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恋するおみくじ

作者: 夏生ミラノ

 そのノートを見つけたのは、虫嫌いだった母が一年のうちで最も苦手で、だけれど呼び方が好きだった葉月、八月の初盆をすませたあとだった。

 母が空に行ったのは桜の蕾がふくらみ始めた春の日で、急な旅立ちに心がついて行けず、いつのまにか桜が咲いて散っていた。毎年桜が見事に咲き渡る山崎川を何度も通ったはずなのに記憶にない。

 ようやく泣けたのは役所や銀行などさまざまな手続きを終えて、妹が開いている洋食店のテラス席に座った時だった。隅に植えたレモンの木にアゲハ蝶がひらひらと舞い降りて妹と同時に「あ、お母さん」と口にして、顔を見合わせ笑った瞬間、涙が止まらなくなったのだ。

 母はアゲハ蝶が好きだった。死んだ人の魂を宿していると信じていて、家の敷地に入るアゲハ蝶を見かけるたびに「お母さんが挨拶に来た」とか「おばあちゃんね、きっと」などと口にした。子どもの頃は一緒になって「昨日も来てたよ、あれはおじいちゃんかなあ?」とはしゃいでいたが、大人になるにつれ「アゲハ蝶は柑橘系の木が好きなだけだよ」「どうしておばあちゃんだと思うの」「やめなよ、そういうこと言うの。イタイよ」と、適当にあしらうようになった。

 母は私達のそんな言葉をたいして気にもせず、「だってそう感じるんだもの」といつまでも眺めていた。

 ひとしきり泣いてふと気づくとアゲハ蝶はどこかに消えていた。

「お母さんだったね」妹がそう言い、私もうなずく。

「ところでお姉ちゃん、お母さんの部屋の片付け、手伝ってくれない?」

 この店は父亡きあと、建て替えに等しいリフォームをした自宅兼店舗で、妹は母とふたりで二階に住んでいた。ホテルのキッチンで働いていた妹の、十五歳からの夢が形になって五年になる。

 私は結婚して山崎川の近くに住み十三年経っていた。「ちょっと早いけど」と息子に中学入学のお祝いをもらって数日後、妹から母が倒れたと連絡が入ったのだった。

 母の部屋をいざ片づけ始めると、ちいさな部屋によくここまでいろんなものが、というほどにたくさんのものが出て来て驚いた。クリアファイル一冊チェックするだけでも時間がかかる。そこには私達が子どもの頃から毎年母に渡していた手描きのカードや、広告の裏になぐり描きしたような絵まで差し込んであるからだ。他にも初めて履いた靴や帽子、リボンが箱に保管され、勘弁してほしいほどだった。母の想いが嬉しいのに苦しい。重すぎる。流しても、流しても、涙が出た。

 気分を変えようと、母が好きなロックバンドのアルバムを流す。何もかも無くなった場所から飛び立ったアゲハ蝶の歌。だめだ、また涙が出る。そんな中で、見つけたのがクローゼットの奥のバッグの中にあったノートだったのだ。

「何、これ?三冊もある」

「日記じゃないの?」うしろから声がして振り向くと、仕込みをしていた妹がレモンソーダを持って立っていた。

「でも、なんだかすごくふくらんでる」

 バッグから一冊取り出してめくってみると、それは全ページ、おみくじを貼り付けたスクラップブックだった。

「一ページに一枚ずつ貼ってある」

「おみくじって、普通はその場で読んだら、結んでくるものじゃないの?」

 確かにそうだ。だけど一緒に熱田神宮に初詣した時、母は「いただいたメッセージを忘れないように」とバッグにしまいこんでいた。そして何日かして、開運色に書いてあった銀色のピンキーリングを買ってきたことがあった。小指にはめて空にかざしながら「これで一年はよし」と言い切る姿にあきれたのは何年前だったか。

