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ずっと一緒なら問題ない

作者: メロン
掲載日:2026/10/25

ずっと一緒なら問題ない


第一章 いつもの帰り道


 放課後になって十分ほど経った頃、ようやく帰り支度を終えた俺の机に、結衣が頬を乗せた。


「遅い」

「委員会があったんだから仕方ないだろ」

「十分待った」

「十分くらい待てよ」

「湊といる十分は短いけど、待ってる十分は長いの」


 よく分からない理屈を言いながら、結衣は机の下で俺の手を探した。指先が触れると、当たり前みたいに絡めてくる。手をつなぐのは、付き合ってから始まったことだった。けれど、結衣の指が俺の指の形を覚えているような馴染み方をするので、もっと昔からこうしていた気がする。


「帰ろ」

「今日はどうする?」

「湊の家」

「即答かよ」

「だめ?」

「別に」


 鞄を持って教室を出た。結衣は昇降口まで手を離さなかった。靴を履き替える時だけ、俺がしゃがんでいる間に指がほどける。立ち上がればまたつながる。そういう細かい動作に、もう何の説明も要らない。


「お前らまた一緒に帰んの?」


 後ろから声を掛けてきたのは真壁だった。俺と同じクラスで、席が近い。結衣とも何度か話している。


「悪いかよ」

「いや、悪くはないけどさ。付き合い始める前から大概だったけど、最近もっとひどくなってない?」

「何が?」

「距離」

「普通だろ」


 真壁は俺の返事を受け流して結衣を見た。


「水瀬さんは?」

「普通だよ」

「そっか。ならいいや」


 そう言って、真壁は手を振りながら昇降口を出ていった。結衣が俺の手を少し引く。


「帰ろ」

「はいはい」


 学校から俺の家までは歩いて十五分ほどだ。途中のコンビニに寄って、結衣はいちご味のアイス、俺はチョコ味を買った。レジを出てから、結衣が当然のように言う。


「一口ちょうだい」

「まだ開けてないぞ」

「予約」

「勝手に決めるな」

「湊も私の一口食べていいよ」

「何味?」

「いちご」

「じゃあいらん」

「なんで」

「俺、いちごそんな好きじゃない」

「知ってるよ」

「知ってて聞いたのか」

「でも、私が食べてるやつなら欲しいかもしれないじゃん」

「欲しくない」

「一口食べたら欲しくなるよ」


 結衣は楽しそうに笑った。結局、俺のチョコをひと口食べてから、いちごを差し出してきた。断ったら三歩くらい黙りそうだったので、少しだけ齧る。


「どう?」

「いちご」

「感想それだけ?」

「甘い」

「もっと」

「結衣が好きそう」

「正解」


 何が正解なのかは分からない。


 付き合い始めて三ヶ月。大きく何かが変わったという感じはしなかった。小学校からずっと一緒で、家も近く、親同士も知り合い。中学も高校も同じで、気付けば隣にいた。ただ手をつなぐようになって、キスをするようになった。そのくらいだ。


 それだけのことが、俺にはずいぶん大きかった。


◆


「ただいま」

「お邪魔しまーす」


 玄関を開けると、母さんの靴はなかった。今日も帰りは遅いらしい。結衣は慣れた様子で靴を揃え、俺の後について部屋に入った。


「誰もいない?」

「多分」

「そっか」


 結衣は鞄を置いてベッドの端に座る。俺は制服の上着を脱いで、机の椅子に掛けた。


「湊」

「ん?」

「遠い」

「二メートルも離れてないだろ」

「遠い」


 仕方なく隣に座ると、結衣はすぐ肩を寄せてきた。


「近い」

「どっちだよ」

「ちょうどいい」


 コンビニの袋からアイスを出す。少し柔らかくなっていた。


「あ」

「何」

「一口」

「やらん」

「予約した」

「勝手にな」


 結衣は俺の手首をつかんで、アイスを口元へ持っていく。


「おい」

「んー」


 ひと口どころか、思ったより大きく食べられた。


「でかい」

「おいしい」

「自分の食えよ」

「はい」


 今度はいちご味を差し出された。いらないと言ったはずなのに、目の前で待たれると、断るのも面倒になる。俺はほんの少し齧った。


「どう?」

「いちご」

「それさっき聞いた」

「結衣が好きそう」

「うん。湊が食べてくれたからもっとおいしい」

「味は変わらないだろ」

「変わるよ」


 結衣はそう言って、残りを自分で食べた。アイスを食べ終えると、俺の肩に頭を乗せる。髪が頬に触れた。


「眠い?」

「ちょっと」

「寝れば」

「寝たら時間減る」

「何の」

「湊といる時間」

「寝てもいるだろ」

「話せない」

「起きたら話せる」

「起きた時もいる?」

「ここ俺の部屋なんだけど」

「いる?」

「いるよ」


 結衣はそれを聞いて目を閉じた。差し出した手を握られる。数分もしないうちに寝息が聞こえてきた。


 スマホを取ろうと、身体を少しずらす。結衣の指に力が入った。


「……ん」


 目は閉じたままだ。手だけは離さない。


「何なんだよ」


 聞こえるはずもないのに呟いて、俺はスマホを諦めた。結衣の寝顔を眺める。頬にかかった髪を指で避けると、彼女は小さく息を吐いて、俺の手を自分の頬に引き寄せた。


 その仕草をかわいいと思う。少し困ったとも思う。両方の気持ちは、同じところにしまっておけばよかった。


 俺は空いている手で、机の端にあった宿題を開いた。結衣が起きるまで、片手でできるところだけ進めた。


◆


 結衣が俺を待つようになったのは、小学校に上がった春からだ。


 幼稚園の頃は、家が近いという理由で親同士が一緒に帰らせてくれていた。小学校に入ると、俺には同じクラスの友達ができた。昼休みに校庭で遊び、帰りもそのまま友達と走って帰ることが増えた。


 ある日、下駄箱の前で結衣が一人で立っていた。帰りの会が終わってから、もうずいぶん時間が経っていた。


「どうした?」

「湊、遅い」

「友達と遊んでた」

「私、待ってた」

「先帰ってていいのに」

「一緒に帰る約束でしょ」


 約束した覚えはなかった。けれど、結衣はそう思っていたらしい。俺は友達に「また明日」と言い、結衣と並んで歩いた。


 帰り道、結衣はいつもより静かだった。どうして待っていたのか、どうして先に帰らなかったのか、俺は聞かなかった。結衣も、何も説明しなかった。


 次の日から、俺は結衣を待つようになった。帰りの会が終わったら、教室の前で彼女の支度が済むのを待つ。気付けば、それが二人の決まりになった。


 俺が友達と遊びたい日は、結衣も一緒に混ざった。結衣が図書室に行く日は、俺もついて行った。どちらかが別のことをしたいと言って、もう片方が嫌がることはなかった。


 いや、あったのかもしれない。ただ、嫌だと言われる前に、俺の方から合わせていた。


 結衣が待っている。そう考えると、遊びの続きをする気がなくなった。結衣が行きたい場所なら、俺も行きたくなった。自分でそう決めているのだから、問題はないと思っていた。


 中学に上がっても、高校に入っても、俺たちは一緒だった。クラスが別だった年も、休み時間に顔を出した。友達はそれぞれいたが、放課後は二人で帰る。休日に出かける時も、まず相手に声を掛ける。


 その日々が恋愛に変わったのは、劇的な事件があったからではない。


 高校二年の春、進路希望調査の紙を渡された日、結衣が俺に「同じ大学に行きたい」と言った。その言葉に、俺がすぐ頷けなかった。それが始まりだった。


第二章 同じ場所にいること


「湊って、大学どうするの?」


 昼休み、真壁が弁当の卵焼きを食べながら聞いた。俺は進路希望調査の紙を机に広げ、書きかけた志望校の欄を眺めていた。


「まだ決めてない」

「成績的には選べるだろ。理系行くんだっけ?」

「たぶん」

「たぶんって。親に何か言われてないの?」

「行きたいところを考えろって」

「いい親だな」


 真壁は箸を動かしながら、俺の紙を覗き込んだ。そこには市内の大学と、隣県の大学の名前が並んでいた。どちらも通える距離だが、隣県の方は一人暮らしが必要になる。


「遠くも考えてるのか」

「選択肢としてな」

「水瀬さんは?」

「まだ聞いてない」


 言ってから、聞いていないことに気付いた。結衣は俺に同じ大学に行きたいと言った。けれど、どの大学かは話していない。俺も、自分の希望を話していなかった。


「帰りに聞けば」

「そうする」

「お前、進路の話まで二人で決めるつもり?」

「相談はするだろ」

「相談と決めてもらうのは違うからな」


 真壁は軽く言った。俺は返事をせず、紙を折り畳んだ。


 放課後、結衣はいつものように俺を待っていた。委員会の用事はなく、今日はすぐ帰れる。


「大学、決めた?」

「まだ」

「湊は?」

「俺もまだ」

「一緒のところがいいな」

「そう言ってたな」

「うん」


 結衣は手をつないだまま、校門を出た。歩幅を合わせるように、ほんの少しゆっくり歩く。


「どこか行きたいところある?」と俺は聞いた。

「湊は?」

「先に結衣が答えろよ」

「湊が行きたいところ」

「それだと決まらない」

「じゃあ、湊が行きたいところを一緒に調べる」

「俺がそこに行きたいかどうかも分からない」

「どうして?」

「まだ大学のこと、よく知らないから」


 結衣は黙った。つないだ手の力が少し強くなる。


「同じところがいいっていうのは、大学の中身より、湊と離れたくないってこと?」

「……そうかも」

「それだけで決めるのは、よくないと思う」


 自分で口にして、胸の奥が落ち着かなくなった。言い方が、結衣を責めたみたいに聞こえたかもしれない。


「ごめん」

「謝らなくていいよ。湊は正しいこと言った」

「正しいとかじゃなくて」

「私、湊と同じところに行けたら、たぶん何でも大丈夫って思ってた」


 信号が赤になり、二人で止まった。結衣は前を向いたままだった。


「でも、湊が行きたいところが別にあるなら、そこに行ってほしい」

「まだ決まってない」

「うん」

「結衣も、自分が行きたいところ考えろよ」

「考える」


 青に変わっても、結衣はすぐに歩き出さなかった。俺が手を引くと、彼女はようやく一歩を踏み出した。


 その晩、結衣からメッセージが来た。


『さっき、困らせた?』


 俺はしばらく画面を見てから返した。


『困ってない。ちゃんと話せてよかった』


 すぐに既読がついた。


『ほんと?』

『ほんと』

『じゃあ明日も一緒に帰っていい?』

『だめって言ったことないだろ』

『確認したかった』


 俺は「いいよ」と返して、スマホを伏せた。結衣が何かを怖がっている。そのことに、俺は気付いていたはずだった。けれど、それが何なのかを聞いたことはなかった。


◆


 翌日の放課後、結衣は図書室にいた。珍しいことではない。試験が近いと、教室より静かな場所で勉強したいと言う。


 俺は真壁と教室に残っていた。提出物の確認が終わらず、二人で数学の問題を解いていた。


「ここ、符号逆じゃない?」

「いや、前の式がマイナスだから」

「ほら、逆になってる」


 真壁が俺のノートにペン先を置いた。説明を聞きながら直していると、教室の後ろのドアが開いた。


「湊、まだ?」


 結衣が立っていた。手には図書室の本が数冊ある。


「もう少し。先帰る?」

「待つ」

「すぐ終わるから」


 結衣は返事をせず、俺の机のそばに立った。真壁は気にせず続けてくれたが、さっきまでの会話が途切れてしまった。


「水瀬さん、図書室だったの?」

「うん」

「勉強してた?」

「少し」


 真壁は何か言おうとして、俺と結衣を交互に見た。


「俺、先に帰るわ。これ以上いると邪魔っぽい」

「別に邪魔じゃないだろ」

「いや、いい。お疲れ」


 真壁は鞄を持って教室を出ていった。結衣は彼の背中を見送ってから、俺のノートに視線を落とした。


「ごめん。急かした?」

「いや、真壁は帰るところだったんだろ」

「まだ勉強してたのに」

「終わりかけだったよ」


 俺はノートを閉じ、鞄にしまった。結衣の顔を見たが、いつもの表情だった。笑っているわけではないが、機嫌が悪そうでもない。


「帰ろう」


 廊下に出ると、結衣が俺の袖をつまんだ。手はつながなかった。


「結衣?」

「なに?」

「手、つながないの」

「つなぎたいの?」

「いつもつないでるだろ」

「湊がつなぎたいなら」


 返事に困った。俺はつなぎたい。けれど、いつもそうしているから、そうしたいと思っているのか、いつもと違うのが落ち着かないだけなのか、区別がつかなかった。


「つなごう」


 そう言って手を出すと、結衣は一瞬だけ迷ってから指を重ねた。


「湊、真壁くんといる時楽しそうだった」

「そうか?」

「うん」

「話してただけだよ」

「分かってる」


 それ以上、結衣は何も言わなかった。俺も何も聞かなかった。


 家に着いてからも、結衣は帰る時間をいつもより早めた。玄関で靴を履きながら、何か言いたそうに俺を見た。


「また明日」

「うん」

「おやすみ」

「まだ夕方だぞ」

「夜に送る」


 扉が閉まったあと、俺はしばらく玄関に立っていた。結衣が帰るのはいつものことなのに、今日は家の中が広く感じた。


 部屋に戻り、机に向かう。ノートを開くと、真壁がつけた印が残っていた。さっきまで一緒に考えていた問題を解き直そうとしたが、頭に入ってこない。


 スマホを手に取る。結衣からはまだ何も来ていなかった。


 待つのは、思ったより疲れる。


 そのことを認めるのは、少し悔しかった。


第三章 名前をつける前


 結衣と付き合う前、俺たちが周りからどう見られていたか、俺はあまり気にしていなかった。


 休み時間に結衣の教室へ行く。昼休みに一緒に弁当を食べる。放課後、結衣が委員会なら廊下で待つ。結衣が先に帰る時は、家に着いたらメッセージを送るように言う。


 それが普通だった。


「湊って水瀬さんと付き合ってんの?」


 高校一年の秋、真壁にそう聞かれた。俺はその時、ペットボトルの蓋を開けていた。


「付き合ってない」

「じゃあ何で毎日一緒にいるんだ」

「幼なじみだから」

「幼なじみって便利な言葉だな」

「何が」

「いや、別に」


 真壁はそれ以上聞かなかった。俺も考えなかった。


 結衣に恋人ができたら嫌か、と聞かれたら、当時の俺は「別に」と答えていたと思う。結衣が誰と話しても、誰と帰っても、彼女がそうしたいならいい。そう思っていた。少なくとも、口ではそう言えた。


