第3章 其の壹
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修羅場は、一瞬にして開始された。
「お還り為さいませ――――この雌豚がぁっ!」
扉を開けた俺には無反応で、妹は――――繭遊は一直線に、俺の後ろで様子を窺っていたゴキ子の元へと跳んでいった。
跳んで。
そう、本当に彼女は跳んでいったのだ。
立ち幅跳びで5メートル近くを跳躍するという、強靭過ぎる繭遊の脚。間違っても平和万歳のこの日本では発揮するべきでない真価を存分に生かし、彼女は文字通りの一足飛ばしでゴキ子へと迫っていった。手にしているのは、彼女の体格に比しても大振りな包丁。狙うのは真っ直ぐに、ゴキ子の胸元。
胸の肉を削いで溜飲を下げるのもいい。そのままずぶりと突き刺せば、簡単に心臓を破壊できるだろう。そんなピンポイントの箇所を、繭遊は本能だけで狙いに行っていた。
「っ、ちぃっ!」
だが、朝に見せたゴキ子の反射速度だって、その攻撃に負けず劣らず速い。
一瞬にして四つん這いの姿勢を作ると、そのままシャカシャカと脚を動かし、一気に俺の足元を通り過ぎる。跳躍、つまりは地面から身体を完全に浮かせていた繭遊の下を易々と通過し、ゴキ子は部屋の中へと逃げ込んだ。
狭い家屋の中。
それは、ゴキブリにとっては絶好のホームグラウンドだ。
「ふぅ、まずは地の利をば――」
「逃がさない逃さない逃がさない逃さないっ!!」
ゲシュタルト崩壊を誘う台詞を吐きながら、繭遊は方向転換し、部屋の中へと跳ぶ。部屋の外へと向かって開いた扉を踏み台にしての、再びの跳躍。天井近くまで達したその身体からは、殺気だけがひしひしと漏れ伝わってきた。
そしてそれを、手にした包丁に込めて――――振り、下ろす。
「死ねぇっ!!」
「う、おぉおっ!?」
真上から脳天を突き刺しにかかった繭遊の攻撃を、ゴキ子は後退りすることで躱す。
だが、思わず動いたというその形は、ベストな回避ではなかった。酩酊状態のようにふらっと揺れたゴキ子の隙を、繭遊は見逃さなかった。
「すぅ――」息を吸って「はぁ――」息を吐いて「すぅぅ――」もう一度、今度は大きく息を吸って「――ふっ」攻撃、開始。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねぇえええええええええええええええええええええええええええええええええっっっっ!!」
「い、お、え、うぁあああああっ!?」
次々と、息つく暇もなく繰り出される包丁による斬撃。刺突。
出鱈目なようでいて、実は整然としたその攻撃を、ゴキ子は紙一重で避け続ける。並の人間なら間違いなく、200回にも及ぶ『死ね』の連呼の中で数十回は刺されているだろう。それをギリギリでも避け続けているのは、流石は元・ゴキブリといったところか。
よく見ると、前髪は完全に触角と化しており、盛んにピコピコ動いている。あれで繭遊の動きを残さず感知しているのだろう。
そこまでしなければ勝てない相手、ということか、我が妹は。
「く、ぉ、の……いいっ加減にしやがりなさいよこの貧乳がぁっ!」
あ、NGワードだ。
「死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね――――殺すっ!」
気づいた時にはもう遅い。繭遊の纏う雰囲気が、がらっと変わり果てた。
下手をすれば外にまで危害が及ぶので、そっと扉を閉める。とはいえ、あまりにも恐ろし過ぎて近寄れないので、玄関に立ちつくしたまま観戦。いつでも逃げ出せるように、鍵は閉めていない。
ヘタレとでもなんとでも言え。
修羅なんてものじゃない――――悪鬼羅刹の怒気を放つ繭遊は、顔の見えない背後からでも、十二分に怖い。
真剣に、命の危機を考えるほどに。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す――――できる限り無残に殺すっ!!」
