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第2話 金髪の獅子、一宿一飯の義理に動く

しばらくは毎日投稿を行いますので、お楽しみください。

翌朝、スターレの街を包む霧は、太陽の光に焼かれて薄い橙色へと溶けていった。

ガルハートは、オタマから借りた――いや、彼女が「ムスコ」のために大切に保管していた、洗いざらしの古いリネンシャツを纏って歩いていた。少しばかり丈が短く、彼のはち切れんばかりの筋肉を窮屈そうに包んでいるが、その生地からは確かな石鹸の匂いと、日向の温もりがした。


彼が向かったのは、色街の喧騒から少し離れた場所にある酒場、赤い月亭だ。

昼間から安酒を煽るならず者どもの怒号を掻き分け、カウンターへと大股で近づく。


「よぉ、ミーナ! 今日もそのケツは最高に『豊作』だな! 景気が良くて何よりだぜ!」


挨拶代わり。ガルハートの熊のように大きな剛掌が、カウンターの中で帳簿をめくっていた快活そうな赤髪の看板娘、ミーナの尻をパーンと景気よく叩いた。


「ひゃうんっ!? ……アンタね、この街でアタシの尻に触って、首と胴体が繋がっていられるのはアンタくらいだって、いい加減自覚しなさいよ!」


 二十一歳の彼女は、ガルハートの胸元にも届かないほど小柄だ。しかし、その体躯に詰め込まれた生命力はあまりに過剰だった。馬の尻尾ポニーテールのように高く束ねられた燃えるような赤毛が激しく揺れる。

 はち切れんばかりに膨らんだ豊かな胸と、キュッと締まった腰。そしてガルハートの手のひらに「豊作」と言わしめる、圧倒的な存在感を放つ大きな尻。大人になりきれていない瑞々しい肌の質感と、成熟した女性としての迫力あるラインが同居するその姿は、酒場のならず者たちを黙らせるには十分すぎるほどの「暴力的な美しさ」があった。


ミーナは真っ赤な顔で跳ね上がり、手に持っていたペンを投げつけようとしたが、ガルハートの屈託のない笑顔を見ると、大きな溜息をついて肩の力を抜いた。

彼女はこの街で最も有能な「情報屋」である。酒場の隅々で交わされる密談、傭兵たちの愚痴、時には風の噂すらも彼女の耳を通れば一級の価値を持つ「真実」へと編み上げられる。


「ガハハ! 当たり前よ。俺の指先は鋼より硬く、女の肌にゃ綿より優しいからな!」


「バカ言って……。ほら、これ。アンタが全裸で放り出された後に、うちの裏口に届いてたマントと研ぎ石よ。それと……アタシからの餞別」


ミーナがカウンターに置いたのは、最高級の干し肉が詰まった袋。

彼女の瞳には、冗談めかした口調の裏側に、隠しきれない敬畏の念があった。彼女は知っている。北の戦場で、たった一人の男が降り立っただけで、鉄壁を誇った三つの軍団が霧散したという伝説を。敗残兵たちが血の混じった唾とともに吐き捨てる、

その畏怖の名――《金の傭兵王》。


「ところでミーナ。……オタマ婆さんの『ムスコ』の話、本当のところはどうなんだ?」

ガルハートが酒を一口煽り、低い声で尋ねた。酒場に流れる陽気な空気が、一瞬にして冷え切る。ミーナの瞳から看板娘の愛嬌が消え、冷徹な情報屋の光が宿った。


「……公式には五年前、第十四激戦区で行方不明。でも、アタシが北の傭兵崩れから買った裏情報じゃ……泥濘の中で破傷風にやられた兵士の山の中に、それらしいのがいたって話よ。……婆さん、あの濁った目で、今でも毎日北門の方を向いて按摩してる。ムスコが肩を凝らせて帰ってくるのを、信じて疑わずにね」


