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第2章 其の參


「賭けてもいいが十中八九、お前を学校に行けるように仕向けたのは、俺の妹だろうな」

 夕陽が差し、血のように真っ赤に染まったアスファルトの道を歩きながら、俺は憂鬱を隠すことなく呟いた。

 隣を歩くのは、もう既に勝手知ったる顔をして堂々と制服を着こなしやがっているゴキ子である。腹が立つほど清々しい面持ちのこいつを見ると、無性に殴りたくなるのはどうしてだろうか。

 現在、時刻は午後4時過ぎ。帰り路を歩くこのシチュエーションから察することができる通り、学校は恙なく終了し、学生としての義務を終えた俺たちは今から家に帰るところである。転入生が、それも元を辿れば人間ですらない、傍若無人で常識知らずも甚だしい迷惑千万な娘子がやってきたというのに、授業は滞りなく進行し、休み時間は特筆すべきこともなく過ぎ、昼休みは問題なく通過して、帰りのHRでも憂慮すべき事態など発生せず、こうして何事もない平和な放課後を迎えることができている訳だ。人間の順応性には、いやはや驚かされるばかりだ。




 ……嘘である。


 夕陽のように、血のように真っ赤な嘘だ。

 転入生が、それも元を辿れば人間ですらない、傍若無人で常識知らずも甚だしい迷惑千万な娘子がやってきたというのに、授業は滞りなく進行し、休み時間は特筆すべきこともなく過ぎ、昼休みは問題なく通過して、帰りのHRでも憂慮すべき事態など発生しないなどという事態は、どんなご都合主義の物語でだって起こり得ない、最早一つの異常事態である。

 俺という例外はいるものの、基本的には私立竈ヶ原高校という学校は、健全にもほどがある普通に普通の学校だ。ふとした拍子に『普通』という言葉の意味について熟考してしまうくらい、退屈なくらいに普通の学校。故にそんな異常事態など起こる筈もなく、今日1日だけで学校は、もっと言えば俺のクラスはパニック状態に陥った。

 もっともっと厳格に精確に言うなら、俺個人が1日中、てんやわんやだったとでも言おうか。

 授業を聴くどころか、そもそも文字自体について造詣があまりにもなかったゴキ子は、教師たちの吐き出す呪文の群れに、ものの2分で飽きてしまったのだ。子どもが授業に飽きた時、なにをするかは決まっている――――隣近所に話しかけたり、或いは好き勝手に遊び回ったり。朝の自己紹介以来、クラスメートには挙って警戒されていたゴキ子の選んだ手段は、後者だったのだ。

 匍匐前進で、俺の気付かぬ間に3メートル半もの距離を移動する運動能力は、伊達でも張りぼてでもなかったようで、ゴキ子は文字通り、文字以上の意味で教室に嵐を巻き起こした。その惨状、及びそれに対する俺の冷静っていうか最早冷徹とさえ言える行動(もしくは制裁)について、詳細は省かせてもらうが、丁度それは、教室のど真ん中に突如として風速30メートル級の超大型台風が発生したと思ってもらえれば、おおよそ正解だと言っていい。ものが空を飛び人が宙を舞い、ゴキ子の身体が天井にめり込んだと言えば、概要は殆ど掴めるだろう。

 勿論、最後の1個の犯人は俺である。担任教師(蝶名林という珍しい名字だということを、ついさっきようやく思い出した)に『女の子になんてことしてやがんだこの唐変朴がっ!』と拳骨付きで怒られた。後日必ず熨斗つけて返してやろう。俺はなにも間違ったことなどしていないのだから。

 他にも、ゴキ子による被害を数え上げればキリがない。昼休みは購買の惣菜で女体盛りを作ろうとして殴られ(俺に)、掃除の時間には箒に跨っていたので蹴り飛ばされ(俺に)、帰りのHRに至ってはいきなり脱ぎ始めたので、数人がかりで押さえつけられた(俺が)。