 実際には、結衣が他の誰かといるところを想像すると、胸の奥がひどく落ち着かなくなった。けれど、その感情を嫉妬と呼ぶのは違う気がした。結衣がいなくなるわけではない。少し一緒にいる相手が増えるだけだ。


 そんなふうに自分に言い聞かせていた。


 高校二年の五月、結衣が風邪で学校を休んだ。


 朝、メッセージで「熱があるから休む」と届いた。俺は『了解。ゆっくり寝ろ』と返した。それから授業に出たが、ノートを取る手が止まった。昼休みに一度スマホを見て、放課後にもまた見た。既読はつかない。


 結衣の家に行こうかと思った。だが、寝ているところを起こしたら悪い。家族もいる。何度も画面を開いては閉じた。


 結局、帰り道にスーパーへ寄り、ゼリー飲料とスポーツドリンクを買った。結衣の家の玄関前に袋を置き、インターホンを押した。


「湊?」


 扉を開けた結衣は、頬が赤かった。いつもより髪が乱れていて、部屋着の上にカーディガンを羽織っている。


「寝てろよ」

「来てくれたの?」

「これ置きに来ただけ」

「ありがとう」


 結衣は袋を受け取らず、俺の顔を見ていた。


「何」

「来てくれた」

「うん」

「それだけで、元気出た」

「熱あるんだから寝ろって」

「ちょっとだけ」


 彼女は扉の隙間から手を伸ばして、俺の制服の袖をつまんだ。俺はその手を振りほどかなかった。


「すぐ帰るよ」

「うん」


 結衣は袖をつまんだまま、少しだけ目を閉じた。俺は袋を床に置き、彼女の額に手を当てた。熱い。


「明日も休めよ」

「熱が下がったら行く」

「無理するな」

「湊がいないと暇だから」

「学校にいるよ」

「教室にいる湊は、私のところにいない」


 言い方が、妙に耳に残った。


「帰ったら連絡する」

「ほんと?」

「ほんと」

「夜も?」

「夜も」


 結衣はようやく袖を離した。俺は帰り道で何度か振り返った。彼女は玄関から出てこなかった。扉が閉まるまで見ていたのかもしれない。


 その夜、俺は結衣に二度メッセージを送った。返事が来るまで画面を見続けた。『薬飲んだ』『ゼリー食べた』『熱少し下がった』。短い報告に、ひとつずつ返事をする。


 翌朝、結衣はまだ休んだ。今度は俺から「何か必要なものある?」と聞いた。『湊が来てくれたらいい』と返ってきたので、俺は学校帰りにまた寄った。


 三日目に登校した結衣は、教室の前で俺を見つけると、何も言わずに近づいてきた。手が伸びる。俺も自然に握り返した。


「もう大丈夫?」

「うん」

「無理するなよ」

「湊がいるから大丈夫」


 俺はその言葉を嬉しいと思った。嬉しいと思ったことを、隠す理由もなかった。


 それからしばらくして、結衣が他のクラスの男子に告白された。


 俺が知ったのは、結衣からだった。放課後、いつも通り帰ろうとしていたら、彼女が昇降口で足を止めた。


「今日、少し話したいことある」

「何」

「ここでは言いにくい」


 俺たちは校舎の裏に回った。人通りの少ない渡り廊下の脇で、結衣は鞄の紐を握っていた。


「同じ学年の人に、告白された」


 頭の中で、その言葉が一度跳ねてから、意味を持った。


「そうなんだ」

「うん」

「どうするの」

「断ると思う」

「思う?」

「まだ返事してない」


 結衣は俺を見た。何かを待つ顔だった。


「好きな人なの?」

「よく知らない」

「じゃあ、どうして迷うんだ」

「湊に聞いてほしかったから」

「俺に?」

「湊がどう思うか、知りたかった」


 俺はすぐに答えられなかった。結衣が誰かと付き合う。頭に浮かべた途端、結衣のいない放課後が具体的な形を持った。帰り道に隣を歩く人が別の誰かになる。彼女が学校で話す相手も、休日に会う相手も、少しずつ変わっていく。


 そんなのは嫌だと思った。


「断ってほしい」


 言ってから、自分の声が思ったより強かったことに気付いた。


「どうして?」

「分からない」

「分からないのに?」

「結衣が誰かと付き合うの、嫌だ」


 結衣の目が揺れた。俺は彼女の手を取ろうとしたが、途中で止めた。取る権利があるのか分からなかった。


「それって、好きってこと?」

「……たぶん」

「たぶんなんだ」

「今まで考えたことなかった」

「私も」


 結衣は鞄を持つ手に力を入れた。


「湊が嫌なら、断る」

「それでいいのか」

「湊が嫌なのに、受ける理由ないよ」

「結衣がどうしたいかで決めろよ」

「私がどうしたいかは、湊のそばにいたい」


 その答えを聞いて、俺はようやく彼女の手を取った。結衣は抵抗しなかった。


「俺も」

「何?」

「結衣のそばにいたい」


 告白の言葉としては、あまりに遠回りだったと思う。けれど、結衣は少し笑った。


「じゃあ、付き合う?」

「そういうことになるのか」

「ならない?」

「なると思う」

「思うなんだ」

「俺、こういうの初めてだから」

「私もだよ」


 結衣はつないだ手を持ち上げた。二人の指が絡んでいる。


「明日から、恋人ってことでいい?」

「いいよ」

「じゃあ、今日からでもいい?」

「今日からでいい」


 結衣はうなずき、俺の肩に額を寄せた。人目がないとはいえ、校舎の裏だ。誰かが通るかもしれない。そう思いながらも、俺は離れなかった。


 帰り道はいつも通りだった。ただ、指を絡めた手が、いつもより熱く感じた。


◆


 その夜、結衣からメッセージが届いた。


『今日はありがとう』


『俺も』


『明日も一緒に帰ろうね』


『いつも通りだろ』


『恋人になったから、いつもより楽しみ』


 俺は画面を見て、少し考えた。


『俺も楽しみ』


 送信すると、すぐに返ってきた。


『好き』


 俺は「俺も好き」と打った。送るまでに時間がかかった。文字にすると、気持ちの形が決まってしまうようで、少し怖かった。


 けれど、送ったあとには、胸の奥のざわつきが静かになった。


『おやすみ、湊』

『おやすみ』


 それから俺たちは、恋人になった。


 結衣が告白を断ったことを知っているのは、俺と結衣だけだ。詳しいことを誰かに話す必要はなかった。翌日から、手をつなぐ時間が増えた。結衣は時々、俺の頬に触れた。俺は彼女の髪を撫でた。


 初めてキスをしたのは、付き合い始めて一週間後だった。結衣の家で映画を見ていた時、画面が暗くなった瞬間に、彼女が「してみたい」と言った。


「何を」

「キス」

「今?」

「今」

「映画は」

「あとで見る」


 結衣は真剣な顔をしていた。俺はどうすればいいか分からず、彼女の目を見た。


「嫌?」

「嫌じゃない」

「じゃあ、していい?」

「うん」


 結衣が少し背伸びをした。俺は彼女の肩に手を置いた。唇が触れたのは一瞬で、離れてから、二人とも何も言わなかった。


「どうだった?」

「分からない」

「私も」

「もう一回する?」

「うん」


 二度目は、少し長かった。結衣の手が俺の制服をつかんでいた。俺も彼女を抱き寄せていた。


 映画の内容は、最後までよく分からなかった。


◆


 付き合ってからも、俺たちの毎日は大きく変わらなかった。学校で会い、放課後に帰り、どちらかの家で時間を過ごす。変わったのは、何でもない時に結衣が「好き」と言うようになったことと、俺もそれに返すようになったことだ。


 それから、結衣は俺が他の人と話していると、少しだけ黙るようになった。


 真壁と話している時。委員会の先輩に呼ばれた時。クラスの女子からノートを見せてほしいと言われた時。結衣はそのたびに、会話が終わるまで待っている。終わった後、俺の隣に来て手をつなぐ。


 最初は、そういうものだと思っていた。恋人になれば、相手が誰と話すか気になることもある。俺だって、結衣が知らない男子と話していると、目で追ってしまう。


 だから、問題はないと思っていた。


 ただ、その気持ちを結衣に確かめたことはなかった。聞けば、何かが変わる気がした。


第四章 少しだけ別々の時間


 文化祭の準備が始まったのは、六月の終わりだった。俺のクラスは喫茶店をやることになり、結衣のクラスは展示を作るらしい。


「委員長、これどこに置く?」


 クラスメイトの小坂が、段ボールを抱えて聞いてきた。俺は黒板の前に貼った見取り図を指した。


「窓側。通路を空けて、ここに積んで」

「了解。湊、ちょっと持つの手伝って」


 段ボールの反対側を持つ。小坂は同じ委員で、作業の段取りを一緒に考えていた。何かを持ち上げるたび、彼女は「せーの」と声を掛ける。


 準備が終わる頃、結衣が教室の入口に立っていた。手には展示用の模造紙がある。


「終わった?」

「今終わった」

「お疲れ」

「結衣もお疲れ」


 小坂が俺の隣から模造紙を受け取った。


「水瀬さん、これ運ぶの手伝ってくれる?」

「うん」


 結衣は笑って答えた。俺は少し安心した。二人は同じ委員会ではないが、以前から顔見知りだ。結衣が嫌がっているようには見えなかった。


 帰り道、結衣はいつもより静かだった。


「疲れた?」

「うん、ちょっと」

「文化祭の準備大変?」

「展示はそんなに。湊の方が忙しそう」

「そうでもないよ」

「小坂さんとよく話してるね」


 俺は結衣を見た。彼女は前を向いていた。


「委員だからな」

「うん」

「何か気になる?」

「別に」

「別にって顔じゃない」

「どんな顔?」

「ちょっと不機嫌」

「不機嫌じゃないよ」


 結衣は手を握り直した。指先が俺の手の甲をなぞる。


「小坂さん、湊のことよく見てるなと思っただけ」

「作業の相談してるからだろ」

「分かってる」

「結衣」

「分かってるってば」


 声が少し強くなった。結衣はすぐに息を吐き、俺の手を離した。


「ごめん。今の言い方、嫌だったね」

「いや」

「嫉妬しただけ」

「そうか」

「そうか、なんだ」

「何て言えばいい?」

「分からない。湊が嫌じゃないなら、別にいい」


 俺は返事ができなかった。嫌ではない。結衣が俺を気にしてくれるのは嬉しい。けれど、彼女が不安になっていることを、嬉しいと言っていいのか分からない。


 結衣は自分の言葉をしまうように、また手をつないだ。帰り道の残りは、二人ともあまり話さなかった。


◆


 翌日、俺は小坂と準備の続きをした。結衣は自分のクラスで作業があり、放課後は別々だった。


「水瀬さん待たなくていいの?」と真壁が聞いた。

「今日は結衣の方が遅い」

「じゃあ先に帰れば」

「一緒に帰る」

「待つんだ」

「そうだけど」


 真壁は肩をすくめた。


「お前も大概だな」

「何が」

「水瀬さんだけが待ってるみたいに言われるけど、お前も待ってるだろ」

「一緒に帰る約束だから」

「その約束、どっちが言い出した?」

「覚えてない」


 真壁は笑った。俺は少しむっとしたが、言い返すことはできなかった。


 結衣が来たのは、いつもより三十分遅かった。手に絵の具がついている。


「お疲れ」

「湊も待ってたんだ」

「うん」

「ごめんね」

「いいよ」


 俺は鞄からウェットティッシュを出した。結衣の指についた絵の具を拭く。彼女は黙って手を預けていた。


「帰ろう」

「うん」


 結衣は俺の袖をつかんだ。手をつなぐまで、少し時間があった。


「今日、小坂さんと二人で残ってた?」

「真壁もいたよ」

「そうなんだ」

「気になる?」

「うん」

「言っていいよ」

「言ったら、湊が作業しにくくなる」

「それは別の話だろ」

「別じゃないよ。私が嫌だって言ったら、湊は小坂さんと話さないようにするでしょ」

「そんなことしない」

「するよ」

「しないって」

「前に、私があの人と話したくないって言ったら、湊、休み時間に来なくなった」


 思い当たることがあった。中学の時、結衣が苦手な相手と同じ班になったことがある。結衣はその子のことを「ちょっと疲れる」と言った。俺は休み時間に結衣の教室へ行くのをやめた。結衣が一人で過ごせるように、というつもりだった。