「そうだ、開運色」

ノートに張り付けてあるおみくじを何ページか見ると、すべて同じおみくじで「開運色」という項目は無かった。

「熱田さんのおみくじではないみたい。引いた月が書いてある。ほぼ毎月」

「神社の名前、書いてないの」

「うん。ぜんぶ白に深緑の文字なんだけど、神社の名前もお寺の名前も書いてない」

 妹は自分の作文を見つけて、「お嫁さんが夢だなんて書いてあるよ」とつぶやいてゴミ袋にザッと入れ、「おみくじノート」を一冊手に取った。

「換算すると何年分になるんだろう。おみくじ引くのが趣味だったなんて知らなかったね」

「いや確かに好きだったよ。旅先でも見つけるたびに引いていたから。桜の花びらのように開くおみくじも見せてくれたことがある。でもそれはどのページにも貼っていないんだよね」

「うーん、謎だね。あの人は自分だけの感覚で生きていたから。あ、ごめん、電話。はい、ビアンヴェニューです。お席のご予約ですか?はい、お日にちはいつでしょうか」

 妹の営業用の口調は母そっくりだ。私もそうなのかもしれない。


 私達は母と仲が良かったほうだと思う。反抗期はもちろんあった。家が息苦しい時期もあって、学びたいことが地元ではないことを理由に大学は迷わず県外に出た。ひとりになってみたかったから。実際離れて良かったと思う。保護されていた関係から、対等になれた感覚。離れたことでより心は近づけたと思う。結婚してからもよく一緒に出掛けたし、おしゃべりもした。息子が生まれた時、母は腕の中の初孫に「ようこそ」と微笑んだ。涙声のやわらかなまなざし。午後の日差しが差し込んだ病室の、その光景はとても美しかった。そのシーンが一緒にいた妹も忘れられず、店の名前Bienvenue=ようこそ、にしたぐらいだ。

 父が亡くなった時も、私達は力を合わせて乗り越えたと思う。だからなのだろう、あまりにも母が自分の人生に存在しすぎて、こんなささいなノートですら「知らないもの」が出て来たことにショックを感じていた。ノートの中で一番新しい一冊を自分のバッグに入れる。残り二冊は「保留」と書いた箱へ入れた。

「まあ、そんなの取っておいても仕方ないか」店から戻って来た妹がそう言う。

「探す」

「え?」

「このおみくじの場所」


*******


もしも母が二、三ヶ月に一度遠出をしていたら、それは果てしない謎解きの旅になったと思う。だが、妹が言うには、遠出をするといつもその土地の名物を買って来たそうだし、確かにそういう時は私も呼ばれていた。「大垣の水ようかんを食べにおいで」「生八つ橋、季節限定ショコラ買って来たよ」「本店で買った赤福は、ひと味違うよ」「加賀野菜のプリン、冷えています」と、画像付きのメールが送られてきたものだ。行き先はバラバラで、なのにおみくじだけ同じ仕様ということはないだろう。近場だと思っていい。

 真っ先に思い浮かんだ笠寺観音は行ってみると違っていた。白に黒の文字で笠寺観音と印刷されている。確認してすぐ結ぶ。案外、氏神様かもと歩いて行ける神社も巡るがどこも違っていて、やはり有名な所だろうかと、大須観音に行ってみる。白に赤いふちどりのおみくじを「ここも違う」と結ぼうとして、ふと内容を読んでもいないことに気づく。よく考えたら自分の運勢なのだ。

「願事・・・他人とともに望むことがよく、わがままをしなければかなうでしょう」

 さしあたっての願いは母の行先を知ることだから、これは他人に頼ってもいいということなんだろうか。ふだんおみくじの言葉をそれほど気にしない自分が真剣に「天のみこえ」の部分も読んだり意味を読み解いていることは相当おかしい。

「乗り移ってるのかな」

 クルックーとまとわりついてきた鳩を「わかったわかった」とあしらいながら、母の学生時代からの友達で自分が連絡先を知っている人に尋ねてみることにした。いつかお会いしたいこと、今は大須観音にいることをメールすると、母が「かのん」と呼んでいた夏音(なつね)さんは「ちょうど近くの上前津にいるから」とすぐ来てくれた。

