第一節「少年は夢にやぶれて迷いを抱く」
「……剣志……ケンジ!……ねぇ!聞いてる!?」
美香の声が聞こえた気がした。どうやらいつにも増してぼーっとしていたようだ。最近、そんな時間が増えている。というより、今はそんな時間しかない。
「あぁ、いたのか。ごめん、考え事してた」
「考え事してたって、最近考え事しかしてないじゃん!!そろそろ立ち直ってさぁ、新しいことに目を向けようよ!!」
俺に対して声をかけてきた女の子は神崎美香。俺の幼馴染だ。励ましてくれているのか、あの事故の日からずっとこんな言葉を投げかけてくる。
「新しいことって何?」
「例えば……恋とか?そうだ!ちょっと早いけどさ、今度一緒に海でも行かない?新しい出会いとかあるかもよ?」
「俺はパス」
「『俺は』って剣志しかいないでしょ」
こんな会話を始めてから2週間になるだろうか。正直今はこんな会話もダルい。俺はため息をついた。
「あと少しで全国大会に行けたんだ。あの日さえ何事もなく終わっていれば、次の日には俺の夢が一つ叶ったってのに何でこんなことになったんだ」
幼いころから剣道を習い、部活も剣道部に入った。少し恥ずかしい言い方だが、俺は人生を剣と共に生きてきたと言っても過言ではないと思っている。
そんな俺の人生はたった一日で破綻した。
「大げさでしょ、たかが剣道の大会じゃない」
「たかがってなぁ、一応お前も剣道部のマネージャーだろ」
「だって私は――もういい。授業始まるから放課後にまた話そう?」
少し怒りながら美香は自分のクラスに帰っていった。
〇
二週間前、剣道の全国大会の前日に俺は事故でケガをした。いつも通り、学校の昇降口前で美香を待っていた俺の上に部活動の実績を称える懸垂幕が落ちてきたのだ。それも、自分の全国大会出場を称える懸垂幕が。
劣化したロープを使って固定していたがためにそれが突然切れて俺の上に落ちてきた。事故だったのだ。誰が悪いわけでもない。強いて言うならば、劣化したロープに気づかなかった学校側が悪いと言えるのかもしれないが、そんなことを突き詰めたところでむなしいだけだ。
しかし、それで納得したというわけでもない。
本当にロープが劣化していたんだとして、懸垂幕の下に俺がいた時に、タイミングよくロープが切れるだろうか。
どうしても腑に落ちない部分があったが、俺ひとり騒いだところでどうしようもない。そんな"仕方ない"という状況が余計にモヤモヤする要因となっていた。
「おい夏目、聞いているのかッ!」
数学の先生の怒号を受ける回数がこの2週間で10回を超えた。
〇
「まーた数学のユカワに怒られたって?きっちゃんに聞いたよ~」
日が沈みかけてきた夕暮れの帰路。美香からのイヤミをいつも通り適当に受け流す。
「しょうがないだろ。全然勉強に身が入らないんだ」
勉強どころじゃない。最近は他人の話さえ聞く気が持てないのだ。
「……まだあれは事故じゃないって思ってるの?」
俺の心を見透かしたように美香が俺に問いかけてくる。
「分からない。でも、俺がこれまで大切にしてきたものを『分からない』で終わらせたくないんだ」
俺の言葉に美香は何も言えないようだった。
「図書室の奇人って知ってる?」
しばらく二人が押し黙っていたあと、美香が小さな声で俺に問いかけた。
「なんだよそれ。図書室の……なんだって?」
当然だが、そんな変な名前の人間は知らない。
俺の少し前を歩き始めた美香に、俺はそのへんてこな名前について聞き返した。
「き・じ・ん。ちょっと前にさ近くの宝石店で強盗事件あったじゃない?」
「あー確かどっかの高校生が解決したってやつ?」
「そうそう。実はね、その高校生ウチの高校にいるらしいの」
「琴吹宝石店強盗事件」閉店まじかの深夜に強盗が押し入り、高価なネックレスや指輪を根こそぎ強奪していった事件。被害にあった時間に店にいた店員の証言と監視カメラの映像により難なく強盗は捕まり、それで事件解決かと思われたが、やじうまの中にいた高校生が、事件は店員と強盗との共謀だったと突き止めた。桜嘉高校の近くで起きた事件であり、なおかつ高校生が解決したという突飛な噂は高校中に広まっていった。俺自身なんとなくその噂は耳にしていたが、真偽のほどは定かではなかった。