「それは、結衣が嫌だって言ったから」

「でも、湊まで避けなくてよかった」

「何でその時言わなかったんだよ」

「湊が私のためにしてくれたのが嬉しかったから」


 結衣は歩道の端を見た。街灯が点き始め、二人の影が長く伸びる。


「嬉しいことと、いいことは同じじゃないかもしれない」


 彼女の言葉が、胸に引っかかった。


「俺は結衣が嫌がることをしたくない」

「うん」

「でも、結衣が嫌だって言ったら、何でもやめるのは違う?」

「分からない」

「俺も分からない」


 結衣はゆっくり頷いた。


「今日は、小坂さんと話してもいいよ」

「今日は?」

「明日も、明後日も。私が嫌でも、湊が必要なら話して」

「必要っていうか、委員だからな」

「そういうのも含めて」


 俺は彼女の手を取った。結衣は握り返してくれたが、指を絡めなかった。


「ありがとう」

「まだありがとうって言うほどのことじゃない」

「そうか」

「でも、話してくれてよかった」

「うん」


 その日は、帰ってからも少しぎこちなかった。結衣は俺の家に来たが、いつものように肩を寄せてはこなかった。ソファの端と端に座り、文化祭の準備について話した。


「小坂さんって、どんな人?」

「普通の人」

「普通って何」

「仕事が早い。段取りを考えるのがうまい」

「ふうん」

「あと、甘いもの好き」

「それ、必要な情報?」

「さあ」


 結衣はようやく笑った。俺は隣へ移動しようか迷ったが、彼女の方から少し近づいてきた。


「今日、手つないでいい?」

「いいよ」


 手を重ねる。結衣の指はいつもより冷たかった。


「私、湊が誰と話してるか気にするの、やめられないと思う」

「やめなくていいよ」

「でも、湊の世界を狭くしたくない」

「結衣の世界も狭くしたくない」

「私の世界は、湊がいればいいのに」

「俺は、それだけだと困る」


 言ってから、結衣の表情を確かめた。彼女は傷ついたようには見えなかった。むしろ、少しだけ安心したようだった。


「困るんだ」

「うん」

「私がいるだけじゃ足りない?」

「足りないんじゃない。結衣がいるのは当たり前に嬉しい。でも、それ以外もほしい」

「友達とか?」

「友達も、勉強も、好きなことも」

「私以外のものを?」

「そう」


 結衣は俺の肩に頭を乗せた。


「じゃあ、湊がそれを見つけるところ、私も一緒に見てていい?」

「いいよ」

「私も探すから」

「何を」

「湊以外に好きなもの」

「俺以外の人じゃなくていいからな」

「そこは心配するんだ」

「するよ」

「湊も嫉妬するんだね」

「今さらかよ」


 結衣はくすっと笑った。俺も笑った。


 それからしばらく、俺たちは何も話さなかった。手をつないだまま、テレビの音を聞いていた。近くにいることを確かめるだけの時間が、時々必要だった。


◆


 文化祭当日、小坂は朝から忙しそうだった。俺たちはクラスの喫茶店を開ける前に、看板や机の位置を確認した。結衣は展示の準備を終えたあと、昼過ぎに友達と一緒に来た。


「いらっしゃいませ」


 真壁がわざとらしく頭を下げる。結衣は笑いながら席に座った。


「湊、忙しい?」

「今は大丈夫」

「じゃあ、少し話せる?」

「もちろん」


 俺は水を持っていった。結衣の隣には、彼女のクラスの友人である佐伯さんがいた。佐伯さんは俺に気付くと、軽く手を振った。


「湊くん、文化祭の準備お疲れ」

「佐伯さんも」

「水瀬さん、最近ずっと展示のこと考えてたよ。壁の色とか、文字の大きさとか」

「そうなんだ」

「湊くんに見せるって張り切ってたし」


 結衣が佐伯さんの腕を軽くつついた。


「余計なこと言わないで」

「ごめんごめん」


 結衣は少し照れたように俺を見た。


「あとで一緒に見に来て」

「行くよ」

「約束ね」

「約束」


 俺は仕事に戻った。喫茶店は思ったより混み、昼過ぎまで休む暇がなかった。途中で何度か結衣を探した。彼女は友人たちと展示の前にいて、笑いながら話していた。


 結衣が他の人と楽しそうにしている。前なら、それだけで少し落ち着かなかったかもしれない。今日は、その輪の中に彼女がいることが嬉しかった。


 閉店後、クラスで片付けをした。小坂が「これ、最後の箱」と言って、俺に段ボールを渡す。二人で廊下の倉庫まで運んだ。教室に戻ると、結衣が入口で待っていた。


「終わった?」

「終わった」

「見に来てくれる?」

「行く」


 結衣の展示は、校舎の古い写真を集めたものだった。何年も前の校庭、今は取り壊された温室、卒業生が描いた壁画。展示の端には、結衣が撮った写真も並んでいた。


「これ、いつ撮ったの?」

「朝。人がいない時に」

「きれいだな」

「ほんと?」

「うん」


 窓から差し込む光が、机の上に置いた花瓶を照らしている。写真には、誰もいない教室の静けさが写っていた。


「これ好き」

「湊が?」

「うん」

「私も」

「結衣が撮った?」

「うん」

「知らなかった。写真撮るの」

「最近始めたの。佐伯さんにカメラ借りて」

「楽しい?」

「うん。湊がいない時間に、何かしてみようと思って」


 彼女は写真の前に立ったまま、少し困ったように笑った。


「湊がいない時間って、前は何してたか覚えてないんだよね」

「そうなのか」

「待ってた。連絡を見てた。次に会うこと考えてた。そればっかり」

「今は?」

「カメラ持って外を歩く。たまに佐伯さんと撮りに行く」

「いいな」

「湊も来る?」

「行きたい」

「でも、今日は佐伯さんと約束してるから、湊は次ね」

「分かった」


 口にしたら、思ったより寂しさはなかった。むしろ、結衣が自分の予定を持っていることが心強かった。


「湊、ちゃんと寂しそうな顔した」

「してない」

「ちょっとだけ」

「次は一緒に行くって言っただろ」

「うん」


 結衣は俺の袖をつまんだ。手をつなぐ前に、彼女は周りを見た。生徒が何人か展示を見ている。


「帰る時、つないでいい?」

「いいよ」

「今は?」

「今は、袖だけ」

「分かった」


 その返事が嬉しかった。俺たちは、手をつながない時も一緒にいられるのだと、少しずつ覚えているところだった。


第五章 言わなかったこと


 夏休みが始まる前、真壁に映画へ誘われた。


『男二人で行くのも変だけど、試験終わったし。新作のやつ見たいんだよ』


 メッセージを読んで、俺は結衣に話した。結衣は一拍置いてから「行ってきなよ」と言った。


「一緒に行く?」

「真壁くんが湊を誘ったんでしょ」

「そうだけど」

「二人で行けばいいよ」

「結衣はいいの?」

「いいよ。私も佐伯さんと出かける予定あるし」

「そうか」

「不安?」

「いや」

「ほんとに?」

「少し」


 結衣は笑った。


「じゃあ、終わったら連絡して」

「うん」


 約束の日、俺は真壁と映画を見て、駅前で遅い昼食を食べた。話の内容は、映画よりも進路や学校のことが多かった。


「水瀬さんと、大学の話した?」

「してる」

「決まった?」

「まだ」

「一緒のところがいいって言われたんだろ」

「うん」

「お前はどうしたいんだ」

「俺も一緒がいい」

「それだけか?」

「それだけじゃない。行きたい分野もある」

「じゃあ、ちゃんと分けて考えろよ」


 真壁はストローを回しながら言った。


「一緒にいたいから同じ大学を選ぶのは、別に悪くないと思う。でも、それで自分の希望を捨てたら、あとで相手のせいにするぞ」

「結衣のせいにはしない」

「今はそう思ってても、何年か後は分からないだろ」

「……そうだな」

「あと、水瀬さんも同じこと考えてるかもしれない」


 帰りに、結衣へ『今終わった』と送った。すぐに『楽しかった?』と返ってくる。


『うん。映画は普通だったけど、話せた』

『よかった』

『結衣は?』

『佐伯さんと写真を撮りに行った。楽しかった』

『写真見せて』

『今度ね』


 その『今度』が、いつになるのかは分からなかった。けれど、俺は急かさなかった。


 その夜、結衣から電話が来た。いつもならメッセージで済むような時間だった。


「もしもし」

「今、平気?」

「平気だよ」

「今日、真壁くんと何話したの?」

「映画と進路」

「進路のこと、私に言いにくい?」

「そういうわけじゃない」

「でも、真壁くんには話したんだよね」

「誘われたから、話しただけだよ」


 結衣は黙った。電話の向こうに、時計の秒針の音が聞こえる。


「ごめん。責めたいわけじゃないの」

「うん」

「ただ、私が知らない湊の話が増えると、置いていかれる感じがする」

「そんなことない」

「どうして?」

「結衣に話してないことがあっても、結衣がいなくなるわけじゃない」

「分かってる」

「本当に?」

「分かってるよ。でも、分かってるのに怖いの」


 俺はベッドの端に座り直した。電話を持つ手が強くなる。


「俺も、結衣が佐伯さんと出かけるって聞いた時、少し嫌だった」

「嫌だったの?」

「嫌というか、俺も行きたいと思った」

「一緒に行こうって言ったらよかったのに」

「結衣と佐伯さんの予定だったから」

「私も真壁くんと湊の予定を邪魔したくなかった」

「そうか」

「同じだね」

「たぶん」


 少し間が空いた。


「湊」

「うん」

「私たち、何でも一緒にしようとしすぎてるのかな」

「どうだろう」

「一緒にいないと、何かがなくなる気がする」

「俺も、そう思うことある」

「それって変?」

「変かどうかは分からない。でも、苦しいなら考えた方がいいんだと思う」


 結衣は息を吸った。


「私、湊がいないと何もできないって思ってた」

「今は?」

「今も、たまにそう思う」

「たまにか」

「前はいつもだった。今はカメラがあるし、佐伯さんもいる。お母さんとも話す。でも、湊がいないと全部つまらなくなる時がある」

「俺も似たようなものだよ」

「湊も?」

「結衣がいないと、帰り道が変な感じする」

「それ、好きってこと?」

「たぶん」

「まだたぶんなんだ」

「そういうところ、結衣に似てきた」


 結衣が小さく笑った。電話越しに、その笑い声が届く。


「明日、会える?」

「会えるよ」

「何かしよう」

「何する?」

「一緒に考えよう」

「じゃあ、駅前で昼飯食べて、写真を撮りに行く?」

「いいね。カメラ持っていく」

「真壁と見た映画の話もする」

「聞く」

「結衣が撮った写真も見せて」

「うん」


 電話を切ったあと、俺はしばらくスマホを握っていた。結衣が誰かと過ごす時間を持ち、俺がそれを知らない時間がある。そういうものを怖いと思う気持ちは、まだなくならない。


 なくさなくていいのかもしれない。怖いからといって、相手の時間を奪わなければいい。そう思えるかどうかが、これからの問題だった。


◆


 翌日、結衣はカメラを持ってきた。駅の裏手にある商店街を歩きながら、気になったものを撮る。古い看板、喫茶店の窓、路地に置かれた植木鉢。俺はカメラのことをよく知らないので、何がいい写真なのかは分からなかった。