「なあに、ヒカちゃんの話?」

 母の名前は陽夏=はるかと言った。「かのん」「ヒカちゃん」という呼び方はふたりだけのもので、夏音さんには私達が子どもの頃からよく遊んでもらった。手先が不器用で鶴も折れない母の代わりに、折り紙を教えてくれたのは夏音さんだ。

 せっかくだからランチしましょう、と夏音さんが連れて行ってくれたのは大須商店街にあるピッツァで行列が出来る店だった。平日で時間も一時を過ぎていたのですぐ入ることが出来た。

「ヒカちゃんと最後に来た店なの」

 いきなり言われたのでメニューから目を上げる。泣いてしまうのではと思ったのだ。

「あ、ごめんごめん、あのね、楽しかったのよ。でも今思えば最後だったのにどんな話をしたかも覚えてなくて。思い出したくて行きたくてもひとりじゃね。だってピッツァは陽気に食べなくちゃ。私達、ピッツァを食べる時は愚痴やマイナス思考はNGにしていたの。約束は守らなくちゃね」

 夏音さんはプリザーブドフラワーの講師で週に2回、授業を受け持っている。四十九日の前に、母の好きな花をちいさな陶器にかわいらしくアレンジして持って来てくれた。

「生花を常に飾るのは大変よ。これで我慢しなさいって、私からヒカちゃんに言っておいたから、お仏壇に置いてね」

 そう言ってお茶も飲まずさっとタクシーに乗り込んでいったと妹が教えてくれたことを思い出す。その時のお礼もまだ言っていなかった。

「きれいなプリザーブドフラワー、ありがとうございました」

「いいでしょ、あれ。ヒカちゃんの好きな紫とそれを引き立てるベビーピンク。パールも白と水色。甘い配色だけどヒカちゃん、オトメだからさぁ」

「そのオトメがこんなものを、こしらえていたんですけど・・・」

 バッグからノートを取り出して見てもらう。夏音さんがページを開いていく顔を見て、ああ、知らないのだなとがっかりしながら、運ばれてきたマルゲリータをほおばった。ハーブが香る。庭に水撒きをすると広がるバジルの香りと同じ。

 最後のおみくじは、母が亡くなった今年の三月だった。黙ったままノートを閉じた夏音さんは、生ハムとルッコラのピッツァをあっという間に平らげてアイスティーを持ったまま、しばらく考え事をしていた。そして「あ」と声をはじけさせた。


*******


「日泰寺はタイ王国から寄贈された仏舎利(釈迦の遺骨)を安置するために創建された。「覚王」とは、釈迦の別名。また「日泰」とは、日本とタイ王国を表している。どの宗派にも属していない日本で唯一の超宗派の寺院である・・・へえー、そうなんだ。それでどうだったの?」

 読みあげたパンフレットをテーブルに置いた妹が首を少しかしげた。

「それがさ・・・」

 覚王山の駅を降りて一番出口から上がると、八月の日差しは朝でも容赦ない。

毎月二十一日に、弘法の日縁日が行われているという日泰寺の参道は、ものすごい人だった。あの日、ノートのおみくじを眺めながら夏音さんが話してくれたことを思い出す。

「ふたりで縁日に行った時に、秋なのにおみくじを引こうとヒカちゃんが言い出したの。私はおみくじなんてせいぜい初詣くらいだったけど、ヒカちゃんが「おみくじは空からのメッセージだから、縁があった先々でいただいたらいいのよ」って言うからまあしかたなく?それでね、ふたりとも見事大吉だったの。でもヒカちゃんは大事なのは大吉とか小吉とかじゃなくて、そこに書かれている言葉だとも言っていたな。あの時は結んでいったのよね。この、横長でパラパラって開く、これだった気がする」

 今日がゴールかもしれない。母が気に入っていた麦わら帽子をかぶり、紺色のインド綿のワンピースを着て、バッグも母が夏の定番アイテムと言っていた籐かごのものにした。参道両脇に並ぶ仏具やお団子、雑貨・衣料の屋台を横目にずんずん日泰寺へ向かう。この形見だらけの格好を勧めたのは妹だ。

