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プロローグ 其の壹


 春――――それは、新たな始まりを告げる季節。

 長い冬を耐え抜き、地面の下から息吹き出る芽にしたってそうだし、人間関係にも様々な変化が訪れる。流動的なこの社会は、否応なしに変化を人々に強要するのだ。それが好ましかろうと、そうでなかろうと。

 そして、始まりと変化は、人々の関係図にだけ作用するものではない。

 人々の心にさえ、晴れやかで春麗らかな気分を齎すのだ。

 春――――それは、恋の季節でもある。

 いや、この言は聊か正確さを欠いていると言えよう。夏にだって秋にだって冬にだって、恋というものは発生し得る。恋の季節でない季節など、この日本の四季二四節気七二候のどこにも存在しないのである。夏には恋の導火線に火がつき、秋には恋の嵐が訪れ、冬は恋の想いが降り積もるのだ。

 そして春には、恋の新芽が産声を上げる。

 例え、例えそれが、もう暦の上では夏真っ盛りの6月であったとしてもだ。


「は、葉鋏(はばさみ)さん! よかったら、よかったら俺と――――俺と付き合ってくださいっ!」


 放課後。

 体育館裏。

 人っ子一人いないひっそりとしたそこで、俺こと蟋蟀峠(こおろぎとうげ)蜻蛉(かげろう)は、それはそれは見事な礼の姿勢を取っていた。

 天に糸で吊られているかの如く直立し、背筋を伸ばしたまま腰を曲げる。今回は本当に本当に真剣なバージョンだから、腰の角度はきっちり90度だ。顎は引かず、目線は真っ直ぐ前を見る。手は身体の横につけ、肘を一ミリたりとも曲げない。就活ではさぞかし役に立つであろう渾身のお辞儀だ。

 真剣にもなるし、渾身の技を繰り出しもしよう。

 俺は今、告白をしているのだ。

 告白。それも、愛の。

 相手は同じクラスの葉鋏小割(こわり)さん。名前の通りに背が低く、どこか挙動のおどおどした彼女のどこを好きになったのか、俺にはよく分からない。しかし、4月になって進級し、高校2年生になっても変わらず同じクラスだった彼女を見て、彼女なら、と直感的に思ったのだ。恋をするのに、大した理由は要るまい。そんなものを求めるのは邪道というものだ。

「え、えと……蟋蟀峠、くん……」

 矢鱈と長ったらしい俺の名字を、葉鋏さんはもじもじと口にする。身体をくねらせる度に、夕陽に映し出された影が揺らめき、まるで陽炎のように踊っていた。

 迷っているのだろうか。

 だが、俺はこの告白、失敗する訳にはいかないのだ。葉鋏小割という少女は、小柄な体躯に短い髪、運動神経がいい割には寸胴体系というマニア垂涎の逸品なので、きっと告白なんてものは星の数ほど受けてきただろう。実際、彼女が1年生の頃、何人かの男子と付き合ったという情報を俺は得ている。

 けれど、そんなことは関係ない。

 俺にとってはこの告白こそが一大事なのであり。

 彼女にとって取るに足らない日常であろうとも――――俺にとっては、掛け替えのない行動なのだ。

 届いてくれ、この想い。

 神でも、この際悪魔でもいい。俺を救ってくれ。

 どうかその首を、縦に振ってくれ。

「あ、あの、その、わたしね……えと、前から蟋蟀峠君、カッコいいなって、思ってた、んだよ、ね……うん、蟋蟀峠君、結構いいなって……」

 希望の女神たる葉鋏さんが、訥々とではあるものの、俺についての好印象を呟いてくれていた。

 正に背水の陣、一歩下がれば崖だという絶体絶命の土壇場において、ようやく俺にもツキが回ってきたのだろうか。晴れやかな心持ちで顔を上げると、葉鋏さんの引き攣った笑顔が目に入ってきた。

 …………ん?

 今なんか、笑顔の形容詞がおかしくなかったか?

「ベ、勉強はできるし……調理実習も、上手かった、よね…………あと、裁縫も……そ、それに、えと、ま、まぁいっぱいあるけれど。蟋蟀峠君の魅力……いっぱい、ある、けれど……」

 ざり、と葉鋏さんの足が一歩退いた。

 彼女の額には、玉の汗が無数に浮かんでいる。まるでなにか怖いものでも見てしまったかのように、瞳孔もバッチリ見開かれていた。口は最早笑うような形を作るだけで精一杯で、彼女は表情を変えることさえできなくなっていた。

 何故だ? 俺に手抜かりはなかった筈だ。そりゃ確かに、今時下駄箱にラブレターなんてべったべたな手ではあるけれど、それでも俺の用意した舞台は絶好だ。誰もいない体育館裏に、丁度塩梅よく差し込んで来る夕陽。ムード満点とは言わないまでも、少なくともドキドキさせるくらいの仕掛けは打てた。少なくとも俺はそう確信している。告白の言葉だって、簡潔に真っ直ぐ直球でぶつけていった。表情だって真剣そのものだった筈だ。

 この、この俺がここまで『頑張って』、勇気を振り絞って用意した舞台だ。もう一歩『頑張れ』ば、きっとなんとかなる! 俺は『頑張って』この告白を成功させなきゃいけないんだ。それはもう『頑張って』先祖の汚名を雪ぐかの如く『頑張って』奮起して――――あれ?