「これ、何がいいの?」

「光の入り方」

「この鉢の?」

「うん。葉っぱの影が壁に映ってるでしょ」

「ほんとだ」


 結衣はカメラを下ろして、画面を俺に見せた。確かに、葉の形が壁に淡く映っていた。目の前にあったはずなのに、俺は気付いていなかった。


「湊はどれが好き?」

「さっきの看板」

「なんで?」

「文字が古いから」

「理由になってる?」

「なってるだろ」

「じゃあ撮ってみて」


 カメラを受け取る。結衣に教えてもらいながら、画面を覗いてシャッターを押した。思ったより簡単だった。


「撮れた」

「見せて」


 画面を確認した結衣が、少しだけ笑った。


「湊らしい」

「どういう意味」

「看板だけじゃなくて、横の自転車も入ってる」

「邪魔だった?」

「ううん。こういうの好き」

「ならよかった」


 昼食を食べたあと、川沿いまで歩いた。ベンチに座って、真壁と見た映画の話をする。結衣は予想よりよく質問をした。どの場面が好きだったか、真壁がどういう感想を言ったか。俺は思い出しながら話す。


「真壁くんと、そんなに話したんだ」

「映画のあとずっと」

「いいな」

「結衣も佐伯さんと話したんだろ」

「うん。カメラのこと教えてもらった。あと、写真部に入ろうかなって相談した」

「写真部あるんだ」

「あるよ。二年生からでも入れるって」

「入るの?」

「まだ考えてる」

「いいじゃん」

「湊はどう思う?」

「結衣が入りたいなら、入ればいいと思う」

「そういう答えじゃなくて」

「似合うと思うよ。結衣、よく周り見てるし」

「ありがとう」


 彼女はカメラを膝に置いた。


「湊は、私がいないところで何かするの嫌?」

「嫌じゃない」

「本当に?」

「最初は嫌だと思うかもしれない。でも、結衣が楽しそうならいい」

「湊が楽しそうな時、私もそう思えるようになりたい」

「もう思えてるだろ」

「まだ練習中」


 彼女は俺の肩に寄りかかった。風が吹き、川面が揺れる。


「写真部に入ったら、放課後一緒に帰れない日があるかも」

「そうだな」

「待っててほしい?」

「できる日は待つよ」

「待てない日は?」

「先に帰る」

「私も先に帰る」

「それでいい」

「でも、帰ったら連絡して」

「する」

「私もする」


 結衣はカメラを持ち上げ、俺たちの足元を撮った。二人分の影が、ベンチの下で重なっている。


「何撮った?」

「秘密」

「見せろよ」

「あとで」

「またあとでか」

「今度ね」


 その「今度」は、昨日より遠く感じなかった。


第五章 言わなかったこと


 夏休みが始まる前、真壁に映画へ誘われた。


『男二人で行くのも変だけど、試験終わったし。新作のやつ見たいんだよ』


 メッセージを読んで、俺は結衣に話した。結衣は一拍置いてから「行ってきなよ」と言った。


「一緒に行く?」

「真壁くんが湊を誘ったんでしょ」

「そうだけど」

「二人で行けばいいよ」

「結衣はいいの?」

「いいよ。私も佐伯さんと出かける予定あるし」

「そうか」

「不安?」

「いや」

「ほんとに?」

「少し」


 結衣は笑った。


「じゃあ、終わったら連絡して」

「うん」


 約束の日、俺は真壁と映画を見て、駅前で遅い昼食を食べた。話の内容は、映画よりも進路や学校のことが多かった。


「水瀬さんと、大学の話した?」

「してる」

「決まった?」

「まだ」

「一緒のところがいいって言われたんだろ」

「うん」

「お前はどうしたいんだ」

「俺も一緒がいい」

「それだけか?」

「それだけじゃない。行きたい分野もある」

「じゃあ、ちゃんと分けて考えろよ」


 真壁はストローを回しながら言った。


「一緒にいたいから同じ大学を選ぶのは、別に悪くないと思う。でも、それで自分の希望を捨てたら、あとで相手のせいにするぞ」

「結衣のせいにはしない」

「今はそう思ってても、何年か後は分からないだろ」

「……そうだな」

「あと、水瀬さんも同じこと考えてるかもしれない」


 帰りに、結衣へ『今終わった』と送った。すぐに『楽しかった?』と返ってくる。


『うん。映画は普通だったけど、話せた』

『よかった』

『結衣は?』

『佐伯さんと写真を撮りに行った。楽しかった』

『写真見せて』

『今度ね』


 その『今度』が、いつになるのかは分からなかった。けれど、俺は急かさなかった。


 その夜、結衣から電話が来た。いつもならメッセージで済むような時間だった。


「もしもし」

「今、平気?」

「平気だよ」

「今日、真壁くんと何話したの?」

「映画と進路」

「進路のこと、私に言いにくい?」

「そういうわけじゃない」

「でも、真壁くんには話したんだよね」

「誘われたから、話しただけだよ」


 結衣は黙った。電話の向こうに、時計の秒針の音が聞こえる。


「ごめん。責めたいわけじゃないの」

「うん」

「ただ、私が知らない湊の話が増えると、置いていかれる感じがする」

「そんなことない」

「どうして?」

「結衣に話してないことがあっても、結衣がいなくなるわけじゃない」

「分かってる」

「本当に?」

「分かってるよ。でも、分かってるのに怖いの」


 俺はベッドの端に座り直した。電話を持つ手が強くなる。


「俺も、結衣が佐伯さんと出かけるって聞いた時、少し嫌だった」

「嫌だったの?」

「嫌というか、俺も行きたいと思った」

「一緒に行こうって言ったらよかったのに」

「結衣と佐伯さんの予定だったから」

「私も真壁くんと湊の予定を邪魔したくなかった」

「そうか」

「同じだね」

「たぶん」


 少し間が空いた。


「湊」

「うん」

「私たち、何でも一緒にしようとしすぎてるのかな」

「どうだろう」

「一緒にいないと、何かがなくなる気がする」

「俺も、そう思うことある」

「それって変?」

「変かどうかは分からない。でも、苦しいなら考えた方がいいんだと思う」


 結衣は息を吸った。


「私、湊がいないと何もできないって思ってた」

「今は?」

「今も、たまにそう思う」

「たまにか」

「前はいつもだった。今はカメラがあるし、佐伯さんもいる。お母さんとも話す。でも、湊がいないと全部つまらなくなる時がある」

「俺も似たようなものだよ」

「湊も?」

「結衣がいないと、帰り道が変な感じする」

「それ、好きってこと?」

「たぶん」

「まだたぶんなんだ」

「そういうところ、結衣に似てきた」


 結衣が小さく笑った。電話越しに、その笑い声が届く。


「明日、会える?」

「会えるよ」

「何かしよう」

「何する?」

「一緒に考えよう」

「じゃあ、駅前で昼飯食べて、写真を撮りに行く?」

「いいね。カメラ持っていく」

「真壁と見た映画の話もする」

「聞く」

「結衣が撮った写真も見せて」

「うん」


 電話を切ったあと、俺はしばらくスマホを握っていた。結衣が誰かと過ごす時間を持ち、俺がそれを知らない時間がある。そういうものを怖いと思う気持ちは、まだなくならない。


 なくさなくていいのかもしれない。怖いからといって、相手の時間を奪わなければいい。そう思えるかどうかが、これからの問題だった。


◆


 翌日、結衣はカメラを持ってきた。駅の裏手にある商店街を歩きながら、気になったものを撮る。古い看板、喫茶店の窓、路地に置かれた植木鉢。俺はカメラのことをよく知らないので、何がいい写真なのかは分からなかった。


「これ、何がいいの?」

「光の入り方」

「この鉢の?」

「うん。葉っぱの影が壁に映ってるでしょ」

「ほんとだ」


 結衣はカメラを下ろして、画面を俺に見せた。確かに、葉の形が壁に淡く映っていた。目の前にあったはずなのに、俺は気付いていなかった。


「湊はどれが好き?」

「さっきの看板」

「なんで?」

「文字が古いから」

「理由になってる?」

「なってるだろ」

「じゃあ撮ってみて」


 カメラを受け取る。結衣に教えてもらいながら、画面を覗いてシャッターを押した。思ったより簡単だった。


「撮れた」

「見せて」


 画面を確認した結衣が、少しだけ笑った。


「湊らしい」

「どういう意味」

「看板だけじゃなくて、横の自転車も入ってる」

「邪魔だった?」

「ううん。こういうの好き」

「ならよかった」


 昼食を食べたあと、川沿いまで歩いた。ベンチに座って、真壁と見た映画の話をする。結衣は予想よりよく質問をした。どの場面が好きだったか、真壁がどういう感想を言ったか。俺は思い出しながら話す。


「真壁くんと、そんなに話したんだ」

「映画のあとずっと」

「いいな」

「結衣も佐伯さんと話したんだろ」

「うん。カメラのこと教えてもらった。あと、写真部に入ろうかなって相談した」

「写真部あるんだ」

「あるよ。二年生からでも入れるって」

「入るの?」

「まだ考えてる」

「いいじゃん」

「湊はどう思う?」

「結衣が入りたいなら、入ればいいと思う」

「そういう答えじゃなくて」

「似合うと思うよ。結衣、よく周り見てるし」

「ありがとう」


 彼女はカメラを膝に置いた。


「湊は、私がいないところで何かするの嫌?」

「嫌じゃない」

「本当に?」

「最初は嫌だと思うかもしれない。でも、結衣が楽しそうならいい」

「湊が楽しそうな時、私もそう思えるようになりたい」

「もう思えてるだろ」

「まだ練習中」


 彼女は俺の肩に寄りかかった。風が吹き、川面が揺れる。


「写真部に入ったら、放課後一緒に帰れない日があるかも」

「そうだな」

「待っててほしい?」

「できる日は待つよ」

「待てない日は?」

「先に帰る」

「私も先に帰る」

「それでいい」

「でも、帰ったら連絡して」

「する」

「私もする」


 結衣はカメラを持ち上げ、俺たちの足元を撮った。二人分の影が、ベンチの下で重なっている。


「何撮った?」

「秘密」

「見せろよ」

「あとで」

「またあとでか」

「今度ね」


 その「今度」は、昨日より遠く感じなかった。


第六章 少しだけ別々の時間


 夏休みの初め、結衣は写真部に入った。活動日は週に二回で、校外へ撮影に行くこともあるらしい。俺は放課後に一緒に帰れない日が増えたが、待つ時間が前ほど苦ではなかった。


 俺にも、真壁と勉強する予定ができた。受験のことを考えるため、週に一度、図書館で問題集を進める。結衣が写真部の日と重なることが多かった。


 それぞれの予定ができたことで、会う時間は少し減った。代わりに、会えた時に話すことが増えた。


「今日、先輩にレンズの使い方教わった」

「どう違うんだ?」

「遠くのものが大きく撮れる」

「それは分かる」

「でも、背景のぼけ方も変わるんだよ」

「それは分からない」

「今度見せる」

「今度が増えたな」

「全部そのうち見せる」


 そういう会話をしながら、俺たちは少しずつ別々の時間を持った。


 それでも、うまくいかない日もあった。


 夏休みの終わり頃、結衣は部の先輩たちと撮影に出かけた。俺は真壁と図書館で勉強する予定だったが、真壁が熱を出して延期になった。急に空いた時間に、俺は結衣に会えないかと聞いた。


『今日は部の人と出かけるから、また今度ね』


 短い返事だった。俺は『分かった』と送った。分かったと言いながら、気分が沈んだ。


 結衣から写真が届いたのは、夕方だった。駅前の古い建物を撮ったものだった。写真には、窓ガラスに反射した夕焼けが写っている。


『きれいだな』


 そう送ると、返事はすぐには来なかった。俺は写真を何度も見た。結衣がどこで、誰と撮ったのかが気になった。部の人と行くと聞いていたのだから、知っているはずなのに、余計なことを考えた。


 夜になって電話が来た。


「もしもし」

「写真見た?」

「見たよ」

「どうだった?」

「きれいだった」

「それだけ?」

「いい写真だと思う」

「湊、怒ってる?」

「怒ってない」

「じゃあ、どうしてそんな声なの」

「どんな声だよ」

「いつもより遠い」


 俺は黙った。結衣も黙っていた。沈黙の向こうで、彼女が息をする音が聞こえる。


「俺、今日、会えると思ってた」

「ごめん」

「結衣が予定あるのは分かってる」

「うん」

「でも、真壁の予定がなくなって、暇になって、結衣に会いたくなった。断られた時、ちょっと寂しかった」

「寂しいって言ってくれてよかった」

「怒らないのか」

「どうして怒るの?」

「俺が、結衣の予定を変えてほしいと思ったから」

「思うのは自由だよ。変えてって言われたら、考える」

「言わなかった」

「うん」

「言えばよかったのかな」

「今日は、もう帰ってきちゃったからね」

「そうだな」


 電話の向こうで、結衣が小さく笑った。


「今から少しだけ会う?」

「疲れてるだろ」

「疲れてるけど、湊に会いたい」

「じゃあ、駅前まで行く」

「私も出る」


 俺たちは駅前のコンビニで待ち合わせた。結衣はカメラを肩に掛けていた。俺は彼女の写真を見せてもらい、撮影に行った場所の話を聞いた。先輩が教えてくれたこと、帰りに寄った喫茶店、初めて食べたクリームソーダ。