 女子の結束力の強さを垣間見ました。

 けれど、もう少し発揮する場所を選んでほしかったかな。

「妹、妹、妹ですか。妹っつーとあれですよね? 兄弟の中で自分よりも年の若い、しかも女の兄弟を指していう言葉。対義語は兄、姉、弟のどれでもいいっつー話ですが、この場合兄って対義語っていうよりは、対義語の対義語って感じがしませんか? なんかこう、配列的に言うと対偶みたいな」

「いきなり辞書みたいな説明を始めるな。っつーか高2の授業にまともについてこられない、自分の名前以外は平仮名さえロクに書けないお前が、どうして対義語とか対偶なんて言葉を知ってるんだよ」

「謎多き美少女、齧澤季語、あなたの犬となってなんでも言うことを聞きやがります――――なーんか、性質の悪い風俗みたいな煽り文句ですね」

「分かっているなら言うなよ」

「返しのキレが悪いですねぇご主人テメーこの野郎。もっと激しく、こう、ドンッと突いてきてくれないと、こちらとしては消化不良なんですが」

「なんでキレがないのか、お前、本当に心当たりがないのか?」ぺちぺち、と蠅叩きで頬を軽く叩く。見る見る顔色は悪くなっていき、目には涙まで溜まっていった。

 どうやら蠅叩きという道具は偉大なもので、蠅以外の虫全般にも効果を発揮するようだ。朝には把握してくれなかったらこいつの恐ろしさを、ゴキ子も学習してくれたようでなによりである。

「い、いやいやご主人テメーこの野郎、よくよく考えてみてくださいよ。私はほら、ゴキブリでしたから、元とはいえしがねーゴキブリ風情でしたからしてね? 学校なんていう和気藹々とした空間がその、初めてで新鮮だったんですよ。ゴキブリ時代には、常にデッドオアアライブの生活でしたから、こういう平和ボケできる環境が、ね…………なんだか、嬉しくって」

「ほぉ~ぉ…………遺言はそれでいいか?」

 かっしょかっしょかっしょかっしょ

 お徳用殺虫剤の缶を振る。独特の感覚が手の平を伝う度、ゴキ子の顔が蒼褪めていくのが分かった。

さっきから興味深そうに俺たちの周りで蠢いていた虫たちも、その音に恐怖したのかどこかへと四散していった。実際に行使しないことで威力を発揮するとは、なかなかやるな、殺虫剤。

「ちょちょちょっ! ストップですよご主人テメーこの野郎っ! 違うでしょ! 今のはどう考えても反応を間違えているでしょうっ!」

「なんだようるせーなー。安心しろ、膣とか腸とか口とか、そういう無茶は言わねーよ。ちょっと鼻貸せ」

「斬新過ぎやしませんかその文句っ! いやいやそれ以前にっ! 鼻って口と直結ですからねっ!? 大して効果変わりませんからねっ!?」

「変えるつもりもねーよ」

「私のご主人様はとんだ鬼畜でしたっ!? ご主人テメーこの野郎はあれですか? 釣れちまった魚には餌を恵んでやらねータイプの非人類ですか?」

「お前は勝手に陸に跳ね上がってきた、バカな雑魚だろ」

「お得じゃねーですかついでに面倒見てくださいよっ!」

「妹。妹の、話」

「はぇ?」

 拒否代わりに話題を変えると、あっさりとゴキ子は話の視点をずらされてしまう。

 ……こいつ、マジで頭の中は大丈夫なのか? 下手をすればその内、俺が肉を恵んでやったこととかさえ忘れかねねーぞ。

 まぁ、そうなったらこいつが家にいる理由もなくなるから、いいんだけどさ。

 …………いいんだよ。いいんだったら、本当、マジで。

「……………………」

「な、なんですかご主人テメーこの野郎? 人の顔をじぃっと見つめやがってますが…………発情期ですか?」

「いや……なんでもない。それで、妹の話なんだがな」

 自分でもよく分からないけれど、何故だかゴキ子のことを見つめてしまった。

 思い返してみれば、これまでの人生で何度虫たちと関わってきたか知れないし、虫を助けたのだって1度や2度じゃない。これが初めてだなんてとんでもない、多い時(主に夏休み)なんて、1日に1回は虫の命を救ってきたように思う。自分でも甘いと思うのだが、放っておけないのだから仕方がない。

