第3章 其の貳
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「改めて紹介するが、こいつが蟋蟀峠繭遊。俺の妹だ」
廊下での戦闘から、およそ1時間後。
いきなり親やら友達やらが訪ねてきても、取り敢えず真剣に殺し合いが演じられたという痕跡が目につくことはないであろう程度に片付けを済ませてから――――俺とゴキ子と繭遊、3人が卓袱台を囲んで座っていた。
舞台は居間。万年床と卓袱台、それから本棚くらいしか家具のない、狭苦しいアパートの一室。全体的に茶褐色で煤けた印象のそこに、2人の少女は豪く不釣り合いだった。
朝はあれでも結構パニくっていて、気づく余裕がなかったのだと、今更ながらに思わされる。繭遊がこんな小汚い部屋にいるのは勿論違和感バリバリだが、落ち着いてみればゴキ子だって、この部屋にはあまりにそぐわない容姿をしていたのだ。
ゴミ捨て場に、妖精が2匹現れたみたい。
尤も、こいつらの場合は日本人が想像するファンシーな奴じゃなくて、西洋の方で一般的なビクシーとかインプとか、そういう悪戯好きな方の妖精な。エルフっていうよりは、ドワーフの方。やっていることはバンシーやレッドキャップに近いが。
薄い茶色と銀色が、絡むようにして風に靡く。
茶と黒の瞳とが、殺気混じりに視線を交わしていた。
「お兄ちゃん」俺の右隣り、開け放した窓に背を向けて座る繭遊が、俺の方をまったく見ずに言ってくる。「繭遊のことなんて、どうでもまったく構わないんだよ。それよりどれより、この女はなんなのかな?」
「え、と…………お前、朝はこいつと会っているんだよな?」
「遭っているよ。お兄ちゃんの部屋に堂々と居座っていたから、追い出したけど」
「……お前、だよな。こいつが学校に来れるように仕向けたのは」
「お兄ちゃんがこの牛女を、繭遊に紹介してくれるなら、話してあげなくもないよ」
「……ゴキ子、自己紹介」
「仕方ねーですね」
冷たい目をして、じーっと正面を睨み続ける繭遊。
そんな繭遊の視線を一身に受け、そして鬱陶しそうに顔を顰めているゴキ子は、実に忌々しげに舌打ちをして、自己紹介を始めた。さっきの丁々発止で、お互いの実力は把握しているからだろう。双方共に、無駄な争いを始めるつもりはないようだ。触角も引っ込めているしな。
あくまで今のところは、だが。
「私は齧澤季語、通称ゴキ子といいやがります。あんたの愚兄に、恥ずかしながら命を救われちまいましてね。その恩を身体で返すべく、今日からここを住まいと定めさせていただきました」
「命を……? なにを訳の分からないことを言っているのかな? 警察に突き出すよ? その忌々しい胸の肉だけ」
妹よ、それは猟奇犯罪で、しかも自首だ。
「はっ。いやいや申し訳ねーですね。どうも私は、バカに理解が行くように話をすんのが苦手でして」
「断言してもいいけど、あなたより繭遊の方が頭いいよ。これは確実だね、絶対だね、万有引力の法則よりも分かりやすい、世界で最も確か過ぎる事実だね」
「けっ。んなつるっぺたの、まな板みてーな胸してるってことは、栄養が足りてねーってことでしょう? 脳味噌にも栄養行ってねーんじゃねーですか?」
カチッ
どこかで、地雷のスイッチが踏み抜かれた音がした。それも、幼いが故に痛々しい、歯軋りの音と同時に。
「……胸なんて、所詮は脂肪の塊でしょう? 恥ずかしくないの? 肉をそんなに垂らしちゃって」
「お子様は黙っていりゃあいいんですよ、鬱陶しいですねこのガキが。ママのおっぱいでも飲んできたらどうですぅ? 胸板だけじゃ、赤ちゃんと大差ないでしょ? あんた」
「巨乳はみんなド淫乱で、いっつも自分で胸を揉みしだいているバカばっかりだって都市伝説を聞いたことがあるんだけど」
「ド貧乳の小学生みたいな女は、トランクス一丁で市民プールに入っても気づかれないって噂、私は聞いたことがあります」
「胸デブ乳でかスカポンタン」