そう宣言して繭遊は、手にした武器を遠慮なしに振るった。
出刃包丁、ではなく――――禍々しい捻れ方をした、きっと元はバールであったと思われるものを。
ゴキ子の顔面目掛けて、真一文字に振ったのだ。
「いっ!? ちょ、なんですかそれぇっ!?」
突然現れた新しい武器に、ゴキ子はあのマトリックス回避を実行する。
しかし、がら空きになった上半身を、今度は左手に握り締めた出刃包丁が狙っていた。殺気俺が蠅叩きでそうしたように、繭遊は躊躇なく包丁を振り下ろす。
「まずは、子宮を奪うっ!」
「兄妹揃って、変態も甚だしいですねぇっ!」
そこに俺を巻き込まないでほしい。あと、それは変態じゃなくて、どちらかといえば猟奇だ。
なんてツッコミを入れる間もなく、戦闘は続けられる。既にマトリックス回避の弱点は把握していたのか、ゴキ子はそのまま、完全に膝を折った。床に寝転ぶような姿勢になったゴキ子は、腕の力だけで身体を押し、繭遊の横を通過する。
下へ武器を振り下ろす――――重力に従うだけのその攻撃は、強力である代わりに隙も大きい。咄嗟には姿勢を変えられないでいる繭遊を後目に、ゴキ子は寝ころんだ姿勢から一気に壁へと跳んだ。
壁から、更に反対側の壁へ。
そして最後には、天井にまで足をつけた。
「っ、バカと煙は、高いところが好きだっけ」
「んじゃあ、今からめり込むあんたは、さぞやお利口さんなんでしょうねぇっ!」
そんな言い合いをしながらも、ゴキ子は繭遊に構える暇さえ与えはしない。繭遊が利用せんとした重力を、今度はゴキ子が最大限に活用しようと動いた。
天井をジャンプ台にしての蹴り。まるで矢かなにかのように飛来するゴキ子を迎撃するなんて選択肢は、繭遊にはない。いくらなんでも体格が違い過ぎるのだ。カウンターでも食らわせようと目論めば、返り討ちに遭うのが目に見えている。一瞬で思考回路を攻撃から回避に切り替えて、繭遊は後方へと跳びずさった。
しかし、ゴキ子の攻撃は、それで終わりではない。
「はっ、ちょれーんです、よぉっ!」
「っ!?」
最初からゴキ子は、天井からの蹴りを食らわせる気などなかったのだ。
狙っていたのは、回避をした繭遊への追撃。空中でくるりと回ると、その長い脚を如何なく伸ばし、繭遊の顔面を狙った。
でも、ただ避けるだけの繭遊でも、またないのである。
「なら、こっちもぉっ!」
叫びながら繭遊は、礼拝服の袖口から鋸を取り出した。
鋸。それも木工用では決してないであろう、やけに刃が分厚く、かつ鋭い殺人鬼垂涎の逸品だった。
「んなっ!?」
自分の攻撃コースに鋸の刃が添えられ、ゴキ子は慌てて足を引っこめる。結局両者ともに決定打が入らないまま、ゴキ子は床に着地し、繭遊は3つの武器を同時に構えた。
一歩も退かぬ、互角の戦い。
世界最高峰の格闘技イベントでだって見られないであろう、手に汗握る白熱の死闘だった。
「むぅ……しつっこいなぁ胸デブクソ牛女。繭遊のお兄ちゃんに引っ付かないでくれるかなぁ。刻んで叩いてこねこねして、ハンバーグにして虫に食わすよ?」
「はっ、笑わせんじゃねーですよつるぺた貧乳マニア向け幼女が。あんたなんか街の変態露出狂に拉致られて、公衆トイレに吊るされちまうのがお似合いですよ」
「お兄ちゃんに近付いていい女の子は、繭遊だけだよ」
「ご主人テメーこの野郎の性欲を満足させんのは、私なんですよ」
動機は物凄く下らないけれど。
いやまぁ、2人とも下らないなりに心からの理由なんだろうな。相手を殺してでも貫き通したいような、信念のある理由なんだろう。うん、そこだけは認めてやろう。繭遊もゴキ子も、なにを思い行動しようと、その部分に関してだけは自由だ。
…………で、俺にどうしろと?
止めろってか? この2人の丁々発止を止めろってか?
虫と話せることしか能がない、この俺が?