 けれど、恩返しにきた虫なんていうのは、ゴキ子が初めてだ。

 しかも、人間の姿にまでなって。

 そのことについてなにも感じない訳ではないのだが…………なんなんだろう、もやもやする。こいつがゴキブリだからだろうか、それとも恩返しする気がまるで見えないからだろうか。

 疑問点は取り敢えず頭の片隅に追いやって、俺は話を続ける。

 我が妹――賢妹にして愚妹である破戒神――蟋蟀峠繭遊についての話を。

「お前を学校に通えるようにしたなんていうこと、その一つだけを切り取って見たって分かるだろうけど、あいつは、繭遊は、俺なんて足元にも及ばねーほどの才媛なんだよ。あらゆる能力が人間の平均を大きく上回っていやがる。運動に関してだって、お前に決して引けを取らないだろうな。種目さえ選べば、お前は繭遊の後塵を拝することになる」

「大袈裟ですねぇご主人テメーこの野郎。そりゃ確かにご主人テメーこの野郎はシスコンのロリコンでちっぱい好きで幼児にしか見えない女の子の妊娠2次画像で興奮するようなロクでもなさ過ぎる変態ではありますが、それにしたって身内贔屓もそこまで来ると――」

「俺の通った小学校は、今はもうない。妹の、繭遊の有能っ振りに振り回されて、あそこは、廃校になった――――これは贔屓でもなんでもなく、ただの事実だぞ」

「…………マジ、ですか?」

「マジだよ。マジ以外の何物でもねーよ」

 信じられないと言わんばかりに、ゴキ子はフルフルと首を揺らした。

 当然の反応だろうな。シスコンは言い過ぎだとしても、俺が妹を大事に思っているのは事実だ。それ故に贔屓目で見ているだけだろうと、俺を揶揄する輩は多い。そんな奴らでさえ、この実話を話すと目が点になり、更に詳細に亘って話をすると恐怖に打ち震えるようになる。

 もし兄弟の縁を切れるのなら、俺は間違いなくこの無駄にハイスペックな妹と絶縁する。

 関係性は継続したって構わないのだが、あいつの血縁であることは迷惑な上にプレッシャーなのだ。責任は全てこちらに降りかかってくるし、しかし優秀であることには変わりないので兄の俺にまで無闇な期待が注がれる。当然ながらそんな能力なんてない俺は、大抵その期待を裏切る羽目になる訳だ。下手をすると、女子に振られるよりも心にクる。

「でも、その妹さんは今、ご主人テメーこの野郎とは離れて暮らしているんでしょう?」

「正確に言えば、俺があいつから離れたんだけどな。高校に上がるのと同時に、こっちへ逃げるように越してきた。んでもって、その1年後――つまりは今年に、あいつは実家からも離れて全寮制の学校に入ったんだ。電車で10駅以上は離れているから、そうそう簡単には会えないって思っていたんだけど…………しっかしなぁ」

「いやいや、別にじゃあ問題ないじゃねーですか。どんだけ厄介で迷惑で鬱陶しくて面倒臭くて一刻一秒でも早く消え失せてほしい妹でも、離れているならなんも問題は殺気っ!?」

「ちっ、避けたか」

 武芸者のように蠅叩きを振るうも、殺気を読み取られて避けられてしまった。それもマトリックス避け。男なら迷わず股間を蹴り上げるところだが、この変態色情狂は喜んでしまう可能性があるので自重。

