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嫌いなもの、好きなもの

作者: SET
掲載日:2011/06/06

 今日は中学での授業が午前中までだった。家の方向が一緒だった友達と途中で別れて、帰宅した。

 母も父も仕事でいない。昼ご飯は自分で勝手に作って食べろということだった。

「ただいま」

 面倒だから、カップラーメンで済まそう。

 一階にある台所でやかんに水を入れて火をかけ、二階にある自分の部屋に行って鞄を置き、制服から部屋着に着替え、また一階に下りた。

 やかんが甲高い音を発し始めたところで止める。収納棚からカップラーメンをひとつ取り出していると、誰もいないはずの静かな家の中で、ふと、人のいる気配がした。

 気味の悪さを感じかけて、思い出す。今日は、あの子も午前中授業だったはずだ。

「有紀(ゆうき)ー、お昼食べよう」

 二階にまで届くくらいの声で言う。

 階段を、静かに下りてくる音がした。姿を見せた有紀は、夕焼け色の半袖Tシャツに、緑のハーフパンツを履いていた。

 私たちに対して、小学五年生とは思えないほど気を遣う有紀は、階段を下りる足音までが、遠慮がちだった。

「由衣(ゆい)さん、お昼、もう作ったんですか?」

 喋り方も、丁寧なままで、直らない。ここへ来て、もう、半年も経っているのに。

「ごめん、有紀。私、料理とかほとんどしたことないの。カップラーメンでいいならもうお湯は沸いてるんだけど……」

 言いつつ、答えは分かっていた。

「はい、私もそれがいいです」

 質問に対する返事はすべて同意を表すもの。それでいい、じゃない。それがいい。一字一句にまで細やかな気遣いが秘められている。

 カップラーメンのふたを半分ほどめくり、お湯を注いでまた閉じる。同じことを有紀の分にもしたあと、有紀から箸を受け取り、それぞれのふたの上に置く。キッチンタイマーを二分四十五秒にセットした。

「どう、新しい学校。少しは、慣れた?」

 キッチンタイマーがカウントダウンを刻むのを眺めながら、世間話の口調で訊く。

「はい、慣れました。叔父さんたちのおかげです」

「そういうことが聞きたいんじゃなくてさぁ……。困ったこととか、ないかなって」

「困ったこと、ですか……」

 後頭部の左右に髪留めをつけた有紀は、髪留めでまとめた髪を少し揺らせて視線を逸らし、私の肩の辺りに視線を合わせた。

「特にないですね」

 何かある。

 そう思ったが、口には出さない。私は有紀とそれほど距離を詰められたとは思っていないし、踏み込むのはまだ、気が引ける。

「いじめられたら言うんだよ。主犯格にアイアンクローかましに行くから」

「アイアンクローって何ですか?」

「頭をこうしてから、手に力を入れるだけ」

 有紀の小さな顔を、触る程度に優しく掴み、すぐに解いた。

 私の中でのアイアンクローは、利き手で額のあたりを覆い、握り締めるというイメージだった。

「恐ろしい技ですね」

 有紀は、恐ろしく真面目な顔で言った。その言い草が可笑しくて、私はタイマーが鳴り終わるまで笑った。

 つられたのか、ここに来てからはあまり笑わない有紀も、くすりと、笑ってくれた。


 一階の固定電話が鳴った。

 ジャージ素材の上下の部屋着で、だらだら寝っ転がって音楽を聴いていた私は、ゆっくりと体を起こした。いつものように、有紀がもう受け答えしているだろうと思ったが、一階に下りると、まだ呼び出し音が鳴っていた。珍しいこともある。

 受話器を取った。

「あ、有紀ちゃん?」

「いや、私」

「その男みたいな声は、由衣か。ごめんね、今日帰り遅くなるから。お父さんも飲み会だって言ってたから、夜ごはんもなんか適当に食べて。由衣だけじゃないんだし、せめてサラダくらいは作ってあげてね」

「男みたいって」

 反論する前に母はまくしたて、一方的に通話を打ち切った。

「めんどくさい……」

 ピザでも取ろう。

 私は、何日か前にポストに突っ込まれていた広告を探して、部屋を漁り、無事にピザのメニュー表を見つけ出した。

 ここはオーソドックスにトマト系のピザにしようか。それとも海鮮系で攻めるか。

 あ、でも、と思い直す。有紀、ピザが嫌いかもしれない。有紀は物に対する好き嫌いをほとんど零さないので、有紀の好きなもの、嫌いなものが、まだ私には分からない。

 ピザのメニュー表を折り畳み、ポケットに突っ込む。素直に答えてはくれないかもしれないが、それとなく話題に出して聞いてみよう、と思い、有紀の部屋の扉をノックした。何度かノックしたが、返事はない。

「有紀、入るよ」

 橙色のやわらかな膜が、部屋全体に優しく満ちていた。正面に備え付けられた窓から差し込む、沈みかけの陽光が、昼間の熱気の余韻を残していた。窓のすぐ手前にある、真新しい勉強机。それに備え付けられた椅子に、有紀が座っていた。有紀は、腕を枕代わりにして、眠っているようだった。突っ伏しているわけではないので、横顔が、見える。

 いつも綺麗に片づけられているはずの床に、何枚かの紙が、丸まって落ちていた。何気なく拾い、広げる。パンチで開けたような穴が、紙の最上部に、横一直線に並んでいた。スケッチブックから破り取ったような紙だった。紙は、横長に使われている。