 今の、なんだ?

 俺の思考にちょいちょい割り込んできた、二重鍵括弧に入った言葉たちは。

「だ、だから、その――――」

「葉鋏さ――――」

 俺が手を伸ばした時には、もう遅い。

 堪え切れなくなった涙が頬を伝い、彼女は、葉鋏さんは、バレリーナも裸足で逃げ出すような速度で180度方向転換して、全速力で駆け出したのだ。


「――ごめん本当にごめんでも生理的に無理ぃいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」


 ――最後に、そんな声だけを残して。

「……………………」

 一人、ムード満点の体育館裏に取り残された俺は、締め付けられるような胸の痛みに、歯を食い縛って耐えていた。

 心臓の辺りに込み上げてくる感情は、虚無感、絶望、後悔――――そして、怒り。

 ギリィ、と歯が痛々しい音を出した。


『惜しかったね』

『もうちょっとだったのにね』

『もっと攻めていかなきゃ』

『奥手なんだから、もう』


 聞こえてくる二重鍵括弧は、もう本当、いい加減にしろってくらい無遠慮に俺の心を踏み躙ってくる。土足で上がり込んだ上、公園代わりにしているみたいにだ。結構自分が、どうしようもなくお人好しで温厚な奴だと自覚している俺ではあるけれど、それでも、堪忍袋の緒がオリハルコンで作られているなんてことはない。

 怒る時は怒るし、キレる時はキレる。

 俺は制服のポケットから、一本の棒切れを取り出した。プラスチック製の、豪く小さな水色の棒切れ。上下についている蓋を開けると、内蔵されていた部品が次々と伸びていき、あっという間に全長60センチほどの物体にその姿を変化させた。

 棒の先端には、四角くその上固い網。

 俗に言う、蠅叩きである。


『あれ? どうしたのかな?』

『なんで怒っているの?』

『振られたからだよ。慰めてあげよう』

『大丈夫だよ、女の子なんて星の数ほどいるんだよ?』


「……てっめぇらの所為だろうがぁっ!!」

 ブォンッ! と風切り音を派手に鳴らして、俺は蠅叩きを背後へと振るった。

 背後。背中。人間にとっては致命的過ぎる死角へと。

 しかし俺は、そこになにがいるかを把握した上で武器を振るう。まるで異能バトル漫画の主人公だが、残念ながら俺自身はそんな役得的なポジションにはついていない。世界を救わないし悪を倒さないし国を守らないし女を愛さない。いや、きっと誰か女の子を愛することにはなると思うけれど。いやなるけれど!

 居合抜きのように繰り出した攻撃は、予想通りに空振りする。

 その拍子に回転した俺は、さっきまで自分の背後だった方向を残さず視界に収める。そこには、当たり前の如く誰もいなかった。当然だ、下校時間を過ぎた午後6時というこの時間帯、わざわざ体育館裏に来るような奴なんかいるものか。不良共の溜まり場というイメージの強いここではあるが、うちの学校は平均偏差値が高い為か、そういう輩とは殆ど無縁なのだ。

 中にはいるけどな。

 例外的な、不良なんて言葉に収まらない奴が、一人だけ。

 それはさておき――――確かに誰もいない。誰も、誰も、誰も。

 しかし、その言葉は。

 そこに『なにも』いないことの証明には、あまりにも足りない。


『びっくりしたぁ』

『酷いよ、いきなりなんて』

『ぼくらは応援してあげたのに』

『暴力はんたーい』


「じゃかあしいこの野郎共っ! お前らの、お前らの所為で俺がっ! 俺が何回失恋したと思ってんだよこんちくしょーがぁっ!!」

 絶えず聞こえてくるその声を掻き消すように、俺はぶんぶんと蠅叩きを振り回す。

 俺に話しかけていたのは、虫だった。

 虫。

 それも、1匹や2匹ではない。羽虫とかそういう可愛いものでもない。

 俺の背後には、少なくても1000匹以上の虫が、文字通り蠢いて、文字以上に犇めいていた。足元はびっしりと虫で埋め尽くされ、背後にも羽のある虫が何十匹も飛んでる。俺を中心にして、虫のセレモニーでも開かれているような有様だ。

 そりゃ、女の子は逃げるよな。

 虫愛ずる姫君だって、もしかしたら逃げるかも知れん。

 蟻やら羽虫やらは当然として――――蚊、蠅、蜂、甲虫、鍬形虫、蝶々、百足に蚯蚓に、生息場所を無視したタガメやらヤゴ、季節さえも無視してトンボなんてのまでいやがる。


『こらこら、なんでも虫の所為にするのはいけないよ、蜻蛉』

『ぼくらの善意を否定するなー』

『口の中に入って内臓食い荒らすぞー』

『突然眼球目掛けて突進してやろーか』


「上等だクソ虫野郎共っ! 今日という今日はその無知蒙昧貧弱至極なてめぇらの声を根絶やしにしてくれらぁああああああああああああああああああああああああああああっ!!」

 度重なる開き直った発言に辛抱利かず、俺は奴らに向かって突貫を仕掛けていった。

 1対1000。多勢に無勢とはこのことだ。しかも奴らの群れへ突進したら、自動的に四面楚歌とは気が利いている。虫の癖に。

 喧しい羽音と声の奔流の中、俺は、勝ち目のない戦いへと身を投じたのだった。


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