「んで?その高校生が図書室の奇人だって?宝石店の話なんて、くだらない噂だと思ってたけど」
「私もね、ただの噂だと思ってたの。でも図書室に……実際には図書準備室らしいんだけど。そこに生徒が一人、入り浸ってるってのはホントみたい」
前を歩いていた美香が歩みを止める。美香に合わせて俺もその場に立ち止まり美香の話に耳を傾けていた。
「もし……もしね、その噂が本当だったらさ」
「本当だったら?」
美香が俺のほうに振り向いた。
「その奇人に剣志の事故のこと調べてもらうってのはどうかな」
俺の物語はこの一言から始まる。一見、ばかげた提案だ。いや、一見どころか落ち着いてもう一度考えてみてもバカげてるとしか思えない。ただ、このあまりにもバカげている提案がなければ、俺は彼に会うこともなかったし、彼に会わなければ、俺は永遠にこの出来事を悔い、悶々とした日々を過ごすことになっていただろう。
しかし、この時の俺には、不安と疑念しかなかった。そんな噂だけのあったこともない人間に何ができるのか。だからといって先生や友人に頼るわけにもいかない。煮え切らない心境のまま、俺は美香に適当な返事をすることしかできなかった。
○
「図書室の奇人?あ~確かそんな噂してる女子いたっけなぁ」
美香から奇人の話を聞いた翌日、俺は朝練をしている剣道部に顔を出していた。剣道部二年生代表であり、友人でもある浪江英人に助言をもらいにくるためだ。剣道部はいつも体育館の隣にある格技場で練習をしている。俺も二週間前までは毎日欠かさず練習していた場所だ。今日も部員たちが打ち込み台に向かって素振りをしている。
「それでさぁ、どう思う?」
英人は腕組みをしながら少し間をおいてこう言った。
「胡散臭いな」
まったくその通りだ。
「美香が、その奇人にあの事故のこと調べてもらったらどうかって言うんだけど」
「まーだアレは誰かがやった思ってんのか。お前も頑固だな」
英人は愛用のメガネを拭きながら呆れながら言い放った。その様子に俺は少しムカッとしたが言い返すこともできない。
「それより剣志、ケガが治ったらどうするんだ?まったく剣道ができないってわけじゃないんだろ?」
俺の上に落ちてきた懸垂幕は、運よく足に当たり骨折と四針縫うほどの傷で事なきを得た。実際には幕そのものではなく、幕の端についている吊り下げ用のポールがケガの原因となったのだ。診断全治一か月。頭に当たっていたら命の危険もあったという。
足が治れば基本的な運動はできるようになると言われたが、ケガを負う前のように完全に戻れるかというとそうではなかった。どうやっても反応速度が鈍るらしい。そんな状態でもう一度剣道をやりたいかと聞かれると、はいとは言えない複雑な気持ちが俺の中に芽生えていた。
「多分……やらないと思う」
俺は消え入りそうな声でつぶやく。そんな俺の様子を見て、英人は何も言わずにうつむいていた。
しばらくして、沈黙に耐え切れなくなったのか英人が口を開いた。
「じゃあ、俺は練習に戻るわ。お前がどうするのかはお前が決めればいいと思うけど、後悔するようなことはするなよ」
「ああ、そうするよ」
英人に迷惑をかけるわけにもいかない。それに、この場所はいるだけで辛くなってくる。少し前までは自分にとって一番の場所であったはずなのに。松葉杖をつきながら出口へと向かった。
帰り際に英人が「あっ、そうだ」と思い出したように俺を呼び止めた。
「奇人がどうだって話だけど、俺は調べてもらったほうがいいと思うぜ。結果がどうだったにしろ、お前が前に進むきっかけを得られるなら」
「そうか、ありがとう。考えてみるよ」
英人にお礼を言った後、格技場をあとにする。
「前に進むきっかけ……」
そんなもの、今更見つかるだろうか。見つかったとして、進んだあとになにがあるというのか。俺はどことなく諦めを抱きながら自分の教室へと向かった。