「勘違いをするなよゴキ子。繭遊は俺にとって大事な妹だ」

「せ、台詞と地の文とがあってねーですよ……?」

「勝手に俺の心情を読むんじゃねーよ、あれはもしもの話だ。妹は確かに厄介で迷惑だが、消えてほしいと思ったことは一瞬さえねーよ」

「……やっぱりシスコンなんじゃ痛ぁっ!?」

 油断した後頭部へ、渾身の一撃(蠅叩き)を叩き込む。面ではなく辺で殴りつけた為か、打撃音は豪く鈍い。その場に座り込むゴキ子の腰を蹴り上げながら、俺はつかつかと歩みを進めた。

 容赦? なにそれ、美味しいの?

「あのな、俺は別に、お前相手に妹の惚気話をしている訳じゃねーんだよ」

「え? ちょっと待ってご主人テメーこの野郎。今のって、え、なに? 惚気話だったんですか?」

「だから、そうじゃねーって話をしてんだろうが。なんで俺がわざわざお前に、大事な大事な可愛い可愛い、目に入れても痛くも痒くもなんともねー妹の話をしてんのか、その要領が少ない脳味噌で少し考えてみやがれ」

「口の悪さが順調に伝染ってますねぇご主人テメーこの野郎」

「黙れ」

「はい。…………あぁ、もしかしてあれですか。ご主人テメーこの野郎が私と結婚する前にご家族と感動のご対面をやらかしてーんだけど、いきなり両親は緊張するからまずは妹で予行練習でもしようかとだんぜるぼごっ!?」

「ん? なんだその悲鳴」

 あまりに巫山戯たことを抜かしやがるゴキ子へ、当然過ぎるお仕置きの手が伸びる。

 しかし、流石は今日だけで100回以上俺の攻撃を受けてきたゴキ子だ。触角もないのに危険を素早く察知すると、再びマトリックスの姿勢を取ってきた。俺が身体を回転させながら放った一撃は、虚しくゴキ子の眼前の空を切った。

 そう、一撃は。

 俺は群れてくる虫対策に、常にいくつもの武器を隠し持っているのだ。蠅叩きを1振りしか持っていないだなんて、そんなことは1回も言っていない。ベルトに括りつけて隠し持っていた蠅叩きをナイフのように構え、無防備を晒すゴキ子の鳩尾に網を突き立ててみた。

 あ、もしかして『だんぜる』って、『danger』の綴りをローマ字読みしてみただけか?

 背中から豪快に地面に倒れ込んだ(というか押しつけられた)ゴキ子は、流石に息苦しいらしく、ゲホゲホと咳き込んでいる。それを放っておいて、平然と帰り道を急げる俺は、なかなかの外道だと自分でも思う。

「話を続けるとだな、俺はゴキ子、お前に是非とも知っておいてもらわなきゃならねーんだよ、あいつの危険度について」

「ご主人テメーこの野郎の方が危険極まりねーですよっ! メインヒロインを蠅叩きで殺しかけるって、どんな主人公なんですかっ!?」

「うぉっ!? お、お前、脚早いな相変わらず」

「ゴキブリですからね、元とはいえ。匍匐前進なら世界を狙えますよ。胸がクソ痛いのが難点ですけどね」

「2度とやるなよ。制服で、匍匐前進を」

「あぁ、それはもっとやって制服の胸の部分だけを擦り切らせろって振りですね? 公衆の面前で、私のこのたわわに実った魅惑の果実がこぼれ出ちまうというハプニングを演出しろという、そういう無茶振りでごめんなさい調子に乗りましたぁっ!!」

 その気になれば三刀流だって容易くこなす俺の蠅叩き術に恐れを成したのか、殺気を感じた途端にゴキ子は土下座の姿勢を作っていた。流石は元・ゴキブリと言うべきなのか、背中を丸めるその姿は随分と様になっていた。

