第十一節「感情の糸が絡み合って」
俺たちは塔屋を降り、屋上のドアのカギを開けた。
あらかじめ連絡をしておいた剣道部員たちと西城先生が屋上へと流れ込んでくる。ナイフを持った門谷先輩に対して、みな一様に驚いていたが、その中でも西城先生が一番驚いている。
「門谷……やっぱり……」
「……やっぱり?どういうことですか!?」
西城先生のつぶやきを俺は聞き逃さなかった。俺は西城先生に詰め寄ろうとしたが、蛍に腹を掴まれて動きを止めた。
「まあまあ夏目君。西城先生がうすうす感づいてることは、俺にも、うすうすわかってたからさ」
流れるように蛍に衝撃発言をされてしまう。
「え?まじで?なんでそれ言わねえんだよ!?」
「だって聞かれなかったもの。それに、俺がそのことに気がついたのは門谷先輩が犯人だとわかってからだよ」
蛍の言葉を聞いて、俺は少しずつ落ち着きを取り戻した。服のよれを直して、俺は蛍のほうへ向き直る。
「でも、門谷先輩はどうやって?それにどうして?」
俺は蛍に問いかけた。門谷先輩がどうやって屋上へと来たのか。門谷先輩にはアリバイがあったはずなのに、いったいどうやって懸垂幕を落としたのか。なにより、なぜ俺を狙ったのか。
蛍は口を一文字にして「うーん」と唸る。そして、門谷先輩のほうを向くと口角を少し上げた。しかし、その目はどこか寂しそうだった。
「それはきっと、彼から自分の言葉で話してもらったほうが良いだろうね。まずは当時の門谷先輩の行動。といっても、なんてことはない。彼はずっとここにいたんだ。最初っから。この屋上にね」
蛍はそう言って、さっきまで自分たちがいた塔屋を指さした。
「あの塔屋の上で腹ばいになっていれば、この屋上からは全く見えなくなる。現に、門谷先輩は、さっき屋上に来てからまったく俺たちに気づかなかった。当時、鳥越さんが作業をしている間、門谷先輩はじっとあの場所に隠れて懸垂幕を落とすことができる機会を待っていた。つまり、屋上にどうやって入ってくるかを考えるのは最初っから無駄だったってわけさ。この屋上に隠れてさえいれば、いつだって実行することができたわけだからね」
そこにいるみんなが一斉に塔屋の方を見る。塔屋に隠れていれば、そこよりも低い位置にいる俺たちには何も見えなくなる。さらに塔屋には給水塔があり、塔屋に目を向ければ給水塔のほうが先に目に入ってその下に人がいるなんて考えもしないはずだ。
「でも、門谷先輩にはアリバイがあったはずだろ?ここに長いこと隠れているのは門谷先輩には不可能だ。それとも、西城先生が嘘をついていたのか?」
門谷先輩のアリバイは西城先生が証言していた。西城先生が嘘をついていない限り、門谷先輩が格技場内で稽古をしていたというアリバイは崩れない。
俺は蛍にどうやってそのアリバイを作ったのかを問いかけた。
「西城先生が嘘をついている可能性は否定できない。でも、きっと、西城先生はなにも見ていないのに見たというほどのホラ吹きではない。ちゃんと西城先生は格技場内で稽古をする誰かを目撃しているんだと思うよ。では、ここで質問だ、夏目君。俺たちが格技場に赴いたとき、門谷先輩はいったいどんな格好で稽古をしていたかな?」
蛍が俺に門谷先輩と会った時のことを質問する。俺は頭の中を巡らせて、あのときのことを思い出した。俺たちが格技場に訪れたとき、打ち込み台に竹刀を打ち込む音がしていた。そして格技場内を見渡してみると、そこには防具と面をつけた門谷先輩がいて……
俺はそこで「あっ」と気づく。その様子を見た蛍が得意げに俺の顔を見た。
「そう。門谷先輩は防具と面をつけて稽古をしていた。よく考えたらおかしな話だよね。稽古をするだけだったら道着だけでもいいはずだ。なのに彼はわざわざ防具と面をつけて稽古をしていた。それは、事件当時に稽古をしていたのが自分じゃなかったことに感づかれないため。防具と面をつけて稽古するのが自然なんだと周りにアピールするために、わざわざ今の今までその格好で稽古をしていたんだ」
剣道に使われる面は正面から見ればスケスケで顔が見えるが、後ろからは全く姿はうかがえない。教官室から見ていた西城先生には稽古をしている人間の後ろ姿は確認できても、それが一体誰なのかまでは確認できなかったはずである。
「つまり、西城先生が見たやつは門谷先輩じゃない誰かだったってこと?」
「あぁ多分ね。門谷先輩には協力者がいた。その協力者が誰かということに確信はないが、恐らく門谷先輩の知り合いではあるだろうね。そうして自分のアリバイを作ったうえでこの屋上に潜み、鳥越さんが屋上からいなくなったタイミングで懸垂幕のロープを切ったってわけだ」
蛍による推理が披露されたあと、屋上は少しの間、静まりかえった。
当然だ。剣道部員であった俺が、同じく剣道部員であった門谷先輩によって大ケガを負わされた。その事実が今、目の前に叩きつけられたのだ。誰も、なにも言えるわけがない。
そうした静寂の中、今まで押し黙って聞いていた門谷先輩が顔を上げる。
「証拠は……証拠はあるのか!?君の推理は全部、憶測だ!今日ここに来て懸垂幕を落とそうとしたのだって、君が『自然に落ちることはない』って言ったからやったんだ!これ以上、夏目に辛い思いをさせたくないから、これで落ちればもう終わるって!」
門谷先輩は蛍に向かって叫んでいる。その声はとても悲痛なものだった。
