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第5話 金髪の獅子、凡夫の刃に涙を見る

懸命に頑張っても、届かないものってあるんです。

そんな痛みを抱えながら生きていくって当たり前ですけど、大変なんですよね。そんな男の話をお楽しみください。

「――はああああッ!」


 カインが踏み出す。


 パリス大学の剣術指南役が「教科書のような美しさ」と称賛し、同級生たちが羨望の眼差しを向けた、淀みのない鋭い刺突。それは、彼がヒサメという天賦の才に恵まれた妹の影に怯え、家族という名の神々が住まう城で独り取り残される恐怖に震えながらも、血の滲むような反復練習で身に着けた、正真正銘、カイン自身の「正当な努力」の結晶だった。


 だが、その一歩は重い。カインの脳裏には、常にあの日の稽古場の静寂が張り付いている。


 スターレ伯爵家。そこは、努力という概念すら不要な「天才」たちが住まう檻だ。大陸最高峰とされるソルボ大学への入学は、そこでは「前提」でしかなく、天下十剣に名を連ねる姉のメイや妹のヒサメにとって、剣を振るうことは呼吸と同義だった。

 彼女たちには、カインが日々繰り返している「予備動作の矯正」も「重心の数値化」も必要ない。ただ、そうしたいと願えば、世界がその通りに動く。それが当たり前なのだ。


 その中で、カインだけが異質だった。


 あの日、家に届いたのは王国屈指の名門、パリス大学の合格通知「だけ」だった。

 パリス大学――そこは、国内の秀才たちがしのぎを削り、その上位わずか四パーセントのみが、大陸最高峰「ソルボ大学」への挑戦権を得るという、エリートの登竜門だ。世間一般からすれば、パリス大学への入学は人生の勝者を意味する。


 だが、スターレの血を引く者にとって、パリス大学の門を潜ることは、すなわち「当然パスすべきソルボ大学の選別から漏れた」という、一族の歴史に前例のない事態を意味していた。


 父・スターレ伯がその書面を一瞥した時に浮かべたのは、怒りでも叱責でもなかった。ただ、深い谷の底を見るような、純粋な困惑と憐れみの眼差しだった。


『……カイン。お前の理解はあまりにも浅い。剣術に然り、学問に然り。人一倍の努力はあれど、なぜわからないのだ』


 父にとって、真理とは最初から見えているものだった。自分も、他の家族も、努力と呼ぶほどの負荷を感じることなく、当然のようにソルボ大学へ入り、当然のように剣や学問を極めてきた。だから、なぜ息子がこれほどまでの時間をかけ、必死に足掻いてなお「前提」に届かないのかが、本気で理解できなかった。


 カインが血を吐く思いで掴み取ったパリス大学への切符は、家族の目には「なぜそこまでしなければ分からないのか」という、回路の欠損を証明する憐れむべき証拠にしか映らなかったのだ。


 その断絶から逃げるようにパリス大へ入り、そこで出会った「理論」と「要綱」だけが、カインの唯一の杖だった。家族から「浅い」と切り捨てられた自分の理解を、せめて文字と形に定着させることで、自分を保ってきたのだ。


 ――今、その杖を全力で振るう。


 ガルハートの視界の中で、その剣先がスローモーションのように流れる。


 カインの剣には、ヒサメのような天を舞う閃きはない。だが、その一振りに込められた重心の移動、指先一つの締めには、確かに一朝一夕では身につかない、執念に近い「凡人の積み重ね」が宿っている。


(……いい剣だ。相当、振り込みやがったな)


 ガルハートの胸が、熱く震えた。

 彼自身もまた、天才ではなかった。ただ、地獄のような戦場で死ねなかっただけだ。数多くの天才が死に絶える溶鉱炉で、不屈という名の槌に叩かれ続け、強制的に鍛え上げられた「究極の凡人」。

 ゆえに彼は、自分と同じ「持たざる者」が必死に磨いた刃の輝きを、誰よりも正当に評価できてしまう。


 キィィィィンッ!!


