その頃
大粒の雨が降り続ける。外の雨音が部屋の中に届いて、夏という雨が最も悪に感じる季節真っ只中の今、不快感に苛まれていた。
「遅いな」
莉織は帰宅すると毎回俺の部屋に「ただいま」と言いに来る。だがコンビニに行って結構経つがまだ言われない。聞きそびれたとか言わない日、喧嘩したとかそういうことは絶対にない。
だから少しずつ不安が芽生えた。この天候。雷は鳴らないが、何故か不穏な空気が漂うことだけは感じれる。暗殺を実行される日の夜のように。
「アイス買うだけならこんな遅くならないよな……行くか」
流石に不安に駆られたから、私服に着替えて部屋を出た。胸の鼓動がどんどん速まる。スマホに連絡は届いていないから、もしかしたら何かあったのかと考える。
そしてその予感は的中する。
俺のスマホに一件の着信が入る。相手は音川茂だ。
「はいもしもし」
『あぁ、よかった。長坂くんは無事か』
「……は?」
俺は理解が早い。処理速度が速いからという理由も関係しているが、他人の声色や雰囲気などから察して普通ではないことを感じ取れるのだ。だから音川茂の声を聞いて確信した。莉織に何かがあったのだと。
『時間がないから手短に話すよ。実は今、莉織が誘拐されたようなんだ。今GPSを追っているが、場所はここから離れていることしか分からない。長坂くんも連れ去られていたらどうしようかと思ったが、最悪の展開ではなくてまだよかった』
それでも何1つよくないと思っているだろう。正直、莉織ではなく俺が連れ去られていたら、そう思われていても不思議じゃない。赤の他人だった俺に付き人を任せて、しかもそれを無能の烙印を押されるように果たせなかった。
そんな俺にこうして安心したように知らせているだけでも、まだ俺にとっては優しくされているように感じた。
「……誘拐ですか。場所、分かりますか?」
『場所は分かる。だがどこに行くかは不明だ』
「警察には?」
『言えないんだ。君に連絡するほんの少し前、警察に連絡するなとそれだけ伝えられてね。まだ要求すら聞いてない』
「そうですか。ならGPSで莉織の位置を逐一俺に教えることは可能ですか?」
『え?可能だが……』
「相手側から何か要求があっても連絡してください。それに従って動くので。今は何も要求はないんですよね?それならその間俺は可能な限り莉織の近くに向かいます」
『分かった』
通話を終えて分かる心の中にある最大の焦り。どうしようかと汗が止まらない感覚。
人生で初めて経験した――恐怖だ。
俺に迫る恐怖ではなく、音川莉織という守ると支えると約束した相手が傷つく恐怖。それを俺は心底恐れた。
「……何してんだ」
俺に。そして誘拐犯に。
自分への嫌悪が尋常ではない。そして絶望も失望も。
人は生まれながらに天才でも最強でもない。だからこそ失敗をして経験を積み重ね、自分という器を造り上げる。しかし、俺はそれを経験してこなかった稀有な例。
生まれながらに完璧で、人を守るということに関してミスをしたこともなかった英傑。
だからこそ強かった。唯一のミスが、莉織の命に関わる可能性のある誘拐を許したという大きなミスだから、俺は俺への嫌悪が莫大になっていた。
走ってないのに息は上がり、恐怖と不安に押し潰されそうだ。誘拐犯への憤怒はあるが、何よりも俺への憤怒が最大に溢れた。
「……死んでも助けないと」
絶対に守る俺自身への口約束。相手が何人居ようと関係ない。無策で飛び込んで帰還することは何度も経験したのだから、今更ビビることはない。
そうして俺は自分自身を叩き、今出せる全力でGPSを頼りに走った。無我夢中で雨の中を必死に。
そして到着した廃墟。このどこに居るのか分からないが、今の俺はただ見つけることに躍起になって階段を使って走り続けた。そこで再び音川茂から着信が入る。
「……はい」
『さっき30分以内にお金を振り込めと言われたんだ。君が今居る場所は分からないが、振り込めば莉織は戻って来る。もう無理をしなくて大丈夫だ』
「30分……?分かりました。では30分ギリギリまで振り込まないでくれませんか?もし30分経過して俺から何も連絡がない場合、その時は振り込んでください。莉織を誘拐されて振り込んで帰っても、俺は納得しませんから」
実にバカなことだ。時間に余裕があるなら、それを有効活用すればいい。もう死ぬ覚悟で来てるんだ。今更命が惜しいなんて考えはない。
『……分かったが、莉織の安全も君の安全も大切だ。絶対に無理はしないでくれ』
「任せてください」
そうして俺から通話を切った。
