02. Sorcerer’s Apprentice / 魔法使いの弟子
恰幅の良い奴隷商の男が、華奢な鍵で檻を解錠した。
たった今、扉は開いた。
ようやくこの檻から出られるというのに──。
出たいという気持ちが全く湧いてこない。
「後は良い。下がれ」
一枚の紙幣を手に入れた奴隷商が一礼して去っていく。
競売場の舞台裏に、取り残されてしまった。私を破格の値段で買った男と共に。
そう。つい先程、私はこの男のものになった。
奴隷商に奪われたので、私には一銭もお金がない。今日の寝床もないしパンひとかけらもないし、あるのはこのかろうじて身体を隠しているボロ布一枚だけ。
神様も、もういなくなってしまった。
私にはもはや、この素性の知れない仮面の男しかいないということだ。
不安しかないが、この男に付いていくしかないのだ。
ほら、不気味な仮面は置いておいて、身なりは綺麗にしているじゃないか?
私ならやれる。奴隷だって、やれる。
「……どうしたの? 怖がらないで、出ておいでよ」
高級そうな、汚れのない真っ白の手袋をした手で、チッチッと呼びよせられる。
──私は野良猫か何か?
「うう……」
この扱われ方はまだ無理だ。
先程の競売人の言葉が頭をよぎるし。
この男の屋敷で私がさせられるのは雑用だけじゃない。私がこの目の前の男に、よっ、夜の奉仕を──。
だって200ポンドなんて大金を、私と引きかえにしたのだ──。
私なんかじゃ想像さえできないことをさせられるのかも。
──で、でも、この男は他の男と違ってギラついた目をしていなかったし、そんなことはさせないかも──。
私に任される仕事は例えば、この男の部屋を掃除したり、料理を作ったり。
勇気を出して聞いてみよう。
「ひっ、ひとつお聞きしますが、ここから出たとして、あなたは私に一体何をさせるつもりなのですか」
緊張でごくりと唾をのみこむ。
すると、男はおもむろに不気味な仮面を外した。
そしてその美しい顔面を晒し、殊更に妖艶な笑みを浮かべた。
「君はこんなにも愛らしいんだもの。今夜は一晩中愛し合おう。君の望みどおりのことをしてあげる、わが家の僕のベッドでね。さあ出ておいで、僕の仔ねこちゃん?」
うッ──!
もう恥ずかしすぎて直視できない──。
こんな甘いマスクでこんな愛の言葉を囁かれたら──。
でも、夜の奉仕はやっぱり、私にはまだムリだと思う。
そう自分に言い聞かせる。
というか、恥ずかしげもなくそんな台詞が言えるなんて、かなりのクセモノには違いない。
「わっ、私には、〝仔ねこちゃん〟ではなくジョージアナ・メアリルボーンという名前があるのです。私の主人となった貴方様は、一体何者なのですか?」
「……チッ」
私がそう聞いた途端、美しかった笑顔がすっと消えた。
え、作り笑いがあからさますぎる──。
男は先程までの柔和な雰囲気までも消した。外した仮面を弄びながら、気もそぞろに言った。
「僕の名前はただの、クラレンス。生業は魔法使い」
「えっ……?!」
ま、まま、魔法使い──?
この男が──?
「お前を買ってやったのは、仕事の手伝いをさせるため。お前は今日から、僕の弟子だ」
そ、そうか、仕事の手伝い──。
ほっ──。
「先ほどのは、冗談でしたのね」
「お前を釣るための嘘に決まってるだろ」
え──。
はっきりと言い過ぎじゃないか、この人──。
「そうだな、ジョージアナ何とかは長ったらしいから、お前は今日から、ジジだ。僕のことは、師匠と呼べ」
いや、師匠と言われましても──。
まず、本当にこの人、魔法使いなのかしら? 魔法使いや魔女は、認知されているかぎりこのルースヴェン王国には三人だけと言われている。ひとりはたしか高齢のおじいさんで、ひとりは高齢のおばあさん、もうひとりもやっぱり高齢のおじいさんで──。だから私の中で、魔法使いといえばおじいさんなんだけど──。
目の前の男はおじいさんには見えない。
「本当に魔法使いだと言うなら、あなた……ではなくて、師匠の魔法を見せていただきたいですわ」
この目で見るまでは信じられない。
「……丁度いい」
男はそう言って立ち上がると、ふところから何か棒のようなものを取り出した。
あの、男の手中にある何だか一見ただの木の棒にしか見えないものが、魔法の杖なのかしら?
あれをこれから振り回すの?
「一刻も早くここから去りたいと思っていたからね。お前……ジジが無意味に渋るから時間を食ったけど」
む、無意味に渋るって──。
グサッときたけど、そのとおりかもしれない──。
というか、ジジって言われ慣れないな──。
「この、壮絶に汚れきった店から僕の家へ飛ぶ。瞬きしているうちに、僕たちはスーパークリーンな家の中だ。さあ、分かったらそこから出てこい」
男──師匠のその言葉ひとつで、私はすべてを理解した。
──瞬間移動魔法。子どもの頃に読んだ、光の魔法使いグレナヴォンと勇敢な少年の物語。
瞬間移動魔法は、もちろん、魔力のない少年にはできない。
少年は、魔法使いグレナヴォンと共に悪い魔女を倒すため、根城のある黒い森へと瞬間移動魔法で飛ぶのだが──。
そうだ、たしか少年は飛ぶ瞬間、グレナヴォンにひしとくっついていたではないか──。
「……っとその前に、ジジにひとつ伝えるべき重要なことが……」
グレナヴォンのふところはあたたかく、戦いの前の恐怖心を和らげてくれ──。
──そういうことか。
それなら、私のすべきことはひとつだ。
師匠は一刻も早くここから立ち去りたいと言っている。私にいちいち瞬間移動魔法のことを説明するのも、手間だろう。
ということで、すべてを勘よく察知した私は、すぐに檻から出ると、師匠の胴回りにひしと抱きついた。
「ッゥン゛ッ……」
「さあ、どうぞ、師匠! 飛んでください!」
──ん? 師匠何か言った?
ともかくも、気分は勇敢な少年、アルフレッドそのものだ。
まさか、子どもの頃好きだった物語の主人公と同じ体験ができるなんて──。
「……。」
──あれ?
しばらくしても全然飛ばないどころか、師匠が微動だにさえしない。
「師匠、どうされたのですか……?」
すこし離れて、師匠の顔を見上げると──。
え──?
し、白目を剥いている──?
しかも額には大量の脂汗をかいて、口の端からは、ぶくぶくと泡を吹いていた。
「ど、どどどうして?」
ついさっきまで嫌味を言って生き生きとしていたではないか──。
事態を把握しようと頭を働かせるひまもなく、重い体が一気に私に凭れかかってくる。
「ほあっ……」
何とか支えようと踏んばるが、大人の男性の全体重を非力な私はどうしても支えきれなかった──。(これまでの人生で持ったいちばん重いものはデカンターです)
師匠と私は、そのまま床へ崩れ落ちた。