第七節「革靴とローファーの違いってなんですか?」
格技場のドアを開けると、まずは靴を脱ぐための玄関のような場所がある。格技場内は土足厳禁だ。玄関にはドアが合計四つあり、目の前の両開きの大きな扉が格技場へとつながる扉である。左右の扉はそれぞれ男女の更衣室になっており、もうひとつは今通ってきた外へとつながる扉だ。
「あれ?おかしいな」
玄関には靴が二足ある。革靴と真新しい体育館履き。革靴は恐らく、顧問のものだろう。しかし、もう一つのほうは誰のものだろうか。
そこで俺は格技場の中から何かを打ち付けるような音がしていることに気づいた。
それはおかしい。部員たちはまだ外にいるはずだし、先生がわざわざ練習をしているとは思えない。
その誰かが格技場に入ってきた俺たちに気づく。そして、打ち込みやめ、頭にかぶった面を外した。面の下にあった素顔を見て、俺は驚く。
稽古に励んでいたのは、は引退したはずの三年生門谷周治であった。
「なんで先輩がいるんですか?」
俺は門谷先輩に問いかけた。
「夏目じゃないか。なんでって、こっちのセリフだよ。久しぶり」
妙に優しい門谷先輩の声。事故にあう前からずっと変わらない。だいぶ頼りない印象があり、剣道もそこまで実力があるとは言えないが、いつも落ち着いている部分は俺も一目を置いている。
「えっと……本当は西城先生に用があったんですけど、ちょうどいいんで、門谷先輩にも聞いていいですか。俺の事故のこと」
最後の言葉を聞いて、門谷先輩の顔が少し曇る。
「そうか、悔しかったよな、夏目。あの事故のせいでお前は……」
「はい……どうしても納得できなくて、今、事故のことをもう一回調べてるんです。協力してください」
門谷先輩は俺の言葉に一言「わかった」と返して頷いた。
「ところでさ、ずっと気になってるんだけど、あの子は誰?」
門谷先輩はいつのまにか打ち込み台を観察していた蛍を指さした。別に面白いものもないだろうに、蛍は打ち込み台を上から下までじっくりと見ている。
その姿は不審者と呼ぶのがふさわしい。
「気にしないで結構です」
俺は門谷先輩にそう言った。
〇
「あの日は、今日みたいにずっと打ち込み稽古をしていたかな。事故が起きた時も。俺は地区大会で敗退して、もう部活は引退したけど、俺は剣道が好きだから大学でも続けようと思ってね。ここでは頼りなくて、君達2年生には迷惑かけっぱなしだったけど、大学でこそしっかりしよう!ってね」
門谷先輩はとてもやさしく、静かな人だ。しかし、それは転じて「部長にしては頼りない」とも言われる要因となっていた。
元々、桜嘉高校剣道部はそこまで強い部活というわけではなかった。三年生部員は門谷先輩一人。しかし、俺と英人の実績が広告塔となり、一年生はかなりの人数が入ってきてくれた。そのせいか一年生の尊敬はもっぱら二年生の俺たちへと向いていたが、門谷先輩はそんな状況でも練習を怠ることはなかった。
そんな門谷先輩のストイックな部分を俺は尊敬しているし、こうして引退したあとも練習をしていることをうれしくも思う。
「さすがですね先輩」
「うん。まだまだ頑張るよ」
門谷先輩はやわらかな笑顔で意気込んだ。
「ちなみに、ここで稽古をしていたことを証明してくれるひとっていますか?」
さっきまで打ち込み台を観察していた蛍が門谷先輩の後ろからひょいっと現れた。
「多分、いないかなぁ……ひとりで稽古していたから誰も一緒にいなかったし」
突然出てきた蛍に驚いた俺たちだったが、しばらく間をおいて門谷先輩は質問に答えた。あのときは全国大会前ということもあって、練習は早めに切り上げられた。二年生は早々に帰宅し、一年生は次の日の準備。この格技場には門谷先輩以外に部員は誰もいなかったのだ。
「アリバイなら私が証明しよう」
証明できる人間がいないとわかり、少し微妙な空気が流れた瞬間、格技場に低い男の声が響いた。
声がした方向に振り向くと、そこにいたのは西城明彦先生。この剣道部の顧問であり、同時に桜嘉高校の教頭だ。格技場内に設置されている特別教官室から出てきたようだった。そういえば、玄関に革靴があったか。
西城先生が俺たちに近づいてくる。そして、すぐ近くに到着したかと思うと、俺と蛍を交互に睨みつけた。
