第二節「図書室の奇人は静かに暮らしたい」
英人の助言を受け、午前中の授業を終えた昼休み。俺は美香と一緒に図書準備室を探していた。
「昨日はあんま乗り気じゃなかったのに、よく調べてもらう気になったね」
「まぁな。いい区切りになると思ったんだ。強盗事件解決したほどのやつに調べてもらって事故だと言われれば、多分俺も踏ん切りがつくと思って」
口ではそう言ったものの、心の中ではほぼ諦めていた。俺の身に起きたことはただ事故で、それ以上でも以下でもないのだ。誰かに事故だと断定されればきっと俺も納得できる。
「あ、あそこじゃない図書室」
特別教室棟の五階にあがった瞬間、廊下の突きあたりを指さして美香が言った。両開きの大きな扉その上には"図書室"とかかれた横向き表札がある。俺と美香は若干緊張した面持ちで図書室に近づいていった。
「図書室ってこんなところにあったんだな。入学したての学校紹介のとき以外用がなかったから全然知らなかった」
「今どき図書室を頻繁に利用する人なんていないもんね。携帯で見れるしさ。で、図書準備室は図書室の隣っと」
向かって左の壁を見ると図書準備室の扉がある。表札などはなく、扉も妙に古びている。こんなところに入り浸って何がしたいのか。
俺は覚悟をきめてドアノブに手をかける。
その扉を開けた瞬間。目の前にいたのは左頬に絆創膏を付けた赤髪の青年だった。
〇
「普通、人の部屋に入るときはノックするのが常識だと思うんだけどなぁ……あぁ、ここ別に俺の部屋じゃないんだっけ」
人のイメージは第一印象で九割決まるらしいが、その点でいえばこの男の印象はまさしく"奇怪"という文字がふさわしい。というよりも、この場所、この空間のものが全てが奇怪だった。
なんというか"図書準備室"というイメージからかけ離れているのである。背の低いテーブルの向かいに置かれたベンチとソファ。壁沿いには本と何かしらのファイルが詰め込まれた大きな本棚。カップとソーサーの入ったラック。冷蔵庫。ポット。テレビ。ロッカー。そして何より目立っていたのは窓のそばに置かれた校長先生が使うような豪華な机と椅子。図書準備室というより、まさしくここは彼の部屋だった。
しかし、その風景よりも異質に見えるものがいた。
「とりあえず、自己紹介だけはしとこうか。俺の名前は神野蛍。ところで、間違ってここに入ったというなら今すぐここから出て行ってくれないかな?用があるならいつまでもそこにぼーっと突っ立っていないで入りなよ」
赤みがかった頭髪は適度なボサボサ加減であり、白シャツの上に黒のジャケットを羽織っている。窓枠に腰掛け、手には本。足を机に投げ出したその風貌はまさに「奇人」というオーラを放っている。それが"神野蛍"という人間との出会いであった。ところで、なぜこの男は無駄に豪華な椅子も使わず窓枠に座っているのだろうか。
「窓に座ってたほうが風に当たって心地良いんだよね」
心を読まれていた。
彼は俺たちの目の前にあるソファを指さしながら「そこに座っていいよ」と言った。俺達は言われるがままソファに座る。学校の備品にしてはめずらしく、とてもふわふわとして心地よいソファだ。テーブルの上には茶菓子も置かれており、すこし特別なお客にでもなった気分だ。
「ところで、君たちはいったい誰かな?まだ名前を聞いてないけど。あ、紅茶で良い?」
蛍は紅茶を入れながら俺たちに問いかける。
「えっと、俺は夏目剣志」
「私は神崎美香」
自己紹介を済ませると、彼は俺たちの前に紅茶の入ったカップを二つ並べ、俺たちの反対側のベンチに腰を掛けた。
「ふ~ん。それで、君たち何をしに来たわけ?」
いざ何をしにと聞かれるとなぜか言葉が詰まる。
「私達、奇人の噂を聞いて依頼しに来たんです。剣志の事故のこと調べてもらいたくて……」
俺が言い渋っているのを見かねて、美香が先に口を開いた。
「奇人の噂ってのはこの前の琴吹宝石店の話か。てか、その『奇人』ってやつやめてくれないかな?別に嫌いなわけじゃないんだけど、なんとなく変人呼ばわりされてるみたいでいやなんだよね。神野か蛍でいいから」
図書準備室をこんな居心地の良い場所に改造している時点でなかなかの変人な気がするが、そこは心の中にしまっておく。
「ところで、『剣志の事故』ってのは、ロープの劣化で懸垂幕が落ちた時のアレかな?」
「よく知ってますね」
「そりゃまぁ、だいぶ話題になってたからね」
蛍はポケットから棒付きキャンディを取り出し、慣れた手つきで包み紙を外してくわえ、続けざまに俺に問いかけた。
「それで?何故君はそんなに事故のことを調べてほしいのかな?」
蛍の問いかけに関する答えは決まっている。
「納得できないからだ。剣道は俺にとってのすべてだった。なのに、こんなことで全部なくなって、それがこんな形で片付けられるなんて……事故だったんなら事故で良い。でもちゃんと事故だったという証拠が欲しい。そうすれば、ちゃんとけじめがつけられる」
美香は俺の話を聞きながら「剣志……」と小さくつぶやいていた。これが俺の本当の気持ちだ。そのけじめをつけたくてここに来た。