そして再び走り出す。そして見つけ出す。
声が聞こえてその場に止まると、静かにその場を覗く。人は同じ服装で体格も似ている。4人だけで周りに人は居ない。莉織がその4人に囲まれているようで、莉織の後ろは完全な壁。
左右も壁で敵は確定の4人だろう。
そう思うと安堵する俺が居た。
傷つけられてなさそうでよかった……。
見て安堵して、しかし役目は続く。俺は呼吸を整えつつ姿を現した。
――倒れる1人の男。気絶させるなんてそんな善人ではない。痛みを感じて苦しむべき人間には、容赦なくその道を闊歩してもらう。
「うっ……あ、顎が……」
「お前……武術でもやってたのか?」
「やってたら今からでも土下座するのか?」
「いいや……普通じゃなさそうだな」
「よく言われる」
この世界に来てできた友人たちから何度も言われる。俺は普通じゃない。友人たちのそれは、俺をいい方向として捉えて言ってくれるが、今回は全く逆だ。目の前の男は俺を頭のイカれた悪い方向で捉えている。
「で?この先どうすんの?残るお前たちも痛い痛いって泣かされに来るのか?さっきから臭い息撒き散らしてる主犯格っぽいやつ以外、どっちも震えてるから嫌なんじゃないのか?」
「もう後には引けないんだよ!行けお前ら!」
言葉で諦めさせようとしても、恐怖の支配は解かれない。突き動かされた残る2人は全力で走ってナイフと鉄パイプを向けてくる。
普通なら殴られて悶絶する1人目を見たら挑みたくない。しかし挑まなければ自分はどの道使い物にならなくなって処分される。それなら今手を更に染めて、切り抜ける道しか残されていないと思い込む。
その気持ちが手の震えによく見えた。
だから慈悲なんて同情なんてすることなく、2人共に武器を持っていた方の腕の関節を逆に曲げてやった。ゴキゴキっと音を鳴らして肘が本来曲がる方向と逆に曲がった。
うっ、久しぶりに見ると気持ち悪っ。
「いってぇぇぇ!!!」
「うわぁぁ!!う、腕がぁぁ!」
「……は、は?お前……嘘だろ」
腕を曲げられるとは思ってなかったようで、何もされていない主犯格が1番焦って驚いていた。次は俺の番だと思うとそういう反応にもなるか。
「どういう神経してんだよ!う、腕を折るだと!?」
「悪いな。何故そんなに驚くのか分からないが、多分俺とお前では倫理観が大きく異なるんだろ」
人を殺すことを躊躇わない世界で生まれた俺は、この世界でも元の世界での倫理観を受け継いだ。そして付き人として護衛として守る人を守るためなら、時に人の骨を砕いて折って二度と使えなくしてやった。
セラシルから殺すことを許可されていなかったから、生涯で人を殺した経験はないが、殺せと命令されたなら殺していた倫理観の持ち主だ。だから腕を折る程度、造作もない。心も反応しないのだ。
「正直これでも気分が悪いんだ。お前はともかく、その子の前で暴力行為はしたくないから」
莉織との関係性は透けさせない。他人だということにも知人だということにもなるよう、敢えて名前を呼ばない。
「くそっ!おい!それ以上近づくとこいつを刺す!」
止まれと、進み続ける俺に対しての抑止力を行使した。しかし止まることはない。莉織は一切怯えもしなかった。
ホントに悪いな……。
「不思議だな。その子を刺さなければ、お前は犯罪者として生きることはできる。でもその子を刺せばお前は死ぬ。実力差を知ったからそうして脅しを始めたんだろうけど、たとえお前がその子を刺しても、お前は俺に殺される未来は消えない。たとえ大切な人を失っても、俺は今後のためにお前を殺す。確実に殺す。だから刺したければ刺せばいい。脅しが無くなったら、その時俺はお前を絶対に殺す」
死にたくないから、捕まりたくないから人質を使う。
でも、人質を何とも思っていないイカれたやつが相手なら、人質は人質の意味を成さない。
この世界の日本という国では、1人の人質で10人救われようとも1人の人質を助けるために全力で交渉するらしい。だが、それは日本の普通だ。俺は日本人ではない。生まれながらに人を殺すことさえ恐れない躊躇わない、この世界にとってイカれた側の人間だ。
しかし、勿論刺されそうになったら腕の動きを見て拾ったナイフでカバーする。しかし、今は本気で殺されると思わせることが何より重要だった。
「……お、お前!止まれよ!!」
「まだ学生っぽいから、それだけ経験浅くて素人。お前にその子を刺すことは無理だ」
「くっ、くそっ……嘘だろ……」
男は諦めたのか、その場に腰を抜かしてナイフと共に床に倒れた。