この先も
残された俺たち4人。暫くして準備に呼ばれた結と千早を見送ることで、俺と莉織だけが残った。後ろにはぞろぞろと次の客が並ぶ。それでも気にすることのない莉織は、未だに俺の腕を掴んで離さない。
「行ったわね。楽しめるかしら」
「少なくとも恐怖からまともに下とかは見れないだろうな」
「どんな見え方をしてるのか気になるわ」
「本物のマグマでも想像したら分かるんじゃ?」
「それでも想像じゃない。本格的な高所恐怖症の感覚は分からないわよ」
「そうだな」
それでも知りたいという欲が見えるのは、相手のことを知りたいという莉織の純粋無垢な気持ちが現れているからだろう。相手の苦手を知って、どういうことが許容されて否定されるのか、親友として知りたいと思うのは至極当然だから。
「それにしても、よく人前でこんなにベッタリくっつけるな。恥ずかしくないのか?」
気にしてないことだったが、莉織と2人きりになると不意に気になった。分かっていることだとしても。
「それは人に見られるということに関しての恥じらいかしら?」
「うん」
「それなら恥ずかしさなんて皆無よ。元々足が悪くて人目は集めていたから、人の目には今更何とも思わないわ。たとえ恥じらいだとしても」
「だったら、俺にくっつくことに関しての恥じらいは?俺も男だし、お前は男が恋愛対象。そんな相手に異性としてくっつくのは恥ずかしかったりしないのか?」
俺を付き人でも下僕でも思っていたとして、人間として生まれた以上性別は存在する。そして俺は男という性別を有する。だとしたら、そんな相手に異性として持つだろう羞恥心がないのかと純粋に気になった。
それに対して、莉織は不思議そうに俺を見上げて言う。
「全くないわ。だって今では、貴方は碧よりも私の傍に居て時間を共有してくれる親友よ?それに私は貴方を心から信頼している。普通の男子ではないと確信しているし、私に対して下心抱いて接触してもいないんだから、今更恥ずかしいと思って触れることはないわ。落ち着く七生という存在に関わる羞恥心は感じたこともないから」
莉織と出会ってから、異性だからという壁の前に、既に第一印象から普通を感じさせない感覚を与えていたのを思い出した。通行止めして必死に迫って付き人になることを望んだ日。俺はその時既に、莉織に普通とは思われてなかったのだ。
そしてその普通ではないという意味が、男として感じる様々なこと、例えば性欲から感じる下心を、感じないという違和感。普通の男のように迫らない違和感だ。
つまり出会った時から羞恥心はなかった、と。
だから今も触れることに照れる素振りもなかったのかと理解した。もう出会って4ヶ月強。そんな月日が流れれば徐々に触れる羞恥心もなくなるか。
「なるほどな。だったらもし俺が普通なら触れてないってことか」
「出会ったその日に決別してるわよ。それくらい今ここに居ることが運命なんだから」
「それもそうか」
あの凶暴を手懐けれたのは、あの日の俺のワガママだけが生んだ奇跡だ。他なら絶対に振り向かなかっただろう。
「次の方どうぞー。1人乗りですか?2人乗りですか?」
「2人乗りでお願いします」
「かしこまりました。では最奥のジップラインへ向かって準備お願いいたします」
ささっと莉織が返答してついに俺たちの番に。
「無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理……」
「うるさいです。黙ってくださいよ」
「言葉で聞くと余計に不安になるから同感だ」
横を通ると聞こえる3人の準備万端であって準備万端ではない声。結で繋がった親友たちは、こうして見ると絵になる時点でやっぱりお似合いだと思う。
「それでは準備はよろしいですか?」
「はい」
結の自信満々な声だけが聞こえた。他は目を閉じて呪文を唱えるだけ。
「では3人揃って愉快な空の旅へ。3、2、1、いってらっしゃーい!」
「あぁ!落ちませんようにぃー!!!」
スタートした瞬間叫ぶ碧の情けなさには同情するとして、楽しそうな結とずっと目をつぶって無表情の今日の主役は何とか最後まで落ち着いて行けそうだったのは安心だ。
「初速から出るわね」
「あれ大丈夫か?気絶してないと御の字ってとこだな」
傾斜に比べて思っていたより出た速度は、あっという間に碧の悲鳴を運んだ。
「それでは準備を始めますね。お兄さんが前、お姉さんが後ろでよろしいですか?」
問われるので莉織を見る。判断は俺には必要ないから。
「はい。お願いします」
「かしこまりました」
そう言って始まる準備。何もしなくても慣れた手つきで俺には男性が、莉織には女性の係員が命綱や金具を装着した。時間にして1分。あっという間に終わった。