「お母さんのことを覚えているお店の人、いるかもしれないじゃない?」

 そんなことを言われても、これほどの店数に聞いて回るのもおかしいし、母が一年中この格好をしていたわけでもない。紺色はやたらと好きで、春も夏も冬も、その季節に合ったワンピースを持っていたのだが。疑いながらもこの格好をしたのは、もうこれでおみくじ探しが終わるからだ。まだ一宮の真清田神社とか、日泰寺の近くにある上野天満宮とか、思い浮かんだところに行かないまま終わることにちょっと淋しい気もしながら、夏休み中にちゃんと宿題を終わらせる見通しを得た感覚に足取りは軽くなっていた。

 お手水で手と口を漱ぎ、本堂へ入る。広々とした奥に、仏舎利と共にタイ政府より贈られたという釈迦金銅仏が本尊として安置されていて、手を合わせてしばらく眺めていると、まだおみくじを引いていないのに絶対ここだ、と感じた。

「ご縁をありがとうございます」木箱の丸い穴に手を入れて、おみくじを引く。つかんだそのおみくじは、白に深緑の、ノートと同じそれだった。

「お母さん」

 本堂の外に出て、開かずに階段を下りた。おみくじを結ぶ場所まで来て、立ち止まる。持って帰って妹に見せようか、それとも。

 とりあえず、開こうと、薄く糊付けされた部分をはがし始めると「あれっ」と声がした。

「今日は開けなさるのかね、あんた」

 声がした方を見ると苗木や花を売っているお店のおばあさんがこっちを見ていた。すかさず隣の女性が「あの人は違うよ」とたしなめる。

「ごめんなさい。他の人と間違えているんです」

「あの、母をご存じですか」

「は?」

「いえ、あの、母がよくここに来ていたものですから」

 適当に怪しまれない言葉を探す。

「娘さんですか?お母様、よくうちでハーブの苗を買ってくださるんですよ。レストランをされている娘さんのためにハーブ畑を作られたそうですね」

 母だ。もう間違いない。ハーブの苗をここで買ってきているとは知らなかった。

「じゃあ、バジルをください」

「あら、ありがとうございます」

 にっこり笑った顔はどことなく雰囲気がおばあさんに似ている。自分もそんなふうに母に似ているのかもしれない。

「お母様は、お元気ですか?」

 袋に入れてくれた苗を受け取ると同時に代金を渡す。ちゃんと言うしかない。

「母は三月に亡くなりました」

 女性の顔が一瞬、色を失う。申し訳ないな、と思う。ふとおばあさんと目が合う。その目は私が手にしたおみくじに視線を移した。

 そうだ、確か、さっきこの人は「今日は開けるのか」と聞いた。

「あの、このおみくじ、母はいつも開けずに持ち帰っていたんですか」

「いいや、開けてたよ」

「でも、さっき」

「お母さんがここに毎月来とったこと、あんたさんは知っとったんかね?」

 どう答えたらいいのかわからない。

「知っとったら、もっと早く来てあげれば良かったのに。そうかね、亡くなってしまったのかね」

 来てあげれば、とは一体どういう意味なのだろう。何か母は願掛けをしていて、そのお礼参りにということだろうか。

「あんたはようやく代わりに来たというわけなんかね」

「代わりというか、そもそも母がここに来ていた理由が」

「ほんなら来るのが遅いわ。もっと早く()んと行ってまったわ」

「え?」

「来月はあと一時間早く()なかんよ」


******


 買ってきたバジルの苗を、庭の隅にとりあえず置いて、店の勝手口から入る。オリーブオイルとガーリックの匂いに、たちまちお腹が空いてきた。

 「おかえり」キッチンではランチタイムを終えた妹が、まかないを作っていた。彼女はシラスと菜の花のペペロンチーニを、私は日泰寺のパンフレットとおみくじをテーブルに同時に置いて席に着く。