確かに放っておけば、被害は拡大の一途を辿るだけだろう。息1つ切らしていない2人を見る限り、あれだけのやり取りがこいつらにとっては準備運動なのだ。一般人を放り込んだらあっという間に虐殺現場だろうに、なんなんだろうこの2人。片方は本当に人間なのか?
とはいえ、家の中を血だらけにされるのも穴だらけにされるのも、傷だらけにされるのも望むところではない。
…………覚悟を決めるしか、ないか。
「繭遊のお兄ちゃんに引っ付く悪い虫め…………跡形もなく殺しておかなきゃ」
子どもっぽさをふんだんに残したまま、繭遊は礼拝服の裾から巨大なハンマーを取り出していた。見た目だけの模造品ではないことの証明の如く、ごとりと床に置いた瞬間、フローリングの床に小さく亀裂が入っていた。あんなものが一体どこに収納されていたんだというツッコミは、もうしない。バールに鋸の時点で、充分にお腹一杯である。
「上等ですよゴミ虫女郎が。あんたの薄い胸の肉も、オナホールの素材ぐらいにゃなるでしょうしねぇ」
ゴキ子はゴキ子で、なんかよく分からない構えを取っていた。両手を正面に出し、今にもそこからビームでも放ちそうな格好。足は大きく前後に開かれ、アキレス腱を伸ばしているようにも見える。お世辞にもカッコいいとは言えないポーズであるが、双方にこりともせずに向かい合っていると、鬼気迫る決闘シーンに見えてくるから不思議だ。
恐らく、交錯は一瞬。
タイミングを測っているのだろう、2人は無駄な口上を捨て、落ち着いた呼吸音だけがその場に流れている。先に動いた方が負けるという陳腐な言質が、しかしこの場に限っては真実に近いものに思えた。
とくん、とくんと心臓が鳴く。
互いの首に、死神の鎌が添えられているかのような緊迫感。
無限にも思える静寂は、しかしある1点を境にして、怒号の嵐へと置き換わる。
「死ねぇえええええええええええええええええええええええええええええええっっっっ!!」
「消えろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっ!!」
まったく同時に動いた2人は、各々の攻撃を繰り出さんとする。
繭遊はハンマーによる打撃を、横一直線に。
ゴキ子は拳骨による一撃を、真っ正面から。
0.1秒。彼女たちの交錯にかかる時間など、精々がその程度だろう。視認することすら困難なその一瞬が過ぎれば、また付け入る隙のない大乱闘の始まりだ。
だから、俺はこの一瞬を狙うしかなかった。
2人が動き出した瞬間、俺もまた、彼女たちへ向けて動き出していたのだ。
ポケットから、お徳用殺虫剤の缶を2本、音もなく取り出して。
「ええええええええええええええええええええええええ――――あ痛っ!?」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――げべらっ!?」
2本同時に投擲された殺虫剤の缶は、繭遊の後頭部とゴキ子の額、それぞれのど真ん中にクリーンヒットした。
不意討ち、しかも人体の急所である頭を狙っての攻撃だ。流石の二人も対処できず、またダメージも大きかったのか、へなりとその場に倒れ込む。押し重なるように倒れた2人を見下ろして、俺は溜息を吐いた。
ようやく靴を脱ぎ、玄関から廊下に上がり、辺りを見回す。
1分にも満たない交戦が、部屋を派手に模様替えしてくれていた。壁や床、天井に至るまで、細かい切り傷や罅が散乱している。退去する時には、きっと修理費用を請求されることになるだろう。今度大家さんになにか菓子折りでも送って、ご機嫌伺いをしておくか。
さて、それはともかくとして。
「う、うぅううう……い、いきなりひでーじゃねーですか、ご主人テメーこの野郎……」
「あ、あはぁ…………お、お兄ちゃんが、繭遊に固いの、固くて太いのをぉ……」
恨めしげな目で見てくるゴキ子と、妄想世界にトリップしている繭遊。
まるで亡骸のように倒れ伏す2人に向かって、俺は、叫ぶのもバカバカしく思えて――――だから、なにもかもを諦めた調子で、こう言った。
「…………取り敢えず、この辺一帯片付けとけ。この色惚け共」