ガルハートは、背中に背負った木刀《世界樹》の、ずっしりとした重みを感じた。

昨夜、オタマの家で飲んだあのスープの温かさ。あれは、彼自身の記憶の底にある、かつて守るべきだった何かの温もりと酷似していた。


「…五年も待たせりゃ、肩も鉄板みてぇに固まってんだろうよ。ちょっと、揉みほぐしに行ってやるか」


「……本気? アンタが行けば、また北の戦火が騒がしくなるわ。《金の傭兵王》が動いたって知れたら、連中、生きた心地がしないでしょうね」


「ガハハ! 傭兵王だか何だか知らねぇが、今の俺はオタマ婆さんに『一宿一飯の義理』がある、ただのしがない按摩助手だ!」


ガルハートは最後の一滴を飲み干すと、ミーナの赤毛をガシガシと乱暴に撫でた。


「待ってろよ、ミーナ。帰ってきたら、その『豊作』なケツを一日中揉んでやるからよ!」


「もうっ……死んだら、タダじゃおかないんだからね!」



***



スターレの北門は、平和な日常と血生臭い北方地帯を分かつ断頭台の刃に似ている。 その巨大な石門を、背を丸めてくぐろうとする黄金の巨躯があった。


「待て。……その汚い面を拝まない日は、この街に真の平和が訪れた日だと思っていたが。貴様、どこへ行くつもりだ」


冷徹だが、鈴を振るような透明感のある声。 ヒサメ・スターレだ。

天下十剣の一人として知られる彼女は、警邏隊の責任者として、その鋭い気を全身から放っていた。サラシで固く締め上げられた豊かな胸が、苛立ちを隠すように僅かに上下している。

だが、その瞳の奥には、昨日の一件――自らの牙城が崩壊し、無防備な双丘をあの剛掌でわしづかみにされた屈辱が、消えない熱を持って宿っていた。


「おぉ、ヒサメお嬢じゃねぇか。相変わらずそのサラシはキツそうだな。またまた俺が揉んでやわらかくしてやろうか? ガハハ!」


ガルハートは振り返り、いつもの下卑た笑いを浮かべた。 対するヒサメの瞳は、冬の湖のように静まり返っている。だが、その頬は隠しきれない動揺で朱を差し、無意識に腕を組んで、昨日「触れられた」場所を守るように隠していた。


「貴様の寝言は聞き飽きた。……北へ行くのか。北の敗残兵どもが怯えながら口にする『金の傭兵王』とやらにでも、会いに行くつもりか?」


「よせやい。俺ぁただの、寝っぱなしの獅子公だぜ。……ちょっとよ、婆さんに頼まれた『忘れ物』を拾いに行くだけだ。五年も前に落とした、バカ息子の根性だ」


ガルハートの口調はいつも通りだったが、その碧眼だけは、北の空を覆う暗雲を射抜くような鋭さを秘めていた。ヒサメは、自分の剣士としての本能が、心臓を強く打ち鳴らすのを感じた。


「……勝手にしろ。死体で戻ってきても門は開けん」


「ガハハ! 心配すんな、俺はしぶといんだ。……あぁ、そうだ。お嬢、一つ忠告だ」


ガルハートは歩みを止めず、背中を向けたまま、ひらひらと大きな手を振った。


「ミーナが言ってたぜ。最近、警邏のブッチとガットの野郎どもが、色街の裏で妙に鼻息荒く動いてるってな。『弱った獲物を見つけた』ってな」


ヒサメの眉がピクリと動く。


「……あの二人が? だが、奴らは貴様に締め上げられて以来、大人しくしているはずだが」


数日前、酒場でミーナにいやらしく絡み、代金を踏み倒そうとしたブッチとガットを、ガルハートが「俺の取りミーナのケツが減るだろうが」と便所に叩き込み、汚水を浴びせた事件。プライドをドブに捨てられた彼らにとって、ガルハートは不倶戴天の敵だ。


だが、ヒサメが彼らを野放しにしているのには理由があった。二人はヒサメの兄であるスターレ家長男の「手下」であり、兄の権力を笠に着て街で横暴を働いているのだ。


(兄様にたかるあの寄生虫どもめ……)


清廉潔白を地で行くヒサメにとって、兄の七光りで警邏隊に潜り込んでいるブッチとガットは、虫唾が走るほど忌々しい存在だ。何度も追放を試みたが、そのたびに兄の横槍が入り、排除しきれずにいた。スターレ家の「正義」を汚す身内の不始末に、彼女は常に苦い砂を噛むような思いを抱えていたのだ。


「お嬢の目は綺麗すぎて、ドブの中までは見えねぇんだよ。……まぁ、せいぜい背後には気をつけな。せっかくの綺麗な背中が、泥で汚れちまうのは勿体ねぇからな!」


黄金の髪をなびかせ、ガルハートはそのまま北方の闇へと消えていった。

残されたヒサメは、自らの剣の柄を強く握り直した。彼女の掌には、先ほどガルハートが放った、一瞬の、だが圧倒的な「王」の威圧感が、熱のように残っていた。


「……綺麗な、背中……だと?」


ヒサメは誰もいなくなった北門で、ぽつりと呟いた。

また顔が熱くなる。昨日の「前」に続き、今度は「後ろ」まで褒められたような、言いようのない不快感――いや、動揺。


(……あのような無頼漢に、家の恥部まで見透かされているというのか)


