暗い井戸の底
「薬種商会テトの初代の商会長は薬師としても卓越した腕を持ち、難解だった薬の製法を簡略化した上にレシピを一般の薬師にも広めた人だった。今作られてる薬の基本を作り上げた。それまでは昔から伝えられたものを口伝で伝えるものが多く間違いが生まれることも多かった。多くの民からも称賛され封爵された。
その領地に次代は薬草を育てるという画期的な経営に乗り出した。薬草などは冒険者や農民が森から採取するものだったが、採取量は不安定で、必要な薬草が手に入らないことも多い。そうやって、代々薬作りに力を注いだエスぺラン侯爵家が少しずつ変わってきたのはこの100年ほどのことだった。
エスぺラン侯爵家が栄えれば没落する貴族は当然いる。中には高位貴族から嫌がらせ受けることがある。特に薬師関係を束ねていた各地の貴族やその寄り親の貴族には反感を持たれた。そんな時期に流行り病が流行った。その特効薬はテトが開発して売り出したが、敵対する貴族まで行き渡らなかった。それが作為かは分からない。
それからエスぺラン侯爵家と対立するとそこの家の当主か次期当主が病気になり亡くなることが増えた。これは正確な言い方ではない。ただ単に病に倒れただけだと言われればそれまでだ。50年前王太子の婚約者候補の公爵令嬢が病に倒れた。次の婚約者も病に倒れた。こんな不幸の続く王太子に新たな婚約者の名乗りがいないときにエスぺラン侯爵家が娘を出してきた。王太子はエスぺラン侯爵家の娘と婚約することなく隣国の姫を迎え入れた」
「聞いたことがあります。王太子は隣国の姫との結婚のために婚約者を「それ以上は言わないように」」
「その姫さえ病にかかった。その側にはエスぺラン侯爵家の娘が友人としていた。その頃からエスぺラン侯爵家なのか薬種商会テトの黒い噂が立ち上がった」
「わたしはその先を聞いても良いのですか?」
「あなたが避けても向こうからやってくるでしょう。貴女がクレバリー・クリアールの直系だからです」
「クレバリー・クリアールとは何ですか」
「クレバリー・クリアールとは知性のある者。天界から迷い込んだ魂の持ち主。天界の知識を持ったままこの世に降り立った人のことを言います」
「父はエスぺラン侯爵家の実子ではないのですか?」
「いえ、エスぺラン侯爵家の正当な跡取りとして生まれています」
リッツさんの話によると何十年か何百年に一度天界の知識を持ったままこの世に生を受ける人がいる。現世では知りえない知識で、今の世を発展させる存在だった。エスぺラン侯爵家の薬種商会を立ち上げた方もきっとクレバリー・クリアールだったと思われている。画期的な方法で一領地にの貴族の薬師が一大産業として薬草園から薬のレシピの改変まで行ったからだ。
しかし秀でた知識は悪用されればもろ刃の剣となる。商会の初代が残した薬がすべて良薬とは限らなかったと今は考えられている。良薬がすべての人に良薬とは限らない。良い人の子孫がすべて良い人と限らないのと一緒のようだ。
秘密の文字、家事が楽になる数々の魔道具に映像を記録する魔道具。不思議な透明の板、パイロンの調剤棟の隠された錬金調剤部屋の多くの薬のレシピ。それらが天界から持ち込んだ知識で作られているとリッツは言っている。
「わたしは、エスぺラン侯爵家の血族とは認められていません。失踪した跡取りの娘と証明されていませんから。それに今更エスぺラン侯爵家の一族になりたいとは思っていません」
「それは調剤長から聞いている」
「調剤長さんも関わっているのですか?」
「調剤長は失踪した跡取りと、この商会をエスぺラン侯爵家から独立させようと相談を受けて動いていたようだ」
リンが父の錬金釜を持ち込んだことで何かが動き始めたように思える。透明の板には薬であれど過剰に飲めば毒になるものも多かった。まあ、どんな薬もそれなりに副作用があったり、飲み合わせが悪いものはある。父はエスぺラン侯爵家の裏で代々伝えられていた毒薬のレシピを封印したのかもしれない。薬種商会テトの初代が並外れた薬師なら毒にも通じていたのは考えられる。
初代は悪用するつもりがなくとも役に立つ薬が脚光を浴びれば影は必ず生まれる。光あるところに影ありだ。初代の周りがそれをどう使うかは分からない。
天界の知識を持ったままこの世に降り立った人が影に気が付かなければ、知らぬ間に闇に片足入れていることに気が付かない。リンはそれなりに世間を知った。良き人も悪しき人も。良き人が悪しきに傾くこともある。貴族という守られた世界にいては、耳に心地の良い事しか伝わってこない。
エスぺラン侯爵家の闇を知った父が何かしら行動を起したのが、毒のレシピの封印だったのかもしれない。父の家族や商会を守るにはそれが精一杯だった。何も知らない弟が商会を継いでも薬師ではない。毒の継承は出来ない。父は自分の失踪でエスぺラン侯爵家の闇を止めたかった。




