異常なし
三国志よりちょっと前の中国、北方の辺境地域。
「中華」の枠組みが不明瞭になった時代の話です。
遠くの山並のさらに遠く、空の青と山の稜線が溶け合うところに、かすかに一筋の白い煙が立ち上っていた。
見渡す山並には薄い草と赤茶けた土、それと薄い雪がまだら模様を作っていた。
村ではアンズの花がほころび、小さな羽虫が飛び交っていた。
さらさらと流れる小川は春の到来を告げてはいるものの、日陰にはまだ氷が残っており、解凍と凍結を繰り返したぬかるみには、大小の足跡型の氷が残っていた。
呉は有扶史、この村に派遣された下級役人であった。
祖先は南方の出身であったと聞いているが、彼が知る限りの先祖はこの北方で代を重ねている。
ここは50戸ほどの小さな村であり、人口は子供から年寄りまで含めてもせいぜい200人と言ったところだ。
村は、遠くまで連なるやせた土地でできた起伏に張り付くように粗末な家が集まっている場所という以上のものではなく、川で獲れる魚と、雑穀の収穫で辛うじて成り立っている。
村外れから西には小灌木と楡の森があり、木の芽やキノコ、時々鹿や兎が捕れることがある。
彼も、そんな中であっては役人とは言っても、読み書きができることで重宝される、寒村の顔役というった位置づけだった。
春になったら畑を耕し、夏に粟を取り入れて、秋に木や草の実を集めて冬に備える、そんな暮らしを続けている。
彼の妻は、この村の身寄りのない女だった。
冬のうちに生まれた彼の子は待望の男子で、まだ幼い二人の姉が人形遊びのようにあやしているのを微笑んで見ては、今年の粟の作付けは遅くなるだろうか、そんなことを考えていた。
そろそろ山道の雪も解け、町に行けるようになるだろう。
村外れの劉さんの次男が新たに所帯を持ったので、新しい鋤が必要になった。ついでに頼まなければならない。
「異常なし、村内ではこの冬に三子生誕、四名死亡」
報告の木牘を筆書きでそう締めて、草で編んだ紐で束ね、村人に手渡す。それが彼の仕事だった。
木牘は、村人の手によって峻嶮な山道、渡渉を経て、干魚や粟餅とともに二日かけて町に届けられ、最終的に地方役人の手になることとなる。
「呉さん、あれは何だろうか」
村の若者が指す遠くの山の向こう、青空に溶け込むように、細く白く煙のようなものが見えていた。
「まさか、あいつらだろうか」
「いや、どうだろうか。雲のようにも見えるし、今のところは何とも言えないなあ」
畑の隅の赤茶けた土に日が当たっており、赤蛙がむくりと顔を出していた。
ある朝。冷たい雨がしとしとと降っていた。
春の雨が草原の緑を濃くし、森の奥から鹿の声が聞こえていた。
村の楡の木は少しずつ薄緑に染まり、庭のアンズの実が大きくなり始めていた。
このアンズの木は、彼がここに派遣されるとき、若木を持ってきたものだった。
5本植えたうち、この1本だけが残った。今では幹の太さは1寸を超え、実が熟すのを娘たちが楽しみにしているのだった。
彼の息子は、妻の乳を音を立てて吸っている。
「この子は元気ね。痛いくらいよ」
妻が笑った。
「異常なし。粟の作付けは例年通り」
彼は報告の木牘を束ね、村人に手渡した。
「呉さん、何か見えるよ。煙だろうか」
村の若者が指す、山並が遠くかすむ稜線に、確かに白く立ち上る白い筋が見えた。
「呉さん、あいつらじゃなければいいんだけど」
「そうだな。あいつらが来たら大変だ。準備はしておくよ」
川のよどみには、オタマジャクシが集まって黒いまだら模様を作っていた。
斜面に石組で補強された段々畑では、赤茶けた痩せた土から粟の芽が出始めていた。
娘たちは嬉しそうにアンズの実をかじっていた。
上の子が思い付き、幼い弟に少しだけなめさせてみては、
「笑ったよこの子」「酸っぱそうな顔」「もっと食べさせてって言ってるよ」
と、キャアキャアと楽しそうに笑う。
呉は、森の奥の暗がりから何かに見られているような不安を押し殺しつつ、切った鹿肉を干していた。
鹿は、劉さんの次男がくくり罠で仕留めたもので、鋤を貸したお礼にと脚を一本くれたのだった。
粟粥に入れて食べた残りは、こうして干して保存食とする。
鹿肉にまとわりつく蠅を手で払いながら、呉は考えていた。
「あいつら」、長城を渡ってくる、馬に乗った略奪者の群れ。
あいつらが通った後には、老人と子供だけが残る。
食糧は収奪され、男も女も奴隷として連れていかれるか、その場で殺される。
慈悲はない。この鹿を狩るのと同じことなのだ。彼らにとっては。
この鹿だって、神仙の類と奉じられることもあるのだ。人と何が違うだろう。
「異常なし。」
木牘をそう締め、村人に手渡す。川の水量が増えているから、町に着くには三日はかかるだろう。
その夜、遠くの山でオオカミが遠く吠えている声が聞こえていた。
「呉さん、間違いない。あれは狼煙だ。」
声をかけてきた孫さんの長男は村一番の力持ちだ。
向こうっ気も強く、長男でなければ町に出て兵隊になり、功成り名遂げて帰りたかったと常々言っていた。
初夏のくすんだ山並の右から左に、五本の煙がまっすぐ立ち上っている。
その向こうにもいく筋からの煙。
「近づいてきている。あと山ふたつほどで長城だ。あいつら、来るつもりだ」
城とは言っても、長大な長城には常に警備兵がいるわけではない。
特にここは、山深い村だ。
県尉に兵の派遣を依頼したら、その食糧は供出しなければならない。
そうでなければ、村を放棄して避難しなければならない。いつ来るのかわからない「あいつら」が立ち去るまで。
呉は、つまりその見張り役として派遣されていたのだった。
「どうだろうか。狩人が巻き狩りの合図をしているだけかも知れない。ともあれ注意しておくことにするよ」
夕刻、彼の妻は嬰児が初めて寝返りを打ったと嬉しそうに話している。
娘たちは早々に眠っている。
彼は悩みながら、夕焼けの光が残る最後に、震える筆で「異常なし」と書いて木牘を束ねた。
その夜、彼はなかなか寝付けなかった。森は、どこまでも不気味に静かだった。
高く伸びた粟の葉が、満月の光に照らされてさらさらと揺れていた。
後漢時代、繰り返される匈奴の侵入の中で、現場猫になった役人がいたんだろうなあと想像して書いたものです。