 うん、心底どうでもいいな。

「もしもそういうことになりそうだったら、安心しろ。俺は裁縫も得意だから、お前の制服と胸とを縫いつけてやるよ」

「狂気ですよっ! そりゃ確かに、人の皮で服とか本とか作った奴はいますけどっ!」

「あ、それとも半田鏝とかで溶接した方がいいか? 釘とか螺子とかで固定するってのもいいけど」

「男子なら垂涎必死であるこの胸の、一体なにが憎いんですかご主人テメーこの野郎っ!?」

 両腕で胸を覆い隠しながら吠えるゴキ子。

 …………勢いで胸の話題になってしまったが、しかし意識してみると、本当にでかいよな、こいつの胸って。なんかこう、おっぱいって感じ。なに食ったらこんなに膨らむんだろうか、ゴキブリの癖に。

「……つかぬことを訊くがゴキ子、お前、カップサイズとか分かるか?」

「? なぁんだ、安心しましたよご主人テメーこの野郎。流石は短小包茎遅漏不感症の童貞野郎ですね、ちゃぁんと女の子の胸に興味津々じゃないでごめんなさい許して下さい余計なこと言いませんから殺虫剤をヌンチャクの如く振り回さないでくださいっ!!」

 かしょかしょかしょかしょかしょかしょかしょかしょかしょかしょぉっ!

 今日一日だけですっかり磨き抜かれてしまった殺虫剤スキルを披露すると、あっさり態度が陥落するゴキ子。

 こいつあれだな。口五月蠅く鬱陶しいだけで、そこまで実力は持ってねーな。制御は難しいが、制圧するだけなら案外容易そうだ。

「カップ、カップですよね? えーっと…………Gカップ、ですかね?」

「な…………!? じ、Gだと!? マジか、マジなのか…………!?」

「あ…………い、いえ、すいません嘘です」

「嘘かよっ!」

「本当はIカップです。休み時間中、トイレでしおりさんに測られちまいまして…………個人的にはやっぱり、Gカップがいいんですけどね。ゴキ子なだけに」

「しおりが午後中茫然自失とした顔だったのは、お前の胸が原因かよ。っていうかIって、Gよりも2個も上じゃねーかっ! やべぇ、そりゃますますもってやべぇぞ……」

「ま、まぁ確かに、こんなに大きな誘惑の木の実が目の前にあれば、いくらホモセクシャルでBL好きで、他人の股にぶら下がるソーセージをなめなめするのが大好きなご主人テメーこの野郎と雖も、私のことを押し倒しちまう日はそう遠くもなごめんなさぎゃがいっ!?」

 華麗に土下座を決めたゴキ子の頭を、全体重を駆使して踏みつける。

 世の中、謝ればいいという問題ばかりではないのだ。こうも短期間に何回も何回も謝り続けていれば、それが逆効果になることだってあり得るのである。

「真面目な話を何度も何度も、同じパターンで潰すんじゃねーよ」

「そ、それはどう考えても……真面目に聞こえない、ご主人テメーくぉの野郎が悪いんじゃ……」

「なんだその無駄な巻き舌は。…………いいか、あと5分も歩けば家に着く。繭遊はほぼ確実に、俺の家に上がり込み、堂々と悪びれもせずに待ち構えているだろう」

「そりゃ、私の代わりに留守番してんですから、当然でしょうけど」

「いいか。厳に命じておくがな――――あいつの前で、胸の話題は絶対に出すな」

「?」

 理解不能な言語を聴いたように、ゴキ子は首を傾げてみせた。

 ……ムカつく口上が絡まないと、意外と結構可愛いぞ、こいつの仕種って。

「胸の……?」

「あぁ、話題だけじゃない。本当ならサラシでも巻いてもらいたいくらいなんだが、今更だろ。腕を組むとか胸を突き出すとか、そういう胸を強調する行為を極力慎め。無意識ならまだ許容範囲内だが、巫山戯て意識的にやった瞬間、お前の命はないぞ」