「日泰寺だったんだ」

 うなずくと、妹は私の手に手を重ねた。ざらざらの手は母を思い出す。

「お疲れ様。すっきりしたでしょ」

 私は首を横に振り黙り込む。すると妹はパンフレットを読み上げたのだった。


「お母さんに恋人がいたなんてね」

「恋人と決まったわけじゃないわよ、ただそのお花屋さんが言うには」

「だって、いつもおみくじを結ぶ場所で待ち合わせていたんでしょう?」

「でも、しばらく話していただけで、そこで別れていたみたい。そんなの恋人って言えるかな」

「ならこのおみくじは何なんだろうね」

 確かにそうだ。あれから、あちこち片づけてもどこのおみくじも出てこなかった。日泰寺のおみくじだけが、わざわざノートに貼り付けてあったのだ。しかも三冊も。

「日泰寺はお母さんにとって特別な場所だったんじゃない?」

「そうだね・・・」

「まあ、来月その人に会えたらわかるよね。もうそのへんにしといてもいい気もするけど。その人との関係、お母さんは知られたくないかもしれない」

 言葉につまる。そうだ、どうしてこんなに気持ちがふさぐのかと言えば、隠されていたことに対してなのだった。でも、もしもその人が今も母を待っているとしたら。

「知った以上、ここで終われないよ」

 妹がうつむく私の顔をのぞきこむ。ふわっとバジルの香りがする。庭からか、この子からか。

「お母さんがもう来れないってことだけ伝えて、すぐ帰っておいでよ」

「どうして?色々聞きたいよ。私達の知らないお母さんのこと」

「でもそれは、“陽夏”という人の物語じゃん。お姉ちゃんも私も、“お母さん”しか知らないけど、それでいいんじゃないの。それぞれ自分の中のお母さんとの想い出を大事にすれば」

 たぶん、妹は私のことを心配しているのだ。母を失って、次に行けていない私を。だからとりあえずうなずいた。ちっともうなずけない気持ちで。


 その日はお彼岸ということもあり、ものすごい賑わいだった。目印になるかとおみくじを開けないまま持って待ってみる。秋口にちょうどいい母の紺色のワンピ―スを着た。花屋さんがいつも紺色のワンピースを着ていたと教えてくれたからだ。

「ヒカさん!」

遠くから声がして見上げると、男の人が立っていた。

「あっ、すみません」

 人違いだとわかり、バツの悪そうな顔でその人は、上げかけた手を引っ込めた。

「あまりにも知り合いに似ていたものですから」

 その人の手には、おみくじが握られていた。私の手の中のおみくじを、その人も見ている。

「これ、母からです」


 おみくじをそれぞれ持ったまま、私達はベンチで話をした。

聞きたいことはたくさんあったが、妹から止められたことを別にしても、質問は出来そうになかった。どう見ても母よりうんと若いこの人は、恋人とは思えなかったのだ。

 私が知ることで、母を傷つけてしまう気がした。

「ヒカさんはもう空の人なんだね」

 シャボン玉でも追いかけるように、その人は視線を漂わせてぽつんと言う。母をヒカ、と呼ぶ人がもうひとりいた。この人が母をどう思っているかは知らないけれど、母はこの人が好きだったんだ。父が母を「はるか」ではなく、からかうように「ヒッカちゃーん」と呼ぶと、いつも母は怒っていた。

「ヒカって呼ばないで!ヒカって呼んでいい人はひとりだけなの!」

 心の中では「ふたりだけ」と叫んでいたのかもしれない。


「三月に会ったきり、来ていないから心配していたんだ。教えに来てくれてありがとう。おみくじ、交換していいかな」

 その人は持っていたおみくじを差し出した。いつも交換していたのだと言う。おみくじを渡すと、その人はていねいに開いて読み、そっとたたんだ。

「ありがとう」

「どうして交換していたんですか」

「そうだよね。君がここに来てくれたのは、空にいるヒカさんの采配かな、なんて僕は思ってそれでいいけど、君にはわからないことだらけだよね」

 それでもその人はそれ以上話さず、しばらく空を眺めていた。私も賑わう人の流れをなんとなく追う。半年前までこの中にいた母は、この人に会うために紺色のワンピースを着て、朝早く家を出て覚王山の参道を登って行ったのだ。大好きな人やモノのことを話す時と同じ、きっと輝く笑顔で。交換したおみくじを私は開けずにそのままバッグに入れる。