「なるほどね。俺のところに来たのはまぁ正解かな。先生やらに頼ってもなにも解決しなさそうだし、他の生徒に相談してなにかなるわけでもない。だったら少しでもなんとかなりそうな"噂"のある俺に相談したほうが良い。ちょうど俺もひまだったしね」
「じゃ、じゃあ――」
「だが断る」
いや、今完全に引き受ける流れだったじゃん。
「あ、ごめん。今のネタ伝わんなかった?ジ〇ジョ知らないか。時代かな」
違うそうじゃない。たしかに、驚いた顔はしていたと思うがそこじゃない。
「そうじゃなくて、引き受けてはくれないのか?」
「そうだね」
蛍の態度に苛立ちを覚えた美香がしびれを切らして「ちょっと!」と言いながら立ち上がった。
「こっちはね、真面目に考えてここに来てるの!そっちも、もうちょっとちゃんと話を聞いてくれてもいいんじゃないの!?」
「ふざけてはいない。大真面目だ。第一に、俺は確かに宝石店強盗の真相を突き止めたが、あれは気まぐれに解決しただけで俺は探偵じゃない。よって依頼なんてものをされる覚えはない。第二に、俺は年中ひまにしているけど単なる事故を調べるなんて無駄なことをしたくはない。そんなこと調べるなら寝るか読書してるよ。第三に……あっ、ごめん三つ目は考えてなかった」
意味が分からなかった。俺は自分の想いを整理してやっとここに来たというのに、この男はそんな俺の想いを何とも思っていない。
「要するに"めんどくさい"ってやつだよ。俺はただ日々を面白く過ごしたいだけ。ここでゆるーく読書にふけっていたいだけだ。しっかし、よくもまぁ『真面目に考えて』こんなところに来たものだね。普通、噂だけの男に依頼しに来るかい?俺だったら絶対にしないねだってそいつ絶対変人だもん」
さっきまで変人呼ばわりされたくないと言っていたのは誰だ。蛍のふざけた態度に俺も少し憤りをおぼえた。しかし、蛍に言い返すことなどできない。過ぎたことをうじうじと引きずり、「噂だけの男」にすがりに来たのはまごうことなき俺なのだから。
「美香、帰ろう」
「えっ、でも!」
「もういいんだ」
俺は美香の手を取り、図書準備室から出るため扉に向かった。ドアノブに手をかけたとき、蛍が俺たちを呼び止めた。
「なに?」
「いやぁ、別に大したことじゃないんだけどね。君は、自分の事故について真面目に話を聞いてくれるやつなんてもういないのではないかと思っていた。半ばあきらめかけていたんじゃないか?。でもそれでも一縷の望みをかけて俺に会いに来た。その理由は"納得できない"という理由だけなのかな?」
なにを言っているのか。納得したかった。けじめをつけたかった。それが理由だ。それ以外に何があるというのか。
……いや、正確に言えば、他に理由がある。もっと根本的な部分だ。納得して、けじめをつけて、俺はいったい何がしたいのか。何が望みなのか。
「恥ずかしいんだけどさ、俺、今笑えないんだ」
棒付きキャンディの持ち手をいじりながら、蛍は小さく「へぇ」とつぶやいた。
「事故が起きてから、俺は一回も笑えていない。もともとそんなに笑うほうではなかったと思う。でも……ちゃんと心で笑っていた。笑えていたはずなんだ」
剣道という依りどころがなくなってから、まるで自分の中にぽっかりと穴が開いたかのように黒い部分ができている。きっとその部分に俺の大事なもんが全て詰まっていたんだと思う。笑うことという単純なことさえなくなってしまったのだ。
美香は俺の本当の願いにただ唖然としていた。当然だと思う。こんなこと、恥ずかしすぎて言ったことはない。
蛍は俺の願いを聞いて、小さく微笑んでいた。
「うん。それで良いよ。『納得したい』なんて理由よりずっと良いよ」
蛍はベンチから立ち上がり、俺たちの目の前へと歩み寄る。そして、俺の目をまっすぐ見据えて彼は口を開く。
「夏目君。君なりによーく考えて、理由を考え、『納得したい』『けじめをつけたい』というもっともらしい結論を生み出したんだろうけど、そんなものただの張りぼてだ。人を動かす本当の理由ってのは、もっと端的な感情から生まれることが多い。君の言った『笑いたい』とかね。大抵の人はそれに気づかないし、気づこうともしない」
彼は俺達に向かって手招きをすると、またベンチに戻って俺たちに出したはずの紅茶を一気に飲み干した。
「人は自分の理由をちゃんとしたものにしすぎなんだ。正直な気持ちを捻じ曲げ、変質させ、形を変える。その結果、うわべだけのどうでもいいものを生み出す。だがその点、君はちゃんと理解しているんだね。まだ引き受けると決めたわけではないが、まずは、君に降りかかった災難を一から十まで聞かせてくれないかな」
俺は彼を信用したわけではない。しかし、今の俺には彼に頼ることしか方法がない。
それに、そこまで偉そうなわけでもなく、言葉の端々はゆるゆるであるにもかかわらず、彼の言葉には言いしれない説得力があった。
「それ、俺の紅茶じゃなかったの?」
「ごめん。喉が渇いちゃって」
俺と美香はもう一度ソファへと戻り、不本意ながらも、事故のことを話すことにした。