「後はここに座るだけですね。スタートしましたら、後ろになる多くのお客様は前の方を抱きしめるように両手を使いますが、両手を離して広げても構いません。スリルを楽しむならそれが1番です」
「やるのか?」
「気が向いたら」
抱きしめることに喜びんでいたので、実際どうなるかはやってみてのお楽しみというやつだ。
準備を整え、後は押されるだけ。一本の2人乗り用の命綱に俺だけ繋がっていて、背中から繋がれたロープと金具で莉織と俺は繋がっている。過去ないくらいの密着度だが、やはり羞恥心とかはお互いになさそうだった。
「それでは準備整いましたのでいきましょう」
さて、漸く俺たちの番だ。もう見えないくらい先に行って、到着してるようにも見える3人がどうなのか気になった。
「貴方の背中だと落ち着くわ。ロープなくても繋がれる自信あるくらいに」
「華奢なお前には似合わない言葉だな」
不安も何もない状態を好んでいるらしい。莉織はどこでも莉織だな。
「それでは2人揃って愉快な空の旅へ。3、2、1、いってらっしゃーい!」
ついにスタート。碧たちと比べると遅い初速だったが、徐々に加速する。
「結構高いわね。それにいい景色だわ」
広がるのは街と高原のような自由エリアと、その奥のエリア。快晴の下、ただ風を受けて下に進むだけのジップラインだが、そんな普段見ないような景色でさえも美しいと思えたこの感性に、俺は少しばかり男の子にされているようだった。
「そうだな。お前の顔が見れなくて残念だ」
「嬉しいこと言うじゃない」
折角ならこの景色を見て笑う莉織を見たかった。元の世界でも、無敵だった俺は笑顔を見たことがそう多くない。誰もが俺の前では緊張して警戒して殺意を向けていたから、どうしても見れなかった笑顔。この世界ではそれが見れる。1回でも惜しいと思うのは、その影響からだ。
「七生」
「何?」
進み続けるジップライン。風の音が耳に響きながらも、後ろから確かに名前を呼ばれた。反応すると腹部に伝わる莉織の腕がギュッと更に強く俺を抱きしめた。
「さっき、貴方に触れることに羞恥心はないと言ったけれど、ホントは微かな羞恥心はあるわ。最近それを自覚したの」
「それは胸を触ったからか?」
「それもあるだろうけど、多分私が少しずつ変わってるからだと思う」
声色は高く、嬉しそうなことを話す莉織だ。
「それは俺も感じてる」
「知ってるわ。だけど、貴方はまだ分かってないことも多い」
「それはそうだろ。俺だって全知じゃなければ、お前のことさえ満足に知れてないんだから」
「そうね。だからこれから教えるわ。私がどんな人なのかを」
「それは嬉しいな。この先お前の付き人になり続けれるとは思わないけど、お前のことはどれだけ知っても良いからな」
「ダメよ。貴方は私の付き人で居続けるの」
更に強くなる腕の力。それでも痛くなくて、穏やかな雰囲気の中で心地良さだけが心を揺さぶる。
「そしていつか、私が付き人の、いえ、下僕の貴方に最高のプレゼントをするわ。それまでもそれからも、貴方には私の隣に居てもらうから」
「よく下僕扱いで俺がその願いに頷くと思ったな」
「思うわ。だって貴方は私を信じてくれてるから」
そう言うと信じていた俺すらも信じていたということ。依存が抜けたとは思っていたが、逆に俺が依存されることに慣れてしまったのかもしれない。もう俺も、もしもを考えないで生きる方が幸せになれるかもしれないな。
「流石は主様だな。期待していいのか?」
「どうかしら。貴方が期待しても、貴方の受け取り方では期待通りにはならない可能性もあるわ」
「なら期待する。お前が俺のことを理解してプレゼントすることを信じて」
「言ったわね?絶対よ?」
「二言はない」
「ありがと」
あの日、二言はないということを守った莉織。今度は俺が守る番ということだ。
「それで?今なんでその話をしたんだよ」
「貴方の背中が心地よくて好きだからよ。いつの間にかそういう気分にさせられたの」
「不思議なことだな」
ジップラインももう終わりそう。景色を楽しむかと思っていたら、莉織の話で頭が莉織のことでいっぱいだった。でも景色より価値のある話を聞けた気がして、そんなことは別にどうでも良かった。
「七生、この先も私の下僕で居てね。そんな貴方が私は大好きだから」
莉織にしては命令形でもなく厳しくもない優しい言葉遣い。聞き慣れないが本音だと分かったのは長い付き合いからだ。耳に響く鷹揚として暖かな声。それは確かに伝わった。
同時に強まる抱きしめる力。これ以上ないくらいのバックハグだった。
「そのつもりだ」
「ふふっ」
その笑顔を見たかったと刹那で後悔した俺。でもまた今度見れるとも思った俺が居て安心もした。
そしてジップラインは、470mをあっという間の感覚で終えた。