第1話 金髪の獅子、泥にまみれる
「傭兵王はガハハと笑う」に目を通していただきありがとうございます。
面白くなるよう頑張ります。
ライナル王国北方、戦場の最前線にある街スターレの朝は、いつも鉄と血の匂いがした。
夜明け前に降りた深い霧が、石畳の隙間にこびりついた昨夜の生々しい血痕をぼやかし、街全体を死装束のような薄灰色に染め上げている。
そんな吹き溜まりの路地裏で、一人の男が転がっていた。
金髪の巨漢。身に纏っているのは腰に巻いたボロ布一枚。岩のように逞しい背中には、その場にそぐわないほど見事な造りの木刀が一本。
昨夜、賭場で見事に身ぐるみ剥がされ、文字通り叩き出された成れの果てだ。
だが──この男は、単なる酔いどれの無頼漢ではなかった。
軍靴の音が近づく。
スターレ警邏隊の責任者、領主の三女ヒサメ・スターレである。黒髪を風になびかせ、小さな顔に大きな切れ長の目が美しい。165センチのしなやかな肢体は、純白のサラシで厳しく締め上げられ、白銀の戦装束の上からでもその鍛え抜かれた筋肉の躍動が伝わってきた。
ヒサメは、路地を塞ぐ巨漢の前で足を止めた。
「……また貴様か、ガルハート。少しは天下の公道を歩いているという自覚を持て」
地面に転がる巨漢は、重い瞼を片方だけ開け、泥まみれの顔にニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「おぉ、ヒサメお嬢じゃねぇか。朝っぱらからそんな怖ぇツラすんなよ。……しっかし、今日もそのサラシはキツそうだな。そんなに締め付けると、大事なお胸が腐っちまうぜ。ガハハ!」
ヒサメの細い眉が、わずかに動く。
「黙れ。次にその汚い口を開いたら、舌ごと切り落とす」
言葉が終わるより早く、電光石火の一閃が放たれた。鞘から解き放された剣先が、男の喉元を正確に貫こうとする。だが、ガルハートは寝転んだまま、まるでお節介な蝿でも追い払うかのように両手を合わせた。
「合掌」──その刹那、ヒサメの突きが止まった。
合わせた掌だけで受け止めたのだ。凄まじい衝撃波が路地の空気を震わせたが、ガルハートの腕は一ミリも動いていない。
(……やはり、この男……)
ヒサメは天下十剣に数えられる剣豪としての本能で、戦慄を覚えていた。
この男は、ただのろくでなしではない。自分と同じ、いや──自分よりも遥かに高みにある“武”を識る者。
ヒサメは忌々しげに剣を引き戻そうとした。だが、男の指先は万力のように剣先を離さない。
「離せ、不潔な指で私の剣に触れるな!」
「おっと、そう急かすなよお嬢。立ち上がるのをちょっと手伝ってくれりゃあ――」
ガルハートが強引に剣先を支えに起き上がろうとした、その時だった。
濡れた石畳に男の巨大な足が滑り、その巨躯が大きくよろめく。
「あ、おいっ!?」
「なっ――!?」
咄嗟に何かを掴もうとしたガルハートの太い指先が、偶然にも、ヒサメの戦装束の隙間からのぞく「白布の端」に深く引っかかった。
――シュルシュルシュルッ!!!
乾いた音を立てて、ヒサメの胸元を鋼のように縛り上げていたサラシが、一気に解け走る。鉄の処女を守っていた「牙城」が、あまりにもあっけなく崩壊した。
朝の冷気の中に露わになったのは、サラシの圧迫から解放され、白銀の胸当てを弾き飛ばした、豊かに、そして無防備に震える見事な双丘であった。
「なっ……あ、あ、貴様ぁぁああああ!!!」
顔面を瞬時に沸騰させたように真っ赤に染め、ヒサメは硬直した。
「おぉぅ……いけねぇ! 寒かろう、俺が隠してやる!」
ガルハートは慌てて、その巨大な剛掌で彼女の胸を――隠すというよりは、わしづかみに近い形で、肉に食い込むほど力一杯に覆い隠した。
「よし、これで完璧だ!」
「……死ねぇぇぇえええッ!!!」
涙目で叫んだヒサメの渾身の拳が、ガルハートの顎を打ち抜いた。
黄金の巨躯が、言葉通り「木の葉」のように吹き飛んで路地の壁にめり込む。
「ガハハ……っ、善意、だって、言って……だ、ろう……が……」
壁の穴で白目を剥くガルハート。ヒサメは解けた布を必死に抱え、震える声で呪詛を吐き散らしながら、足早に去っていった。
ヒサメは壁に埋まった男を睨みつけながら、胸の奥に深く刺さった棘のような屈辱と、そしてこれまで感じたことのない「動悸」を、拭い去ることができずにいた。