「肋骨丸出し人体模型乳女郎」
1、2、3、4…………静寂の時間が、酷くゆっくりと流れた。
ゴキ子め、あれだけ注意しておいたというのに、こうもあっさりと胸のことで言い合いになるとは――――はぁ、本当に。
本当に、面倒臭い。
「死になさいホルスタイン女ぁ――」「喰い殺したりましょうか寸胴女ぁ――」
ガチャガタカショッ
怒号が飛び、武器が構えられる。繭遊は礼拝服から取り出したのであろうサブマシンガンで、対するゴキ子は卓袱台を弾き飛ばした己の腕。俺のすぐ目の前であるにも拘らず、2人の殺し合いは始ま――
「動くなお前ら」
――らなかった。
怒鳴り声は尻切れトンボ。武器は構えたまま停止を余儀なくされ、ビデオの一時停止をかけられたように2人はピタリと止まった。
蒼褪めた顔を、俺の方へ向けながら。
正確には、俺が2人に向けた、殺虫剤の噴射口に向けながら。
「お、お兄、ちゃん……?」正座の姿勢を保ったまま、サブマシンガンを構えて止まる繭遊。
「ご、ご主人テメー、この、野郎……?」膝立ちになり、今にも繭遊に殴りかからんとするゴキ子。
2人を止めているのは、胡坐を掻いた俺が構えた、2本の殺虫剤。噴射スイッチにもがっちりと指をかけており、いつでも2人の顔面に向かって散布できるようになっている。殺虫剤はその毒性故、人に向けて発射しないことと、取扱注意の所にしっかりと明記されている代物だ。武器としての性能は、実は一級品なのである。
ましてや、片方は元とはいえゴキブリ。専用の殺虫剤が出るほどの、人類の敵。
威嚇としての効果は充分――――それに俺は、決して威嚇だけで済ませるつもりはない。
必要とあらば、容赦なく引鉄を引く。
「暴力抜きに自己紹介することもできねのか、お前は。少しは自重しろ」
「う、……は、はい……」
「それと繭遊、お前はその喧嘩っ早さをどうにかしろ。いくらなんでも目に余る。それと、銃刀法違反だから大人しく警察に行け」
「にゅっ!? ま、繭遊は、繭遊はただ、お兄ちゃんのことが――」
「言うことを聴かない妹のこと、俺は嫌いだな」
「っ! …………け、警察には行かない、けれど……我慢は、する……」
「よし、じゃあ自己紹介からやり直せお前ら」
2人の瞳から完全に戦意が消えたことを確認してから、俺は厳かに殺虫剤を下ろした。ゴキ子は卓袱台を直して居住いを正し、繭遊はサブマシンガンをしまう。
こんな当たり前のことさえ、ここまで手間暇をかけなきゃできないのか、こいつらは。
ちょっとがっかりだ。
「えー…………じゃあ、自己紹介といきたいんですが……あの、ご主人テメーこの野郎、1つ訊いてもいいですよね?」
「あ? なんだよ、ちなみに洗面器はあるけれど、睡眠薬はないぞ」
「さりげなく自殺を勧めねーでくださいよっ! いや、そうじゃなくって、そのー……えー、繭遊、さんですか?」呼び方に迷うように言いながら、ゴキ子は繭遊のことを指差した。「こういう情緒には、そりゃ私は出自が出自だから疎いんですけど…………もしかして、繭遊さんってご主人テメーこの野郎のことを」
「うん、大好きだよ」
先手を打つように、繭遊がきっぱりと言い放ってきた。
ゴキ子とは対照的に、迷いのない、真っ直ぐ過ぎる瞳を輝かせ。
銀色の妖精は、嗤うように言った。
「繭遊は、蜻蛉お兄ちゃんのことが大好きなの。愛しているって、言ってもいいかな。異性として性的に、伴侶として生的に、アホ毛の先から爪先に詰まったゴミの先端まで、全て全部余すとこなく大好きだよ」
呆れるくらい堂々と、そんな小っ恥ずかしい宣言をしてきた。
ゴキ子はぽかんとして、口を埴輪のようにあんぐりと開けている。そりゃそうだ、初対面の人間から兄への熱烈な愛を語られるだなんて、どこの世界の誰が想像できようか。そして、当の俺はといえば、変わることのない妹に対し、泣きたい思いで頭を抱えていた。
そうだ、そうなんだ、これこそが蟋蟀峠家1番の問題点なのだが――――繭遊は、実兄である俺のことが大好き過ぎるのだ。