「じゃあ私は帰ります」と言いかけてその人を見て驚く。

 その人は静かに泣いていた。


*******


 母から「ナルくん」と呼ばれていたその人は両手で顔を覆い、涙をぬぐった。

「君はヒカさんに、本当に雰囲気が似ているなあ。娘さんのひとりに会えて嬉しいよ。いつも自慢していたよ」

「私達のこと、母は話していたんですね」

「僕は、ヒカさんの教え子だったんだ。ヒカさんが大学四年の時に家庭教師としてうちに来たのがきっかけでね。その時僕は小学四年生だった」

 ということは、この人は五十三歳か。四十代前半にしか見えない。

「家庭教師自体は、ヒカさんが就職するまでだったから一年で終わったんだけど、それからもわからないことがあると、休みの日にここで待ち合わせして参道のお店で教えてもらっていたんだ。いい成績を取るとパフェとかドーナツをごちそうしてくれたよ」

「へえ」

 アルバムにあった若い頃の母を思い浮かべる。ナルさんとの思い出のドーナツをお供えしたら喜ぶかな。

「ヒカさんが結婚したのは僕が高校受験の頃で―――ショックでさ」

 思わず息を吸い込んだ私をナルさんが見る。

「僕は、君のお母さんが好きだったんだ」

 ナルさんは照れくさそうに笑った。

「しかも赤ちゃんがいるっていうじゃん。今思えば、その時おなかにいたのが君だったんだね。あまりにも幸せそうに、私も頑張るからナルくんも受験ファイト!って、冗談じゃねぇよなんて思いながらヤケクソで勉強したよ。で、見事難関合格。ヤケクソもいいもんだよね」

 つられて私も笑う。

「高校からは塾に行くようになって、そこで彼女も出来てさ。だんだんヒカさんのことは薄らいでいったんだ。大学は県外に行ったしね」

「淡くて苦い初恋、ってやつですか」

「うん、そうだね。その時点ではね」

 私はまた息を吸い込む。喉がぴくぴくする。

「もう、この辺にしておくよ」

 ナルさんは立ち上がる。

「おみくじは、古い言い方になっちゃうけど、僕には恋文みたいなものだったんだ。お互いに引いて、交換して、そこに書いてある言葉に想いを読んでいたんだ。僕は」きゅっと、おみくじを握ってナルさんはベンチから一歩離れた。

「いつかお互いまったく同じおみくじを引く日を待っていたんだ」

 私は、黙ってナルさんの向こう側の空を見る。

「今日は君に会えて良かった。悲しいことを知ったけれど、知らないままより、うんと良かった。ついでに言うけど、君のお父さんが亡くなっていたことも僕は今日、知ったよ。ヒカさんは言ってくれなかった」

「あの」私はノートを全部出す。見せるつもりは今の今まで無かったノートを。

「これは・・・」

 ナルさんがもう一度ベンチに座り、一枚一枚確かめていく。ぽたぽたとページに落ちていくナルさんの涙。おみくじはその想いを吸い上げながら、片思いじゃなかった証を見せている。深く深くナルさんは息を吐いた。

 しばらくして立ち上がったナルさんはノートを返しながら、かすれた声で「ありがとう」と言った。もう泣いてはいない。

「元気で」ナルさんは最後に思い切り笑った。深い笑い皺には、重ねた月日が優しく刻まれていた。


 母はいつからナルさんを、男の子じゃなく男の人として見ていたのだろう。ナルさんはいつ、母に想いを打ち明けたのだろう。いつからふたりは、ふたりで歩く日を願い始めたのだろう。おみくじを交換するわずかな時間にどこまで確かめ合えたのだろう。

 考えれば考えるほど、母の想いからもナルさんの想いからも、そしてふたりだけの事実からも離れていく気がした。

 風向きが変わり、香の煙を巻くようにして空に連れ去っていく。本当のことは、とっくに空に溶けているのだ。縁日はますます賑わいを見せる。私はノートを開き、三月のおみくじの次のページに、今日交換したおみくじを、開かないまま挟み込んだ。


「お母さんなら、読めるよね」


(完)


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