「楽しそうだな」

「うん。楽しかった」

「よかった」

「でも、湊に見せたいと思った」

「写真?」

「写真も、話も」


 結衣はカメラを胸に抱いた。


「一緒にいない時に楽しいことがあっても、湊に話せるなら、離れた時間じゃなくて続きみたいに思える」

「それ、いいな」

「だから、湊も真壁くんと勉強して。帰ってきたら聞かせて」

「うん」

「私も、今日のこと全部話す」

「全部?」

「全部は無理かも」

「じゃあ、話したいことだけでいいよ」

「うん」


 帰り道、結衣は少しだけ俺の腕に寄りかかった。手はつながなかった。駅前から家までの短い道を、腕が触れるくらいの距離で歩いた。


 その距離も、悪くなかった。


◆


 九月になり、学校が始まった。夏休みの間に、結衣は写真部の展示に出す作品を選んでいた。俺は受験勉強の時間を増やした。二学期は文化祭の後夜祭や模試が重なり、毎日が慌ただしくなる。


 ある日、結衣は放課後に俺の教室へ来なかった。写真部の活動がある日だと分かっていた。俺は真壁と図書室で勉強し、帰りに一人で家へ向かった。


 家に着いてから、結衣にメッセージを送った。


『今日はお疲れ』


 既読がつかない。写真部はまだ終わっていないのだろう。俺は夕飯を食べ、風呂に入った。寝る前になっても返事がなかった。


 いつもなら、帰宅したら連絡すると約束していた。今日は活動が長引いているのかもしれない。そう思いながら、何度もスマホを見た。


 日付が変わる少し前、結衣から電話が来た。


「ごめん、連絡遅くなった」

「何かあった?」

「スマホの電池切れて、帰りに充電してた」

「そっか」

「心配した?」

「少し」

「ごめんね」

「無事ならいい」


 結衣は息を吐いた。


「湊、怒ってない?」

「怒ってないよ」

「本当に?」

「うん」

「私、連絡するって言ったのに」

「できなかったんだろ」

「湊が不安になったのに」

「不安にはなったけど、結衣が悪いってことじゃない」

「でも、私が約束を守らなかった」

「守れなかったんだよ」


 言い直すと、結衣は黙った。


「どう違うの?」

「守らなかったっていうと、わざとやらなかったみたいだろ。電池切れたんだから、仕方ない」

「湊は、私に怒ってほしいの?」

「そうじゃない」

「じゃあ何で、そんなに優しいの」

「優しくしてるつもりはない」

「私が連絡できなかったこと、嫌だった?」

「嫌というか、心配した」

「それだけ?」

「それだけじゃない」

「何?」

「会いたかった」


 口にすると、気持ちが少し整理された。俺は結衣が無事か心配していた。連絡がなくて不安だった。会えなくて寂しかった。その全部を一つにして、怒りだと思っていたのかもしれない。


「会いたかったんだ」

「うん」

「明日は会えるよ」

「知ってる」

「でも、今会いたい?」

「そうだな」

「私も」


 結衣は何かを言いかけ、やめた。少し時間を置いてから、ゆっくり話し始める。


「私ね、今日、部の先輩に言われたの。湊くんとずっと一緒にいるねって」

「そうなんだ」

「それで、うれしかった。だけど、うれしいと思う自分がちょっと怖かった」

「どうして?」

「私たちが一緒にいることを、周りが当たり前だと思ってる。私もそう思ってる。だから、もし何かあって離れることになったら、どうすればいいか分からない」

「離れるつもりなの?」

「ないよ」

「なら、考えなくていいだろ」

「湊は、ずっと一緒なら問題ないと思う?」


 俺はすぐに答えられなかった。


 ずっと一緒にいたい。離れたくない。今もそう思う。けれど、何があっても一緒にいれば問題ない、と言い切ることはできなかった。


「一緒にいたい。でも、それだけで全部解決するわけじゃないと思う」

「うん」

「何かあったら、話せばいい。別々に考える時間があっても、戻って来られるようにしたい」

「戻って来るって、どこに?」

「俺たちのところに」


 電話の向こうで、結衣が小さく息を吸った。


「それ、いいね」

「そうか」

「ずっと隣にいるっていうより、離れても戻って来る」

「離れるって言っても、写真部とか勉強とかだぞ」

「分かってる。でも、考え方の話」

「俺もそう思う」

「じゃあ、明日、会ったら手をつないで」

「いつもつないでるだろ」

「今日は、いつもよりつなぎたい」

「分かった」


 翌日、結衣は教室の前で待っていた。俺を見つけると、笑って手を出す。俺はその手を取った。


「昨日、眠れた?」

「少し」

「私も」

「今日、部活は?」

「ないよ」

「じゃあ、帰りに写真見せて」

「うん」


 手をつないだまま、俺たちは階段を下りた。結衣の手は温かかった。


◆


 その週末、結衣は俺の家に来た。母さんは買い物に出ていて、家には俺たちだけだった。


「写真、持ってきた?」

「持ってきた」


 結衣はカメラを机に置き、記録した画像を画面に表示した。夏の終わりに撮った川や、古い商店街、部室の窓から見た雨。どれも、俺が普段なら気にも留めないものだった。


「これ、好き」


 雨粒が窓に並び、その奥に部員たちの影がぼんやり写っている写真だった。


「部室で撮ったの?」

「うん。みんなが話してるのを、窓越しに撮った」

「みんなの顔は写ってないんだな」

「顔を撮るのは苦手」

「どうして?」

「その人を撮るっていうより、そこにいた時間を撮りたいから」

「難しいな」

「そう?」

「俺なら、何を撮ればいいか分からなくなる」

「湊は看板を撮った」

「文字が古かったから」

「それでいいんだよ」


 結衣は画面をスクロールし、次の写真を見せた。俺が知らない場所で、彼女が見つけたものが並んでいる。


「結衣、写真部に入ってよかったな」

「うん。湊がそう言ってくれて、もっとよかった」

「俺が言わなくてもよかっただろ」

「そうかもしれない。でも、言ってほしかった」


 結衣はカメラを置き、ベッドの端に座った。俺も隣に座る。彼女は少し迷ってから、俺の手を取った。


「最近、前より寂しい」

「どうして」

「湊といない時間が増えたから」

「そっか」

「でも、前より楽しい」

「どっちだよ」

「両方」


 結衣は俺の肩に寄りかかった。


「前は、湊がいない時間は、ただ待ってた。今は、湊がいない時間にも何かある。楽しいことがあっても、湊に話すまで少し落ち着かない」

「俺も、話したいことがあると結衣に言うまで落ち着かない」

「それは、共依存っていうのかな」

「どうなんだろう」

「学校の先生が、付き合ってる相手に依存しすぎるのはよくないって言ってた」

「進路の講話で?」

「うん。自分で決める力がなくなるからって」

「それはそうかもしれない」

「でも、私たちが一緒にいるのは悪いこと?」

「一緒にいること自体は悪くないだろ」

「依存してたら?」

「依存の程度によるんじゃないか。どこからが悪いのか分からないけど」

「湊は、私がいなくても平気?」

「平気ではないと思う」

「私も」

「でも、いないと何もできないわけじゃない」

「そうだね」


 結衣は指を絡め直した。


「湊がいないと寂しい。でも、湊がいなくても写真は撮れるし、佐伯さんと話せる。私は私のことを少しずつやってる」

「俺も、真壁と勉強できるし、委員の仕事もある」

「それでも、帰りは一緒にいたい」

「俺も」

「じゃあ、私たちは依存してるけど、悪くないってこと?」

「俺たちがどうしたいか、考えながらならいいんじゃないか」


 結衣は俺の顔を見た。


「考えながら一緒にいる」

「そう」

「それなら、できそう」

「できるよ」


 結衣は笑い、俺の頬に手を添えた。目が合う。キスをするのは自然だった。俺は彼女の肩に手を回し、唇を重ねた。


 前よりも、少し長く。結衣の指が俺の髪に触れる。息をつくために離れると、彼女は額を俺の額に寄せた。


「湊」

「ん」

「好き」

「俺も」

「ずっと一緒にいたい」

「俺もいたい」

「でも、ずっと一緒なら問題ない、だけじゃないよね」

「そうだな」

「問題があったら、二人で考える」

「うん」

「離れてる時間も、ちゃんと持つ」

「うん」

「そのあと、また一緒にいる」

「そうしよう」


 結衣は目を閉じた。俺は彼女の額にもう一度キスをした。


 その日、母さんが帰ってくるまで、俺たちは部屋で一緒に過ごした。問題集を解き、写真を見て、時々話をした。いつものように手をつないだ。いつものように結衣は俺の肩に寄りかかった。


 何かが劇的に変わったわけではない。ただ、同じことを続けるために、少しずつ違うやり方を覚えていた。


第七章 選ぶということ


 秋が深まる頃、進路希望調査の提出期限が近づいた。俺は隣県の大学について、オープンキャンパスの資料を取り寄せた。結衣も写真やデザインを学べる学校を調べていた。


 俺が興味を持っていたのは、情報工学だった。昔から機械をいじるのが好きで、簡単なプログラムを組んだり、家の古いパソコンを直したりしていた。近くの大学にも学科はある。隣県の大学には、より実践的な研究室があるらしい。


 結衣は、写真や映像を学べる学部に惹かれていた。候補は市内にも隣県にもある。俺たちの希望が偶然同じ地域に重なる可能性はあったが、同じ大学になるとは限らない。


「一緒にオープンキャンパス行く?」と結衣が聞いた。

「それぞれ見たいところが違うだろ」

「同じ日に行けばいいよ。午前は湊の大学、午後は私の候補」

「移動できるかな」

「調べたらバスがある」

「もう調べたのか」

「うん」


 結衣はノートを開き、時間と交通手段を書き込んだ。俺は隣に座り、予定を見た。


「かなり忙しいな」

「無理なら別の日にする」

「いや、行けると思う」

「本当に?」

「うん。俺も見たいところあるし」

「じゃあ、一緒に行こう」


 当日、朝から雨が降っていた。電車は少し遅れ、大学に着いた時には説明会が始まっていた。俺は情報工学科の研究室を見学し、結衣は別の建物で写真表現の講義を受けた。昼に合流した時、結衣は濡れた傘を畳みながら言った。


「面白かった?」

「かなり。研究室で作ってるものが思ったより実用的だった」

「湊に合いそう」

「結衣は?」

「楽しかった。写真を撮るだけじゃなくて、どう見せるかも考えるんだって」

「それ、結衣が好きそうだな」

「うん。私もそう思った」


 昼食を食べ、次の学校へ向かった。午後の説明会が終わる頃には、雨は止んでいた。大学の敷地を出る時、結衣が俺の袖をつかんだ。


「どうだった?」

「行きたいと思った」

「俺も」

「同じ大学?」

「まだ分からない」

「うん」

「でも、隣県の方はかなりよかった」

「私も、そこに興味ある学部があった」

「じゃあ、同じ地域になるかもな」

「そうだね」


 結衣は笑ったが、いつもより控えめだった。


「もし別の大学になったら?」

「通える距離なら会える」

「毎日は会えないかも」

「そうだな」

「寂しい?」

「寂しいと思う」

「私も」

「でも、それで諦めるのは違うと思う」

「うん」


 俺は立ち止まり、結衣の手を取った。


「俺は、結衣と同じ大学に行きたい。でも、そのために結衣の希望を変えさせたくない」

「私も、湊に私のために選んでほしくない」

「自分で決めたうえで、同じところなら嬉しい」

「うん」

「別々でも、俺たちは付き合ってる」

「そうだね」

「距離で終わるなら、その時は二人で考える」

「今から終わる話しないで」

「ごめん」

「終わるためじゃなくて、続けるために考えるんだよね」

「そう」

「じゃあ、考えてもいい」


 帰りの電車で、結衣は俺の肩にもたれた。窓の外に、雨上がりの町が流れていく。彼女は眠そうに目を閉じたが、手はつないだままだった。


◆


 十二月、学校で三者面談が始まった。俺の希望は、第一志望に隣県の大学、第二志望に市内の大学。結衣の希望は、第一志望に市内の芸術系学部、第二志望に隣県の大学だった。


 両親は、俺が自分で調べて選んだことを尊重してくれた。母さんは「遠くても生活できるように準備しよう」と言った。俺は一人暮らしの可能性を考えたことがなかったわけではない。ただ、結衣と離れる生活を想像すると、現実味がなかった。