兄の影に怯える卑小な部下たち。それを統制しきれない自分。

ガルハートの言葉は、ヒサメが目を逸らしていた弱さを鋭く突いていた。


「あ、あの不潔な男に、何を言われても心など揺れん……揺れんぞ……!」


そう自分に言い聞かせながらも、彼女は先ほどガルハートが去っていった道を、いつまでもいつまでも、涙目で見つめ続けていた。



***



一週間後。


北方、第十四激戦区──そこはかつての肥沃な大地が、数え切れぬ死体と流血によって、底なしの泥濘でいねいへと変貌した地獄であった。

降り止まぬ黒い雨の中、一人の男が膝をついていた。

黄金の髪は泥に汚れ、その背中には世界を背負うような重苦しい沈黙が漂っている。


「……傭兵王よ。あ、いや……ガルハート殿」


背後で、武装した一団を率いる男が、声を震わせた。

北方最大を誇る傭兵クラン《鋼鉄の牙》の副団長、ザルカス。かつてはこの激戦区を巡ってガルハートと三日三晩殺し合いを演じた、不倶戴天の宿敵の一人である。

そのザルカスが、今は抜剣することすら忘れ、己の喉を鳴らす音すら怯えている。


(何故だ……何故、ここにこの怪物がいる……!?)


数年前、この男がたった一本の木刀で突撃してきた日の悪夢。重装騎兵が馬ごと圧殺され、一喝で千の兵が戦意を喪失した、あの「金の傭兵王」。

目の前にいる男から溢れ出す「圧」は、全盛期の記憶すら容易に塗り替えるほどに、禍々しく研ぎ澄まされていた。


「ザルカス……。教えてもらった通り、ここにあったぜ」


「貴殿に依頼オーダーされたからには、我がクランの総力を挙げても捜索いたします。……それが、破傷風で果てた名もなき新兵の墓であっても……」


ザルカスの声は情けないほどに上ずっていた。断れば、この場で自分たち数千の兵が「更地」にされるという、確信に満ちた恐怖ゆえの服従だった。

ガルハートが見つめていたのは、ぬかるむ大地に突き立てられた、名もなき木の墓標。

そこに、泥にまみれ、風雨にさらされて色褪せた一枚の布。

下手な運針で縫い上げた“カタクリの花”の刺繍があった。


「……あぁ、クソッ……。なんだよ、この結末はよぉ……!」


ガルハートは、血の混じった涙を流しながら、その汚れたバンダナを自らの額に深く巻き付けた。

その瞬間、ドォォォォンッ!! と大地が震えた。

ガルハートの全身から噴き出す覇気によって、降り注ぐ雨が大地に届く前に蒸発し、白い霧となって周囲を包み込む。


「待たせたな、ムスコ。……お袋のところへ帰るぞ」


その時、ガルハートの胸を、凍てつくような悪寒が貫いた。

数多の死線を潜り抜け、戦場の因果を支配してきた「王」の直感が、警鐘を乱打する。


(──『弱った獲物を見つけた』だと……?)


脳裏に過ったのは、去り際にヒサメへ投げたブッチたちの不穏な会話。

あの「獲物」とは、北へ向かった自分ではない。

自分がいない隙に、一人残されたあの老婆──オタマのことだ!


「……しまっ、た……!」


ガルハートの眼光が、黄金の雷光を帯びて爆ぜる。


「ザルカス! 墓は動かすな、俺が戻るまで誰一人触れさせるんじゃねぇぞ!」


「は、はいっ!?」


返事を聞くより早く、大気が爆裂した。

咆哮のような息を吐き出すと同時に、ガルハートの巨躯が「弾丸」と化す。

音を置き去りにした獣の如き速度。蹴り出された泥濘はクレーターのように抉れ、彼が通り過ぎた後に残ったのは、ただ空を裂く衝撃波と、あまりの速度に赤熱した大気の渦だけだった。


「 黄金の化物め……! おい、総員! あの方が戻られるまで、この墓標を命懸けで守り通せぇ!!」


ザルカスの悲鳴のような号令を背に、金の獅子はスターレへと駆け戻る。

その心中にあるのは、一宿一飯の義理を果たせぬことへの、そして大切な温もりを汚されようとしていることへの、底知れぬ憤怒であった。



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