「門谷が打ち込みをしている間、私は教官室にこもって作業をしていた。教官室の扉には小窓がついている。そこから門谷が練習している姿が見えていた。お前の事故が起こるだいたい十分前ぐらいまでな。そこから屋上まではかなり遠い。お前の事故が起こる時間までに屋上に行くのは不可能だ」
西城先生は門谷先輩のアリバイを淡々と説明した。
教官室の扉には先生の言う通り格技場内を見れる小窓がついており、そこからは打ち込み台が見える。もし誰かが練習をしていれば、そこから後ろ姿を確認することは容易だ。門谷先輩のアリバイとしては十分である。
西城先生はいつも、虎視眈々とした口ぶりで物事を話す。冷静なのはいいんだが、冷静すぎる。部活を強くするために冷静でいるというのはいいと思うが、俺はそんな西城先生が苦手だった。
「じゃあ、先生のアリバイはどうですか?」
西城先生の話を聞いている間、蛍は俺の隣でじっとその話を聞いていたが、先生の話に区切りがついたと見るやいなや、西城先生に探りを入れ始めた。
「どういうことだ?」
西城先生の顔がさらに険しくなる。
「先生のアリバイは厳密には照明できてないって話ですよ。教官室にこもっていた。あなたはこの格技場に出てきてはいない。それはつまり、あなたのアリバイを証明できる人がいないってことですよね」
蛍は西城先生に問いかける。西城先生は表情ひとつ崩さない。むしろ動揺していたのは門谷先輩のほうで、先生のアリバイを証明できないということに申し訳ないと思っているようだった。
西城先生は蛍を見て不愉快そうに眉をひそめた。
「なぜ俺が夏目にケガをさせる必要がある。この部の実績は俺の実績にもつながるんだぞ?」
それはごもっともな見解だ。俺が全国にいって好成績を収めれば、それは指導者である西城先生の功績にもなりうる。西城先生に俺を襲う動機はない。
「動機ならあるんじゃないですかね。あなたの過去に」
過去という言葉に西城先生がピクリと反応する。その様子を見て、蛍は少し微笑みながら話を続けた。
「西城先生。あなたも学生時代に剣道部だったそうですね。しかも、かなり腕前の良い部員だった。全国を見据えるほどの。だがある日、自転車で帰宅していたときに交通事故で大きなケガをし、剣道ができなくなった。どうでしょう、どこかで似たような話を聞いたことがあるような気がするんですけど」
蛍の口から、西城先生の過去が語られる。二年間この部で活動をしてきたが、この話を聞いたのは初めてだ。
俺に起きたようなことと同じような過去を持った西城先生。きっと蛍は西城先生が一番の容疑者だと思っていたのだろうか。
過去を赤裸々に暴露された西城先生は、その気持ちを落ち着けるように大きく息を吐いて、蛍のほうに向きなおった。
「さすがだな。神野蛍。噂になっているだけのことはある」
西城先生は蛍のことを知っているようだった。一呼吸おいて西城先生が続ける。
「入学前に高卒認定試験に合格しておきながらわざわざ桜嘉高校に入学し、冬休み前の数日しか休まずに通学を続けている高校生。気が向いたときだけ授業に顔を出し、それ以外のときは図書準備室にこもっている。お前の行いは、黙認されているだけで許されてはいない。もし、お前が問題行動を起こせば、教頭である俺の権限できちんと処罰してやるからな」
西城先生の「処罰」という言葉はあまりにも強烈だった。しかし、俺の隣にいるこの奇人は我関せずといった感じでニコッと微笑んでいる。
笑顔の蛍と苦い顔の西城先生。
重苦しい空気が俺たちの間に流れたとき、タイミングが良いのか悪いのか、外練習から帰ってきた剣道部の面々が格技場へと入ってきた。
その中からひとり、マネージャーの女の子が俺たちに気づいて「あっ」と小さく声を上げた。そして、俺たちのほうに走ってきたかと思うと、ぶつかる寸前のところで停止する。
「剣志!調査はどうだった?」
その女の子は昨日一緒に蛍のもとを訪れた神崎美香だった。
「ナイスタイミング」
「え、どういうこと」
俺たちは他愛のない会話を少ししたあと、格技場を出た。
もう少し話を聞いていきたいところだったが、これ以上有益な情報を得られる人はいなさそうだったし、なにより、西城先生から「練習の邪魔だ。早く出てけ」と言われてしまったために出ていくしかなかったのだ。