 面談のあと、俺は結衣と駅前で会った。彼女も先生と話をしたらしい。


「どうだった?」

「写真や映像の方に進みたいって、ちゃんと伝えた」

「よかったな」

「湊は?」

「第一志望のこと、先生に話した」

「反対された?」

「いや。受験科目の確認くらい」

「そっか」


 結衣は温かい飲み物を両手で持った。息を吹きかけてから、一口飲む。


「私、第一志望の学校が別の県になるかもしれない」

「そうなのか」

「まだ決めてないけど、写真の表現を専門的に学べるところがあるって」

「行きたい?」

「行きたいと思う」

「じゃあ、受けてみたらいい」

「湊と離れるかもしれない」

「そうだな」

「寂しくないの?」

「寂しいよ」

「それでも?」

「結衣が行きたいなら、行ってほしい」


 結衣はカップを見つめた。


「私も、湊にそう言えるようになりたい」

「今も言ってるだろ」

「言ってるけど、怖い。湊が遠くに行ったら、私の知らないところで生活するんだよ」

「俺も、結衣が知らないところで生活する」

「朝起きた時に連絡したくなると思う。帰った時にも話したくなる。何か見たら写真を送りたくなる」

「俺もそうする」

「それで足りるかな」

「分からない。やってみないと」


 結衣は少し笑った。


「湊、最近すぐ分からないって言う」

「分からないことが多いからな」

「昔は、何でも大丈夫って言ってた」

「何でも大丈夫じゃなかったのかも」

「そうかもね」


 彼女は俺の手を取った。冷えた指先が、少しずつ温まっていく。


「湊が遠くに行って、私が寂しくて、何もできなくなったらどうしよう」

「その時は助けを求めてくれ」

「湊に?」

「俺にも。佐伯さんにも、お母さんにも」

「湊だけじゃなくて?」

「俺だけじゃなくて」


 結衣は指を絡めた。


「分かった。私も、湊が困ったら助ける。でも、湊にも他の人に頼ってほしい」

「真壁とか?」

「うん。お母さんにも」

「考えとく」

「考えるじゃなくて、頼るの」

「難しいな」

「私も練習する」


 その日、俺たちは別々の帰り道を選んだ。結衣の家へ寄る予定だったが、彼女は佐伯さんと電話で話すと言った。俺は真壁に勉強の相談をするため、駅前の本屋へ向かった。


 別れる時、結衣は少し寂しそうだった。俺も同じだった。


「また明日」

「また明日」


 手を離す。彼女は駅の向こうへ歩き出し、俺は反対側の道へ進んだ。何度も振り返りそうになったが、やめた。


 帰宅してから、結衣にメッセージを送った。


『今日はありがとう。進路の話できてよかった』


 返事は少ししてから届いた。


『私も。佐伯さんにも話したよ』


『何て言ってた?』


『応援するって。湊と離れるの寂しいけど、私のやりたいことも大事にしたらって』


『いい友達だな』


『うん。湊以外にも大事な人がいてよかった』


 その言葉を見て、胸の奥が少し痛んだ。痛かったが、嫌ではなかった。


『俺も真壁に相談した』


『何て言ってた?』


『とりあえず問題集やれって』


『真壁くんらしいね』


『うん』


『湊にも、ちゃんと大事な人がいてよかった』


 俺はその返事を読み返した。結衣が俺以外の人を大事にすることを、俺はもう「奪われる」とは思わなかった。彼女の世界が広くなる。それでも、俺のいる場所は残る。そう信じるための言葉を、俺たちは少しずつ増やしていた。


第八章 名前のない不安


 受験が近づくにつれ、俺たちは勉強の時間を増やした。結衣は美術の課題や小論文の準備があり、俺は模試や過去問に追われた。会う時間は減ったが、学校で顔を合わせるたびに短く話した。


「今日、帰り待てる?」

「模試の直しがあるから、少し遅くなる」

「分かった。私も写真部の提出がある」

「終わったら連絡する」

「うん」


 そういうやりとりが増えた。待てない日は、それぞれ先に帰った。帰宅したら一言送る。電話できる日は話す。できない日は翌日に話す。それは約束というより、生活の形になっていった。


 ただ、試験の前になると、結衣は以前のように不安そうになった。連絡が遅れると何度も謝り、俺が疲れていると「私が邪魔してる?」と聞いた。


「邪魔じゃないよ」

「でも、勉強の時間を取ってる」

「結衣と話す時間も必要だから」

「それで成績が下がったら?」

「その時は勉強の仕方を考える」

「私のせいにしない?」

「しない」

「本当に?」

「結衣のせいにしたことないだろ」

「湊は、我慢してても言わない時がある」


 それは正しかった。俺は結衣に何かを頼まれると、まず受け入れた。自分の予定をずらし、やりたいことを後回しにする。そうしたあとで、それを自分で選んだことにしていた。


「これからは、無理なら無理って言う」

「言える?」

「練習する」

「私も、寂しくても寂しいって言う。でも、湊に何かをやめさせるためじゃなくて」

「うん」

「言ったら、湊がどうするか一緒に考える」

「そうしよう」


 その晩、俺たちは電話をした。結衣は課題の絵を描きながら、俺は数学の問題を解きながら、時々話す。会話が途切れても、どちらかが焦って話題を探すことはなくなった。


「湊、今何してる?」

「二次関数」

「難しい?」

「さっきから同じところ間違えてる」

「大丈夫?」

「大丈夫じゃない」

「教えて」

「結衣に分かるかな」

「分からなくても聞く」


 俺は問題文を読み上げ、解き方を説明した。結衣は絵筆を置き、ノートに書き込んでいるらしい。


「そこ、符号が違うんじゃない?」

「え」

「さっき、同じところ間違えてるって言ってたから」

「合ってる」

「ほんと?」

「ほんとだ」

「役に立った?」

「立った」

「よかった」


 俺は答えを見直し、正解していることを確認した。結衣は笑った。


「湊の勉強、少し分かった」

「すごいな」

「私も課題に戻るね」

「うん」


 その後は、互いに作業を続けた。沈黙の中で、電話越しに紙をめくる音や鉛筆の音が聞こえた。何かを話さなくても、相手がそこにいると知っている。それだけで、落ち着くことがあった。


◆


 冬のある日、結衣が学校を休んだ。今度は風邪ではなく、写真部の展示を前にした準備疲れだった。朝の連絡は短かった。


『今日は休む。ごめんね』


 俺は『謝らなくていい。休んで』と返した。学校では、結衣の机が空いていた。そこを見るたび、気持ちが落ち着かなくなった。昼休み、佐伯さんから「水瀬さん、少し疲れてるみたい」と聞いた。


「家で休んでるんだよな」

「うん。昨日、展示の準備で遅くなったから」

「何かあったら教えて」

「分かった」


 放課後、俺は結衣にメッセージを送った。返事はなかった。以前なら、すぐに家へ行ったと思う。今は、休みたいと言っている相手を急かしたくなかった。


 それでも、何もせずにいるのは難しかった。母さんに相談すると、温かいスープを作りすぎたから持っていけばと言われた。俺は鍋を小さな容器に移し、結衣の家へ向かった。


 インターホンを鳴らすと、結衣の母親が出てきた。


「湊くん、ありがとう。結衣、部屋で休んでるよ」

「寝てますか?」

「さっき起きて、お茶を飲んでた。少しなら話せると思う」


 結衣の部屋の前で声を掛ける。


「結衣、入っていい?」

「うん」


 部屋に入ると、結衣はベッドに座っていた。顔色は悪くないが、目の下に疲れが見える。


「大丈夫?」

「大丈夫。ちょっと寝不足」

「スープ持ってきた」

「ありがとう」

「食べられそう?」

「あとで食べる」


 俺は容器を机に置き、椅子に座った。結衣は布団を膝に掛けている。


「学校、どうだった?」

「普通」

「何かあった?」

「結衣がいなくて、少し静かだった」

「寂しかった?」

「うん」

「それ聞けて嬉しいって言ったら変かな」

「変じゃないと思う」

「湊も、私がいないと寂しい?」

「そうだよ」

「前より言ってくれるようになったね」

「言わないと伝わらないって分かったから」


 結衣は布団の端を握った。


「私、学校休むって言ったら、湊が心配すると思って、申し訳なくなった」

「休む時は休んでいいよ」

「分かってる。でも、湊に会えない日ができると、私の方も落ち着かない」

「今日は寝て、明日会おう」

「明日、行けるかな」

「行けなかったら、また休めばいい」

「湊、待っててくれる?」

「行ける日は待つ。無理なら先に帰る。帰ったら連絡する」

「うん」


 結衣は手を伸ばした。俺はその手を握った。


「少しだけ、ここにいて」

「いいよ」

「でも、勉強しなきゃ」

「帰ってからする」

「無理しないで」

「分かってる」


 結衣は目を閉じた。俺は手を握ったまま、静かに座っていた。しばらくすると、彼女の呼吸がゆっくりになる。


 前と同じように、彼女は俺の手を離さない。けれど、俺はスマホを取り、母さんに「少し遅くなる」と連絡した。結衣が眠っている間、俺は自分の予定をきちんと伝えた。


 結衣が目を覚ました時、俺はまだ椅子に座っていた。


「帰らなかったんだ」

「起きるまで待ってた」

「勉強は?」

「帰ってからやる」

「無理してない?」

「してない。ここにいたかったからいる」

「そう」


 結衣は少し安心したように息を吐いた。


「湊が自分で選んでるなら、うれしい」

「俺も、結衣が休むって自分で選んだのがうれしい」

「うれしいの?」

「自分の身体のこと、自分で考えたんだろ」

「そうだね」

「ちゃんとできてる」

「湊に褒められると、子どもみたい」

「子どもじゃないだろ」

「湊の前では、少し子どもでいたい」

「それなら、俺も少し甘える」

「いいよ」


 結衣は俺の手を引き、頬に当てた。俺は彼女の髪を撫でた。目を閉じる彼女の顔を見ながら、俺は自分の中にある安堵を感じた。彼女が俺を必要としている。そのことに喜びを感じる自分がいる。


 その喜びは、彼女を閉じ込める理由にしてはいけない。そう思いながら、俺は彼女の手を握っていた。


第九章 共依存という言葉


 冬休み前の進路講話で、スクールカウンセラーが「共依存」という言葉を話した。人間関係の中で、相手に必要とされることを自分の価値にしすぎたり、相手の問題を代わりに引き受けすぎたりすると、互いに苦しくなることがある。そんな話だった。


 教室に戻ったあと、結衣は廊下で俺を待っていた。


「さっきの話、どう思った?」

「どうって?」

「共依存」

「俺たちのこと考えた?」

「少し」

「俺も考えた」


 結衣は目を伏せた。


「私、湊に必要とされると安心する」

「俺も」

「湊が私を頼ってくれると、うれしい」

「俺もそうだよ」

「でも、湊が困ってないのに、私が困らせることで必要とされようとしたら、だめなんだよね」

「そうだと思う」

「湊が私のために何かを諦めた時、私はうれしくなることがある」

「俺も、結衣が俺を優先してくれると嬉しい」

「それは、だめなこと?」

「嬉しいと思うだけなら、だめじゃないんじゃないか。でも、相手にやめてほしいことを押しつけたり、自分のために諦めさせたりするのは違う」

「難しいね」

「うん」


 結衣は少し考えた。


「私、湊がいないと何もできないって、前は本当に思ってた」

「今は?」

「今は、できることもあるって知ってる。でも、湊がいないとしたくないこともある」

「それは俺も同じ」

「湊がいないとつまらない。でも、湊がいない時間に写真を撮るのは楽しい」

「俺も、結衣がいなくても勉強はできる。でも、終わったあとに話したい」

「それなら、大丈夫なのかな」

「大丈夫かどうかは、これからも考えればいい」


 結衣は俺の手を取った。廊下には生徒が何人かいたが、彼女は周りを気にしなかった。


「私たち、共依存なのかな」

「分からない」

「また分からない」

「専門の人が話してたけど、俺たちに当てはまるかは分からない」

「そうだね」

「でも、俺は結衣が好きで、結衣も俺が好き。それで、互いに助けてもらうことがある」

「うん」

「それを全部悪いものって決めたくない」

「私も」

「ただ、相手のために自分をなくしてないか、時々確かめる」

「自分で決めたことかどうかも」

「そう」


 結衣はつないだ手を持ち上げた。


「これは、自分で決めてる」

「俺も」

「今日、一緒に帰るのも?」

「うん」

「帰ってから、湊の家に行くのも?」

「結衣が来たいなら」

「行きたい」

「じゃあ、俺も来てほしい」


 結衣は笑った。俺も笑った。


◆


 冬休みの初日、俺たちは駅前の古い喫茶店に行った。結衣が写真部の先輩に教えてもらった店で、窓際の席には小さなクリスマス飾りが置いてある。


「ここ、いいね」

「湊が好きそうだと思った」

「どうして」

「古い看板が好きだから」

「それで店まで選んだのか」

「うん」


 俺たちはホットケーキを半分ずつ食べた。結衣は写真を撮る前に、皿の向きを少し変えた。


「写真撮るの?」

「一枚だけ」

「俺も入る?」

「入ってほしい?」

「入れていいよ」


 結衣はスマホを持ち、ホットケーキと、テーブルに置いた俺たちの手を撮った。指は絡んでいなかったが、肩が触れていた。


「見せて」

「はい」


 画面には、湯気の向こうにぼやけた俺の袖と、結衣の手が写っていた。顔は入っていない。


「いい写真だな」

「ほんと?」

「うん」

「湊がいるって分かる?」

「袖だけだけどな」

「それでいいの」


 結衣は写真を保存した。俺は彼女の横顔を見た。


「結衣は、俺がいるって分かる写真が好きなのか」

「うん。湊が写ってなくても、湊といた時間が写ってるから」

「俺も、結衣といた時間を覚えてる」

「写真に撮らなくても?」

「撮らなくても」

「でも、撮って」

「分かった」


 俺は結衣にスマホを渡してもらい、同じ構図で一枚撮った。彼女の手と、俺の手。窓の外の冬空が、テーブルに薄く映っている。


「今の、湊が撮ったの?」

「そう」

「いいね」

「何がいい?」

「私の手がちゃんと写ってる」

「そこか」

「湊が撮ったから」


 結衣は写真を自分のスマホに送った。俺も自分のスマホに保存する。


「同じ写真持ってるね」

「そうだな」

「どっちかがなくしても、もう片方にある」

「データの話?」

「そう」

「もっと大事なものを心配してるのかと思った」

「それもあるよ」


 結衣はカップを持ち上げた。


「私、湊がいなくなったらって考えるの、まだ怖い」

「俺も」

「でも、怖いからずっと手を離さないっていうのは、違うんだよね」

「手を離したくない時は、つないでいいと思う」

「離したくないから、離せないのは?」

「理由が怖さだけなら、少し考えたい」

「難しい」

「俺も考える」

「湊が手を離したら、私、すぐ寂しいって言うかも」

「言っていいよ」

「湊も?」

「俺も言う」

「重いね」

「今さらだろ」


 結衣は笑い、テーブル越しに手を伸ばした。俺はその手を取る。喫茶店の窓から、午後の光が差し込んでいた。


 ずっと一緒なら問題ない。昔は、そう思っていた。今も、そう思いたい気持ちはある。ただ、問題があれば話す。相手に全部を預けず、自分の足で立ちながら、隣にいる。そういうことを、少しずつ覚えていく。


