだろうけれども、怪我は免れない高さだ。
「ちょ、繭遊っ!?」
慌てて呼び掛けるも、もう遅い。既に繭遊の身体は完全に空中だ。
落ちる。怪我する。それは最早、確定事項のように思えた――――のに。
「よっ――――っとぉっ!」
繭遊はあろうことか、アパートの壁を足場にして、前方へと跳躍してみせたのだ。
更にそこから、別の家の壁や屋根、果ては電柱までジャンプ台代わりにして、彼女の跳躍は続く。凶器を携えたままの繭遊は、そのまま夜闇の中へと消えてしまった。
夜目が利かない俺には、これ以上あいつの背中を追うことができなかった。
「……あれ、もしかしてさっきのゴキ子の動きを見て学んだのか…………? 流石だな、繭遊の『他紋天』」
跳んだり跳ねたりは元から得意だった繭遊だが、あんな空中でまで跳ね回る姿は見たことがなかった。恐らくは『他人の技術を瞬時に真似する』という模倣の才能、人呼んで四天宝技の一『他紋天』によって習得した技術なのだろう。外という、失敗しても大丈夫という安心感が多少なりある屋内とは違う環境で易々と実現できる分、模倣された側であるゴキ子よりも1枚上手なのかも知れない。
それに、繭遊はどこへ跳べば1番効率よく進めるのか、分かっているようだった。跳び方に迷いが一切なかったのだ。希代の記憶力を指す四天宝技の一、『蔵帳天』によるものだろう。いや、兄の下宿先の近辺に矢鱈と詳しい妹というのも、少し嫌だけど。
ちなみに四天宝技最後の一つは『自酷天』といい、要は我慢のスキルである。耐え難きを耐え忍び難きを忍ぶことで、自分の中で感情を極限まで高めるのだというが…………正直、使われているところを殆ど見たことがない。繭遊に我慢とか、最も似合わない単語だと思う。いや、あれか? 俺を襲わないってところで、常時発揮されていたりするのか実は。
なんか、嫌な話である。
やめよ。取り敢えず放っておこう。揚羽宮だって、いくら財力があるとはいえ、人殺しにまでは手を出さないだろう。繭遊だって、その辺は弁えて…………いないかも知れないけど、揚羽宮の家柄を考えると、ボディガードの1人くらいはいるだろうしな。うん、大丈夫だ。大丈夫。大丈夫だと言ってくれよ誰かっ!
「嵐のような妹御でしたねぇ、ご主人テメーこの野郎」
そんな落ち着いた声が、部屋の中から聞こえてきた。
振り向いてみると、何故だかゴキ子がキッチンに立っている。いつの間に冷蔵庫を開けたのだろう、狭い調理台の上には大根と味噌、それと煮干しが揃い踏みしていた。
そして、彼女の手には小鍋が1つ。既に火にかけられていて、沸々と湯気を吐き出している。
「……ゴキ子? お前、なにやってんだ?」
「見りゃ分かんでしょーよ。料理してんですよ」
「はい?」
料理? ゴキ子が?
昨日までゴキブリだった女が、料理?
「……すっげー疑わしげな目で見られて、乙女心がギザギザハートなんですけど。なんですかご主人テメーこの野郎、まさか私が、料理の1つもできねゆとり世代のクソジャリと同格だとでも思いやがってたんですか?」
「俺もゆとり世代だけど、料理くらいできるわっ! いやそうじゃなくて、ゴキ子、お前昨日までゴキブリだったんだろ? なのに、いきなり料理なんて」
「衛生面なら問題ないですよ?」
「そんなことを気にしちゃいねーよ。違くてさ、お前、料理なんてできるのか?」
「ゴキブリ時代には、台所が主な狩り場でしたからねぇ。作り方くらいなら、世の奥様方を見て覚えてますよ。問題ねーです」
「そ、そう、か……?」
「とはいえ、簡単なもんしかできねですから、本格的な食事の前の、その腹ごなしってところですけどね。前菜みてーなもんですよ」
「味噌汁が前菜、か。…………妙な気分だな」
「ご主人テメーこの野郎の料理は上手いですからねぇ」懐かしむように言いながら、ゴキ子はぽやんとした笑みを浮かべた。「あの味を出してもらう為には、万全の体調で台所に向かっていかなきゃあなりませんでしょう。その為だったら、少しくらいは頑張りますよ。ま、これも一つの恩返しです」
「ゴキ子……」
なんだろう、この気持ち。
不覚にも、俺は少し感動しているようだ。ゴキ子が現れてからこっち、ロクなことが起らなかったけど、今になってようやく、まともな恩返しを受けている気がする。
口は悪いし、本能剥き出しだし、お世辞にも恩返しに向いている人格には思えないけれども――――その気持ちだけは、偽りのない本物なんだ。
俺の心を温められるくらいには、少なくとも。
「まぁ本格的な恩返しは、やっぱり布団の中で濃密に愛し合うことで行いたいと思いますけどねぇ」
「台無しだよっ! 俺の感動を返せっ!」
一瞬でも心が動いた俺がバカだったっ!
あぁああああああ腹が立つっ! 俺の料理が美味いとか、そう言った時と同じくらい清々しげな笑顔を浮かべやがってっ! 本っ当にこいつは生殖本能だけで生きてやがんなぁっ!
「今日はご主人テメーこの野郎に味噌汁を作ってやったから……味噌汁記念日?」
「なんか、カレンダーに書き辛い記念日だな。元ネタも、あんまり祝いたくはねーが」
「んでもって、ご主人テメーこの野郎が童貞を卒業できたから、今日は童貞記念日」
「間違ってもカレンダーには書かねーよっ! 祝わねーよっ! そしてなによりも、そんな記念日が樹立する予定なんざ欠片もねーよっ!!」
「叫ばねーでくださいよ。味噌汁が童貞になっちまう」
「味噌汁に童貞とかあんのっ!?」
「上のお口と下のお口、どっちも体験するでしょう?」
「したり顔でなに言ってんだてめぇっ! 食物に対してまでそんな感じかっ!」
「なに言ってんだはこっちの台詞ですよご主人テメーこの野郎。大根然り、葱でも人参でも山芋でも、棒状の野菜といったら女子は間違いなく…………でゅふふふふ、こっから先はとてもとても」
「お前はさっさと都条例に規制されろっ!」
そんな、色々と台無しなやり取りではあったけれど。
一瞬ではあっても、それでも――――俺の心は、確かに動いたんだ。
思えば、一人暮らしを始めてから初めてだな。隣に誰かいる食事とか。
誰かが作ってくれた、食事とか。
それを思うと――――なんだか俺は、少しだけ、胸が熱くなるような気がした。