嫌いなもの、好きなもの
今日は中学での授業が午前中までだった。家の方向が一緒だった友達と途中で別れて、帰宅した。
母も父も仕事でいない。昼ご飯は自分で勝手に作って食べろということだった。
「ただいま」
面倒だから、カップラーメンで済まそう。
一階にある台所でやかんに水を入れて火をかけ、二階にある自分の部屋に行って鞄を置き、制服から部屋着に着替え、また一階に下りた。
やかんが甲高い音を発し始めたところで止める。収納棚からカップラーメンをひとつ取り出していると、誰もいないはずの静かな家の中で、ふと、人のいる気配がした。
気味の悪さを感じかけて、思い出す。今日は、あの子も午前中授業だったはずだ。
「有紀ー、お昼食べよう」
二階にまで届くくらいの声で言う。
階段を、静かに下りてくる音がした。姿を見せた有紀は、夕焼け色の半袖Tシャツに、緑のハーフパンツを履いていた。
私たちに対して、小学五年生とは思えないほど気を遣う有紀は、階段を下りる足音までが、遠慮がちだった。
「由衣さん、お昼、もう作ったんですか?」
喋り方も、丁寧なままで、直らない。ここへ来て、もう、半年も経っているのに。
「ごめん、有紀。私、料理とかほとんどしたことないの。カップラーメンでいいならもうお湯は沸いてるんだけど……」
言いつつ、答えは分かっていた。
「はい、私もそれがいいです」
質問に対する返事はすべて同意を表すもの。それでいい、じゃない。それがいい。一字一句にまで細やかな気遣いが秘められている。
カップラーメンのふたを半分ほどめくり、お湯を注いでまた閉じる。同じことを有紀の分にもしたあと、有紀から箸を受け取り、それぞれのふたの上に置く。キッチンタイマーを二分四十五秒にセットした。
「どう、新しい学校。少しは、慣れた?」
キッチンタイマーがカウントダウンを刻むのを眺めながら、世間話の口調で訊く。
「はい、慣れました。叔父さんたちのおかげです」
「そういうことが聞きたいんじゃなくてさぁ……。困ったこととか、ないかなって」
「困ったこと、ですか……」
後頭部の左右に髪留めをつけた有紀は、髪留めでまとめた髪を少し揺らせて視線を逸らし、私の肩の辺りに視線を合わせた。
「特にないですね」
何かある。
そう思ったが、口には出さない。私は有紀とそれほど距離を詰められたとは思っていないし、踏み込むのはまだ、気が引ける。
「いじめられたら言うんだよ。主犯格にアイアンクローかましに行くから」
「アイアンクローって何ですか?」
「頭をこうしてから、手に力を入れるだけ」
有紀の小さな顔を、触る程度に優しく掴み、すぐに解いた。
私の中でのアイアンクローは、利き手で額のあたりを覆い、握り締めるというイメージだった。
「恐ろしい技ですね」
有紀は、恐ろしく真面目な顔で言った。その言い草が可笑しくて、私はタイマーが鳴り終わるまで笑った。
つられたのか、ここに来てからはあまり笑わない有紀も、くすりと、笑ってくれた。
一階の固定電話が鳴った。
ジャージ素材の上下の部屋着で、だらだら寝っ転がって音楽を聴いていた私は、ゆっくりと体を起こした。いつものように、有紀がもう受け答えしているだろうと思ったが、一階に下りると、まだ呼び出し音が鳴っていた。珍しいこともある。
受話器を取った。
「あ、有紀ちゃん?」
「いや、私」
「その男みたいな声は、由衣か。ごめんね、今日帰り遅くなるから。お父さんも飲み会だって言ってたから、夜ごはんもなんか適当に食べて。由衣だけじゃないんだし、せめてサラダくらいは作ってあげてね」
「男みたいって」
反論する前に母はまくしたて、一方的に通話を打ち切った。
「めんどくさい……」
ピザでも取ろう。
私は、何日か前にポストに突っ込まれていた広告を探して、部屋を漁り、無事にピザのメニュー表を見つけ出した。
ここはオーソドックスにトマト系のピザにしようか。それとも海鮮系で攻めるか。
あ、でも、と思い直す。有紀、ピザが嫌いかもしれない。有紀は物に対する好き嫌いをほとんど零さないので、有紀の好きなもの、嫌いなものが、まだ私には分からない。
ピザのメニュー表を折り畳み、ポケットに突っ込む。素直に答えてはくれないかもしれないが、それとなく話題に出して聞いてみよう、と思い、有紀の部屋の扉をノックした。何度かノックしたが、返事はない。
「有紀、入るよ」
橙色のやわらかな膜が、部屋全体に優しく満ちていた。正面に備え付けられた窓から差し込む、沈みかけの陽光が、昼間の熱気の余韻を残していた。窓のすぐ手前にある、真新しい勉強机。それに備え付けられた椅子に、有紀が座っていた。有紀は、腕を枕代わりにして、眠っているようだった。突っ伏しているわけではないので、横顔が、見える。
いつも綺麗に片づけられているはずの床に、何枚かの紙が、丸まって落ちていた。何気なく拾い、広げる。パンチで開けたような穴が、紙の最上部に、横一直線に並んでいた。スケッチブックから破り取ったような紙だった。紙は、横長に使われている。
紙には、黒色のクレヨンで、三人の人間が、正面からの構図で描かれていた。二人は大人で、一人は幼い子供。たぶん、親子だろう。子供は、両親の右手と左手をそれぞれ握り、楽しげに笑んでいる。思わず微笑みかけた所で、気付く。
両親に、顔がない。書き損じだろうか。もう一枚、丸まっていた紙を拾って、広げた。これも、顔がない。もう一枚。これも、ない。もう一枚。これも、ない。よく見ると、勉強机のすぐ横にあるゴミ箱が、捨てられた紙でいっぱいになっていた。
鳥肌が立った。そっと、眠っている有紀に近づく。
机の上には、スケッチブックと、クレヨンのケースと、一枚の紙。紙にはまた、三人の人間が描かれている。しかしこの紙は、人間の上から、赤のクレヨンで、ぐちゃぐちゃの曲線が引かれている。
描けない、描けない、描けない!