 耳を劈く金属音が、静寂を切り裂いた。

 カインの放った必殺の刺突は、ガルハートが抜くことすらしなかった木刀『世界樹』の「鞘」の先、わずか数ミリ一点で完璧に受け止められていた。


「な……ッ!?」


 渾身の力で押し込もうとする。靴の裏が石畳を削り、嫌な音を立てる。だが、ガルハートの木刀は岩山のように微動だにしない。


「ガハハ……! いい筋だ、カイン様よ。あんたのパリス大学ってのは、なかなか良い『根性』を教えてるらしいな」


「貴様……! なぜ抜け、抜かない! 俺を……俺を侮辱するかッ!!」


 カインは叫んだ。今にも崩れそうな自尊心を繋ぎ止めるための、精一杯の虚勢だった。


「侮辱? 滅相もねぇ。あんたの努力には、俺の胸が躍るほどのリスペクトを感じてるぜ。……だからこそ、だ」


 ガルハートの全身から噴き出す蒸気が、カインの視界を白く染め上げる。


「あんたの磨き抜いたその剣に、泥を塗ったのは俺じゃねぇ。……自分の『妹』の誠意を見ようとしなかった、あんた自身の『弱さ』だ。それじゃ一発、ほぐしてやるよ!」


 ガルハートが木刀を一閃させた。

 カインの腹部に吸い込まれたその一撃は、まるで巨大な指で「トン」と小突いた程度の感触。だが、その背後へと突き抜けた衝撃波は、文字通り嵐となって吹き荒れた。


 ドォォォォォンッ!!


「あべしっ!?」「ぎゃあああッ!!」


 カインを煽てていた有象無象の取り巻きたちが、悲鳴と共にまとめて十メートル以上後方へ吹き飛ばされる。カイン本人はその場に膝をつき、肺の空気をすべて吐き出していた。身体に傷はない。


 カインは、痛みではなく、あまりにも残酷な「答え」を突きつけられた絶望と、認めたくない『敬意』が混ざり合った、未経験の衝撃に打ち震えていた。


(……なぜ、俺にはできなかった。なぜ、この男にできて、俺には届かないんだ……!)


 そのプライドだけが、木刀の一振りで跡形もなく粉砕されていた。

 向けられるべき怒りの矛先は、ガルハートではなく、常に自分自身へと向かっていく。それが、カインの「善」であり、同時に彼を追い詰める「毒」でもあった。


 砂埃が舞う静寂の中、取り巻きたちの呻き声だけが遠くで聞こえる。

 カインの目から溢れた涙が、泥にまみれた石畳を濡らしていた。

 それは救済の涙などではない。

 正解を知りながら、そこに手が届かなかった自分自身への、暗く重い、ねじくれた敗北の結晶だった。


「そこまでだ!」


 重厚な軍靴の音が墓地を包囲する。

 現れたのは警邏隊ではない。スターレ家直属の正規軍「スターレ・ガード」の精鋭たちだ。


(……ああ、やっぱりそうか)


 カインは、駆け寄る「スターレ・ガード」の指揮官を見て、自嘲気味に口の端を歪めた。


 自分が呼んだわけではない。自分が窮地に陥ることも、そしてこの無頼漢の手を焼くことも、あの「偉大なる父」はすべて読み切っていたのだ。


(どこまで行っても、僕は父様の掌の上……。僕が必死に磨いた剣も、結局はこうして『父様の軍』に尻を拭いてもらわなければ成立しないのか……!)


 父の用意した「完璧な手回し」が、今のカインには毒よりも苦かった。


「……もういい。好きにしろ」


 カインは、泥にまみれた自分の剣を拾い上げると、鞘に収めることすら忘れ、ふらふらとした足取りで歩き出した。ガルハートの、あの「努力を認める」と言わんばかりの静かな瞳から逃げるように、軍靴を鳴らしてその場を去っていく。


ガルハートは、その背中をただ一度だけ見た。それだけだった。


「――貴殿、ガルハート。葬儀中ゆえ今は見逃すが、明日、必ず領主館へ出頭せよ。さもなくば、この街の全軍を以て貴殿を逆賊と見なす」


 指揮官の冷徹な宣告が響く。


 ガルハートが「ガハハ、いいぜ」と笑おうとした、その時だ。


「私も、共に行きます!」


 迷いなく、誰よりも毅然と声を上げたのはヒサメだった。

 去りゆく兄の背中を、悲しげに、だが何かを決意した目で見送った彼女は、一歩も引かずに指揮官の前に立つ。


「ヒサメお嬢様? しかし、これは公務で……」


「関係ありません。彼をこの場へ留まらせ、騒動の原因を作ったのはスターレ家の不徳です。

……私は、彼の『証人』として、そしてスターレの騎士として同行します!」


 ガルハートは、額のバンダナをぐいと締め直すと、去りゆくカインの背中を見つめて小さく笑った。


「ガハハ! 証人に美人の護衛つきか。こいつは明日が楽しみだぜ、なあ天国のオタマ婆さん」



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