「はっ、なんですか結局はご主人テメーこの野郎も性欲の虜だったっつー話ですか。私のこの豊満なおっぱいに顔やら象さんやら埋めに埋めて、もみもみぱふぱふされてーっつー変態的な欲望が牙を剥きそうだから自重しろとか、どこまでも男目線で自分勝手な意見でありやがりますねぇ。まぁ、そんな亭主関白なご主人テメーこの野郎に使えると決めちまったのがこの私ですし? 今更この巨乳を弄られちまうことに拒否感も忌避感もな――」

「具体的に言うなら――――お前、繭遊に殺されるぞ」

 ピシィッ

 俺の発言は、簡単にその場の空気を凍らせた。

 当然だろう。今の今まで無難も無難、女性の胸のことを話題の筆頭に挙げていた俺たちなのに、突然に『殺す』だなんて単語が舞い降りてきたのだ。それも、犯人まで指定した上での警告。能天気に話していたゴキ子でも、流石に固まらざるを得なかった。

 俺だって、そうだ。

 怒り狂い殺人鬼に身を窶した妹を想像しただけで、肝が絶対零度に冷却される。なんの躊躇いもなく凶器と狂気を振り撒くであろうあいつのことを、正直考えたくもない。

「……は、はは、ははははははは、またまたご主人テメーこの野郎ったら、冗談が下手くそ過ぎて笑えやしねーですよ」

「冗談だと思うか?」

「だ、だって、胸のことを話題に上げたら殺されるって、そりゃ一体どこのメリーさんですか。こう見えて、私は元・ゴキブリなんですよ? 人間相手に易々と殺されるほど、か弱くひ弱な生態しちゃあいませんよ」

「……………………」

「…………マジ、なんですよね、それ」

「マジだよ、マジでマジ以外の何物でもねーんだよ」

 世間一般じゃどうだか知らないけれど、俺は妹が凶器片手に人の肉をぐちゅぐちゅ突きまくっている図が、いとも簡単に脳裏に浮かぶ。想像力がそれを拒否してくれない。分かりやすく言えば、あいつならそれくらいはやりかねない。

 俺の表情だけで、ゴキ子には充分な判断材料になったらしい。引き攣った笑みを浮かべたまま、ゴキ子はふらふらと帰路を歩いていた。

「…………あ、もしかして」

 と、突拍子もなく声を上げたゴキ子は、何故だかいやにキラキラと目を輝かせて、俺の顔を覗き込んできた。

 なんだその目。少女漫画か。

「ご主人テメーこの野郎は、ご主人テメーこの野郎の分際で、私のことを心配してくれやがってんですか? 私が妹さんに殺されちまうのを、心配してくれやがっているんですかっ!?」

「…………んー、うん、まぁそう、だな」

 鼻息荒く、満面の笑みで訊ねてくるゴキ子に、俺は優しく頷いた。

 紳士面した微笑みで、ゴキ子の顔を真っ直ぐに見る。口の悪さと元・ゴキブリだという事実を除けば、可憐で純情な女の子にしか見えないこいつは、本当に色々と損をしているなぁ、と少し残念だった。


「お前が殺されちまったら――――部屋が血で汚れるからな」


「思っていた以上に最低な答えきましたっ!?」

「血って落ちないんだよなぁ、拭いても拭いても。臭いも残るし」

「……なんでしょう、ショックはショックなんですけど、既に経験済みみたいなご主人テメーこの野郎の表情の方が、今は無性に気になりやがりますね……」

 あぁ、経験済みなんだよ、色々な所でな。

 避けられ得ない悲劇への憂鬱を抱えたまま、俺たちは家への道を急いだ。

 二人とも、なにを喋っていいのか分からなくて、終始無言のまま。


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