そんな叫びが、聞こえてくるような絵だった。紙の左隅を、腕で下敷きにしている有紀の頬は、涙に濡れていた。西日に照らされ、鈍く光っている。
私から見て、父方の伯父一家にあたる有紀の両親は、土砂崩れが原因の家屋倒壊に巻き込まれ、亡くなった。有紀も当時、在宅していたが、二階部分にいたおかげで奇跡的に助かっていた。
「有紀」
私は、震える声をどうにか律し、半年前まではいとこの一人に過ぎなかった、有紀の体を揺すった。
「有紀」
何度揺すっても、有紀は起きなかった。
私は諦めて、有紀の肩に手を置いたまま、呟く。
「ごめん。勝手に、見たりして。本当に、ごめん」
起きてから、もう一度、ちゃんと、謝ろう。
踵を返し、扉に手をかけた。
「由衣さん」
後ろから声がかかり、私は慌てて振り返る。
「起きてたの?」
「ごめんなさい、今、起きました」
有紀は、窓を向いたまま、言った。表情は見えない。
「図工の宿題なんです。家族の絵、というテーマが出されました」
「そう、なんだ」
「私だけ、提出が遅れてて。期限は一週間前だったんですけど、全然、描けなくて。私の絵、見ましたか」
「うん。勝手に見て、ごめん」
「変ですよね、私。半年前、ですよ。半年前まで、一緒に暮らしていた、私に愛情を注いでくれた人間の顔が、どうしても思い出せないんです」
声が、背中が、だんだん、小さくなっていく。
「写真を見ればいいんですけど、怖くて。怖くて、見れないんです。両親が怖いなんて、おかしいですよね。異常ですよね。でも、どうしても、見ることができないんです」
机の上にあった有紀の腕が動き、目もとを擦った。
「おかしくなんか、ない」
私は、ゆっくりと、有紀のほうに歩み寄った。
「おかしいですよ!」
有紀は、椅子を足で押し退け、立ち上がった。ここへ来て初めての大声だったが、その声は、かすれていた。
「おかしいですよ……異常、ですよ」
嗚咽をかみ殺したような吐息が、漏れ聞こえた。
私は特に意識することなく、有紀のことを、後ろから抱き締めた。有紀の首すじに腕を回し、有紀の頭に、顎をのせた。
「おかしくないよ。有紀は、おかしくない」
有紀の小さな手が、私の腕を掴んだ。
「焦らないで。そのうちきっと、思い出せるから」
有紀はもう、嗚咽を噛み殺さなかった。私の腕を強く掴み、今まで溜め込んできたものを全て吐き出すようにして、泣いた。
有紀を伴って階下に戻った。ピザのメニュー表は、すぐに捨てた。
とっくに陽は沈み、暗くなってしまったので、台所の電気をつけた。
私は、冷蔵庫の野菜室を開けて、トマトとレタスとキュウリを、使う分だけ取り出した。ゆで卵が担当の有紀は、鍋へ水を注ぎ、火にかけた。
野菜をそれぞれ洗って適当な大きさに揃え、取り皿に並べる。
「そういえば有紀は、嫌いな野菜、ある?」
「いえ、特に……」
「ん? 何? ゴーヤ?」
「違います。ナスです」
好き嫌い、ひとつめ、確保。
有紀はしまった、という顔をしたが、もう遅い。
「へえ。ナス、か。私は好きだけどね。浅漬けとか」
「えっ、あ、う、嘘です! ナス大好きです。なっ、ナス……おいしい、ですよ、ね」
ナスの味を想像してしまったのか、有紀は徐々に、顔をしかめていった。私は小さく笑った。
「無理に合わせなくていいんだよ。それくらいで、気分悪くなったりしないから。有紀は、気を遣いすぎ」
「そうですか?」
「うん。もっと、自分の意見とか、好きなものとか、言っていいんだよ」
「好きなもの」
「私は、寿司と刺身と焼き魚とサバの味噌煮が大好き。有紀は?」
「え、えーと……アイスクリームと、かき氷と、サンドイッチと」
そこで、有紀は、両手を合わせ、微笑んだ。
「由衣お姉さんが、大好き、です」
私は必死に、有紀をもう一度抱き締めたくなるのを堪えた。
その日から数日が経った後、提出して、返却されたという絵を見せてもらった。
「私のお姉さん」というタイトルのその絵では、女の子二人が、どちらも笑顔で、手を繋いでいた。
(2011/6/6)