「その通り。俺はその部分を気づかせたくてあのような探偵じみた大立ち回りを演じました。でも、あなたは夏目君のために終わらせたかったんじゃない。自分のために終わらせたかったんですよね。これ以上、自分を追い詰めたくなくて。これ以上、心からの笑顔じゃない嘘の笑顔をしたくなくて」
蛍の声は門谷先輩の声色とは対照的にとても冷静だった。
「それに、証拠はちゃんとあります。もう少し待てば、きっと持ってきてくれる」
蛍がそう言った瞬間、屋上内にひとりの老人が入ってきた。それは、昨日話を聞いた用務員の鳥越五郎だった。
「おう、神野くん。タイミングが悪かったかな」
鳥越さんは、なにかが入った黒いビニール袋を手に持っていた。
「いいえ、ベストタイミングです。ありがとうございます」
そう言って蛍は鳥越さんからビニール袋を受け取った。そして、その中に入っているものを取り出す。中から出てきたのは、青と黒に染まっている体育館履き。
その上履きを見た瞬間、門谷先輩は「それは……」とつぶやきながら目の色を変えた。
「見覚え、ありますよね。この体育館履き。鳥越さんは、この体育館履きをみて、この持ち主はいじめられてると思ったそうです。そして、いつかその子が誰かわかったときに証拠として使うためにこれをとっておいたそうだ。といっても、用務員室から探すのにちょっと苦労したようですが」
蛍は鳥越さんのほうをちらっと見た。鳥越さんは頭に手を当てて少し照れている。
蛍は門谷先輩のほうに向きなおって、体育館履きの黒く汚れている部分を指さした。
「この黒い部分。一見ただの汚れにも見えますが、これは剣道部員にはおなじみの西城先生直筆の筆文字。"桜剣"の草書だ。そして、この青い部分は青いペンキが染みついてしまったもの。ここのフェンスは約二百二十メートルある。そのフェンスにかけられているロープを切るためには、なにかを踏み台にしなければいけない。きっとこのペンキはそのときついたものです」
蛍がそう言ったあと、俺は周りを見渡す。踏み台になりそうなものは注意深く探さなくてもすぐに見つかった。
「ベンチか」
俺は言った。蛍はただ頷いた。
「この季節だと、水性ペンキは最低でも二時間あれば乾く。もしかしたらそれより短いかもしれない。懸垂幕がかかっていた下のベンチ。そこには上履きで踏んずけたような足跡がくっきりついている。つまり、この体育館履きを履いていた人はペンキが乾ききる前、つまり犯行時間にベンチを踏み台にしてしまったんだね。そして、体育館履きが汚れていることにあとで気づき、急いで学校のごみ箱へ捨てたけど、その証拠は燃やされることなく、こうやって残ってしまった」
事故から二週間たっている。その間、体育館履きなしに学校生活を送ってきたとは考えにくい。つまり、その人間は桜嘉高校剣道部で、なおかつ最近新しい体育館履きに交換した人。
その答えはこの剣道部の全員がわかっていた。
格技場を訪れたとき、西城先輩の革靴のほかにひとつ、真新しい体育館履きがあった。そのとき、格技場内にいた人は誰だったか。
俺たちは門谷先輩を見ていた。
門谷先輩は泣いていた。手をギュッと握りしめ、やがて拳から力が抜けると、徐々に上から下に体を崩す。膝をつき、両手をつき、ただただ屋上の床だけを見つめる。ただ彼の嗚咽だけが響くなか、西城先生が彼に近づき、その両肩を抱いていた。
「すまない。門谷。あのとき、稽古に励むやつの打ち込みがいつもより弱いことには気が付いていた。三年間、お前のことを私はずっと見てきていたからな」
西城先生により語られる言葉が門谷先輩の胸に響いていることは、門谷先輩の声から見て取れた。やがて彼は、重く閉ざされていた口を開き始める。
「ごめん……なさい。おれ……勝ちたかったんですっ。こんどこそ……勝ちたかったんです。実績でも、能力でも勝てなくてっ……一年生はいつも俺じゃなくて夏目や英人のことばかり……だからっ今度こそ勝ってやろうって思ってっ。さぼりたいからってクラスメイトに頼んでっ。俺の身代わりをしてもらったんですっ……ごめんっほんとにごめん夏目っほんとにごめん……」
門谷先輩の口から語られた言葉のどれもが俺の胸に突き刺さってくる。俺は今まで門谷先輩のこんな姿を見たことがなかった。どれだけ試合に負けても、穏やかな笑顔でそれを受け入れていた先輩がこんなことを思い、抱えていたなんて。
自分のことしか考えていなかった俺には、なにもわからなかった。
そのとき、蛍が門谷先輩に近づいていった。そして、門谷先輩の前でしゃがむと、持っていた体育館履きを目の前に置いた。
「この体育館履きがなければ、あなたの証拠は何もありませんでした。あなたは事故を起こすということを決して軽はずみに選んだわけじゃない。きっと夏目君のことを思い、本当に実行すべきかと悩んだことでしょう。それでも、あなたは実行しなければ自分の中にあるなにかを抑えきれなかった。だから、自分のその勇気を駆り立てるために、ただの上履きではなくこの体育館履きを履いて犯行におよんだ。それでよかった。この体育館履きはあなたの努力の証だ。その証が今日、あなたがこれ以上道を踏み外すことのないようにしてくれたんだと思います」
蛍はそう言うと、門谷先輩に微笑みかけた。
西城先生の介抱を受けながら、門谷先輩は屋上をあとにした。青いペンキに汚れ、黒い墨汁で努力が刻まれた大切な証を胸に抱いて。