***
スターレの夜は、昼よりも遥かに騒がしく、そして残酷だ。
酒場の灯火が石畳を毒々しく照らし、酔客たちの下品な笑い声が路地裏の湿った闇に染み出していく。その喧騒の渦中で、再びガルハートは賭場の重い扉から文字通り「排出」された。
「二度と来るんじゃねぇ、この大負け野郎!」
重厚な樫の扉が閉まる鈍い音とともに、ガルハートはすっぱだか同然の姿で石畳に転がった。背負った木刀『世界樹』だけが、彼の唯一のアイデンティティだ。
「ガハハ! 今日も最高の負けっぷりだ。運が良すぎて怖ぇくらいだぜ!」
空っぽの財布を虚空へ放り投げ、笑いながら立ち上がる。その豪胆な、あるいはあまりに無防備な姿に、闇の向こうから掠れた声が届いた。
「……誰か、倒れてるのかい?」
振り向くと、杖を突いた小柄な老婆が立っていた。白く濁った瞳は、もはや現世の光をほとんど映していない。だが、その佇まいには長年、色街の裏側で男たちの身勝手な業を揉みほぐしてきた者だけが持つ、独特の品格と諦念があった。
(……あぁ、思い出したぜ。色街の安宿を這いずり回ってる、あの腕利きの按摩婆か。客の財布は盗まねぇが、隠してる悩み事まで揉み出しちまうって噂の……)
老婆──オタマは、探るようにガルハートの逞しい腕に触れた。その瞬間、彼女の細い指先が、驚きに小さく震えた。
「……あんた……えらく立派な体をしてるねぇ。こりゃあ夜の方も、さぞ猛々しい『息子』をお持ちなんだろう?」
「おいおい婆さん、その歳で俺を誘ってんのか? 俺の股間の『巨木』を拝んだら、婆さんの節穴もパッチリ開いちまって、腰抜かすのがオチだぜ!」
「ふふ……口の悪さまで、うちのムスコにそっくりだよ」
オタマの微笑みには、男の虚勢を数え切れないほど見てきた女の、深い慈愛が混じっていた。
「うちにおいで。そんな格好で突っ立ってると、風邪ひく前にヒサメのお嬢様に、その大事な『巨木』を切り落とされるよ」
***
オタマの家は、色街のどん詰まり、今にも崩れそうな長屋のような場所にあった。
古いオイルランプの灯が心細く揺れ、湿った壁には色褪せた端切れが何枚も掛けられている。だが、そこには長い年月を積み重ねた者だけが醸し出す、確かな生活の匂いがあった。
「これしかないけど……お食べ」
差し出されたのは、湯気の立つ粗末なスープ。具材は僅かな野菜と、屑肉が少し。
ガルハートはそれを一口啜った瞬間、喉の奥が焼けるような熱さを感じた。
──それは、失われた記憶の残滓。
かつて、豪華な燭台が並ぶ食卓で、誰よりも愛した「あの人」が作ってくれた、魂まで温めるようなスープの味。その記憶が、理由もなく彼の胸を締め上げる。
外見と腕っぷしから『獅子』ともいわれるこの男、実は大層涙もろかった。
「……クソ、味が薄ぇな。涙の塩分を足して、ちょうどいいくらいだぜ」
「そうかい。ムスコもね、よくそう言って文句を垂れてたよ」
オタマは愛おしそうに、手元の巾着袋を撫でた。不恰好な運針で縫われた、“カタクリの花”の刺繍。
「これね……あの子がいつ帰ってきてもいいように、ずっと貯めてたんだ。客の股座を揉んで稼いだ汚ねぇ金だけどね……せめて渡す時だけは、綺麗な袋に入れてやりたくてねぇ」
(……この婆さん、ただの按摩じゃねぇな)
触れただけで、相手の背負った悲しみまで読み取ってしまうという噂。
ガルハートはスープを飲み干し、荒っぽく口を拭った。
「恩義は忘れねぇ。一宿一飯の義理は、俺の股間の息子より硬いんでな。……婆さん、そのムスコ、俺が拾ってきてやるよ」
「……ありがとうねぇ。あの子は、北の戦場に行ったきりで……もう五年も帰ってこないんだよ」
ガルハートは木刀を背負い直し、静かに立ち上がる。
「今更だが、俺の名はガルハート。『寝っぱなしの獅子』なんて呼ばれてるがな、待ってろよ。ムスコを連れて帰ってやる。俺はしぶといんだ。死ぬのは、もっと後だ」
「……気をつけておくれよ。あんた、ムスコに似てるから……なんだか、胸がざわつくんだよ」
オタマの予感めいた言葉を明るい笑いで撥ね退け、ガルハートは夜の闇へと消えた。老婆は家の前に立ち、見えない瞳でその背中を追い続けた。
小説家になろう初投稿です。
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