 簡単ではない。結衣が他の誰かと笑っていると、胸がざわつく。俺が知らない予定があると、寂しくなる。離れて過ごした日の夜には、声が聞きたくなる。


 それでも、俺たちはそれを隠さずに伝えられるようになってきた。伝えたうえで、相手がどうするかを考える。相手の気持ちを受け止めながら、自分の予定も、自分の望みも手放さない。


 その方が、ずっと一緒にいられる気がした。


第十章 春の手前


 年が明け、受験の日が近づいた。俺は第一志望の大学へ出願した。結衣も、自分が興味を持った学校へ出願した。場所は別の県になった。電車で二時間ほどかかる。


 出願を決めた夜、俺たちは電話で話した。


「これで、会うの少し大変になるね」

「そうだな」

「湊、後悔してない?」

「してない」

「私のこと考えて、選んだ?」

「考えたよ」

「それでも?」

「それでも、行きたいと思った」

「よかった」


 結衣の声は、少しだけ震えていた。


「私も、湊のこと考えた。でも、ここに行きたいと思った」

「うん」

「離れるのは嫌。でも、やってみたい」

「応援してる」

「湊も、応援して」

「するよ」

「受かったら、最初に湊に言う」

「俺も最初に結衣に言う」

「お互い、家族より先?」

「どうだろう」

「そこは約束してよ」

「じゃあ、試験が終わったら連絡する」

「うん。受かったかどうかに関係なく、連絡してね」

「分かった」


 受験当日、結衣は試験会場へ向かう電車の中からメッセージを送ってきた。


『緊張する』


『俺も』


『湊は明日だよね』


『そう』


『今日は私の分まで落ち着いてて』


『難しい』


『じゃあ、終わったら連絡するから、それまで頑張って』


『待ってる』


 結衣の試験が終わったのは夕方だった。『終わった』という短いメッセージが届き、俺は『お疲れ』と返した。電話をしたい気持ちはあったが、彼女の疲れを考えて、向こうから連絡が来るまで待つことにした。


 夜になって、結衣から電話が来た。


「終わった」

「お疲れ」

「緊張して、最初の問題が頭に入らなかった」

「最後はできた?」

「たぶん」

「ならよかった」

「湊は明日だね」

「うん」

「応援してる」

「ありがとう」

「大丈夫って言ってあげようか?」

「言ってくれ」

「湊なら大丈夫」

「うん」

「一緒にいるから」

「電話の向こうに?」

「気持ちは」

「それなら、いるな」


 電話を切ってから、俺は深呼吸した。結衣の言葉を受け取る。彼女に全部を背負ってもらわず、それでも支えとして頼る。その違いを、俺はまだ時々見失う。


 翌日、俺は試験を受けた。試験会場から出た時、スマホには結衣から『どうだった?』と届いていた。


『終わった。思ったよりできた』


『よかった。会える?』


 俺たちは駅で待ち合わせた。結衣は小さな紙袋を持っていた。


「何それ」

「合格祈願のお菓子。試験終わったから、もう合格祈願じゃないけど」

「ありがとう」

「食べる?」

「食べる」


 俺たちは駅前のベンチに座り、袋を開けた。小さな焼き菓子が二つ入っている。結衣は一つを俺に渡した。


「お疲れさま」

「結衣も」

「二人とも、受かるといいね」

「うん」

「もし、どっちかだけ受かったら?」

「もう一方の結果が出るまで待つ」

「それでも別々の進路になったら?」

「それぞれ進む」

「離れても?」

「離れても」


 言い切ると、結衣は少し驚いたように俺を見た。


「前より強くなったね」

「結衣が言ったんだろ。自分の希望も大事にしようって」

「私は、湊が寂しくないように一緒の場所にしたかった」

「それも大事だよ」

「でも、それだけじゃない」

「うん」

「私も、やりたいことがある」

「知ってる」

「湊と一緒にいるのも、私が選んでる」

「俺も選んでる」


 結衣は俺の手を握った。冬の空気は冷たかったが、手のひらは温かい。


「受験終わったら、どこか行きたい」

「どこ」

「海」

「冬の海?」

「春の海」

「まだ合格発表前だぞ」

「どっちにしても行く」

「そうだな」

「結果がどうでも、一緒に行こう」

「うん」


 結衣は俺の肩に頭を乗せた。俺は彼女の髪に頬を寄せた。


 受験の結果がどうなるか、まだ分からない。俺たちの進路が同じになるかも、違う場所になるかも分からない。分からないことは不安だった。それでも、その不安を結衣と共有できることが、以前よりずっと心強かった。


◆


 合格発表の日、俺は学校の帰りに駅前で結衣と会った。互いに結果を見る時間を合わせようと、朝から決めていた。


「先に見る?」

「一緒に見ようって言っただろ」

「そうだった」

「緊張してる?」

「うん」

「俺も」


 スマホを取り出し、大学のサイトを開く。結衣も隣で自分の受験番号を確認していた。画面を更新する。合格者の番号が並ぶページが表示された。


「見つけた?」

「まだ」

「俺も」


 数字を追う。何度も見直す。俺の番号は、確かにそこにあった。


「受かった」


 声に出すと、ようやく実感が湧いた。結衣は俺の画面を見てから、自分の画面を見た。彼女も、しばらく黙っていた。


「結衣?」

「……あった」

「受かった?」

「うん」

「おめでとう」

「湊も、おめでとう」


 結衣は画面を閉じ、俺に抱きついた。周りに人がいたが、彼女は気にしなかった。俺も腕を回す。


「よかった」

「うん」

「湊と同じ大学じゃないけど」

「うん」

「でも、受かってよかった」

「俺も」

「これで、別々の場所に行くんだね」

「そうだな」

「寂しい」

「俺も」

「それでも、うれしい」

「うん」


 結衣は俺の制服の胸元に顔を寄せた。俺は彼女の髪を撫でる。


「今、私のこと必要?」

「必要だよ」

「私も湊が必要」

「うん」

「でも、今日の合格は、私が頑張ったからだよね」

「そうだよ」

「湊がいなくても、できた」

「俺がいたから頑張れた部分もあるだろ」

「ある。でも、試験を受けたのは私」

「そうだな」

「湊も、湊が頑張った」

「そうだ」


 結衣は俺から少し離れ、目を合わせた。


「私たち、少しずつ自分で立ててるかな」

「立ってると思う」

「でも、支え合ってる」

「そうだな」

「一人で立つことと、誰かに寄りかかることは、両方あっていいんだね」

「たぶん」

「たぶん?」

「俺たちがこれから確かめるんだろ」

「うん」


 結衣は笑った。俺は彼女の額に唇を寄せた。周りの人が見ているかもしれない。もう、そのことは気にならなかった。


 その夜、俺たちはそれぞれ家族に合格を伝えたあと、電話で話した。結衣は大学のこと、住む場所のこと、入学前の手続きについて話した。俺は自分の学費や一人暮らしの準備について話した。