 紙には、黒色のクレヨンで、三人の人間が、正面からの構図で描かれていた。二人は大人で、一人は幼い子供。たぶん、親子だろう。子供は、両親の右手と左手をそれぞれ握り、楽しげに笑んでいる。思わず微笑みかけた所で、気付く。

 両親に、顔がない。書き損じだろうか。もう一枚、丸まっていた紙を拾って、広げた。これも、顔がない。もう一枚。これも、ない。もう一枚。これも、ない。よく見ると、勉強机のすぐ横にあるゴミ箱が、捨てられた紙でいっぱいになっていた。

 鳥肌が立った。そっと、眠っている有紀に近づく。

 机の上には、スケッチブックと、クレヨンのケースと、一枚の紙。紙にはまた、三人の人間が描かれている。しかしこの紙は、人間の上から、赤のクレヨンで、ぐちゃぐちゃの曲線が引かれている。

 描けない、描けない、描けない!

 そんな叫びが、聞こえてくるような絵だった。紙の左隅を、腕で下敷きにしている有紀の頬は、涙に濡れていた。西日に照らされ、鈍く光っている。

 私から見て、父方の伯父一家にあたる有紀の両親は、土砂崩れが原因の家屋倒壊に巻き込まれ、亡くなった。有紀も当時、在宅していたが、二階部分にいたおかげで奇跡的に助かっていた。

「有紀」

 私は、震える声をどうにか律し、半年前まではいとこの一人に過ぎなかった、有紀の体を揺すった。

「有紀」

 何度揺すっても、有紀は起きなかった。

 私は諦めて、有紀の肩に手を置いたまま、呟く。

「ごめん。勝手に、見たりして。本当に、ごめん」

 起きてから、もう一度、ちゃんと、謝ろう。

 踵を返し、扉に手をかけた。

「由衣さん」

 後ろから声がかかり、私は慌てて振り返る。

「起きてたの?」

「ごめんなさい、今、起きました」

 有紀は、窓を向いたまま、言った。表情は見えない。

「図工の宿題なんです。家族の絵、というテーマが出されました」

「そう、なんだ」

「私だけ、提出が遅れてて。期限は一週間前だったんですけど、全然、描けなくて。私の絵、見ましたか」

「うん。勝手に見て、ごめん」

「変ですよね、私。半年前、ですよ。半年前まで、一緒に暮らしていた、私に愛情を注いでくれた人間の顔が、どうしても思い出せないんです」

 声が、背中が、だんだん、小さくなっていく。

「写真を見ればいいんですけど、怖くて。怖くて、見れないんです。両親が怖いなんて、おかしいですよね。異常ですよね。でも、どうしても、見ることができないんです」

 机の上にあった有紀の腕が動き、目もとを擦った。

「おかしくなんか、ない」

 私は、ゆっくりと、有紀のほうに歩み寄った。

「おかしいですよ!」

 有紀は、椅子を足で押し退け、立ち上がった。ここへ来て初めての大声だったが、その声は、かすれていた。

「おかしいですよ……異常、ですよ」

 嗚咽をかみ殺したような吐息が、漏れ聞こえた。

 私は特に意識することなく、有紀のことを、後ろから抱き締めた。有紀の首すじに腕を回し、有紀の頭に、顎をのせた。

「おかしくないよ。有紀は、おかしくない」

 有紀の小さな手が、私の腕を掴んだ。

「焦らないで。そのうちきっと、思い出せるから」

 有紀はもう、嗚咽を噛み殺さなかった。私の腕を強く掴み、今まで溜め込んできたものを全て吐き出すようにして、泣いた。


 有紀を伴って階下に戻った。ピザのメニュー表は、すぐに捨てた。

 とっくに陽は沈み、暗くなってしまったので、台所の電気をつけた。

 私は、冷蔵庫の野菜室を開けて、トマトとレタスとキュウリを、使う分だけ取り出した。ゆで卵が担当の有紀は、鍋へ水を注ぎ、火にかけた。

 野菜をそれぞれ洗って適当な大きさに揃え、取り皿に並べる。

「そういえば有紀は、嫌いな野菜、ある?」

「いえ、特に……」

「ん? 何? ゴーヤ?」

「違います。ナスです」

 好き嫌い、ひとつめ、確保。

 有紀はしまった、という顔をしたが、もう遅い。

「へえ。ナス、か。私は好きだけどね。浅漬けとか」

「えっ、あ、う、嘘です! ナス大好きです。なっ、ナス……おいしい、ですよ、ね」

 ナスの味を想像してしまったのか、有紀は徐々に、顔をしかめていった。私は小さく笑った。

「無理に合わせなくていいんだよ。それくらいで、気分悪くなったりしないから。有紀は、気を遣いすぎ」

「そうですか?」

「うん。もっと、自分の意見とか、好きなものとか、言っていいんだよ」

「好きなもの」

「私は、寿司と刺身と焼き魚とサバの味噌煮が大好き。有紀は?」

「え、えーと……アイスクリームと、かき氷と、サンドイッチと」

 そこで、有紀は、両手を合わせ、微笑んだ。

「由衣お姉さんが、大好き、です」

 私は必死に、有紀をもう一度抱き締めたくなるのを堪えた。


 その日から数日が経った後、提出して、返却されたという絵を見せてもらった。

 「私のお姉さん」というタイトルのその絵では、女の子二人が、どちらも笑顔で、手を繋いでいた。

(2011/6/6)

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