繰り返す通り、実兄である。血はしっかりと繋がっている。戸籍だってある。親の計らいで血の繋がりを隠されて育った他人同士とか、そういうオチは一切ない。あんまりにもしつこいものだから、中学生の時にDNA検査までしてやったのだ。尤も、それは完全なる逆効果としてしか表れなかったが。
どこでどう間違えたのだろう。兄妹愛ならいざ知らず、慕情を恋情を愛情を、実の兄に対して抱いてしまうだなんて。俺が親なら、それこそ自殺ものである。
「…………ご主人テメーこの野郎」
「やめろ……憐れむような目で見ないでくれ」
「……悲しいかな、なーんとなく分かっちまいました。そりゃ、確かに焦りますよねぇ」
憐憫に満ちた目でゴキ子は言う。意外に頭の回転は速い奴だ、もう気づいてしまったのだろう。
そもそもの話、俺は66人の女子に振られたと、もう露悪趣味の如く何回も言っているが、しかし66人とは我ながら結構大きな数だと思う。恐らく大抵の人間は、そんなにも多くの異性に恋をすることなどないだろう。1年に1回恋をしていたとしたって、60年以上かかる計算だ。それを俺は、ここ4、5年で全てこなしている。
理由は簡単で、俺に彼女ができれば、繭遊も俺のことは諦めてくれると思っていたからだ。勿論、虫と話せる体質の所為で女子から避けられ、恋人が欲しいと強く思ったことも1つだけど、根本の動機はそこにある。
ちょっと幼い部分はあるものの、基本的に繭遊は美人だ。
発揮する方向を間違えているだけでスキルは高いし、才色兼備の言葉が相応しい。
だから、兄にベタ惚れしているなんて余計なオプションがなければ、もっと彼女に相応しい、華やかな人生が送れる筈なのだ。
……尤も、今回のゴキ子の1件で、そうもいかなさそうなことが分かってしまったけどな。この妹、俺に彼女ができたらその子を殺しかねない。憎んでいるのが巨乳ばかりだと思っていたら、そうかそういうベクトルなのか。
しかし、殺虫剤を投げつけられ更に突きつけられた上で、更にこの発言なのだ。こいつのブラコンは、俺の想定以上に重篤なのかも知れない。
「で? 繭遊が実の兄に恋する素敵なブラコン妹だと紹介したのだから、あなたも自己紹介をするべきじゃないの? 齧澤季語さん」
「ゴキ子でいーですよ、こそばゆい。夜中で一晩中暇だったから、テキトーぶっこいて考えただけの名前なんですから」
「……? どういうこと? お兄ちゃん」
「あー…………なんていうか、そうだな……」
そうだった。自己紹介するにしたって、大きな問題があるんだった。
ゴキ子の素性を、果たしてどう紹介するか。
俺自身は自分の中で何度も反芻してしまって、もう違和感なんてまるでないのだけれども、ゴキ子は元々がゴキブリなのだ。
ゴキブリが、俺に助けられたことに恩を感じて、人間になってしまった姿なのだ。
…………こんなこと、一体どう説明すればいい?
俺は虫の声を聴くことができるが、繭遊にそんな人間離れした特殊能力はない。基礎となる能力が高いというだけで、繭遊もベースは単なる人間となんら変わらないのだ。そんな繭遊に、どうして『ゴキブリが人間になりました』なんて絵空事を語れるだろうか。真実ではあっても、しかしそれを語るべきでない時というのがあるのだ。ガリレイの宗教裁判など、その最たる例だろう。悪いが俺は、信じてもらえないに決まっていることをペラペラ喋る趣味はない。わざわざ疑われるようなことを話すなんてことはしないし、そもそもメンタルが弱いのでできないのだ。しかし、そうなるとゴキ子のことをなんと説明したものか。肝心要なことがすっかり頭から抜け落ちていたことに今更ながらの後悔を覚えつつも、なんとか現状を切り拓く打開策を考え――
「あぁ、あれですよ。私、昨日まではただのしがないゴキブリでしたから。ご主人テメーこの野郎に餌を恵んでもらって、その恩を返したい一心で人間になりやがったんです」