「引っ越し、手伝いに行く」

「結衣の手続きもあるだろ」

「日が合えば行く」

「無理しなくていい」

「私が行きたいの」

「分かった」

「湊も、私のところに来て」

「行くよ」

「約束」

「約束」


 電話を切る前、結衣が言った。


「湊」

「うん」

「好き」

「俺も好き」

「離れても?」

「離れても」

「会えなくても?」

「会えない時は、会える日を決めよう」

「それまで寂しくても?」

「寂しいって言う」

「私も言う」

「それで、どうするか一緒に考えよう」

「うん」


 電話が切れた。部屋は静かになったが、さっきまでの会話は残っている。俺はそのまま机に向かい、大学から届いた書類を開いた。


 結衣のいない時間は、きっと寂しい。俺の知らない場所で、彼女が新しい友達を作り、好きなものを見つけていく。その話を聞くたび、胸がざわつく日もあるだろう。


 それでも、俺は彼女の話を聞きたい。彼女に俺の話を聞いてほしい。別々の場所で過ごした日を、二人の会話の中でつなげていきたい。


 それは、ずっと一緒にいることと、少し違う形の「一緒」だった。


第十一章 春の海


 卒業式のあと、俺たちは約束していた海へ行った。駅からバスに乗り、海岸沿いの小さな町で降りる。三月の風は冷たかったが、空はよく晴れていた。


「思ったより人がいるね」

「卒業旅行かな」

「私たちも卒業旅行?」

「二人で来てるだけだろ」

「それを卒業旅行って言うの」


 結衣はカメラを取り出した。波打ち際へ行き、何枚か写真を撮る。俺は少し離れて、その背中を眺めた。


「湊も撮って」

「何を」

「海」

「結衣を撮るのかと思った」

「私も撮っていいよ」

「じゃあ、撮る」


 カメラを受け取り、結衣に海を背にして立ってもらった。風が彼女の髪を揺らす。笑って、と言う前に、結衣は笑っていた。俺はシャッターを押す。


「撮れた?」

「撮れた」

「見せて」


 結衣は画面を覗き込み、自分の顔を確認した。


「いいね」

「そうか」

「湊が撮ったから」

「そればっかりだな」

「大事なことだから」


 彼女はカメラを受け取り、俺に海の方を向かせた。


「湊も撮る」

「俺はいいよ」

「撮りたい」

「ならいい」


 俺は海を背にして立った。カメラのレンズを見る。結衣は何枚か撮り、最後に俺の手元へ視線を向けた。


「何撮ってるんだ?」

「手」


 俺はポケットから手を出した。結衣がこちらへ歩いてくる。彼女は俺の手を取った。


「一緒に撮ろう」

「どうやって」

「カメラを置いて、タイマーにする」

「できるのか」

「できるよ」


 結衣はカメラを低い石垣に置き、タイマーを設定した。俺たちは海を背に並ぶ。彼女が手をつないだ。シャッターの音が鳴る。


 撮れた写真には、少し遠くにいる俺たちが写っていた。顔ははっきり見えないが、手をつないでいるのは分かる。


「これ、好き」

「俺も」

「ずっと一緒なら問題ない、って思ってた頃の私たちなら、こういう写真撮らなかったかも」

「どうして」

「手をつないでるかどうかだけ、気にしてたと思う」

「今は?」

「離れてる時間があっても、こうして並んでるって分かる」

「いいな」

「湊は、ずっと一緒なら問題ないと思う?」

「一緒にいたいとは思う。でも、問題がある時は考える」

「解決できなかったら?」

「その時も、考える」

「ずっと?」

「できるだけ」


 結衣は俺の手を握った。風が吹き、波の音が続く。


「私、湊のことが好き。湊がいないと寂しい。湊のことを考えすぎて、他のことが見えなくなる時もある」

「うん」

「それでも、湊に何でも決めてもらいたいわけじゃない。湊をどこにも行かせたくないわけでもない」

「うん」

「でも、そう思う時がある」

「俺も、結衣が他の人といると、少し嫌だと思う時がある」

「うん」

「それを隠さずに言う。言ったあと、どうするかは二人で決める」

「うん」

「結衣がやりたいことはやってほしい。俺も、俺がやりたいことをする」

「それでも、私たちは一緒にいる」

「そうだな」


 結衣は少しだけ目を伏せた。


「湊、私たち、ちゃんと幸せになれるかな」

「もう幸せだよ」

「これからも?」

「幸せにするっていうより、二人でそういう日を作っていくんだろ」

「湊、そういうこと言うんだ」

「真壁に言われた。自分のことは自分で決めろって」

「真壁くん、いいこと言うね」

「普段はもっと適当だけど」

「それでも、湊の中に残ったんだね」

「うん」


 結衣は俺の肩に額を寄せた。俺は彼女の背中に腕を回す。


「好き」

「俺も」

「ずっと一緒にいたい」

「俺もいたい」

「でも、離れても大丈夫になりたい」

「大丈夫じゃなくてもいいよ。寂しいって言えばいい」

「それで湊が来てくれる?」

「行ける時は行く」

「行けない時は?」

「次に会う日を決める」

「その日まで待つ」

「一人で?」

「一人で。佐伯さんにも会うし、写真も撮る」

「いいな」

「湊も、真壁くんと勉強して」

「大学でも友達を作るよ」

「うん」


 結衣は顔を上げた。目が合う。俺たちはゆっくりキスをした。海風は冷たく、唇は少し乾いていた。離れたあと、彼女は笑った。


「寒いね」

「寒いな」

「帰りに温かいもの飲もう」

「そうしよう」


 海岸を歩き、駅へ戻る。結衣は何度か写真を撮った。俺も一枚だけ、彼女がカメラを構えているところを撮った。


 帰りの電車では、結衣は俺の肩にもたれて眠った。手はつないでいなかった。彼女は眠る前に「ここにいる?」と聞き、俺は「いるよ」と答えた。


 その返事だけで、彼女は安心して目を閉じた。


◆


 春休みの間、俺たちは引っ越しの準備を手伝い合った。結衣の部屋には新しい机が届き、俺の部屋には参考書と段ボールが積み上がった。大学へ行く前に、二人で何度か会った。


 会うたびに、少しずつ違う話をした。新しい街のこと、授業のこと、友達のこと。まだ始まっていない生活を想像する。


「湊、大学でも朝起きられる?」

「起きるよ」

「今もぎりぎりなのに」

「一人暮らしになったら、起こしてくれる人いないからな」

「電話する?」

「毎朝はいいよ」

「毎朝したい」

「俺が出なかったら?」

「何回もかける」

「それはやめてくれ」

「じゃあ、起きたら連絡して」

「分かった」

「私も、起きたら連絡する」


 結衣は、毎朝の連絡を望んでいた。俺も悪くないと思った。ただ、どちらかが寝坊した時に責めないこと、忙しい日は無理に送らないことを一緒に決めた。連絡がないことを、愛情がない証拠にしない。そういう細かな約束を、二人で作っていった。


「これで安心?」

「少し」

「全部じゃないんだ」

「全部安心する日は、たぶん来ないよ」

「そっか」

「湊は?」

「俺も、全部は安心しないと思う」

「じゃあ、安心しないまま一緒にいるんだね」

「そうだな」


 結衣は俺の手を握り、指を絡めた。


「それでも問題ない?」

「問題があったら、考えよう」

「うん」


 入学式の前日、俺たちは駅で会った。これからしばらく、会う頻度は減る。次に会える日を決めていたが、実際に離れるのは初めてだった。


「明日、電車何時?」

「九時」

「早いね」

「結衣は?」

「十時半」

「じゃあ、朝は連絡できそうだな」

「できる。湊が起きてたら」

「起きるよ」


 結衣は笑ったあと、少し真面目な顔になった。


「湊」

「うん」

「私、最初は毎日寂しいと思う」

「俺も」

「変なこと考えるかもしれない。湊が新しい友達と仲良くして、私のこと忘れたらどうしようとか」

「忘れないよ」

「分かってる。でも考える」

「考えたら、言って」

「湊も、私のことが気になって苦しくなったら言って」

「言う」

「言った時、相手を責めない」

「うん」

「自分のことを我慢しすぎない」

「うん」

「それでも、好きでいる」

「好きでいる」


 結衣は俺の胸に額をつけた。駅のホームへ向かう人たちの足音が、周りを通り過ぎる。俺は彼女の背中に腕を回した。


「離れたくない」

「俺も」

「でも、行く」

「うん」

「湊も行く」

「そうだな」

「また会う」

「会うよ」

「その時、いっぱい話そう」

「うん」


 結衣は顔を上げ、俺にキスをした。人目を気にする余裕はなかった。唇が離れると、彼女は目を閉じて深呼吸した。


「じゃあ、明日」

「明日」

「着いたら連絡して」

「する」

「私もする」


 結衣は改札の向こうへ歩いていった。振り返り、手を振る。俺も手を振った。彼女が見えなくなるまで、そこに立っていた。


 家に帰る道が、いつもより長く感じた。部屋に入ると、机の上に海で撮った写真が置いてある。俺たちが遠くに並んで、手をつないでいる写真だ。


 俺はそれを手に取り、しばらく眺めた。寂しさはあった。けれど、結衣がいないからといって、俺の一日がなくなるわけではない。明日は大学へ行き、新しい教室で人に会う。結衣には、帰ってから話をする。


 その順番を、俺は自分で選んだ。


終章 ずっと一緒なら問題ない


 大学生活が始まって一ヶ月が過ぎた。俺は新しい友人を何人か作り、講義にも少しずつ慣れた。結衣は写真の課題に追われながら、学内の展示に出す作品を作っている。


 会えるのは月に二度ほどになった。最初の頃は、別れた翌日にもう会いたくなった。予定が合わない時は電話をした。電話ができない日には、短いメッセージを送った。


 連絡が遅れると、今でも不安になる。結衣が誰かと出かけたと聞けば、少し嫉妬する。俺の知らない話が増えると、寂しいと思う。そのたび、俺たちは気持ちを言葉にした。


『今日、友達と夕飯食べてくる』


『楽しんできて。帰ったら話聞かせて』


『湊、寂しくない?』


『寂しいけど、結衣が楽しそうならよかったって思う』


『私も湊が友達といると寂しいけど、楽しそうならうれしい』


 そのやりとりを見て、俺たちは少し笑う。すぐに完璧になったわけではない。気持ちが追いつかない日もある。それでも、相手を縛る言葉ではなく、自分の気持ちとして伝えることが増えた。


 五月の終わり、結衣が俺の住む街へ来た。駅で待ち合わせると、彼女はカメラを肩に掛けていた。


「久しぶり」

「二週間ぶりだろ」

「長かった」

「そうだな」


 俺たちは手をつないだ。結衣は俺の顔を見上げ、少し安心したように笑った。


「会いたかった」

「俺も」

「今日はどこ行くの?」

「大学の近くに小さい喫茶店がある。結衣が好きそうな古い看板の」

「行きたい」

「そのあと、川沿いを歩こう」

「写真撮っていい?」

「もちろん」


 街を歩きながら、結衣はカメラを構えた。俺は大学であったことを話し、結衣は課題のことや友達のことを話した。話題は尽きなかった。


「湊、同じゼミの人と仲いいんだね」

「うん。よく課題を一緒にやる」

「女の子?」

「そう」

「そうなんだ」


 結衣はカメラを下ろした。表情は穏やかだったが、少しだけ手が止まる。


「気になる?」

「少し」

「どんな人か聞きたい?」

「聞いたら、嫉妬するかも」

「それでも話す?」

「うん。湊の生活のこと知りたい」


 俺は彼女に、その友人のことを話した。課題の進め方がうまいこと、映画の趣味が合うこと、昼食を一緒に食べることがあること。結衣は聞きながら、何度か質問した。


「仲良いんだね」

「そうだな」

「湊は、その人といるの楽しい?」

「楽しいよ」

「そっか」


 結衣は一度、目を伏せた。俺はその手に触れた。


「結衣と比べるものじゃないよ」

「分かってる」

「俺が結衣を好きなのは変わらない」

「うん」

「それでも嫉妬する?」

「する。ちょっとだけ」

「言ってくれてありがとう」

「湊も、私が友達の話したら嫉妬する?」

「すると思う」

「じゃあ、言ってね」

「言うよ」


 結衣は俺の手を握り直した。強く握りしめるのではなく、確かめるように。


「話してくれてよかった」

「聞いてくれてありがとう」

「私の知らない湊が増えていくの、少し寂しい」

「俺の知らない結衣も増えてる」

「そうだね」

「でも、知らないことが増えた分、話せることも増えた」

「うん」

「結衣の知らないところで過ごした時間を、結衣に話したい」

「私も、湊の知らないところで見つけたものを話したい」


 川沿いの遊歩道に着くと、結衣は水面を撮った。風が吹き、木々の葉が揺れる。俺はその横顔を見た。


「湊、何見てるの?」

「結衣」

「撮る?」

「撮っていい?」

「いいよ」


 俺はスマホを出し、カメラを向けた。結衣は少し笑って、川の方へ顔を向けた。シャッターを押す。


「見せて」


 画面を見た結衣は、うなずいた。


「いいね」

「ほんと?」

「湊が撮ったから」

「それ、何でもよくなる言葉だな」

「そうだよ」


 結衣は俺のスマホを返し、代わりに自分のカメラを持ち上げた。


「私も湊を撮る」

「今?」

「今」

「じゃあ、変な顔してやる」

「それも撮る」


 俺はふざけて目を細めた。結衣は笑いながらシャッターを切った。彼女の笑い声が川沿いに響く。


 その声を聞いて、俺は安心した。彼女が俺の知らない場所で過ごし、そこで見つけた楽しさを持ち帰ってくる。それを聞くことは、少し寂しくて、うれしい。


 結衣も、俺の知らない時間を持っている。俺も、彼女の知らない時間を持っている。その二つが、会うたびに重なっていく。


 夕方、駅へ向かう前に、結衣は俺の手を握った。


「今日、来てよかった」

「俺も」

「また二週間後?」

「予定が合えば」

「合わなかったら?」

「次に会える日を決めよう」

「その日まで待つ」

「俺も待つ」

「寂しくなったら?」

「連絡する」

「会いたくなったら?」

「会える日を探す」

「それでも会えなかったら?」

「次に会う時、いっぱい話す」


 結衣は笑った。


「ずっと一緒なら問題ない、って思ってた」

「俺も」

「今は?」

「問題があっても、二人で考えられるなら大丈夫だと思う」

「一緒にいることだけで解決しなくても?」

「それでも、そばにいたい」

「私も」

「結衣が自分のことを選んで、俺も自分のことを選ぶ。その上で、また一緒にいる」

「うん」

「それがいい」


 改札の前で、結衣は俺に抱きついた。俺も抱き返す。別れは寂しい。彼女の体温が離れるのは、いつだって嫌だ。それでも、今度会う日がある。次に話すことがある。俺たちは、それぞれ帰る場所へ戻っても、また同じところを目指して会う。


「湊」

「ん?」

「好き」

「俺も好き」

「次に会うまで、ちゃんと食べて寝てね」

「結衣もな」

「連絡する」

「待ってる」


 結衣は改札を通り、向こう側で振り返った。俺は手を振る。彼女も手を振った。


 彼女の姿が見えなくなってから、俺はスマホを開いた。さっき撮った写真が画面に残っている。川のそばで笑う結衣。彼女が撮った俺の写真も、あとで送ってくれるだろう。


 俺は写真を保存し、駅を出た。


 これからも、寂しい日はある。嫉妬する日も、不安で相手の声を聞きたくなる夜もあるだろう。結衣のことを考えすぎて、自分のことを後回しにする時も、きっとある。そういう自分をなくすことはできない。


 でも、そのたびに二人で話せる。互いを好きな気持ちを、相手を閉じ込めるために使わず、相手の世界を知るために使う。そうする練習を、これからも続けていく。


 ずっと一緒なら問題ない。そう言い切れた頃の俺たちは、きっと何も知らなかった。


 今は、問題があっても一緒に考えられる。それでも、相手のいない時間を生きて、また会いに行くことができる。


 俺は結衣が好きだ。結衣も俺が好きだ。


 その気持ちだけで何でも解決するわけではない。でも、その気持ちがあるから、解決するために向き合える。


 次に会う日を、俺はもう決めている。結衣もきっと、同じ日をカレンダーに書いている。


 離れている時間は、まだ少し苦手だ。それでも、次に会うまでの時間を、俺は俺のものとして過ごしていく。結衣も彼女の時間を過ごす。


 そうしてまた会う。


 手をつなぎ、今日のことを話し、知らなかった相手を少しずつ知る。


 ずっと一緒なら問題ない。そういう言葉を、今の俺たちは別の意味で使える気がする。


 ずっと一緒にいるために、相手のすべてを自分のものにしなくていい。


 問題がないから一緒にいるんじゃない。問題があった時に、二人で考えたいと思うから一緒にいる。


 その先に何があるかは、まだ分からない。


 分からないままでも、俺たちは歩いていける。


 ずっと一緒なら問題ない。


 そう言える日を、これから二人で作っていく。


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